孤独に耐える夜
真帆と息抜きをして、すっきりした気持ちで夕飯の支度をする。テーブルに飾られた薔薇を見つめた。
辻村がくれた薔薇の名はラ・フランス。淡いピンクの花びらが幾重にも重なって、ふんわりとした可愛らしい印象の薔薇だった。
沙羅のイメージだと言った。
──深い意味はないのだろうけれど。
辻村のことを思い出し、ぼんやりしていると、うっかり野菜をゆですぎてしまった。今日は自分が贅沢をしたから、誠にも美味しいごはんを作ろうと思っていたのに。
今日は早く帰るというから、急いで準備をした。
野菜がたっぷり入ったスープを作り、チキンにハーブで焼いた。温野菜サラダはいまいちになりそうだが、他は美味しくできたと思う。
仕事をやめてから、ご飯の献立と不妊治療のことばかり考えている。真帆に会ってそのことに気づいた。きっと何事にも固執しすぎるのはよくない。
勉強や仕事と違って、不妊治療は頑張ったぶんだけ結果が出るというものではない。
真面目な性格だからこそ、努力しないといけないという気になるが、自分のこういうところが、誠を追い詰めているのかもしれない。
そんなことを考えていると、スマートフォンが鳴る。
[悪い。急な接待が入った]
誠からだった。最近こういうことが増えた。仕事だから仕方がない。でも本当寂しいと思っている。
仕事だと言われたら不満は言えない。けれど、言えないだけ、確実に心がすり減っていく。喧嘩でもしたほうがよほど健全な夫婦なのかもしれないと思いつつ、争いを避けるのは沙羅のほうの問題だった。
真帆にも言われたことがある。必要以上の我慢は、互いのためによくないと。
髪を切って、一時的に軽くなった心がまた重くなる。
花瓶に飾った薔薇を手に取る。いい香りだ。
──花の命は短い。私はいつまで女でいられるのだろう。
焦燥と不安に押しつぶされそうな夜。沙羅は辻村の選んだ薔薇をそっと見つめる。
☆疑惑
数日後、真帆からメッセージが来た。
[辻村さんのとこのショップ、来週新店舗をオープンするんだって。沙羅の家から二駅だよ。沙羅が仕事辞めて落ち気味って言ったら、辻村さんうちで働かないかなって]
そんなことまで話してしまった真帆にちょっと反発する。
大学卒業、辻村と連絡を取っていない沙羅と違って真帆は旦那さんを通して最近また交流しているらしい。
[私お花屋さんなんて、何していいかわからないよ]
[沙羅の有能さは知ってるからさ。ぜひって]
[無理だってば]
[うーん。家で鬱々としてるよりいいと思ったんだけどな。前職の経歴も生かせそうじゃない]
思いがけない話に心臓がバクバクした。辻村がまさかそんなことを言うなんて。
おそらく、深い意味はないのだろう。ただ人手が不足しているだけで。それでも突然ふってわいた話は沙羅を動揺させた。
誠の書斎に掃除機をかけていると、誤ってゴミ箱を倒してしまう。いくつかレシートが散らばる。ゴミ箱に戻そうとすると、内容が目に入った。
「ストロベリーダイキリ……」
人数は二人とある。日付は先週の金曜日、接待と言っていた日だ。
どう見ても女性が好きそうなカクテルだった。ほかにもミモザなど。
これだけで男性ではないと断定できるものではないが、なんだか気になる。
他のレシートにも手を伸ばしかけて、ふと我に返る。こんな惨めなことをしたくない。
これだけで疑心暗鬼になるなんて考えすぎだろうか。
──仕事関係の人かもしれないし、女性だって決まったわけじゃない。
色々小さなことが重なり、神経が過敏になっている。
──本当に自分の生きがいとか趣味を見つけないと、私駄目になっちゃう。
今の自分はなんにもなくて、自信がない。
そういえば、最近夫のスマホによくメッセージが来る。以前ちらりと女性の名前が見えて尋ねたら、部下の婚活がうまくいかずに愚痴られたのだと言っていた。
既婚者に恋愛相談をする女性は要注意だと真帆が言っていたのを思い出す。
夫との会話が弾まなくなったのはいつからだろう。
多分、真剣に不妊治療を始めようと決めた頃からだった。夫婦間の温度差に落胆し、もうその話はできない。それなのに、部下の相談には乗るのだろうか。
言えなかった言葉は鉛のように、心の底に沈んで、沙羅から笑顔を奪っていく。微量の毒が全身に蓄積して、いつか致死的な量になってしまうことを恐れた。
普段優しいから、大切にしてくれるから。けれど致命的な部分で、すれ違いは始まっていることに、見ないふりをしている自分に気づく。
──私の悪い癖だ。傷つきたくなくて、問題をなかったことにしちゃうの。誠が帰ってきたら、少し話してみよう。
昼間一人の時に感じる寂しさよりもっと濃い孤独が、沙羅を蝕んでいる。
仕事をして外の世界に触れれば、きっと余計なことを考えないで済む。
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