魔術師の日常 前編
魔術師の弟子の朝はとても早い。
俺はまだ空に星が瞬く頃に目を覚まし、軽く身だしなみを整えてから厨房に行く。
そして朝食をもって師匠を起こしに行くのが最初の試れ……じゃなくて仕事だ。
なお、俺以外の使用人は誰一人として師匠を起こそうとはしない。
自然に起きるまでほったらかしである。
理由は、師匠の寝起きの悪さだ。
寝ている彼女に近づくのは、非常に危険な行為なのである。
ついでに、俺以外が起こしに行っても絶対に起きない。
なぜ俺が起こしに行くと起きるのかについては、まぁ……もって生まれた素質の類だ。
あまり深く聞かないでほしい。
「師匠、朝ですよ。
起きてください」
そう声をかけながら、俺はお茶と朝食をのせたワゴンをベッドの脇につける。
最近の彼女の朝は、いつもベッドの上で食事をとるモーニングティースタイルだ。
モーニングティーとは、イギリスの紳士たちが休日の朝に妻への愛情として行う行為である。
少し前に俺がうっかりと口を滑らせてからは、すっかり師匠が気に入ってしまい、今では毎日の習慣になってしまっていた。
さて、ここからが問題だ。
「師匠、起きてください。
ほら、おいしそうな匂いするでしょ」
まず彼女の注意を引くには匂いが最適である。
うちの師匠は香を調合することを得意としており、そのせいか匂いにはとても敏感なのだ。
掛布団をわずかにめくり、鳥の羽を束ねた扇で風を送り続けると、こんもりとした布団の山がモゾリと動いた。
――来る。
実は彼女を起こすとき、一番危険なのがこの瞬間なのだ。
危険を感じた俺が距離を取るより早く、シュボッと激しい衣擦れと共に、白い手が閃光のような速さで伸びる。
くっ、いつも以上に早い!?
あまりの早さによけそこねた俺は、腕をつかまれて布団の中に引きずり込まれる。
「むぎゃあぁぁぁぁぁぁ」
そして今日もモフリ地獄が始まってしまった。
なぜ俺だけが師匠を起こすことが出来る理由。
それは、師匠が俺をモフった時の興奮で血圧が上がり、副次的に意識がはっきりするからに他ならない。
「うふふふ……ユージン、ふわふわ、もふもふ」
「師匠、ふざけてないで早く起きて……痛っ!?
いま、ブチッといった!?」
師匠、モフモフが好きならもう少し撫でるのうまくなってください!
そこに愛があるなら、奇跡よ今すぐ起きろ!!
起きてくれ!
いや、その前にベッドから起きてくれ師匠!
ベッドの中でもみくちゃにされること、おおよそ五分。
すっかり満足した師匠は、ようやく掛布団の中から姿を現した。
「ふぅ……いい目覚めね。
うちの弟子は起こし方が上手くて助かるわ」
「……普通に起きるようになってください。
そのうち俺の体にハゲが出来ます」
というか、たぶんもう何か所かハゲているに違いない。
毛生え薬の開発を急がなくては!
師匠を起こし終わったら、ようやく自分の食事である。
へろへろの状態で自室に戻ると、部屋に備え付けの厨房で専属料理人であるディティルスが朝食を作ってくれていた。
こいつ、元はそれなりに大きな店で修行していらしいんだよな。
人種問題で貴族にケチをつけられて店をクビになったらしいけど。
幸いな事に、塔は種族のるつぼで人間のほうが珍しいぐらいだ。
彼の種族をとやかく言う者は誰もいない。
さて、食事が終わったら次の予定である。
水で身を清め、衣服を着替えてたら、俺の守護神にして美の女神であるアフラシアへの祈りをささげる時間だ。
なお、俺の場合に限りアフラシア様ヘの礼拝は女神像をぎっとハグすることが義務付けられていた。
理由はウチの師匠と同じだ。
おのれ……モフラー共め。
アフラシア様への祈りが終わったら、つづいて知の神クロイセルへの祈りへ。
こちらは普通に手を合わせて祈るだけでいい。
同じことをあと10回繰り返し、12神全てに祈りを捧げれば礼拝は終わりだ。
なお、拝樹教の崇める十二の神々は、天の黄道十二星座に対応している。
そのため神像の並びも星座の位置に対応しており、最初に自分の守護神に祈りを捧げたら、太陽がその十二星座を移ろう順番で全ての神に祈りをささげるのが一般的な作法だ。
朝の祈りを終わらせると、そろそろ夜明けが来る時間である。
晴れていれば外に出て夜明けの光を浴びながら瞑想をし、雨ならば礼拝堂で同じことをする。
うん、今日はいい天気だ。
まだちょっと寒いけどね。
俺は片膝をつき、天を支えるような姿勢で目を閉じた。
そして決まった型をなぞりながら踊るように体を動かす。
我が流派の瞑想方法には、このように動きながらするものが多い。
瞑想の終わりには、
このポーションは、瞑想によって夢と混濁した意識をすっきりさせ、魂の成長を助ける働きがある。
さて、瞑想が終わったら、記録の時間だ。
瞑想の中でどんな幻影が見えたのかについて日記をつけるのも重要な修行である。
瞑想とは、心の中を無にするものばかりではない。
特に呪術師の瞑想は、閉じた視界の中で様々な神秘図形を描き、そこから引き出されるイメージによって大いなる理を学ぶものなのだ。
日記を書き終わったらそれを師匠に見せなければならない。
それによって修行の進み具合の確認し、これからの修行に関する方向性についてアドバイスをもらうからだ。
この朝の習慣を、俺はこの塔にきてからずっと続けている。
昨日も、そして明日もきっと同じことの繰り返しだ。
だが、不満は特にない。
自分が前に進んでいることが理解できているから。
きっと、俺が呪術師としてもっと上の位になっても似たような修行は続くのだろう。
師匠の曰く、呪術師の修行とは基本的に地味であり、同じ事の繰り返しである。
そしてやるべき仕事も地味だ。
なにせ魔術師の仕事の五割がたが自然現象の記録と分析だし、残りのうち二割も神殿から祭礼の手伝いを頼まれるぐらい。
あとは一般市民からの占いの要望がある程度かな。
俺のように地脈の乱れを修復するためにあちこち引っ張りまわされるのはかなり珍しいケースである。
たまに呪いの解除なんかもあるのだが、それは基本的に神殿の仕事なのでこっちに回ってくるのはよほどのことだ。
なお、魔術師や呪術師という物は、おおよそのイメージに反し、人を呪うような行為はまずやらない。
やりたいとも思わないが、やろうとするなら事前に申請が必要になる。
事後承諾でもいけなくはないのだが、あとですさまじく面倒くさい事になるので、俺は出来るだけやりたくはないな。
魔物が大繁殖して近隣に脅威を振りまくようなこともたまには発生するらしいが、そんな時も冒険者と協力して殲滅するような行動はとらない。
どちらかというと、遠距離から強力な呪詛を撒いて、魔獣に触れることも無く根絶やしにするのが魔術に関わる者の流儀だ。
ついでに言えば、その魔物の大発生を未然に防いだり、その予兆を知らせることこそ我々の本分である。
むろん、中には冒険者と一緒に戦って、ファイアーボールやライトニングみたいな術をぶっ放す人もいるらしいよ?
でも、そんな事をしても度胸が付くだけで、魔術師として上に上がることはできない。
殺した魔物の魔力を吸ってレベルアップなんてシステムは存在しないのだ。
むしろ殺戒を破る行動として徳が下がる可能性すらある。
そして徳が下がると神や精霊が話を聞いてくれにくくなるのだ。
ほら、何もいい事がない。
さて、そんな事を考えているうちに時刻の変りを告げる鐘が聞こえてきた。
瞑想の時間は終わり。
次は雑務だ。
今日の雑務の内容は……いつもと同じく書類の山を削るお仕事である。
執務室に入ると、フォーセルと部下たちが書類の海の真ん中で俺を待っていた。
ほんと、やることはいっぱいだ。
たまにはみんなでお休みとろうぜ?
仕事だけの人生を送ると、後から後悔することになるぞ。
そんなこんなで色々と働いていたら、いつの間にかお昼ご飯の時間になっていた。
俺は沐浴を済ませたあとで食堂に行き、昼食が終わったら、今度は師匠から授業をうける。
主な書類は片付いたので、その後は図書室で自習だ。
今日は鉱物についての授業だったから、その内容を踏まえて本を選ぶ。
それにしても……前世ではあんなに勉強が嫌いだったのに、こちらに来てからは学ぶことが楽しくて仕方がない。
二時間ほど自習をしたら、ジョルダンをつれて外に散歩だ。
書類がたまっていると、護衛の連中にジョルダンのお散歩を任せてこの時間も書類との戦いになる。
……というか、下手をすると師匠を起こす仕事以外はすべて書類作業の時間だ。
今日は書類が片付いたから気楽にお散歩出来るな。
ついでに野外の薬草も採取して、厨房の奴らにわけてやるか。
外出から戻ってきたら、夕方からはいよいよ魔術の実践である。
師匠からは下級の地の精霊と契約を結ぶという大き目の課題が出されており、今日の課題はその準備段階だ。
具体的には、祭壇に供物をささげて地の精霊に呼びかけるというものである。
要するに、契約を結ぶ前にまずは親交を深めなさいと言う事だ。
精霊だって、よく知らない奴にいきなり呼び出され、「さぁ、俺と契約しろ」なんて言われるの嫌だろうしね。
そんなわけで、俺は神饌作成用の厨房に行き、作り置きしておいたクッキーの生地をオーブンに入れる。
周囲には甘い香りが漂い、横で見守っているジョルダンの口からよだれがこぼれた。
……君の分はあとで焼くから、今は我慢してくれよ?
俺は儀式用の部屋に戻ると、部屋の真ん中に等間隔で四つの柱を立て、その間を緑の紐で結んだ。
これは結界にして祭壇の触媒となるものである。
その結界の中に机を置き、俺はその上にミントティーとクッキーを置いた。
さらに追加で、大量の小麦粉の入ったボウルを添える。
この小麦粉は、精霊がかりそめの肉体を作るための触媒だ。
呼んだところで来るとは限らないのだが、いざという時に準備をしておかないと悲しい事になるからな。
さて、準備が整ったら儀式の始まりである。
俺は魔術専用にした卓上ベルを手に取り、その音を鳴らした。
「
おや、ボウルに入れておいた小麦粉がふるえている?
もしかして、呼びかけに答えてくれたのかもしれない。
俺は次の段階に備え、目を閉じた。
精霊の中には人に姿を見られる事を嫌う者が多いからだ。
「善き精霊よ、そこにいらっしゃるのならば何か印を示してください」
そう呼び掛けると、チッチチッとネズミの鳴き声が俺の耳にはっきりと聞こえた。
これは間違いないな。
「私が目を開けてもあなたが立ち去らないでいてくれるのならば、もう一度印を示してください」
すると、もう一度ネズミの声が鳴り響く。
俺がゆっくりと目を開くと、祭壇の上には真っ白なネズミが一匹。
供物として用意してあったクッキーを、おいしそうに齧っていた。
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