資料8ー第2話

 〈裏世界線〉のイアンの手がボクの肩に当たった。見ていたボクも思わず小声で叫んでしまう。幸い、彼の手はボクのパーカーに当たり、肌に直接触れることはなかった。でも、根源的恐怖とも呼べる〝他人に触れる〟という行為は、〈裏世界線〉のボクを萎縮させた。


 縮こまるボクに対し〈裏世界線〉のイアンは何か言った。何を言ったのかわからないけれども、〈裏世界線〉のボクは頷いた。


 すると彼はポケットから一組の手袋を取り出した。とても優しい表情を浮かべながらボクに差し出す。〈裏世界線〉のボクは恐る恐る手袋を身につけると、目の前にいる彼と手を合わせた。


 手を合わせる直前、〈裏世界線〉のボクの手が震えているのが見える。


 ——わかる、わかるよ。


 ボクは左眼に映る映像が並行世界の自分であることを忘れ、まるで映画を見ているかのような心持ちになった。




 彼と手が触れた瞬間、ボクの震えが止まった。




 触覚を共有していなくてもわかる。〈裏世界線〉のボクはついに手に入れたんだ。ボクが長年求めていたものを。


 ボクは自分の手の平同士を合わせた。合わせずにはいられなかった。


 〈裏世界線〉のボクがどんな表情をしているかはわからない。でも、この世界のボクはどうしようもなく笑みを浮かべ、目から大粒の涙を溢れさせていた。




 誰かの視線に気づく。視線の正体がこちら側のイアンであると気付いたとき、ボクの胸はどうしようもない締め付けに襲われた。力任せに締め付けられる感じではない。両手でそっと包み込んで圧迫してくれる、そんな苦しみ。


 いいや、苦しみなんて言葉を使っては失礼だ。


 なんて言えばいいかな……。


 ボクはこの鼓動を適切に表現できる言葉を知らない。




     ***




 誰かの死体が見つかった。誰だったっけ。名前は……どうでもいい。


 パラレル・ワールドのボクが一人死んだ。誰に殺されたんだっけ。死因は……どうでもいい。


 全てがどうでも良かった。


 ボクの頭の中にあるのはイアン・テイラー、彼だけだ。


 彼はどんな人生を歩んできたんだろう。どんなことを考えているんだろう。溢れ出す妄想は手綱が外れた馬のように走り回り、私の胸をノックし続けた。


 ノック、ノック、

 ノック、ノック、


 犯人探しの会議中、ときどき彼と目が合う。そのまま見つめ続ければいいのに、心拍数が一気に跳ね上がって目を逸らしてしまう。あぁ、もう。ボクも向こうのボクみたいに彼と話をしたいのに。どうして、ボクの胸はこうも優しくボクを圧迫してくれるの?


 どうして!


 ボクが永年追い求めていたものが今!


 目の前に!

 いるのに!


 どうしてボクの足は動かないの!




     ***




「あ、あの!」


 会議が終わり、廊下に出たイアンをボクは呼び止めた。彼は振り返り、ボクのことを見つめる。


「ど、どうかした?」

「えっ、あ……その……」


 息が詰まる。頭が真っ白になる。心拍数は過去最大値を叩き出していた。


 それでも決めたんだろう。イ・ソヒ。あっちのボクみたいになるって。


 息を大きく吸って、勇気を振り絞って、

 前へ進むんだ、イ・ソヒ!




「エ、エ、エイゼルのふふ、腹筋て——い、いいよね〜」




 時が止まったと思った。


 ライトノベルでしか見たことない表現が、現実に起きた瞬間だった。


 空気の流れが止まり、音がなくなり、温度さえも失われてしまったかのように、ボクとイアンの二人はしばらく動かなかった。


「え、えっとぉ……」


 引き攣った笑み、戸惑いの声。



 あぁ〜、やっちまった……。



 スタートダッシュでスライムに足を滑らせて転ぶくらい、やってしまったかもしれない。


 やばい。早く挽回しないと。何か言わないと……。


「ほ、ほら、ソ、『ソード・オブ・カオス』のエイゼルの『真夏のシーサイド・ストーリー』がいいなぁってお、思って、あれって彼のお腹が程よく見えていいな〜、萌えるな〜って思って、それで……えっと、その……」


 あれ、ボクって何を話そうとしてたんだっけ。彼と何の話をしようとしてたんだっけ。落ち着け、落ち着け……


「えっと……、えっと……」


 えっとで間を繋ぐのもいよいよ限界になってきた。このまま「えっと」を続ければ子丑寅卯と十二支が出来上がってしまう。だからなんだっていうんだ。って、そういうことじゃなくって!


「え〜っと……」

「よ、よくわかんないけど、緊張してる?」


 彼が近づいてくる。ボクはこの先のビジョンが思い浮かばなくて固まった。


「そ、そうだよな。周りには、大企業の社長とか令嬢とか軍人とか三ツ星シェフとか、オ、オレなんて何でもないニートだから、肩肘はって『俺氏』なんて一人称にしちゃって……。き、君も同じかな。緊張して、自分を大きく見せようとして……」


 そんなことない。ボクはただイアンと話がしたくて、いろんな話がしたくて。でもどう話しかけたらいいかわからなくって、初手をミスっただけで、別に大企業の社長とか令嬢とか軍人とか三ツ星シェフとか、そんなの眼中になくって、ボクの眼にあるのは……。


「まぁ、お互い頑張ろうよ」


 彼はボクのフードを脱がすと、ポンと手を置いた。




 ————温かい。




 じんわりとした温もりが、伝染するかのようにボクの頭皮に浸透していく。

 あぁ、あたたか——————。


「うわっ!」


 突然、イアンが手を離した。どうして手を離すの? もっと撫でてよ。温もりを、永年恋焦がれてきた温もりを全身いっぱいに感じさせてよ。


 理由はすぐにわかった。




 ——ボクだ。ボクのせいだ。




 頭から顔へ〝熱いもの〟が降ってくる。


 〝熱いもの〟は徐々に全身へ。手を見ると、金色に燃える二本の腕があった。




 ——あぁ、

 ——————あぁ、、、




 前を見ると、さっきまで頭を撫でてくれた彼がいた。

 彼は怯えきって、床に尻餅をついている。


「ちがう……ちがうんだ……」


 ボクは燃える口でしゃべった。耳元ではゴウゴウと高速道路の下にいるみたいな音が鳴り響き、ちゃんと発声できたかわからない。


「ボクは……ただ……話ガッ——」


 言葉が途切れた。口がなくなったのだとわかった。

 地面に倒れ込む。足がなくなった。


 起きあがろうにも、手はない。

 ボクは首だけの力で顔を上げた。


 せめて、せめて最期まで彼の姿を見続けたかったから。


 しかし、顔を上げる直前で視界は金色の炎に包まれる。


 あぁ、熱い

      あつい

         アツ     イ



——————

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引き続き、拙作をよろしくお願いいたします。

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