燻り、灯る
霧谷
✳✳✳
──その目は眠らない夜のようだと思った。色素の薄い睫毛に縁取られた眼は黒く、昏く、感情の揺れは見受けられない。雑然とした薄暗い部屋のなか、四肢を投げ出して椅子に坐し一点を見つめる瞳は無機質な硝子玉のようで、ひと目見た瞬間に全身の肌が粟立ったのを今でも覚えている。
「──」
その部屋の中では呼吸の音すら罪に感じられ俺は静かにくわえ煙草の火を消した。彼はこちらを見ない。ただ茫洋と宙を眺め、その日の終わりを待ち侘びている。いつかの未来への希望を棄てた唇は部屋の隅に立て掛けられたギターと同じく音を紡ぐことはなく、色のない皮膚をただ無為に晒していた。
「結」
俺は彼の名を呼んだ。虚ろな眼は何の像を結ぶこともなく、固く引き結ばれた唇がこちらの名を呼ぶこともない。ただ密度の濃い粘りのある闇だけが瞳の中に渦巻いている。
「……結」
──……もう一度、掠れた声で名前を呼んだ。喉奥にへばりついた諸々の言葉を空気と共に嚥下し、必要最低限、彼の存在を確かめるための言葉を縒り合わせた。
「──肇」
今日も返事は無いか、と諦めかけていたその時。彼が小さな声で応えた。弾かれたように顔を上げれば、絡んだ視線。大きな眼のなかの粘性の増した黒の奥。ほんの微かに、じり、と灼けつく炎の残り火が見えた。
何がこうさせた?何が、誰が、こいつを。
「結」
大丈夫なのか、喉は、身体は、お前自身は。
問い掛けようと試みるも舌に上手く音が乗らない。
だから俺は、もう一度名前を呼んだ。
「結」
「──」
彼は昏い瞳のまま机の上に重ねられていた書きかけの楽譜を宙に向けて放り投げる。薄闇に紙の白がよく映えて、俺は思わず目を見張った。
「──」
「──」
黒く昏い空に、幾筋もの光が舞う。
「──大丈夫だよ、肇」
舞い散る紙が床に白を敷くなか、彼は薄く笑った。
「音楽はすべてを救ってくれるんだ。たとえこの喉が潰れても、ペンが握れなくなっても、音楽が昔の俺のことを救って愛してくれたことに変わりはない」
「だから、俺も全て、すべてを捧げる」
「──だから、大丈夫だよ、肇」
「──」
──人間、一度ほんとうに心を奪われてしまったものからは離れられない。その眼の奥の炎が尽きるまで、彼は何度でも失意のどん底と天にも昇る心地を繰り返す。芸術の神に蔑まれ、そして愛されたものにしかその甘美な至福は味わえない。
だから、俺は言った。音を愛する仲間として。
「──いつでも帰って来られる用意は出来てるからな。みんな、お前の歌を待ってる」
燻り、灯る 霧谷 @168-nHHT
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