37.右の拳に怒りを込めて
*****
「香田、もっと飛ばせ」
「事故ったら意味がない」
「ダメだ、飛ばせ。俺の言うことを聞け。怒るぞ」
「わかった」
二人を乗せて、バイクはかっ飛ぶ。
*****
河川敷が見えてきた。グレーの学ランがたくさん見える。
俺は目を見開いた。黒いセーラー服姿の女子学生が男らの手によって川に放り込まれたからだ。
黒いセーラー服姿の――。
その長く美しい茶色の髪の持ち主は、間違いなく桐敷だ。
桐敷が水から上がってこない。すると男二人が彼女のことを無理やり立たせて河原に戻ってきた。男の力で砂利の上に叩きつけられ、それでもなんとか四つん這いになった桐敷は、明らかに苦しげに、咳込むようにして水を吐く。もう反撃する意欲すら削がれたのだろうか。それとも物理的に身体が動かないのだろうか。どちらも正解だろう。ひょっとしたら涙を流しているのだろうか。泣き叫びたいのだろうか。怖いのだろうか、恐ろしいのだろうか。――だが、桐敷なら絶対に感じているはずだ。「悔しい」と感じているはずだ。その気持ちがある限り、彼女は折れたりしない。
とにかく死んではいないようだからと、俺は安堵した。女性の尊厳を著しく踏みにじり侵害するような一線、それは超えていないようだから、さらに安心した。ほんとうにほっとした。ありがとう、パネコーの諸君。ほんとうに、一人一人に感謝を言って回りたいくらいだ――わら。
バイクにまたがったままの香田に俺は「帰っていいぞ」と告げた。香田は彼女らしからぬ心配そうな声で、「わたしも協力できる」と言った。「サキは大事。友だち」と続けるあたりに、仲間想いの一面が色濃く浮き上がる。
「帰れ。俺一人で十分だ」
「でも、三十人はいる」
「任せろ」
「でも――」
「香田、おまえはいいコだよ」
「……雅孝?」
「なんだ?」
「雅孝……」
「だから、なんだ?」
「……帰る」
「そうしてくれ」
香田は勢い良くバイクを発進させ、颯爽と走り去った。
――さて、事の収拾に取りかかるとしよう。
俺は斜面を駆け下りる。ずんずん進み、ずんずん迫る。呆気にとられたような空気に支配された。そりゃそうだ、一人で乗り込んでくるよう男など想定外なわけだ。桐敷は二人の男に両腕をそれぞれ拘束され、さらには乱暴に髪を掴まれ、下へと押さえつけられている。桐敷が顔を上げた。「神取……」と弱々しく呟き――俺はその目に涙が映っているのをたしかに見た。
――とても頭にきた。
ずかずか歩いて、桐敷に戒めを働いていた二人の男の顔面を順番に壮絶なまでに蹴り飛ばした。今度は息を飲んだような空気に包まれた。桐敷に手を貸し、まずは座らせる。げほげほと激しく咳込む。荒い呼吸をする。また咳込む、また荒い呼吸。いくら背をさすってやっても落ち着かない。
ああ、ダメだな。
これはちょっと、ダメだ。
到底、許せる話ではない。
「神取……こいつはあたいが蒔いた種だ。だから――」
「俺がいま、さらにその上に種を蒔いた。だからこいつは俺が蒔いた種だ」
「なに言ってっかわかんねーよ」
「わからなくていい」
「だから――」
「わからなくていい」
俺は立ち上がり、桐敷を背後にした。パネコーの連中からの盾になった。だがそのじつ、俺は矛だ。最初の獲物は正面のデカブツだ。奴さんに向けて半身になり、腰をぐっと落とし、左手を前に広げ、右の拳は腰高の位置で引き絞る。
飛んでくるのは罵声、醜い怒声、そして馬鹿みたいに卑猥な怒号、下品な笑い声。
数が多いのは事実だ。
なら、できない?
それとも、できる?
――できるさ。
俺は相手に向けて、「来い」とだけ発した。
*****
河川敷沿いの遊歩道。
俺はいま、日が沈もうとしている中、桐敷をおぶって歩いている。ずっと向こうにトラス橋が見える。橋はいい。どこかとどこかを繋いでる。まるでヒトとヒトとの繋がりの在り方の象徴だ。橋がなかったら川を渡ることができず、みんな困る。泳いで渡ればいいという者もいるかもしれないが、みんながみんな、泳げるわけではない。やはり橋は必要なのだ――と俺は思う。
「男におぶってもらうなんて初めてだぜ」
朗らかに笑った桐敷である。
「情けないなんて思うなよ。常に立ち位置を見失わないことだ」
「ああん? あたいが弱いってのかよ? ……って、弱いよな」
「だから、そういう考え方はよせ」
「わかってるさ。どうせあたいは女だからダメなんだろ?」
「話が逸れている」
「でも、だけど……っ」
俺は身体を揺らし、よりしっかりと桐敷の身体をおぶった。
「……ごめんな」
「ん?」
「迷惑かけちまった。ごめんな……?」
「迷惑なんかじゃない。おまえが無事で良かった。それだけだ」
「ごめんな……?」
「ほんとうに、いいんだよ」
見上げる。
まだ星が見えるにはしばらくの時間を要しそうだ。
「おまえ、異常だよ。強すぎんよ。びっくりした」
「そうか?」
「三十人以上いたんだぜ? すげーよ。おまえはスゲー。それにしても、あんなに冷たい顔してヒトを殴れる奴もいるんだな。冷徹そのものっつーか、なんつーか。おまえっぽいなとは思ったよ」
俺は「もっとしがみつけ」と伝えた。「う、うん」とぎこちない返事をした桐敷は控え目な感じで両腕に力を込めた。心地良い拘束。ずっとこうしていたいくらいだ。
「俺には師匠がいてな。空手の師匠だ。腕力最強の怖ろしいじいさまだよ。奴さんに言われたんだ。ヒトを殴るのに冷静でいる必要はない。思いを拳に乗せろってな」
「思いを、拳に……?」
「ああ。思いとはすなわち魂だ。クサい教えだとは思ったんだが、優れた考え方だとも感じた。――俺らしくないか?」
「ううん。いい師匠じゃんかよ」
「ああ、そうだ。いい師匠なんだ」
桐敷はなにも言わない、しゃべらない。
ただしくしく泣きだしてしまった。
「悔しいよぅ、神取ぃ、どうしてあたいは風間みたいになれないんだよぉぉぉ……」
「じき、なれるさ」
「なんて無責任なことを言うんだ、おまえは」
「可能性のないニンゲンなんていないんだ」
「だからっ」
「騒ぐな。おぶってやらないぞ」
「いいっ! 自分の足で歩ける!」
「おぶってやる。胸の感触が心地いいんでな」
「ヘっ、ヘンタイ!」
「ああ、俺はヘンタイなんだ」
俺の背中の向こうで、桐敷が脱力したのがわかった。
いよいよ身を任せよう、委ねようとしてくれているらしい。
「聞いてくれっか?」
「なんでも聞くぞ」
「閉塞感っつーか、どれだけ鍛錬を積んでもダメなんだ。井戸の中にいるみてーなんだ」
「おまえは蛙だというわけだ」
桐敷は「そうだよ。あたいは蛙なんだ」と強調するように言った。「なんも知らねーで、なんもわかってねー蛙なんだ。情けねーよなぁ」と自分を卑下するように言った。
「たしかに、井戸の中の蛙に大海を知る術はない。それでもだ、桐敷」
「なんだよ」
「井戸の中の蛙だって、空の青さは知っているんだ」
静寂。
互いになにも言わない時間が、およそ一分。
「あたい、案外、重いだろ……?」
「女なんてみんな軽い」
静寂。
さらに一分。
「ありがとうな……雅孝」
「おまえとこうして帰路につくことができて良かった、ほんとうに」
桐敷が首に強く腕を巻きつけてきた。
喉の奥で嗚咽を押し止めているようだ。
俺は一歩一歩を大事に踏みしめる。
桐敷をおぶっているこの瞬間も、また大切な時間だ。
空を見上げる。
明るい星が一つだけ見えた。
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