第1章〜サーカス列車の旅〜

第1話 ブエノス・アイレス

 外国の空港に降り立つとその国の匂いがすると、大学で唯一尊敬していた先生が講義の時に言っていた。白髪でサンタクロースのような髭を生やした男の先生は、定年を迎えた後も臨時講師として私の通う大学に来ていた。彼は若い頃に一度日本旅行に行ったことがあったらしいが、成田空港は醤油の匂いがしたそうだ。台湾人の元クラスメイトは、台湾の空港はおばあちゃんの家の匂いがすると言っていた。ちなみにシドニーの空港は、花を原料にした香水のような爽やかで甘い不思議な匂いがする。


 ブエノス・アイレスの空港は、ニンニクの匂いがした。


 正しくはその匂いは、先ほどまで私の隣を歩いていた男性から発せられたものだった。ガーリックソースのたっぷりかけられたステーキでも食べたのか、それとも吸血鬼を倒すための策略か。半袖を着た顔の彫りの深い男性から発せられる酸味の際立つ動物的ともいえる強烈な刺激臭は、彼が走り去った後もその痕跡を示すみたいに残り続け、ロビーに向かう間中私の鼻腔を脅かし続けた。


「今着いたわ、アヴィーも一緒よ……。うん、飛行機の中で食べてきたけど、あんまり美味しくなかったわ……」


 私の隣で母は、これまでの日々の出来事によるストレスと16時間以上に及ぶフライトによって疲れ切った顔で祖母と電話をしている。


 最近は母のやつれた顔しか見ていない。大丈夫? 疲れてない? と聞いても「大丈夫よ、心配しないで」と返される。そのあと父に関する愚痴が延々と続いて、聞き役に徹するつもりが私の方がギブアップしてしまいそうになる。


 まるでエスカレーターを駆け上がるみたいだなと思いながら、ムービングウォークの上を早足で歩く。頭上の電光掲示板に光る飛行機の出発時刻を知らせる文字の羅列を見るともなく見ながら、異国に来たのだという実感が少しずつ湧き上がってくる。


 轟音と一緒に、飛行機が離陸する時の風を切り裂くようなキィーン!! という音が地面を揺らす。この振動は飛行機の機体と、運ばれる大勢の乗客、そして彼らの向かう異国への期待や興奮、不安などの感情の重量によって生み出されているのかもしれないと思う。


 様々な色の肌の人たちが大きな荷物を押して行き来する空港のロビーは、同じように色とりどりの言葉で溢れている。飛行機の到着を告げるスペイン語のアナウンスに混じって、あちこちから外国語の会話の断片が耳に流れ込んでくる。


 アルゼンチン出身の母の影響でスペイン語を話すことはたまにあったけれど、シドニーに住んでいて日常的に英語を使い慣れていた分、いざスペイン語を聞くと頭で翻訳するのに少し時間がかかる。

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