はだか
赤羽九烏
第1話
本当に何もない空に、其処をつついてみようと一つだけ、レンガ造りの煙突が静かに伸びている。すっかり日に打たれ紅葉したはずの葉はどこか別の街へと舞い散り、風情を一掃した非文学的な、という修飾語がよく似合う空間へと化していた。そして其処を歩いているのは、この世で最も非情であろう生物であり、彼らは目的地をホテルに設定して、隣の肩を抱き、車へと乗り込む。きっとなけなしの金で買い求めた車であろう、彼らが日々金を求めて友人に声を掛けている光景が想像できた。そんな風景を僕は酒と一緒に見ている訳だが、僕には他に思考を巡らせるべきことがあった。
はぁ、僕の隣に座っている男、彼をどうやって認識すれば良いのだろうか。
「私の腰にあるのはただの樹の枝ではない」
「ちょっぴり詩でも詠んではくれないだろうか」
「魂が半分欠けている」とか。
こういった言葉が、5秒おきに彼の口から漏れている。それらの間にどんな会話を挟み込んでも、論理的につながりようがない。それとも彼はただ思いついたことを忘れてしまう前に発することで、自己に手を触れているのだろうか。
そして、僕は、やはりとても気になっている。到底役に立ちそうもない筋肉を両腕に蓄え、それを隣の女に見せびらかしている、あの白い車に乗った男が一体どんな性癖を持っているのかを知ることよりも、もっと僕の人生にとって重要なことが僕の隣で起きているような気がした。だが感情に従いそのまま男の方をチラリとでも見てしまえば、理性と感情が絶妙なバランスを保っているらしいこの世界に戻ってくることができないような寒気がするので、どうしても顔がそちらへ動きそうにはない。こういうときの直観、というのはとても役に立つものだ、だから僕は僕の直観を信じてみようかと思う。
そして、一口、酒を口に含む。
口の中で舌先を回してみる。自分の歯の本数を数えながら、左奥の歯から順に、舌で触れていく。
22本。
確か僕の歯は、23本だったはずだ。もう一度時間を掛けて数えてみる。
22本。
僕は自分がすっかり酔っていることに気が付いた、確かに昨日までは23本だったし、それは手帳への記録を見れば分かることだ。僕はポケットから手帳を取り出し、11月7日の欄をみる。
23本。
やっぱり、昨日は23本だった。僕は酔ってしまっているのだ、それもあり得ないほどに。今まで歯の数を数え間違えたことなんてあっただろうか。
僕は酔ってしまっているのだ。そう思ったとき、もう僕の直観は当てにならないものになっていた。
僕は手元にあるおしぼりを、あたかもうっかりといった感じに床に落としてみた。拾い上げるついでに男の方を見てやろうと思ったのだ、何しろ僕は酔っているのだから、直観は当てにならない。床を鈍く転がるおしぼりに向かって僕はすっかり固まってしまった腰を椅子から離しながら、手はおしぼりに、目線は男に漸近するように移してゆく。僕は男を視界に捕らえた。ぼんやりとした男の輪郭をもっとはっきりさせようと、3秒掛けて、カメラのピントを合わせるみたいに、焦点を彼に合わせた。
ついに男の姿が僕の脳の中で結ばれる、輪郭がある、まっすぐを向いた目がある、確かに樹の棒もある、そして、猫もいた。彼は手の中で猫を撫でていた。だが、それ以外に男は何かを所有しているというわけでもなく、ただ先ほどの僕と同じように、ガラスの向こう側へと視線を遊ばせていた。携帯電話とか他の電子機器類とか持っていてくれたら、もっと現実的で僕の心を落ち着かせてくれるのだが。
そんなことをつらつらと思っている内に、僕のおしぼりは、手に触れた。ただ僕の手ではないことは確かだ。多分女性の手でもない。それよりもっと逞しく、海の水でも掴んでしまいそうな手であった。
そして僕は何かの物語の主人公を演じているような不幸さを感じ、そして純粋な悔恨に苛まれてそこを動くことができなかった。
「おっと、落としましたよ。どうぞ」
男はそう言い、僕のテーブルにおしぼりを放ったのだ。そして特に何かあったという感じを出さないまま、男は猫の頭に右手をそっと乗せる。たおやかな薬指が、日光か或いは猫の眼で一瞬光ったような気がする。猫は少しびくりとしたが、そのまま快適さに溶けてゆく。
僕は勿論感謝を述べない。述べる時間さえ許されておらず、述べる理由され忘れてしまう。有難うとか、申し訳ありませんとか、何か相手をつまらなくさせないような言葉をかけなければならないという不便な衝動に駆られることはしたのだが、そういった人間をよく見せるための常識を遥かに上回ったのは是非男と言葉を交わしたくないという切なる願望だった。
すっかり冷えて固まってしまった身体を貫く太い一本を、僕は温めてやる必要があった。その格好のまま、グラスに手を伸ばす。傾ける。
アルコールが口の中をピリと凍えさせ食道を通っていく。そして胃の中に収まってしまうとなんだか高い温度を僕に与えてくれるように、頬が染まりたいと言う。僕は中腰のまま固まってしまった体勢から脱し、椅子に腰を下ろして、また少し浮かせて下ろし直す。その一連の動作の最中も僕の目線は男に向いたままであった。
そしてまた僕が仙骨から一瞬にして動かなくなったのは、「あなた、私の彼氏になってくれる?」と男が口にした時だった。そして、ああ不幸と幸福はなんて紙一重なことだよ、男の眼と僕の眼は濃厚に絡み合っていた。
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