予期せぬ再会

「排卵は問題なさそうだから、そろそろ旦那さんの検査をしてもいいかもね」


 医師にこう言われるのも何度目かだった。その度に沙羅の心は重くなる。


「はい。夫の予定を聞いてみます」


 受付で、予定がまだわからないからと次回の予約を取らないことにする。

 不妊の理由はさまざまで、どちらにも問題がないこともよくあるという。誠に原因があったとしても構わない。けれど嫌なのは、自分一人だけでこの気持ちを背負わなくてはいけないことだ。


 沙羅の家は母子家庭で、その原因は父親が母を捨て別の女性と再婚したからだった。

 あの頃の母親の荒れっぷりを思い出すと、今でも胃がきりきりと痛くなる。泣いても喚いても、一度離れた心は戻らなかった。


 不倫は心の殺人だなんて表現する人がいるのもわかる。信頼していた人からの裏切りは、心を破壊する。そして壊れたものは二度と元には戻らない。

 子どもだった沙羅には母を守るという役割ができた。強制的に無邪気な子供時代が終わってしまった。


 養育費は払ってくれたから、大学まで通うことができたけれど、捨てられたという気持ちを持ったのは、母も沙羅も同じだった。


 だからだろうか。

 いわゆる普通の家庭への憧れが強かった。特別なものはなにもいらない。ただ一緒にご飯を食べて、日々の楽しさを共有して、辛い時は支え合いたい。

 愛情というのは、繊細な生き物のようで、丁寧に育てないと簡単に弱り、死んでしまうものなのかもしれない。

 それだけなのに、いつの間にかそんなささやかなことさえ難しくなっていく。


 結婚7年目だし、特段変化のない日々がマンネリなのはどこも同じだと思う。小さな不満があるのはお互い様だ。


[あのね、これからのこと少し話したくて。誠の気持ちを聞きたいから]


 夫に勇気を出して不妊治療のことをメッセージで送る。


[わかった。今日は遅いから、土日でいい?]


 まだ火曜日だ。土曜日まで待てと言うのか。毎日顔を合わせているのに。

 歩み寄ろうとした気持ちが急速にしぼんでいく。

 ──家にいると考えちゃう。散歩でもしよう。 


 気分転換に電車に乗り、買い物に行くと、人だかりが見えた。

 見覚えのある看板には以前見たペタルアトリエとある。


 ──これ真帆が言ってた辻村さんのお店だ。


 色とりどりの花で彩られた店内は、細部まで行き届いていて美しい。これだけ維持するには大変な努力が必要だろうと思った。

 花々に引き寄せられる蝶のように、いつのまにか店内へ入っていた。

 

 艶やかな香りと色に酔いそうだ。不思議の国にでも迷い込んでしまったような気分になる。日常から切り離された空間には、忘れかけていた夢と希望があるような気がした。


 呆然と店内に立ち尽くす沙羅の目に、辻村の姿が入る。

 沙羅を見て、一瞬驚いた顔をして、それからこちらへ来た。


「来てくれたんだ。ありがとう」

「偶然通りかかったら、あんまり素敵だったから」


 それは本音だった。


「そんなことを言ってくれるとは、光栄だな」

「ええ……」

「この前は無理なことを頼んで悪かった。昔からセンスが良かったから」

「あの……やっぱり私働いてもいいですか」


 考えるより先に言葉が溢れていた。こういう華やかな世界の裏方は大変だろうことはわかっている。それでも。

 辻村が眉を上げ、それから穏やかに微笑んだ。


「もちろん。そう言ってもらえて嬉しいよ。ありがとう」


 沙羅の心は、この美しい空間に魅入られていた。美しいものは、人の心を癒し、時に救う。この場所を創っていくのに協力できるのだと思うと、沈み切った心に、わずかな光が射してくる。

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