【GL】海風と桃
祐里
海風と桃
「海風って、昼間に強くなるんじゃなかったっけ」
少し伸びてきたショートヘアを海風に揺らす冴子の小声の問いに、答える人はいない。
米軍基地のメインゲート近くには、午前二時という深夜の時間帯にもかかわらず、若い女の子たちが四人、間隔を空けて立っている。何かを売りたいのだろう。それが何なのかは、彼女たち次第だ。
日付が変わる前、冴子は大学で授業を受けたあとに米軍基地内の飲食店のアルバイトに精を出していた。高校生の頃に始めたアルバイトで、もう英語は十分話せる。この日はレジを担当してたのだが、目の前で好物のラザニアが売り切れてしまい、労働後の空腹をどうやって満たそうかと考えていた。
「冴子ちゃん、バイト終わったらドーナツ食べに行かない?」
「あっ、行きます。今日ラザニアなくなっちゃったし」
「そうなんだ、残念だったね」
店内清掃を担当していた先輩の小沢真帆が声をかけてきて、ドーナツ屋へと出向くことになった。真帆は甘いものが好きで、よく誘われるのだ。明日は日曜日だから誘ってもらえたらいいな、と期待していた通りの言葉をもらい、内心ほくそ笑む。
同じ時刻に仕事を終えた二人は、他のアルバイト仲間とともに社員が運転するエスコートカーという名の普通自動車で、米軍基地の最寄り駅前まで連れ出された。夜の時間帯は、こうしないと売春目的と間違えられ、米軍のゲートキーパーに尋問を受けることがあるからだ。
英語のオールディーズが流れるドーナツ屋は、もう午後九時半だというのにテーブルが満席になっており、冴子と真帆はカウンター席に座った。薄手のカーディガンを脱いで膝に置き一息つくと、人々が談笑する声がそこら中から聞こえてくる。
「ね、終電まで大丈夫?」
「はい。真帆さんも?」
「うん。ちょっとここ煙草の匂いがきついから、もしかしたら違う店にするかもしれないけど」
「ここ以外に何かありましたっけ?」
「ほら、ここらへんも最近カラオケ屋が多いから」
「ああ、そうか。真帆さん歌上手だから、それでもいいかも」
真帆はカラオケで歌っていなくても、いつも美しい調子で歌うように言葉を紡ぐ。柔らかい質感を持つ少し低めの声で耳に届くその調べを、冴子は好んでいる。
「調子に乗るからあまりほめないで」と真帆が言い、かわいらしい頬を少しだけ上気させた。
二人で話すことといえば、やはりアルバイト先の仕事内容についてが一番多い。だんだん愚痴大会のようになってしまい、冴子も今日あったばかりのネタを披露することになった。
「……でね、店長が『前田、アンケートは用紙配るだけでいいんだぞ。いちいち用紙を渡しながら Could you answer this questionnaire? なんて効率悪いから』って。それなら先に言ってくれればいいのに」
一気に愚痴を吐き出してから一口サイズのドーナツを頬張ると、真帆が「何それ、嫌ね」と目を大きく開いて同意してくれた。
「苦笑いしながら言うんですよ。こっちが苦笑いしたいくらいなのに」
「冴子ちゃん何でもできるから、きっと店長も安心しすぎちゃうのね」
「えー。でも、だとしたら、真帆さんのおかげです。初めて会った時から仕事ぶりがかっこよくて憧れでした」
「でした、って、過去形なの?」
「今もですよ、もちろん」
自身の軽口に冴子が応答したのを確認すると、ふふっと軽く笑い、真帆がブラックコーヒーのカップを傾ける。アイボリー色のカップに密着するその薄紅色の唇のふくらみは、熟れた桃の果実を冴子に想像させた。
「……桃、食べたいな」
「桃? 今まだ六月になったばかりだから、ちょっと早いわよ」
「そっか。桃はもっと暑い時期?」
「そうそう。七月から八月かな」
真帆はもう就職先が決まっており、次の三月に大学を卒業すると同時にアルバイトもやめる予定と聞いている。そのことを考えるとどうしても寂しさが募ってしまい、近い未来を想像するのが嫌になる。それがたとえ一ヶ月先の夏だとしても。
「ま、その頃には別のものが食べたくなってそうですけどね」
「あはは、そうかも」
冴子が努めて明るく言うと、真帆がカラカラと軽快に笑った。
「そういえば、冴子ちゃんの大学って男子いないんだっけ?」
「いるけど、別の学部なんですよ。私の学部には女子しかいないんです。授業も重なるのが全然ないので、男子とは学食くらいでしか会わないですね」
「へぇ、そうなんだ。だからそんなにきれいなのに彼氏ができないのかぁ」
「きれい、ですか? 私、真帆さんみたいにもっとかわいかったらよかったのにって、いつも思ってるんですけど」
真帆の少し癖のある茶色がかった髪がかかる額、二重まぶたのくるんと大きな目、小ぶりだが輪郭との比率が最良の鼻、ふっくらつややかな唇、吹出物などとは無縁そうなきめの細かい肌、そのどれを取ってもかわいらしいとしか言いようがないと、冴子は思っている。
「嘘、そんなこと言われたの初めて」
「えー! それこそ嘘でしょう?」
「ほんとよ。冴子ちゃんの方がモテるじゃない。この間も、ほら、歯学部の……」
「……ああ、ええと、茄子を三回殴ったような顔の……名前何だっけ……」
「藤井くん。茄子って呼ばないであげて。本人気にしてるみたいだから」
「気にしてるんですか? 性格悪いから、そういうの気にしてないと思ってました」
「一応、女の子にはモテたいんじゃないかな」
あの茄子め……と忌々しく思い出していると、眉間にしわが寄る。冴子への好意を言動のそこかしこに表していたくせに、新たに女子高生バイトが入ると即そちらへシフトしていった藤井は、男女問わず、性格が悪いと評されている。
「私は別に異性にモテたいって思わないんですよ」
「そうなの? きれいなのに、もったいない」
「いいんです。学業もあるし」
「真面目ね。いい子いい子」
冴子の言葉を受けて、真帆がまたふふっと笑う。この穏やかな笑顔を見ているだけで幸せになれる、異性なんかいらないと、冴子は改めて強く思った。
それと同時に、絶対に口には出せない、出したら最後この関係が崩れて笑顔を見ることすら叶わなくなる――そんな感情を持ち、全身に痛みが走る。大げさではなく、本当に全身に、一瞬できゅうっと体を締め付けながら流れる、冷たくて甘い痛み。その中心が心臓だ。
「……そろそろ、カラオケ行きます?」
「うん。今のうちに遊んでおきたいよね。私、就職するし。あと、一九八九年……って、来年だよね? 消費税が導入されるってニュースで見て」
「ああ、私もニュース見ました。物価も上がってるから、時給もっと上げてもらわなきゃ」
「本当に。あ、円からドルに替えるのってやってる?」
「私、給料入ったら銀行の両替コーナーに行ってますよ」
「そうなんだ。手数料かかっても、基地の中の買い物ならその方がお得だものね。私もやろうかな」
「一緒に行きましょう。案内できますから」
「そうしてもらえると安心だわ」
真帆の笑顔を見るためなら容易いことだと、冴子も口元をふとゆるめる。
二人でドーナツ屋を出ると、カラオケ屋に向かう。が、どの店も満室でなかなか入れない。しばらく店と店の間をさまよった二人は疲れてしまい、最終的に海沿いの公園にたどり着き、ベンチに腰掛けた。
「あーあ、だめでしたね。もう帰りましょうか」
疲れた足を休ませていると、潮の匂いが強く鼻をつく。水上艦艇だろうか、それとも輸送艇だろうか、目の前には黒い船の影が見えており、若い女性向けとはいえない光景だ。
「そうね……。冴子ちゃんとたくさん話せたのはうれしかったけど、本当はもっと一緒にいたかったから、残念だわ」
「こんなのでよければ、いつでも」
どきりと心臓が跳ねるが、冴子は何でもないようなそぶりで言葉を返した。真帆は時々、彼氏にでも言うようなことを冴子に向かって口にする。その中でも、今日は特に。『もっと一緒にいたかった』なんてまるで恋人同士のようではないかと思うと、どきどきとうるさい心臓をなだめようとしても、まるで効果がない。
「……さっき、私が桃の話をしたのは……」
「ん?」
「真帆さんの唇が、桃みたいだな、って思ったから……」
「そうだった? あんなにおいしくはないけど」
白い街灯にぼんやりと照らされるだけのベンチでは、真帆の表情は今ひとつ読み取れない。でもきっと、柔らかい笑顔になっているだろう。冴子にはわかるのだ。
「真帆さん、彼氏……いない、んですよね。キスって、したこと、ありますか?」
普通に話しているつもりなのに、口から出る言葉がたどたどしい。きっとまだ飛び跳ねている心臓のせいだ。暗い中でもさすがに恥ずかしくなり、冴子はうつむいた。
「んー、あるけど……何年か前」
「高校生の、時?」
「うん。まだお化粧も覚えてなかった頃に、一回だけ」
真帆の言葉に返答しようと冴子が息を吸うと、誰かが吸っている煙草の匂いが肺に入った。こんな深夜に誰が……と思ってよく見ると少し離れたベンチにカップルが座っており、男性の方が煙草を吸っているようだ。
「あ、煙草吸ってる人がいますね。真帆さん煙苦手でしょう? もう終電近いし、帰りますか?」
「もう終電の時間かぁ。じゃあ駅に行こうか」
「はい」
潮の匂いがだんだん強くなってきており、風向きが変わったのだろうか、などとどうでもいいことを考えながら立ち上がって重くなった足で歩き始める。途中で何度か酔った米兵にナンパされたが、「No thank you」と慣れた口調で断りながら、明るい繁華街を駅へと急いだ。
「間に合いましたね。真帆さん、今度……」
「キス、しよっか」
煙草や酒のすえた匂いが充満する駅のホーム、終電の到着まであと二分というところで、背の低い真帆が背の高い冴子を見上げながら言った。
「……え……?」
「興味あるんでしょう?」
「そ……いう、わけ、では……」
真帆の表情は硬く、日本人にしては色素の薄い瞳が冴子を貫く。
「いや?」
「……いや、じゃない、です……したい……」
つい、本音を言ってしまった。絶対に口には出せないはずだったのに。あの冷たくて甘い痛みが全身に回り、特にお腹の下あたりに多く留まっているような感じを覚えて冴子は下を向いた。自分でも目が潤んでいるのがわかって、恥ずかしさで真帆の首元から上に視線を上げることができない。
明日は日曜日だというのに、ホームには人がまばらにいる程度だ。きっとここでキスをしても、誰にも見られずに済むだろう。
米兵に限らず、男性からのナンパなど軽くあしらうことができるのに、この状況ではどうしていいかわからない。とうとう冴子の目から、溜まっていた涙が数滴こぼれ落ちる。
「冴子ちゃん、かわいい」
冴子の大好きな、真帆の歌うような声がしたと思うと、細い指が頬に触れ、唇に柔らかいものが当たった。一気に体の熱が上がり、気付くと冴子は真帆の腰を抱き寄せ、そのおいしそうな唇を貪っていた。冴子にとっては初めてなのに、熱に浮かされたように深く、深く口付ける。
電車の走行音が聞こえ、はっと我に返ると、もう先頭車両がすぐそこまで迫っていた。
「ご……ごめ、ん、なさ……」
頬を真っ赤にした真帆に、冴子は謝ることしかできない。自分が濡らした唇、自分が紅潮させた頬、リアルな夢だろうか……そう考えるともう現実には戻れない気がして、改札の方へと走り出す。
「冴子ちゃん!」
真帆が自分を呼ぶ声が聞こえるが、今はホームには戻れない。改札を出ると、冴子は吹き付ける夜風に全身の熱を冷ますように、早足で歩き出した。自分でもどこに向かっているのか見当もつかないまま、気付いたら米軍基地のメインゲート前にたどり着いていた。
それからどのくらい時間が経っただろうか、真帆の唇に当てた自分の唇の
「Hey, how about……」
「I'm not a prostitute」
米兵の男性に売春婦と間違えられ、慌てて断ると彼は肩をすくめてその場を去っていった。
東から吹く海風が、酒と煙草の匂いも一緒に運んでくる。この町は毎年春から夏にかけてこの匂いが強くなる。そうわかっていても、何故だか今日はその匂いに憤りを感じてしまう。真帆が嫌いな煙草の匂いが混じっているからだろうか。冴子が飲み会で友達に煙草を勧められても手を出さないのは、真帆のためだ。
でも、と、冴子は思い直す。真帆はこれからも冴子を避けたりはしない気がする。そもそもこのキスは真帆からの提案だったのだ。関係が完全に終わることはない気がする。ただの気のせいじゃないといいんだけど、などと、心の中でゆるく希望を言ってみる。
「桃狩り、誘ったら一緒に行ってくれるかな」
仄暗い欲を独り言とともに吐き出してから、タクシーに乗るべく、車道へと近付く。
午前二時過ぎ、米軍基地メインゲート前のアメリカン・ダイナーの明かりが、ほんの少しだけ大人になった冴子の姿を、国道を走るタクシーの運転手に見つけられやすいようにくっきりと照らしていた。
※文中の英文について
Could you answer this questionnaire?
→アンケートに答えていただけますか?
I'm not a prostitute.
→私は娼婦ではありません。
(堅い言い方。スラングで『娼婦』『売春婦』を意味する言葉は
多くありますが、冴子は故意にこの言い方をしています)
ついでに豆知識。
日本人は冠詞のa、an、theなどが苦手ですが、
つけるべき時にはちゃんとつけておかないと、
乱暴でくだけすぎた言い方になってしまうので要注意です。
逆に言えば、乱暴な言い方にしたい時は冠詞は不要です(笑)
【GL】海風と桃 祐里 @yukie_miumiu
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