27.ネオ・テコンドー

*****


 朝――六時という時間にだ、桐敷に学校へと呼び出された。昇降口で待っていろということだったので、言われたとおり待っていると、柔らかそうな素材――白い道着姿で目当ての人物は現れた。とても長い茶髪をアップに結っていて、笑顔笑顔、俺の顔を見ると気さくに「よっ」と右手を上げてみせた。


「おう、神取、よく眠れたかよ」

「いや、いったいなんの用なのだろうと、ドキドキしっぱなしだった」

「ど、ドキドキ?」

「ドキドキだ。ああ、そうか。今日――朝っぱらからだが、俺はついに桐敷と結ばれてしまうのか、セックスをしてしまうのか、しまくってしまうのか」

「馬鹿阿保やめろぉっ! 平然とエロいことを言うなぁぁっ!!」」桐敷は頬を赤く染め、その顔を両手で覆った。「わ、わかってるよ。でも、知ってるっての。おまえが冗談を言ってるってことくらいはよ」

「セックスはやらせてもらえるのか?」

「だから違うってんだろうが、このバカチンがぁっ!」

「うるさい」

「うるさいのはテメーだ、神取ぃっ!」


 やはり顔を両手で覆う桐敷は非常に愛らしい。いわゆる「ツンデレ」ってやつだよなと思わなくもない――否、きっとそうなのだろう。桐敷はかわいい奴だし、なにより欲しがり屋さんだ――いつもなにかを欲しているように見えてならないのだ。本人がそのことに気づいていようがいまいがということは大した問題ではなく、俺にとって興味深い個体であればそれでいい。


「どこについていけばいい?」

「まずは着替えてほしいんだけど、道着なんて持ってねーよな」

「家に帰ればあるぞ。というか、要るんだったらハナからそう言え」

「きゅ、急な思いつきだったんだよ。すまん」

「謝ることはないが。で、その急な思いつきとは?」


 桐敷はぎこちなく、だけど愛らしく笑った。


「ついてこいよ。いろいろ話してやる」

「いろいろ?」

「いいからついてこいってばよ」


 背を向けた桐敷に、文字どおり、俺はついてゆく。



*****


 歴史を感じさせる木造の立派な道場だ。立札を見ると、重厚な文字で「空手部」と記されている。桐敷が勝手口の鍵を開けその次の勝手口の戸も開け、そのうちしんと静まり返った道場へと入った。朝の澄んだ空気。耳に届くのは小鳥のさえずり――すずめが多いようだ。ほんとうに心地良い。この場にだったら何時間だって黙って座っていられることだろう――俺は静謐な空間がことのほか好きだと言っていい――嫌いだと言う理由などない。


 スクールバッグを脇に置き、腰を下ろして板張りの壁に背を預けていると、右隣の桐敷が、「なあ、おぼっちゃんn」などと声をかけてきた。


「ダルい話なら聞かないぞ。目が覚めるような話なら聞いてやる」


 じゃあ、いいや。


 そう言って桐敷は笑顔で立ち上がると、真上に小さくぴょんぴょんと跳ねた。手首をぷらぷら振ると、右、左とハイキックを放った。股関節の柔軟さを思わせる美しい蹴りだから、やはりただ者ではないなと強く思わされた。


「相手しろよ、神取。あたいらは馬鹿ばっかやってる。だからこそ、いっそ、今度はしっかり、一度、真面目にぶつかってみようぜ。ボディコンタクトは重要なんだ。そのへん、あたいだって、わかってる」


 気が進まない。「気が進まない」と実際口に出しもした。


「あんまり難しく考えんなよ。男だとか、女だとかよ。そんなの結果が決めるんだ。でもって、結果こそが真実なんだ。それ以外の解なんてねーよ」


 その解釈自体は間違いではない。


 俺は「わかった」と言い、学ラン――上着を脱ぎつつ、道場の中央に向かう。「そうこなくちゃな」と、桐敷は目を細めた。


 白い道着姿の桐敷と向かい合った。桐敷はまたもや真上にぴょんぴょん跳ねる。ほんとうに身が軽そうだ。弾むように跳ねる印象。そう。桐敷はまるでバネだ。


「なあ、桐敷。ここは空手部の道場なんだろう?」


 そうなんだよと答え、桐敷はどこか照れ臭そうに頭を掻いた。「正直言っちまうとな、いまどきテコンドーなんて流行らねーんだよ。だから、部員はあたいしかいねーし、ま、そいういうこった」ということらしい。


「桐敷、テコンドーはどうして流行らないのかね?」

「まず『足のボクシング』っつー謳い文句が悪い。足で殴るより手で殴ったほうがずっとはえぇんだ。その時点で実戦的とは言えねーよ」

「だが、足の一撃は強く重い」

「当たんなきゃ意味がねーって話だ」

「それもそのとおりだ。賢いな、桐敷は」

「よせやい。むしろ馬鹿にされてるみてーで嬉しくないぜ」


 自らがたしなみ、また愛しているであろう「武」をけなすようなことを言う。だが、桐敷はべつに自身が歩む道までをもけなしたいわけではないだろう。だったらどういうことなのか――?


 まっすぐに立ち、両手で頬をぴしゃぴしゃと叩き、桐敷が近づいてきた。左の拳を差し出してきて、「とっととやろうぜ」と挑発的に微笑む。「いいだろう」と答え、俺は彼女が差し出してきた左の拳に右の拳をこつんと当てた、試合開始の合図のグータッチだ。


 俺は俺だ。相手に対して半身になり、前にかざすようにして左手を立て、右の拳は腰高の位置に引き絞る。達者な父から「隙が大きすぎる構えだよ」と笑われたことがあるが、師匠である老人のそれをそのまま採用したものだ。「極めるだけの気構えがあるなら教えてやる」と言われ、厳しく説かれ教わり、その最中に奴さんは病に倒れ、あっけなく逝ってしまった。ああ、そうだ。不死身にすら思えたニンゲンでも死ぬときは死ぬ。あのじいさまはあの世でなにをしているのだろうか。強欲だった。好色でもあった。女に囲まれ一升瓶をラッパ飲みしている様子を想像すると、それはそれで笑えるし痛快だ。


「へぇ神取、それがテメーのマジか。雰囲気あんじゃんよ」

「世辞はいい。とっとと打ってこい」

「イラついてんのか?」

「せっかちなんでな」

「行くぜっ!」


 てっきりしょっぱな一撃必殺を狙って、それでいて牽制がてら、二、三、蹴ってくるものだと予測していた。しかし桐敷は鋭く左の足を前に踏み込むと左のジャブを放ってきた。二、三と連発する。右のストレート、少々大振りだ。隙ができた、ように見えたのだが――。こちらが左の突きを打って牽制――距離を計ろうとしたところで、唸りを上げた突き上げるような右の蹴りに顎先を持っていかれそうになった。すんでのとこでスウェーバックでかわしたわけだが、怖ろしい勢い――火力にぞっとなった。食らっていたらどうなっていたかわからない。少なくともKOされていたことは間違いないだろう。桐敷は両の拳でごりごり攻めてきて、さらにはテンポよく、タイミングよく、豪快な蹴りでこちらのガードを削ってくる。これはテコンドーじゃないなと思う。もっとこう、実戦向けにアレンジ、洗練、昇華された別の格闘技だ。


「これがあたいのネオ・テコンドーだ。上半身に隙を作ることなんかしねーし、拳で仕留めることもあれば勢い良く足を振り抜くこともする。ほーらよ」


 桐敷は左のジャブからまた右足を高々と蹴り上げてみせた。とてつもないスピードに目を見開く。コンビネーションとしてはキックボクシングのそれに近いのだが、蹴りの角度がいちいち鋭く独特で――それがテコンドーの本意とするところなのだろう。距離を詰めたらパンチを出してくるし、距離を取ると豪快かつ華麗な蹴りを連発してくる。なるほど。こいつは厄介だ。ネオ・テコンドー、おそるべし。理にも適っている。尊敬に値するぞと舌を巻く。


 桐敷が左足をぐわっと蹴り上げた。ほんとうにいちいち美しいなと思う。そう。強いニンゲンは美しい。――緊張感があっていい。ずっと身を委ねていたいくらいだ。だからこそ食らわないし、そう簡単に触れさせない。


――が。


 ふいに口内に非常に不快な液体が生じた――鉄の味。このまま続けても勝てるとは思えないし――ああ、そうだ、桐敷の実力は十分にわかった。続行の意味なんてもうないだろう。というか、この場で決着をつけるのは「イヤ」だ。そのへん曖昧なまま、いましばらくは楽しみたい。


 俺はすっすっすと身を引き身を引き、「待て、桐敷」と前に右手を広げた。


「なんだよ、いよいよもって、これからだろ?」

「口の中を切った」

「はあ?」

「口を切った。俺の負けでいい」


 するときょとんとしたのち、桐敷は腹を抱えて大いに笑った。



*****


 ――桐敷と並んで座り、おたがい壁に背を預けた。


「桐敷の序列は? 何位なんだ?」

「あたいは七位だ」

「七位?」

「ああ、七位さ。いざというときに弱いんだ」


 俺はうんうんと頷く。「それは理由があってのことなんだろうな」と言ってまた頷いた。


 すると「序列七位」の桐敷は困ったような顔をして笑ったのである。


「おまえが七位だなんて思えないんだがな」

「いいや、あたいは七位さ。七位なのさ」

「そうなのか?」

「ああ。どうあれ七位さ」


 桐敷は笑った。

 だったらもういいと言って、俺も笑った。


 だいたい、わかった。

 桐敷は結構強く、また思いのほかスマートなニンゲンらしい。


「おまえの戦い方、いや、勉強になったよ」

「嘘つけ馬鹿。ホント、それって嘘だろ?」

「嘘をつく必要がどこにある?」

「本音か?」

「本音に決まってる」


 俺が肩をすくめて笑んでやると、桐敷は「あたいらはもう、知らない仲じゃねーよな」と言った。「もっと仲良くなれっといいよな」と照れ臭そうに微笑んだ。

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