決裂

 その日、帰宅した誠の憔悴しきった顔を見て、沙羅は誠の職場にも手紙が来たことを察した。


「私のところに皆川さんて人から手紙が来たの。あなたと自分の婚約者が不倫してるって」


 自分だって確定的な写真を見せられ、相当に動揺し傷ついている。だが誠が会社で受けたダメージも相当らしく、顔面蒼白だった。


「沙羅、悪かった」

「やっぱり何もないって嘘だったのね」

「本気じゃない。ただのストレスの捌け口だった。話してなかったけど、仕事で色々きついことが重なった時に魔が差した」


 相手にだって心はある。捌け口と言う言葉を聞いて嫌悪感が芽生えた。


「婚約者がいる女性なんでしょう。どうしてそんなことを……」


 もはや沙羅だけでなく相手の婚約者やその家族まで巻き込んでいる。


「あぁ……全部自分で蒔いた種だ。できる償いはする。信じてもらえないかもしれないけど、これからは沙羅のことだけ考える」


 やはり皆川が誠の会社にも手紙を送っていたらしい。自宅ではなく職場を選んだところに相手の怒りの強さを感じた。


 上司と部下という関係で年齢的にも誠の責任が重いだろう。

 年齢的にも立場的にもやはり誠がわきまえて行動するべきだった。

 相手の女性への怒りや軽蔑ももちろんあるけれど、信頼して結婚した誠への失望のほうが大きい。


 ──婚約したあとも関係を続けるなんて信じられない。


 相手の婚約者や家族まで悲しませる結果になったことだろう。バレなければ、相手の女性が結婚したあとも続いていた可能性すらある。


「誠、覚えてる? お義母さん最初私と結婚するの心配してたでしょう」

「それは……」

「父親が不倫して離婚した家庭の子なんて大丈夫なのかって。はっきり言われたわけじゃないけど悔しかった。だから私いい奥さんになろうって頑張ったけど無駄だった」


 押し込められていた過去の記憶まで、連鎖的に蘇る。母子家庭で、目に見えない偏見や差別を受けることはそれまでもあった。

 奨学金を得るために必死に勉強を頑張り、逆境をばねにやってきたけれど、恵まれた家庭で育った誠とはスタート地点がそもそも違うのだ。


 心のどこかで義母の言葉は、沙羅の心に引っかかっていた。

だから仕事でどんなに疲れても、きれいな家を保ったり、栄養バランスのよい食事を用意したり、努力してきたけれど、誠にはきっとどうでもいいことだったのだろう。

 むしろ、そういう沙羅が大切にしてきた日常が、夫には退屈なものに映ったのかもしれない。


「その人のこと、好きだったの?」

「違う。ただ……」

「遊びだから、家庭とは別ってこと?」

 

 いつからそんなずるい人間になったのだろう。自分が好きになって結婚した彼とは別人のようだ。信じたい気持ちがあったから、問いつめられなかった。


「……やり直したいんだ。そのためならなんでもする」

 誠が沙羅の肩に手を伸ばし、反射的に振り払った。


「もう触れられるのも嫌か……もう一度だけチャンスをくれないか」


 必死の懇願にも心は冷たいままだった。

 部屋の隅にあるモンテスラが目に入る。もう根もだめになっていたから、元気になることはないだろう。


「結婚した時に買ったモンテスラ、枯れちゃったの気づいた?」

「え?」

「私たち、知らない間にもう終わってたんだと思う。結婚っていう制度で繋がってただけで、もう二人の間の信頼や愛情は死んでしまったんだよ。私も疑いながらちゃんと話し合わなかったから、現実から逃げてたんだと思う」


 見たくないものから目を逸らし続けた結果だった。自分が臆病でなかったら、ここまで最悪の結末は避けられたかもしれない。


 恋と愛は違う。楽しいだけの恋では、長い結婚生活を共にするうちに消えてしまう。愛情は努力なしには続かない。いや、努力など意味をなさないこともある。

 自分も誠と同じだ。長い時間をかけて、気持ちが変わってしまった。

 辻村が好きだと思う自分がいる。疑心暗鬼で押しつぶされそうな日々に、仕事と辻村の存在が支えだった。

 

 ──私には、誠を責める資格なんてない。


 沙羅が夢見た普通の幸せな家庭を維持していくのがどれほど難しいか思い知った。

 真帆の夫のように、早く誠を問い詰めてきちんと話し合えば違う未来もあったのだろうか。

 

「もうあなたと一緒に生きることはできない」


 リビングで無言のままの誠を置き去りにして、寝室の扉を閉めた。

 


☆失ったものは戻らない 誠視点



 皆川から内容証明が来てから一週間。

 誠は社内でも家でも気が休まることがなくなった。

麗香は会社を休むようになり、社内では二人の不倫の噂で持ち切りだった。

 上司にも事情を聞かれ、沙羅からは離婚前提に話を勧められている。ようやく今になって自分のしたことの大きさを思い知った。


 離婚はしたくない。自分が有責配偶者だとしても拒否している間は離婚できない。裁判でも起こされれば別だが、沙羅の性格上それはない。

 争うのが嫌いな性格なのはわかっているから、なんとか時間をかけてでも沙羅とやり直したい。

 芸能人などが不倫で全てを失うのは、有名税で自分のような一般人には関係がないことと、どこか甘く考えていた。結局公私ともに信頼を失い、平穏な日々が遠い昔のようだった。


「大変なことになりましたね」


 部下に同情され、誠は無言になった。


 麗香との不倫のことは、上司から問われ話すことになった。人事の耳にも入り、出世にも悪影響が出るだろう。

 今まで順当にエリートコースを歩んできただけに、こんなことで足元を掬われるとは思わなかった。


 麗香との仲を知っていた同僚には、釘を刺されたことがある。


『泉さんのとこの奥さん、文句とか言わないタイプでしょ?』

『言われたことないな』

『うちなんかうるさくって。扉の閉め方がうるさいとか、土日も寝坊しないで育児を手伝えとかさ』


 そういうタイプの女性がいるのは知っているが、沙羅はそうではない。いつも静かに誠のすることを受け入れてくれる。その心地よさに甘えていた。


『けどね、ああいう大人しくて従順なタイプって、我慢を重ねてから突然別れを告げてくるんで気を付けたほうがいいですよ。レベル1とか2の喧嘩がなくって、いきなりジ・エンド』

『いや、不吉なこと言うなよ』

『なんで、まぁ山口さんとは早めにお別れをおススメします。バレたら終わりですよ』


 沙羅とは仕事で知り合い、誠のほうが惚れこんですぐに結婚前提の交際を始めた。以来穏やかな日々だった。喧嘩のひとつもしたことがない。

 今思うと、あの同僚の言葉は当たっている。

 沙羅が疑い出したのはおそらくだいぶ前なのに、顔には出さなかった。

 束縛や詮索をしない沙羅にバレることはないと高をくくっていた。


 予想していなかった突然の離婚の危機だった。なんとしても回避したい。

 皆川への慰謝料は大した金額にはなるまい。仕事の代わりもある。いざとなったら転職も視野に入れられる。


 けれど、沙羅の代わりはいないのだ。



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