塀の外

佐倉有栖

前編

 あのテストの話をはじめて聞いたのは、修学旅行に行く二週間前のことだった。

 修学旅行の目的地は北海道。沖縄と接戦だったが、美味しい海鮮丼が食べたいと言う食いしん坊勢の勢いに飲まれて、クラスのほとんどの子が行先希望のアンケートで北海道を選んだ。


「生まれてからずっとこの村育ちだから、県外に出るの初めてだ!」


 前の席に座る幼馴染の佳也子が、嬉しそうに白い歯を輝かせる。陸上部の彼女はよく日に焼けていて、一年中健康そうな小麦色の肌をしていた。


「小学校の時は隣村のお寺だったし、中学校は県内一周だったものね」


 隣の席の紗良が、おっとりとした口調で呟く。佳也子とは対照的に、彼女は真っ白な肌をしていた。


「修学旅行で初めて県外に行くってやつはどれくらいいるんだ? 挙手してみろ」


 担任の郷田先生が、出席簿で教卓を軽くたたいて注目を促す。

 数名が手を上げ、先生が出席簿に丸をしていく。何故そんなことを聞くのかと困惑する生徒たちの中、手を上げなかった数名が顔を引きつらせながら目を伏せている。


「あぁ、沢渡と近藤は手を下げて良い。お前らは村外で生まれたからな。他にも村外で生まれたやつはいるか?」


 その呼びかけに、何名かがまた手を下げる。最終的に上がっている手は、八本になった。


「八人か。今年は多いな。八名は後日ちょっとしたテストを受けてもらう。特に準備が必要なものではないし、その日の朝にアナウンスする」

「県外に行くのにテストが必要だなんて、聞いたことがないな」


 佳也子が不審げに先生を見上げるが、すでに話題は別のことに移っており、彼女自身も特に深く気にする様子はなかった。

 私は最初に手を上げなかった数人の怯えたような顔が気になっていたが、授業が始まると同時に小さな疑念は消え失せてしまった。



 修学旅行の一週間前。

 その日は朝から湿気が多く、うねる髪を何とか落ち着かせようと奮闘していた。


「汐里、郷田先生からお電話よ」


 階下からの声に自分のスマホを確認するが、着信はない。なぜ郷田先生は、お母さんに電話をかけたんだろう?

 そんな疑問が脳裏をかすめるが、ブラシとドライヤーを置くと立ち上がった。


「はーい、すぐ行く!」


 階段を駆け下り、リビングで待っていた母からスマホを受け取る。


「お母さんはお泊りの準備をしておくから」

「泊まり?」


 私の質問に答えることなく、お母さんは慌てた様子で階段を駆け上がっていってしまった。


『紺野? 紺野、聞こえてるか?』


 どこからともなくか細い声が聞こえ、私は慌ててスマホを耳にあてた。保留にしてあるものと思っていたが、どうやらつなぎっぱなしだったらしい。


「はい、すみません、聞こえてます!」

『今日、これから例のテストを行う。一日の外泊を想定して、荷物を持ってきてほしい。

何事もなければ夕方には帰れるが、結果次第では、本日は霧生亭で過ごすことになる』


 霧生亭とは、この村の最北にある旅館のことだ。もともとはこの地を治めていた霧生家の本宅があったのだが、本家の人々は出て行ってしまい、旅館へと生まれ変わった。

 美しい日本庭園に、眩暈がするほど豪華な内装。出される料理は一流で、食通たち皆を唸らせているらしいが、当然のように、一泊の料金はそこら辺の旅館とは桁が違う。


「うちそんなお金ないですよ⁉」

『大丈夫だ、宿泊費はタダだ。食費も気にしないで良い』


 同じ村にありながら、一生縁がないと思っていたあの霧生亭にタダで泊まれる⁉

 思わず鼻息が荒くなる。何のテストをするのかは知らないが、ぜひ泊まりたい。


『集合時間は今から一時間後。紺野の家は近いから、十分間に合うだろう。集合場所は校庭だ。昼食はバス内でお弁当が出る』


 すでに登校の準備は終えており、追加で本日分のお泊りセットを用意するだけだから、時間的には余裕がある。


『付き添いは柴咲先生に任せてある』


 柴咲先生は保険医で、誰もが振り返るほどの美女だ。


『……夕方には帰ってこれることを、祈っている』


 押し殺したような声はどこか鬼気迫るものがあり、どういうことなのか聞こうとするが、そのまえに通話は途切れてしまっていた。


「汐里、電話は終わった? 一応用意してみたけど、過不足がないか確認してね」


 小さな鞄に詰め込まれた中身を取り出し、必要なものを頭に描きながら確認をしていく。

 服は制服で良いとして、部屋着とパジャマを一枚ずつ、下着も必要だ。修学旅行用に買ったスキンケアセットを詰め込み、歯ブラシも一応持っていく。

 最終確認をしてからチャックを閉じる。色々と詰めたため、若干ずっしりとしている。


「私もお父さんも大丈夫だったから、きっと汐里も大丈夫よ」

「お母さんたちもテスト受けたことあるの? どんなのだった?」


 玄関で靴を履きながら、軽い気持ちで質問する。なかなか返ってこない答えに不審に思って振り向けば、無表情で虚空を見つめる母の姿があった。


「……お母さん?」


 ピンと張り詰めた異様な空気に、全身の産毛が逆立つのが分かる。これほどまでに無の表情をした母を、今まで一度だって見たことがなかった。


「見てしまったとしても、呼ばれなければ良い。呼ばれなければ良い、呼ばれなければ良い、呼ばれなければ良い、呼ばれなければ良い、呼ばれなければ良い……」


 壊れた機械のように、無感情の言葉が繰り返される。その瞳は焦点があっておらず、息継ぎをするのも惜しそうに吐き出される言葉と共に、口の端から涎が一筋床へと落ちた。

 ポトリ。

 落ちた先を目で追っていると、いつの間にか母の声は聞こえなくなっていた。恐る恐る顔を上げれば、いつも通りの笑顔を浮かべてたたずむ母の姿があった。


「それじゃあ汐里、気を付けて行ってくるのよ」


 何事もなかったかのような様子に、白昼夢でも見たのだろうかと首を傾げる。

 しかし床には水滴があるし、母の口元にも濡れた線が一筋光っている。


「……行ってきます」


 私は背中にゾワゾワとしたものを感じながらも、急いで家を飛び出した。


「行ってらっしゃい……」



 小型のバスの中は意外と満員で、隣のクラスからは五名ほどの子が来ていた。

 窓の外を流れる、代り映えのしない田んぼだらけの風景をボンヤリと眺め、校庭で会った鹿倉のことを思い出す。

 彼はクラスに一人はいる、いわゆるヤンチャ系の子だった。家が近いため、幼いころはよく遊んでいたが、今ではもう話すこともなくなっている。

 そんな彼がいつも通りの大遅刻をして登校してきたのは、私たちがバスに乗り込もうとしているときだった。

 睨みつける様な目でこちらを見た後で、すぐに何を思ったのか大股で近づいてくると、私の肩を掴んだ。


「気をつけろよ。見えなければそれで良いけど、見えたんなら呼ばれるな」


 何を言っているのか分からないことを言い放つと、校舎へと入っていく。

 鹿倉のことは苦手だったけれども、彼は良くも悪くも嘘のつけない人間だった。

 焦っているような真剣な表情を思い出す。あの顔は、本当のことを言っている顔だった。


「汐里、そろそろ霧生亭だぞ」


 隣に座る佳也子に肩を叩かれ、正面へと目を向ける。

 驚くほど大きな木の門には、細かな細工が施されている。霧生亭をグルリと囲む白壁は門と同じくらいの高さがあり、上部には鳥よけの鋭い杭が空を睨んでいる。

 速度を落としながら門をくぐれば、広い道の両側には綺麗に整えられた木々が風に揺れている。長く続く庭は、一部の隙もないほど整っており、霧生亭の一泊の料金を思い出して思わず唾を飲み込む。


「それではみんな、バスを降りたら旅館の人が部屋に案内してくれるから、それに従ってね」


 柴咲先生の説明が終わると、バスは緩やかに停車した。忘れ物がないか確認した後で、佳也子と一緒にバスを後にする。


「紺野汐里さんですね。お待ちしておりました。お部屋にご案内いたします」


 降りた先では、控えめな翡翠色の着物を着た、四十代とおぼしき女性が上品な笑顔を浮かべて立っていた。一つにまとめられたこげ茶色の髪には、珊瑚のかんざしが刺さっている。

 佳也子に手を振って、私は女性の後について霧生亭に足を踏み入れた。

 広い玄関には立派な屏風が置かれ、壁には高価そうな掛け軸や絵が飾られている。一文字も読めない掛け軸に目を細めていると、足元にスリッパが出されていた。靴を脱いで履き替えれば、流れるように靴箱に仕舞われ、木製の鍵を手渡される。

 お礼を言う間もなく女性が歩きだし、あわてて後に続く。

 通された部屋は一人用なのか小さめだったが、調度品には高級感があった。

 一枚板の大きな机の上には、普段はあるはずのお茶菓子は置かれておらず、奥の広縁のテーブルにあった。

 荷物を部屋の隅に置き、座椅子に座る。正座をすれば良いのか、脚を崩しても良いのか、それとも伸ばしたままが正解なのか。もじもじと動いていると、先ほどの女性が広縁から紙の束を持って現れた。


「それでは早速ですが、テストを開始いたします。ペンと消しゴムの用意をお願いします」


 相変わらず、女性の顔には柔らかな笑顔が浮かんでいる。私はカバンからペンケースを取り出すと、机の上に置いた。


「時間は一時間ほどです」


 女性から紙の束を受け取り、問題文に目を通す。


『下に描かれているものを言葉で表すか、見えたままを描け』


 その下には、言葉にし辛い抽象的な絵が描かれている。インクが飛び散ったような、何の意味もなさそうな絵は、ロールシャッハテストで見るそれと酷似していた。

 何とか言葉で表せないかと頭を捻るが、考えれば考えるほど違うものに見えてきてしまう。美術の成績が悪いのであまり気乗りはしないが、描くしかないだろう。

 最初は嫌々描いていたのが、だんだんと夢中になってくる。次々と問題を解いているうちに時間の感覚がなくなり、はっと気づけば女性に肩を叩かれていた。


「お疲れさまでした。次のテストは、一時間後に行います」

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