18.二匹のわんこ

*****


 街でその姿を見かけた瞬間、俺は思わず「おぉっ」と驚きの声を上げてしまった。巨躯の馬が荷車を引いてかっぽかっぽと歩いていたのである――すなわち馬車だ。観光者がターゲットだろう――観光資源などないからきしなのだからにわかには信じがたいのだが、だったら主人の趣味といったところだろうか。俺はもう一度「おぉっ」と声を発した。たぶん、たぶんだが、北海道は帯広でばんえい競馬に参加していた――ような馬ではないか。一トンはあるはずだ。特別な思いが芽生えた――否、とどのつまりは大きな感動が得られただけなのだが、俺は馬を駆る人物――中年はとうに過ぎたであろう髭面の男に対して、気づけば「はいっ!」と手を上げ主張していた。


 俺は並走しながなら「金なら払う! 乗せてくれないか!」と叫んだ。するとだ、白い無精髭が著しく長い汚い装いのおっさんは、「いいさ、乗りな!」と言い、馬車を止めてくれた。ことのほか心を揺り動かされた。珍しいこととはいえ、単に馬にお目にかかっただけだというのに。



*****


 前を行く馬の立派な後ろ姿が見たくて、主人の後ろに立たせてもらった。かっぽかっぽというアスファルトと蹄との衝突音がそれはもう気持ち良く心地良く――街を行く。


「ご主人」

「ああ、ご主人だが、おまえさんは偉そうだ。カンペキにガキじゃないか」

「すまない」

「いいさ。おまえには大物感があるからな」


 大物感、か。

 ニンゲン、平均点くらいがちょうどいいと思う。


「この馬は? どこから?」

「ばん馬だ。勘のいいあんちゃんにならわかるだろ?」


 俺は空を見上げた。

 時折、がたがた揺れるのだが、決して不愉快ではない。


「馬はかわいそうだ」

「ほう、あんちゃん、どうしてそう思うかね?」

「俺が好きな馬は――サラブレッドの話だが、レース中にケガをしてその場で安楽死させられた。たまらなかったな……」

「まあ、そういうのも事実だろうさ」

「俺はそのへん、受け容れられないでいる」

「だったら、それはあんちゃんがいい奴だっていう証左だ」

「証左、か。難しい言葉を使うんだな」

「馬鹿にしてるのか?」

「そんなつもりはない」


 俺は顔をゆっくり右へと左へと振り、高いところからの景色を楽しむ。


「馬はなんて美しいんだろうなあ」

「ああ、そりゃダメだぜ、あんちゃん」

「なにがダメなんだ?」

「年寄りのセリフだからだ。おまえさんはまだまだ若いじゃないか」


 俺はかなり苦笑した。


「案外、もう若くないんじゃないか――最近、そんなふうに思ってる」

「恋人は?」

「いないさ」

「見込みは?」

「ないさ」


 あっはっはと笑われた。「嘘つけ、馬鹿野郎。あんちゃんがモテなきゃ誰がモテるってんだよ」と笑われた。


 ほんとうに苦笑しか出てこない。


「ご主人は? ご結婚は?」

「女房は早くに亡くした。癌だった」

「失礼した」

「気にするな。俺はなにも気にしやしない」


 次々に客が馬車を下りてゆく。都度、彼ら――特に彼女らは鹿毛の馬と記念撮影を楽しんでゆく。とある女性二人組に手招きされ、迎え入れられてみると、女性ら二人に挟まれた。挟まれた状態で「いえーい」というお二人の自撮りに参加させられてしまった。俺は自分が他者より多少美観に優れていることは知っている。こんなことどこで言っても非難囂囂の憂き目に遭うに違いないのだが、あいにくと俺はとことんリアリストだ。そこにはたった一つの曇りも陰りも嘘もない――我ながら、出鱈目な精神性だ。



*****


 アパートに戻るとシャワーを浴び――夕食は抜きにしようと考えた。腹が減っていないからだ。たぶん食事を飛ばすと母は心配して泣く。一人暮らしを始めて良かったというわけだ。


 大きなビーズクッションに背と尻を預け、大好きな「スナッチ」なんかを観ていると、スマホがいきなり唸りを上げた。発信者を見ると「風間」。無視しても良かったのだが、一応、出てやった。


『やっほ、雅孝――じゃなかった、神取くん。あたしってば風呂上がり。どう? 妄想がはかどらない?』

「はかどらない。なんの用だ?」

『あしたは何曜日でしょうか?』

「土曜日だ」

『そ。土曜日。だから、ちょっと来てくれない? イイモノ見せてあげるから』

「イイモノやらの情報を寄越せ。その上で検討する」

『そうおっしゃらずに』


 俺はスマホを左の耳に押し当てたまま、怪訝さに眉をひそめた。


「その申し出を受けるとして」

『受けるとして?』

「俺はおまえの家の住所のじゅの字すら知らない」

『うん、わかってる。いまから言うよ。それとも記憶なんてできないって言う?』

「言わない。記憶力は悪くないほうだと考えている」

『だったら来てよ、お願い』

「お願いなのか?」

『うん、お願いなんだ』


 俺はため息をついた。

 むかしから誰かに頼み事をされると弱い。


 風間は住所をそらで言い、俺はそれを記憶した。



*****


 風間の家を訪れてみて、驚いた。とても立派な邸宅だからだ。庭も広く、池では錦鯉が悠然と泳いでいる。ジャケットスタイルではあるものの、ドレスコードは厳格に百パーセント尊重すべきだったか……。両膝を追って鯉を眺めながらそんなふうに思っていると、風間の「神取くん、入ってきて!!」という腹から出したであろう大きな声が聞こえた。降ってくるような声だった。


 いったい、どういった話題がメインディッシュなのだろう?


 俺は玄関に入って靴を脱ぎ、上がらせてもらい、靴を揃え、それから「こっちだよーっ!」という風間の声に従った。どうやら風間は二階にいるようだ。一気に気が引けてきた。思えば女友達の家にお邪魔して気持ち良かったためしなど一度もない。それでもまあ風間の言うことだから、風間はどうあれ特別だから……特別? 嘘だ、そんなの、わら。


「神取くん、こっちこっち!」


 もはや言われずともわかる。俺を自らのところへと誘導したいのだろう。だったら乗ってやるさ、乗ってやらない理由もない――二階へと向かう。


 風間の部屋を訪れたのである。

 ――ドアを開けると目の当たりにした。


 風間は二匹、小さなゴールデンレトリバーをそれぞれ小脇に抱えていた。風間。なんて嬉しそうな顔をする女だろう。すべてを悟るに至った。ああ、そうか、くそったれ。俺にとっての言わばウィーケストリンクだ。自らよりも弱い生き物を目の前に晒されるとどうしようもない気分にさせられてしまう。


「ねぇ、かわいいと思わない? 誰がなんと言おうとも、ウチの子たちはかわいいよね?」

「ああ、かわいい、かわいいな、ファウルだ、反則だ」


 すると風間は不思議そうな、それでいて、えらくびっくりしたような音声を発した。


「もしかして、泣いてるの……?」

「ああ、泣いている」


 俺は「もしよければいいんだが、そいつらを抱かせてくれないか?」と訊いた。「いいよ」と言って、風間は満面の笑みをぶつけてくれた。


 弱い者が、俺は嫌いだ。

 だが、強い者も、俺は嫌いだ。


 中途半端がいい。

 そこに人類の真理があるのだろうから。


 よく生まれてきたな。

 せいぜいこれからのせいを楽しんでもらいたい。

 それは権利であって、だからこそ容赦なく行使してもらいたい。


「ばっかみたい」


 風間はおかしそうに笑った。俺の「泣く」という行為がつまらなく映ってしまったのであれば、俺と風間との関係なんてそのくらいのものなのだろう。


 じつに有意義な一日になった。ぺちゃんとうつ伏せになっているレトリーバーズの腹をそれぞれ撫でてやりながら、そんなふうに思った。

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