怠惰の獣は今日も疲れている
卯堂 成隆
序章
地獄沙汰は情け次第
「
その者、怠惰を極めたニート生活をつづけた罪で畜生道に転生せよ!」
目の前の美青年……地獄の裁判官の一人である平等王様は、力のこもった声でそう告げた。
だが、その直後に困惑の表情を浮かべる。
「……と言いたいところだが、そうなった成り行きには情状酌量の余地がある。
はて、どうしたものか」
平等王様は溜息をつくと、憂いに満ちた声でそう呟いた。
ちなみに、平等王様は冥府で行われる十回の裁判――十王裁判の内、第八回目の担当官だ。
彼の裁きを受けなければならない死者は、実のところあまり多くない。
通常は、閻魔大王の担当する五番目の裁判で地獄に落ちるかどうかの決着がついてしまうからだ。
だが、世の中にはなんとも判断に苦しむ事情を持っていたり、罪と功績がどちらも大きな者……どうにも罪に問い難い人物がいる。
そんな例外の一人が俺だ。
色々と勘違いされているようだが、そもそも冥府の十王裁判とは人の罪を問いただして地獄に叩き落とすためのものではない。
何とかしてその人の善行を洗い出し、地獄に行かない理由にできないかと仏の化身が十人がかりで救おうとする慈悲深い制度なのだ。
そして俺がニートになった経緯が、彼等をして俺を畜生道送りにできなくさせていた。
俺が怠惰の罪を極めたというとんでもない存在であるにも関わらずだ。
簡潔に言うと、就職先であるブラック企業で地獄をも超える扱いを受けた俺は心を病んでしまい、それが原因でニート生活を余儀なくされてしまったからだ。
例をあげるならば……月に100時間を超える残業、上司からの無駄に長い叱責。
さらには何かミスをするたびに罰金支払わなくてはならないという内輪のルールが俺の職場にはあった。
集まった罰金は飲み会の費用の足しにするという名目だが、そんな金で飲む酒が美味いはずもなく、ましてや楽しいはずもない。
ついでに精神的な疲労が増える事でかえってミスが頻発する。
飲み会の好きだった上司が、酒を飲む理由に使うだけの拷問のようなルールだ。
そんな職場に勤め続けた結果、俺は働くことはおろか外に出る事すらできないほど病んだ。
親以外の人間を見れば恐怖と嫌悪がぶり返し、制御できない感情に振り回され、涙を流しながら叫び狂うような状況になった挙句に会社から放り出されたのである。
このありさまでは、再就職など出来るはずもない。
そしてある日、頼みの綱である両親が突然事故で死んでしまった。
残されたのは俺一人。
このご時世では親戚たちも助けてはくれず、そのあと食べ物が無くなって飢えて死ぬまで、俺はずっと自宅の部屋の中で震えている事しかできなかった。
そう、俺の死因は――餓死だ。
生きるための行動すべてを放棄し、怠惰の極みへと落ちた者には相応しい最後だろう。
トイレに行くことも、意識のある限り呼吸すら拒んだ俺の最後の姿がどのようであったかは、想像したくもない。
――ブラック企業に潰される前に逃げればよかったのに。
会社なんて辞めても、生きてゆくだけならば何とでもなる。
俺の無残で惨めな死にざまを見た人は口をそろえてそう言うだろう。
今となってはそれが正しいとわかるが、当時の俺は何もかもが限界だった。
心と体が完全にぶっ壊れて強制退場するまで、逃げる事を考えることすらできなかったのだ。
……出来るはずないだろ。
その判断を下すべき時には、すでに狂っていたんだから。
なお、五番目の裁判官である閻魔大王様の話によると、俺のいた会社の社長と上司は、すでに壮絶な死を遂げているらしい。
原因は、俺と同じような境遇の人間の祟りだそうだ。
俺がそんな事を思い返していると、平等王様は良い事を思いついたとばかりにポンと手を打った。
「そうだ、お前……どうせ畜生に転生するのならば、大叫喚地獄にある金剛嘴烏処で罪人をついばむ鳥となって働いてみないか?
お前をこんな風にした上司の肉をえぐる仕事だ」
復讐を兼ねた良い案だと言わんばかりだが、俺の心は動かない。
あの上司の顔を見れば恐怖で頭がおかしくなりそうだし、人の肉を嘴でえぐるなんて恐ろしい行為はしたくない。
そしてなにより、俺は疲れていた。
復讐なんかよりも、心穏やかな生活がしたい。
いや、いっそ何もなくていいから、何もせずに消えてしまいたい。
そんな事を伝えようとしたのだが、俺の口からはオともアともつかない謎の喘ぎ声だった。
あまりにも長く人と会話をしない生活が続いたせいである。
肉体を失った今もなお、俺には他人と会話をする手段が失われていた。
……何も伝えられないのなら、もうそれでもいいや。
誰かと分かり合うなんて、面倒でしかない。
この十王裁判に関しても、まったく動かない俺を見かねた優しい鬼がずっと背負って連れてきてくれたぐらいだ。
もはや俺は存在する無に等しい。
こんな俺を救う必要などないのだ。
どこかに打ち捨てて、そのまま忘れてくれたらそれでいい。
「うむうむ、よろしい。
無理に言葉を紡ぐ必要は無い。
言いたいことはちゃんとわかるぞ。
本来のお前はとても優しく謙虚であり、そして怒りや憎しみを是としない。
人としては実に喜ばしい事だ。
だが、その自らをないがしろにする考え方はよろしくない。
見ているだけでも辛すぎる」
その整った顔の表情を緩め、平等王様はこうおっしゃった。
「では、こうしようではないか。
お前の罪を赦し、かわりに役目を与えよう。
私がかつて関わった事のある異世界に行くのだ。
ただし、恵まれた生まれにはならないだろう。
しかし決してくじけるな。
そして、その世界で人々に奉仕してほしいのだよ。
ただし、奉仕の内容は君に一任する。
何をもってその世界への奉仕とするかは、君自身が決めるのだ」
なんだよ、それ。
つまり異世界で贖罪してこいって事か?
けど、俺には無理だ。
そもそも……俺には何の力もない。
それに何もしたくない。
ただ、消えたいだけなのだ。
だいたいだ。
考えてもみてほしい。
記憶を持ったまま転生したところで心の壊れた俺では誰かと会話をすることすらできないだろう。
もしも記憶をもたずに転生すれば、使命も一緒に忘れてしまう。
「では、その怠惰の呪いに抗う力を教えてやろう、
気が付くと、平等王様の指が俺の額に触れていた。
「ウコニヤ・モコニヤ・チョポニヤ・タンポリニ・アンジャリ・ホンジャリ・シュピト・ホポジャ・ロロ・ホスニ・トジト・イリヤ・ミリヤ・チシュリヤ・ギャホリ・ギャチヤ・トンキャ・センドリ・モテンキ・レイシャレイシャ・サポサト・サポポヤビヤ・ソコ……」
まったく意味の分からない言葉。
だが、妙に聞いていて気持ちがいい。
そしてその祈りの言葉に応えるように、俺の体の内側から暖かなものがあふれてきた。
凍えた手を暖かい湯につけるような、痛みにも似た熱さでありながらなぜか心地よく感じてしまう、あの感覚に近い。
「わかるか?
怠惰の罪に抗う力がお前の中にある。
私がお前の中に眠っていたソレを起こしてやったのだ。
だが、まだ完全に怠惰を克服したわけではない。
この力が何なのか、深く深く、さして慎重に考えよ。
それを理屈ではなく真理として受け入れた時、お前は怠惰を克服し、本当に自らの罪を償う事が出来る」
「……俺、許されるの?」
あ、声が出た。
けど、まだ俺の中に心を縛る重くて黒い何かがある。
それは優しく甘美で、俺をその奥底に引きずり込もうとすぐ隣に佇んでいる。
ともすれば暖かい寝床のような感じるそれが、実は万年雪よりも冷たい場所であることが、今ならば理解できた。
「本当に心から償う気持ちがあるならば、償えない罪などない。
ましてやお前の行いには罪があったかもしれないが、その心には欠片ほどの罪もないのだ。
さぁ、力を抜け。
私の導きにすべてをゆだねよ。
……
そして意識が真っ白になったあと。
俺はどことも知れぬ、剣と魔法の存在する世界にいた。
……熊の姿で。
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