21.父が刺されたらしい
*****
「ファイトクラブ」の四人で帰路についた。「帰路につく」の「つく」の漢字について少々議論となり、少々揉めた。無論、揉めたのは主に風間と桐敷だ。風間はひらひらとかわそうとするのだが、桐敷がとにかく食らいつく。ブルドッグみたいだ――とはさすがに言わない。女性に対してそれはあまりにも失礼な表現だろう――否、裏を返せばかなりブルドックに失礼か、どうあれ誰かに失礼だ。
帰路、俺は「バイバイ」を言ったつもりなのだが、風間も桐敷も香田もついてきた。「なんのつもりだ?」と問うても三者からは要領を得ないリアクションしか得られない。挙句、俺が堤防の草むらの上になんとなく座り、その右隣に風間が座ると、背後からいきなり衝撃――わっはっはと笑ったのは奴さんだ、いや、桐敷、いまの背中への平手はほんとうに痛かったんだが?
俺の左隣には香田が立った。ぼーっとした顔。その心になにを思う?
「桐敷、やはり言っておこう。背中への平手打ち、ほんとうに痛かったんだが?」
「そら痛かったろ。でも、その憂さ晴らしはすぐに出来るぜぇ」
桐敷のその言葉に拍子を合わせたように――そんな出来事だった。まったくどこに潜んでいたんだか、いきなり周囲を囲まれたのだ。わらわらと現れたのは揃ってグレーの制服だ。ここいらで最も悪名高いとされる羽根崎工業高校――通称パネコーの連中だ。
いろいろ言われた。俺は「弱っちぃ」と見られたらしい。美少女三人を置いていったら許してくれるのだという。連中が風間たちのことを知らないとは思えないが、今日は勝てるくらいに考えているのだろう――その根拠については不明だが。
「だ、そうだ。おまえたち、帰っていいぞ」
俺は三人に向かって、しっしと右手を振った。
「馬鹿言ってんじゃねーよ」と不敵に言ったのは桐敷である。「たかだか二十名様だ。だったら一人あたりたった五人じゃねーか。それともおまえはやれねーってのか?」
「間違ってもケガはさせたくない」
「腑抜けたこと言ってんじゃねーぞ」
「よくもまあ言ってくれる」
俺が発した声もむなしく、桐敷は堤防を駆け下り、約一名の男に鮮やかな飛び蹴りを決めた。その瞬間、俺は桐敷のことを「舐めていたな」と気づかされた。――否。女性のことを軽んじていたなと思い知らされた。桐敷はすごい。右の前蹴りで相手をぶっ飛ばした。ああ、ほんとうに悪かった。俺はおまえのことを心のどこかで見下していた。必要があればいくらだって謝罪しよう。
結局、俺の出番はなかったのだ。三人で二十人をのしてしまった。風間は「ふんっ」といった感じで、桐敷は「ざまあみろ」といった感じで、香田は何事もなかったような感じだった。
俺がなにも言わず、なかば呆気に取られていたからだろう、戻ってきた桐敷に頭を引っぱたかれてしまった。桐敷は「あははっ」と快活に笑ってみせた。
「安心しろよな、神取。危なくなったらあたいが守ってやんぜ」
その言葉を耳にして、なんだか肩から力が抜けた。
俺の口元には苦笑が浮かんでいる。
「三人ともすごいな。強いな。俺なんて足元にも及ばないぞ」
桐敷にもう一発、頭を叩かれた。
「あたいらを褒めてるくせに、口振りは偉そうなのな」
俺は苦笑を深め、「すまない」と告げた。
「冗談だよ。おまえにはおまえのなにかがあるんだろ?」
なにもないさ。
俺はそう言って、お手上げのポーズを示した。
――刹那、いろいろ悩んだ。
――悩むだけの理由があった。
俺はたぶん、いま、自分の立ち位置を……。
得も言われぬむなしさ悲しさ腹立たしさに駆られ、「帰るぞ、俺は」という一言はつっけんどんな言い方になった。
「ま、待てよ、神取。一緒に帰ろうぜ?」
俺は耳を貸さなかった。
*****
朝、ずいぶんと早い時間に、スマホが唸りを上げた。
母からだった。
『まさくん、ごめんね? ごめんね? お母さん、もうだめかもしれないの……』
母は「雅孝くん」と呼んだり、当該のように「まさくん」と呼ぶこともある。基本的に楽天家である母が「もうだめかもしれない」などと訴えてくるのはことのほか珍しい――否、初めてのことかもしれない。なにかあったのだろう。そう考え、俺は「母さん、どういうことだ?」と訊いた。
「まさくん、とにかくお母さんのところに来てください」
なぜに敬語?
「わかった。向かおう」
「お願いします」
*****
母は病室の前でしくしく泣いていた。
どうしてなんだろう、どうしてなのかな。お父さんはどうして刺されちゃったんだろう……。
しくしくしくしく泣く母の一言に驚きを隠せない俺は「刺された?」と訊ねた。
「そう。刺されたの」
「どうしてだ?」
「それがわからないんじゃない」
「まあ、そうか」
「そうだよぅ……」
母はやはり泣く。「どうしてかな、まさくん。私は奥さまなのに、どうして病室の中には入れてもらえないんだろう……」と言って、泣く。
そんなの決まってる。
なにせ相手は集中治療室だ。
「泣くな、母さん」
「えっ」
「ニッポンの医者は優秀だ。必ず助けてくれる。そして警察だって優秀だ。犯人はすぐに捕まる」
「でもね? まさくん。万一にもお父さんが死んじゃったら……」
「父さんより俺のほうが先に死ぬさ。父さんはそれだけ力強い」
母は目をこすぎながら「えーんえーん」と泣く。年甲斐うんぬんは言わない。いつだって母はかわいい。
「お母さんは嫌だよぅ。お父さんとまさくん。どちらが欠けても生きていけないよぅ」
俺は母の両の肩にそれぞれ手を置き、「だったら信じるんだ、母さん」と強く告げた。
今度は「ふえぇ、ふえぇ」と、母は泣きだしてしまった。
「だいじょうぶだ。だいじょうぶだから」
「ふえぇ、ふえぇぇぇ……」
父さん。
あんたは罪作りな男だな。
こんな美人を泣かせているぞ。
*****
病床。
まもなく父はめでたく生還し、俺には「すまなかった」と言ってくれた。父を刺したニンゲン、正確には「強盗の男」はすでに捕まったらしい。父は彼に対して特段の感情は抱いていないようだ。「あの若造もニンゲンなんだから」と許すつもりらしい。こういうところがあるから、俺は父を尊敬するんだ。一生変わり得ないリスペクトだろう。怒りはあっていい。ただ、それをぶつける相手とタイミングを間違ってはいけない。
顔色が優れない父を見下ろしつつ、俺は「それにしても刺されるとは情けないな。父さん、鈍ったか?」と訊ねた。「情けない」、「鈍ったか?」なる言葉が刺さったのか、父は病室を飛び越えほかの病室にも響かんばかりの笑い声を放って、「生意気言うようになったじゃねーか、小僧!!」と言った。
「そんなつもりはないんだが?」
「いいや。おまえは生意気になったよ。でもな」
「でも?」
「以前のおまえにはそんな部分、ちっともなかった。可愛げが皆無だったんだよ。そのへんが俺や、それに母さんからしたら、面白くなかったんだよ。男はわんぱくであったほうがいい」
俺はきょとんとなり――それから右手で前髪を掻き上げながら、喉を鳴らすようにして「クック」と笑った。
「わんぱくは死語だ、父さん」
「おまえはいい息子だ。俺の、いや、俺たちの自慢だよ」
しくしくしくと、またそんな
母は泣きながら、幾度も幾度も頷いた。
*****
もろもろあってまるまる一週間、学校を休んでいた。父の容態は完全に落ち着き、母も精神的に落ち着き、挙句、二人から「学校に戻れ」と言われた。身勝手なものだ。要は二人して俺を呼びつけたくせに。
心機一転、アパートを後にした。するとだ、表にバイクスーツ姿の香田がいた。後ろには黒塗りのバイク。その立派な二輪の名前は聞いたような気がするが忘れてしまった。俺にとってそれは重要な情報ではないということだろう。
「どうした、香田。迎えに来てくれたのか?」
俺としては冗談を言ったつもりだった。ここで香田が笑って頷いてくれていれば俺は向こう一年か二年くらいは「いい気分」で過ごせたことだろう。――香田はいっさいの笑みも浮かべず、普段着のぼーっとした目を向けてきた。ぼーっとした目のまま首をぶんぶんと横に振って完全なる否定の意を示してみせる。
「でもね、神取。れなとサキはすごく心配してる」
桐敷はわりと心配性だ。だからまさに心配するかもしれないが、風間もそうだと?
「代表して見に来た。帰ってきたみたいでよかった」
香田の声にはまるで温かみが窺えない――というよりフラットすぎる。
でも――。
「香田、おまえ、俺がいなくなってから、毎朝通ってくれていたんじゃないのか?」
香田は相変わらずのぼーっとした目で、「悪い?」と訊ねてきた。
俺は微笑んだ。
「誰かに必要とされて悪い気はしないものだ」
「そう?」
「ああ。バイク、後ろに乗せてもらってもいいか?」
「嫌。歩いて登校して。男は乗せたくないの」
まったく、はっきりと物を言ってくれる。
バイクで走り去る香田のあとを、俺はゆっくりと徒歩で追いかける。
*****
2-A。
自席につくと、隣席の風間が椅子ごと身体を寄せてきた。
「あー、よかった。あんたをろくでなし認定せずに済んだから」
「なんだ、ろくでなし認定とは」
「文字どおりだよ。裏を返せば、文字どおりでしかない」
「おまえと物を話していると、無理問答を感じさせられる瞬間がある」
「あーら、残念。あたしたち、とことん気が合わないんだね」
「そうあることも、また一興だろう」
休み時間だったわけで、いきなり桐敷が姿を現したのである。息せき切ってきた――そんな印象で、長い茶髪も振り乱された感がある。
桐敷はずかずか近づいてきて、きっとビンタをかますべくだろう、右手を大きく振りかぶった。やはりビンタだった。俺は左手で防ごうとした次第だが、本気でぶとうとしたわけではないらしい、寸止めだったのである。
「おまえぇ、神取ぃ、なにも言わずにどこ行ってやがったんだよ!」
「だから野暮用だ。声を荒らげるな、やかましい」
「てんめぇぇっ!!」
また右手を振りかぶったのだが、やはり頬の手前で寸止めした。上着の裾から覗く腹部の健康的な肌が美しいなと思う――真理だ。
桐敷は目を釣り上げ、まだまだ怒っている。
「他意はねーんだけどよ、神取」
「なんだ?」
「あたいらって友だちじゃねーにしても、その一歩手前の知り合いじゃねーのか?」
過敏な桐敷らしい絶妙かつ遠回しな言い方だと思い、つい笑みがこぼれた。
「なあ、桐敷。おまえは友人がいなくなったら、それがどんな奴でも心配になるのか?」
桐敷は露骨に顔をしかめてみせた。
「んなこと、あたりまえに決まってんだろうが。だからいなくなるんだったら連絡しろ。っていうか、さすがに腹が立ったぜ。いくらLINEしても返事がないんだからよ」
「その理由を教えてやろうか?」
「教えて要らねー。どうせつまんねー理由に決まってんだ」
まあ私事だから、わざわざ詳細を話すまでもない。
口を尖らせ、桐敷は優しい力でぺしっと俺の頭を叩いてくれた。
カシャカシャカシャ。それはクラスメイトの男子らがスマホのシャッターをきる音。桐敷が激写されているわけである。桐敷は怒った「あほかぁ、テメーらは! ド派手に肖像権ってもんを主張してやるぞぉぉっ!!」と怒った。
俺は「桐敷はモテモテだな」と笑ってやった。すると桐敷は「っざけんな。こんなの誰が喜ぶか!」と怒鳴り散らした。
「風間ぁ、おまえはおまえでなんも言わねーでなんのつもりだ?」
「いえいえ、それこそサキさんはモテモテだなと思いまして」
「っざけんな、っざっけんな。表ん出ろ。いますぐケリぃつけてやる」
「やだ」
「や、やだ?」
「うん。やだ。さっさと出て行きな。あたしがイチャイチャする番だから」
「そ、それでいいのか、神取は」
「よくはない。ただ、おまえたちにはケンカをやめてもらいたい」
桐敷は「けっ」と吐き捨てて、教室から出て行った。
風間のほうを向く。
背もたれを前にして、大きく脚を割る。
現象としては、下着が見える見えないのギリギリのラインだ。
「ほんとうにイチャイチャするのか?」
「しなーいよ。あんたのこと、カンペキに好きだってわけじゃないからね」
俺は深く吐息をついた。
「風間はいろいろと、まあ、美しい」
「美しい? あたしが?」
「ああ、だから、まともな恋をしたほうがいいように思う」
「そのへんはあたしの勝手じゃない」
失言だったなと思い、俺は「そのとおりだ」と右手で頭を掻いた。
「あんたに足りないのはすべてだよ。なにもかもが足りてない」
おまえが俺のなにを知っているんだ?
そう口答えしても良かったのだが、面倒だからやめておいた。
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