恐怖ショー

高巻 渦

恐怖ショー


 とある時代のとある国。一軒のバーで、酒に酔った四人の青年が、世界の七不思議について顔を合わせて話し込んでいた。彼らの口から語られるのは、どこかで聞いたことがあるような子供騙しのチープな物ばかりだった。だが、酒の肴にはそれが丁度良かったのだろう。彼らは深夜まで話に花を咲かせていた。そのうち、一人がこんなことを尋ねた。


「世の中には俺たちの知らない物がまだ沢山ある。今から俺が、誰も知らないとっておきの話をしよう。その前に尋ねておかなければならないことがあるんだが、お前らは何が怖い?」

「そうだな、サソリがどうしても苦手だ」

「俺は海だな、特に夜の海が怖い」

「俺は暗い場所が子供の頃から怖くて仕方ないんだ。おい、笑うなよ」


 他の三人は何の躊躇いもなく、口々に自らが恐怖を覚える事象を挙げた。その声が止むのを待ってから、男はゆっくりと、そして静かに語りだした。その内容に、他の三人は酒に手をつけることも忘れ、彼の話に聞き入った。

 彼が話すところによると、密かに世界各地を渡り歩いている、闇のサーカス団があるという。それは決まって深夜、予告もなしに開演される。観客は、裏ルートで流通している開演スケジュールを所持した富豪ばかりで、毎回満員らしい。当然、演目は綱渡りや空中ブランコなどという通常の見世物とは異なっている。そのサーカスの団員は皆、極度の恐怖症を患っている少年少女たちなのだ。

 例えば閉所恐怖症の団員は、狭く暗い箱の中に押し込まれ、ステージの中央で放置される。そいつは一分もしないうちに半狂乱になり、拳の骨が砕けるほどの勢いで箱の内側を必死に殴打し、泣き叫ぶ。しばらくすると数人のアシスタントが現れ、箱の上方と左右の三面を押し縮める。箱はみるみる小さくなり、中の面積は狭くなっていく。内側から押し広げられない構造になっている特殊な箱の中で、閉所恐怖症のそいつは喉が裂けるのもお構いなしに叫び続けるが、あるタイミングでその絶叫がピタリと止む。アシスタントが箱の鍵を開け、血の泡を吹いて白目を剝くそいつを引きずり出したところで、観客たちの歓声と拍手喝采が飛び交う――。

 そんなむごたらしいショーの数々が催されているらしい。当然、そんなことを続けている団員たちの精神的負担は筆舌に尽くしがたく、ある者はノイローゼになり自殺、ある者は過度のストレスにより発狂する。しかしこの場合、死んだり壊れてしまった方がマシかもしれない。そう思わせるだけの恐ろしさが、このサーカスにはある。そうして団員が少なくなると、またどこからか恐怖症の子供を補充して、サーカスは世界を転々とするという。今もどこかで、そのショーが開演しているかもしれない。

 数分前までの喧騒が嘘のように、酒の席は静まり返っていた。話し終えた男は「あくまで七不思議だから、信じ過ぎるなよ」と言った後、黙ったままの三人を一瞥し「ただ……」と付け加えてから、酒をあおった。


「ただ、話す前に俺がした質問と同じことを知らない誰かに訊かれたら、絶対に答えるなよ」

 三人は「お前らは、何が怖い?」という彼の質問を脳内で反芻しながら、頷くことしか出来なかった。




「また血尿だ」


 茶色い塊が無数にこびりついた汚い便器が、今しがた自分の出した液体によって真紅に染まり、より直視しがたいものへと変貌を遂げた。俺は苦笑しながら、真っ白い髪が生えた頭をかいた。悪臭のこもる簡易トイレを後にして、赤と白の縞模様に彩られた小さなテントへ戻る。出入口の薄い幕を開けると、身長一九〇センチはあろうかという大男が近づいて来て、耳元で囁いた。


「おいフォール、お前が便所に行ってる間に、今日の出演者が決まったぞ」


 その心底安堵したような声色から察して、俺は大男と同じように小声で応える。


「あんまり嬉しそうにするなよリック。ここの団員は皆仲間なんだから、自分可愛さは表に出すな。出演者には同情してやれ」

「そうか、わかった」

「で、今日は誰が出ることになったんだ?」


 リックは途端に眉をひそめ、いかにも悲哀に満ちたような表情を作った。俺の肩に手を置き、先ほどとは打って変わって、わざとらしく絞り出すような声色で言った。


「ペンと、スミシーと、お前だ」

「最悪だ……」


 恐怖症患者を見世物にして世界を回る闇サーカス――俺はそのサーカスの団員だった。

 俺たちが居る小さく寂れたテントは、演者の控え室のような場所だ。かろうじて雨風がしのげるだけの、毛布も椅子もない伽藍堂で、今夜も支配人の口から出演者が告げられた。団員たちはさながら、死刑執行を待つ囚人のようだ。

 観客が入る、つまり俺たちが見世物になるメインのテントはすぐ隣に設置されている。こっそり顔を出して外の様子を伺うと、不気味な笑顔を携えたピエロが描かれたテントが闇夜にライトアップされており、その口を模った赤茶けた出入口に数人の客が飲み込まれていくのが見えた。開演まであと三十分というところだろうか……俺はテント内に戻り、団員の顔ぶれをぐるりと見渡した。十人ほどの少年少女が、心ここにあらずという面持ちで佇んでいる。十三歳から十八歳まで年齢は様々で、皆一様に力なくうなだれていた。

 さきほど俺に話しかけてきたのがリック。高身長で体格も良く、男らしさの見本のような奴だが、極度の閉所恐怖症。狭い場所に入れられたが最後、その凛々しい顔がくしゃくしゃになるまで泣き喚く姿が、毎回サーカスを盛り上げている。リックという名は、どっかの映画監督が由来だと聞いた。サーカスの演目でいつも箱、つまりキューブに詰められているから。年齢は俺より二つ上の十七歳だが、年齢差を感じさせない人懐っこさがある。一番気心の知れた仲だ。

 リック以外でとりわけ目に入るのは、やはり今日の出演者たちだ。テントの奥の方で膝を抱えてうずくまっている紅一点、スミシーと呼ばれている女はアラクノフォビア――つまり蜘蛛恐怖症だ。彼女のしなやかな腕や脚は、所々紫色に変色している。前回の公演で蜘蛛に噛まれた傷が、まだ完全に癒えてないらしい。彼女の泣き叫ぶ姿を見て興奮する金持ちの豚共を想像すると気が滅入る。例によって、彼女の名前はメキシカンレッドニータランチュラの学名に由来している。年齢は俺と同じ十五歳だったか。


「おい、あれ見てみろ……もうダメかもしれねぇな」


 ため息をつきながら声をかけてきたリックが、顎をしゃくって俺の視線を促す。その方向を見やると、枯れ枝のように瘦せ細った四肢を投げ出し、テントに背を預け座り込んでいる男がいた。先端恐怖症の団長、ペンだ。その虚ろな目と、ぽっかり開いたままの口から、一目で彼が精神に異常をきたしているとわかった。


「さっき出演を言い渡されてからずっとあの有様だ。ペンはこれで四公演連続の出演だぞ……いくら団長だからってやり過ぎだ」


 怒りと哀れみが同居し震えるリックの声を聴き、思わずペンから目を逸らす。

 ペンは良い奴だった。その日の出演者だけが褒美として貰える菓子や肉なんかを、いつも率先して他の団員に配っていた。十八歳で最年長のペンが強制的に団長に抜擢されてからは、他の団員がミスした時や、サーカスの興行が振るわなかった時の責任を「団長だから」という理由でことごとく押し付けられ、支配人から鞭で打たれるところを何度も目にした。しかし俺はペンの口から愚痴や文句を聴いたことは一度もなかった。ペンはお人好し過ぎたのだ。菓子を貰って喜ぶ団員を幸せそうに見ていた彼の目には、もう何も映っていなかった。


「……ペンは今日の出演は無理だ。誰か代わりを探さないと」


 そうは言ってみたものの、頭の中ではわかっていた。誰かの代わりに出演すれば次回の出演は免除だとか、そういった制度は一つも設けられていないこのサーカス団で、出演を交代してやるようなお人好しは当事者のペンしかいなかった。


「皮肉だよな、ペンに良くしてもらってた奴は沢山いるのに、誰もその恩を返そうとしない。皆忘れたフリをしてんのさ」


リックは「悪いけど俺もお断りだ」と付け加えて去っていった。それほどまでに、誰しもがサーカスに出演することを恐れていた。


「ペン、フォール、スミシー! そろそろ出番だ。メインテントの裏へ回れ、さっさとしろ!」


 俺たちの見張りと治療を兼ねているビルが来て声を上げる。元は小さな町の開業医だった男で、現在はアル中のくたばり損ないだ。酒のせいで常に目がすわっており、素面の人間よりも数段声が耳障りだ。機嫌を損ねると何をするかわからない彼の危うさが、団員たちを委縮させている。噂では医療ミスをやらかして失脚していたところを支配人に拾われ、ここへ来たらしい。

 スミシーがゆらりと立ち上がり、側から見ても重い足取りでテントを出ていった。


「ペンとフォールは何やってる。早く出て行かねえと殺すぞ!」


 支配人から受け取ったであろう酒の瓶を片手に喚くビルの前に立ち、俺は精一杯申し訳なさそうな表情を作って言った。


「ビル、今日はペンを休ませて、診てやってくれないか。あいつ精神的に厳しそうなんだ」

「だめだ、出演者はもう発表されて、メインテントじゃボスとお客様が待ってんだよ。てめぇが引き摺ってでもペンを連れてけ。診てやるのは今日の全演目が終わってからだ。まあ俺は精神科医じゃねぇから、心がぶっ壊れた奴に出来ることなんてほとんどねぇけどなあ!」


 下卑た笑い声を上げるビルとは対照的に、固く食いしばった奥歯が、俺の口内で鈍い音を立てた。

 呆けた表情のペンを背に担いで、メインテントの裏口へ急ぐ。さっきからずっと歯を食いしばっているのは、ペンが重いからじゃない。むしろペンは、自分より三歳上の男とは思えないほど軽かった。そのペンの軽さも、何もかもが悔しかった。

 僅か十五歳にしてストレスで真っ白になった髪。劣悪な環境で死ぬまで見世物にされる毎日。自分が持つ高所恐怖症という疾患。そんな俺にフォールなんていうふざけた名前をつけ、金儲けするクソ野郎。それを面白がって金を落とす観客の豚共。何もかもが悔しかった。


「ごめんな、ペン」


 俺は涙を流しながら、この世の地獄へと歩を進めた。

 裏口からメインテントの中へ入り、傍にペンを座らせた。ここは、いうなれば舞台袖の役割を担っている場所だ。カーテンを一枚隔てた向こうにはステージが広がっており、満員の観客席からは雑然とした声が聴こえてきている。


「ペンは大丈夫なの」


 不意に抑揚のない声がして振り返ると、そこにはスミシーがいた。


「正直あまり良くない。このまま出したらまずいことになるのは確かだけど、もうどうにも出来ない」


 俺の言葉にスミシーは「そう」とだけ呟いて、ステージの方へ向き直った。それと同時に、世界一聴きたくない不愉快な声がステージの方から響いてきた。


「レディース&ジェントルメン、ようこそ我がサーカス団へお越しくださいました! 物好きな皆さんご存知の通り、我がサーカス団はそこらのサーカスとはちょっと違うパフォーマンスをご覧に入れますよ! 玉乗り、火の輪くぐり、ジャグリング……そんなものでは満足できない皆様がご覧になるのは、世にも珍しい恐怖・ショウでございます!」


 客に媚びるようにして開演の合図を告げる口上を垂れているのは、支配人のダグラスだ。その声に反応して、俺の足元に座っていたペンの身体が一度だけビクリと動いたが、またすぐに動かなくなった。

 ダグラスは観客たちを品定めするように見渡し、鞭を持つ右手で口髭をひと撫でしてから、再びまくし立てた。


「さて今夜お見せするショウのトップを飾るのは我がサーカス団の紅一点! その美貌で猛毒蜘蛛すら手懐ける希代の蟲娘! 今夜は三百匹の蜘蛛ちゃんたちと戯れて頂きましょう! アラクノフォビアの蜘蛛女! スミシー!」


 客席にいる何人かの男が歓声を上げる。恐らく過去にスミシーを観たリピーターだろう。下衆野郎共が。

 カーテンが開くと同時に、眩い光が飛び込んで来て目が眩む。ホワイトアウトした視界に微かに見えるスミシーが、振り返ってこう言った。


「もしも私がペンのようになったら、その時は殺して」


 その後見た光景は、忘れたくても忘れられない。

 布面積の狭い衣装を着て、遠目からでも震えているのがわかるスミシーの華奢な身体。運ばれてきた二つの大きな箱のうち、透明な方に彼女はすっぽり収まった。暗幕がかけられ、中が見えない方の箱からは、無数の節足動物が蠢く音が聴こえる。二つの箱が連結し、仕切りが外された刹那、俺と同い年の少女から出たとは到底思えない悲鳴が上がり、俺は無意識に目を逸らした。再び視線を戻す頃には、箱から這い出てきた大小様々な蜘蛛の群れが波となり、既に彼女の爪先から太腿辺りまでを黒く染め上げていた。更に激しさを増す絶叫は、あるタイミングで突如くぐもった。蜘蛛が口腔内にまで侵入したのだ。箱の中でもがき苦しみ、嘔吐し、暴れるスミシーの腕や背中で押し潰された蜘蛛から飛び出した緑色の液体が、透明の箱の四面をみるみる汚していく。刺激され怒り狂った一際巨大な蜘蛛が、派手な色の体毛を逆立て、彼女の腹部に太い牙を立てた。紫色に変色し始めた腰辺りの筋肉を一瞬ビクンと跳ね上げた彼女は、箱の中に黄土色の水溜まりを作り、それっきり動かなくなった。興奮に沸き立つ観客の中には、拍手をしている者や、自慰に耽っている者もいる。奴らにもスミシーと同じ年頃の娘がいるかもしれないと思うと、心底吐き気がした。

 吐瀉物、尿、そして蜘蛛たちの体液に塗れた、元は透明だった箱がこちらに運ばれてくる。筆舌に尽くしがたい悪臭に思わず顔をそむけると、ビルの姿が目に入った。ビルはまだスミシーが中にいるにもかかわらず、殺虫剤を箱に向かって噴射した。すると文字通り蜘蛛の子を散らすように、奴らは俺の足下を縫うようにして、ぞろぞろと逃げていった。バケツに入れられた水をかけられ、激しく咳き込みながら意識を取り戻したスミシーの口から、赤と黒の毛が生えた蜘蛛の足が数本吐き出された。ビルに抱え上げられ、控えテントへ連れて行かれる彼女が、一度俺の方を見た気がした。生気を失いどろりとしたその目は、未だ傍で動かないペンのものとよく似ていた。

 カーテンの隙間から見えるステージへ視線を戻すと、ダグラスが中央へ戻り、次の演目を紹介するところだった。


「さあ皆様、お楽しみはまだまだこれからです! 美女と蜘蛛の戯れに続き、満を持してこの場を盛り上げてくれるのは、我がサーカス団の団長でございます! 大の男が鉛筆一本で泣き喚く姿を見たいなら彼を呼ぶほかありません! 先端恐怖症の優男! ペン!」


 ペンは壁にもたれたまま動かない。五秒、十秒、十五秒……彼の入場を待っていた観客たちがざわつき始めた。ダグラスはというと、別段動揺した様子もなく、観客に向かって話す。


「申し訳ありません、ペンはシャイな男でして、今日のお客様方は美男美女が多くいらっしゃるため、いささか緊張してるようです、少々お待ちください」


 笑顔でこちらに向かってきたダグラスは、客席から表情が見えない位置まで来た瞬間、鬼の形相に変わった。カーテンを開け、俺とペンを見やってから、先刻まで観客に向けておどけていたとは思えない、低く殺意のこもった声で囁いた。


「俺のサーカスのスケジュールを乱すとは良い度胸してるじゃねえか。なあペン、聞いてるのか? てめぇは後で半殺しにしてやるからな」


 その言葉に呼応するように、突然ペンが立ち上がり、弾かれたようにテントの外へ走り去って行った。ダグラスは慌てる素振りも見せず、むしろペンの逃走を喜ぶかのような表情で、ビルと繋がる無線機に向かって話し始めた。


「聴こえるかビル、ペンの野郎が逃げたぞ。控えテントにいるガキ共を五人ほど連れて探しに行け」


 ビルの返事を聴いてから無線機を切り、ダグラスは俺の方へ振り向いた。常人には到底出来ない異様な目つきに、身が凍った。


「フォール、てめぇはペンの尻拭いをしろ。ステージに上がったら俺の言う通りに動け。返事はイエスだけだ」


 ステージに戻ったダグラスが、ペンの演目中止の旨を告げている。客席からのブーイングや「お詫びにこれから特別なパフォーマンスをお見せします。お客様方を必ず満足させます」という奴の声が、ゆっくりとした重低音となり、脳に直接響いてくる。ペンに恨みはなかった。今俺の中にあるのは、ダグラスに命令されることへの恐怖だけだった。俺はこれから何をさせられるのか。蜘蛛の群れに呑まれるスミシーの無惨な姿がフラッシュバックし、卒倒しそうになるのを必死で堪えた。

 ダグラスが間伸びした声で口上を述べる。俺の記憶をこれみよがしに、えぐり出すように──。


「気を取り直して、今夜のトリを飾るのは我がサーカス団の花形! 白髪の美少年が足をすくませ目をくらませ、転落していく様をご覧あれ! 母子相伝の高所恐怖症! 二代目フォール!」




 この闇サーカスの団員は、支配人がとある孤児院から引き取った子供たちで構成されている。両親が死んだか、または捨てられたか、それとももっと別の事情か――。理由はともかく、身寄りのなくなった子供はその孤児院に預けられる。柔和な笑顔を浮かべた院長は、子供たちの成長を逐一記録することで有名な、町で評判の院長だ。

 一年ほど生活を共にすれば、子供たちひとりひとりの特徴も大体わかってくる。そのうち、特定の事象を異常に怖がる子供が数人あぶり出されると、院長は秘密裏にダグラスの元へ連絡を入れる。孤児院を訪れたダグラスはその子供たちを一人ずつ呼び出し、更に精査する。各々が恐怖を抱いている事象をわざと目の前でちらつかせ、一番大きな悲鳴を上げた子供を数枚の金貨で買い取り、新たな名前を与え、サーカスの団員にする。こうして作り上げられたのが、この闇サーカスだった。

 しかし俺だけは違った。俺に孤児院で暮らした記憶はなく、物心つく以前からずっと、寂れたテント内での生活だけがあった。なぜなら俺の母親もまた、このサーカスの団員だったから。

 先代のフォール――名も知らぬ俺の母親は、俺が幼い頃に事故で死んだとダグラスから聞かされていた。ある日、俺が高所を怖がった時、ダグラスは笑って言った。


「お前もあの女と同じだな」


 その日から俺はフォールと呼ばれた。俺の高所恐怖症は、母親譲りの疾患だったのだ。あの時ダグラスが見せた邪悪な笑みの正体は、親と子の二代に渡って見世物としての運命を背負わせる愉悦だった。こうして奴に見出された俺は、強制的にサーカスの一員となった。




「登れ。お前の命より客の歓声の方が大事だ」


 観客に聴こえないよう、押し殺した声でダグラスが言う。俺は震える足で眼前にそびえ立つ一丁梯子に足をかける。普段なら落ちても死なない高さの六メートルに設定されている梯子が、今日は十メートルほどになり、テントの天井に限りなく近付いている。登りきった後のことを考えると、身体中から汗が吹き出す。一段、また一段と俺の身体は地面から遠ざかり、それに比例するように心臓の鼓動は早くなっていく。恐怖以外の感情はとっくになりを潜め、汗で滑る手で半狂乱になりながら次の梯子を掴む。震えのせいで何度も足を踏み外し、宙を彷徨う下半身を必死で持ち上げながら、上へ上へと登っていく。次第に、高所へ行かなければならない肉体と、それに恐怖する精神とが反発し合い、強烈な吐き気を覚える。胃から込み上げてきたものを何度も飲み込みながら十メートルを登り終わる頃には、体中の水分が汗や涙となって流れ落ちていた。梯子の頂上には、両端を繋ぐ橋のように木製の板が固定されている。俺はそこに登り、直立した。本来のサーカスならここで逆立ち等のパフォーマンスを行うのだが、ここでは命綱を付けたパフォーマンスなど茶番に過ぎない。客が求めているのは。俺が絶叫しながら転落し、十メートル下の地面に叩きつけられる姿だけだ。


「フォール! フォール! フォール! フォール!」


 小さくなった客たちが、口を揃えて俺の名を呼び、同時に俺の落下を願っている。膝が笑い、正気を保っていられない。少しでも気を抜けば今すぐにも気を失いそうだ。テントの天井に空いた穴から吹き込むぬるい風が顔を撫でる。直後、俺の肉体と精神は限界を迎え、がくんと膝が折れ、身体が前のめりに傾ぐ。一瞬の無重力を感じ、次の瞬間には地面が急速に近づいていた。観客のどよめきが妙にはっきりと聴き取れた。俺は叫びながら、空中で無理やり身体を捻った。

 ボクンという嫌な音と共に、地面に叩きつけられた。全身を襲う激痛にのたうち回りたいが、背中を打って呼吸が出来ず、身体も動かない。かろうじて首を曲げると、軟体動物の死骸のようになっている自分の左腕が見えた。ひどい耳鳴りの中、微かに客席から上がる歓声が聴こえる。ペンの尻拭いは無事に果たせただろうか。そんな考えを巡らせていると、霞んだ視界にダグラスの足が映った。


「しぶてぇ野郎だ、お前の母親はこれでくたばったのによ」


頭上から吐き捨てられた奴の言葉に、俺は怒りを覚える間もなく、意識を失った。




 翌日、目を覚ました俺にビルは左肩の脱臼と左腕、左鎖骨の骨折を伝えた後「死に損ないが」と言い、控えテントから去って行った。すぐにリックが駆け寄ってきて「お前が生きてて良かった」と言ったきり、押し黙った。俺は未だ鈍く痛む上体を起こし、言葉を選びかねているリックに尋ねる。


「ペンとスミシーはどうなった?」


 隠していたテスト用紙が親に見つかった子供のように、リックが身体をこわばらせたのがわかった。


「スミシーは、壊れちまった……誰が声をかけても、もう何の反応もない……あれだけの毒蜘蛛に噛まれて、アナフィラキシーを起こさなかったこと自体奇跡だ」

「そうか……それで、ペンは?」

「……ペンが昨晩メインテントから逃げ出した後、俺はビルに呼び出されてあいつを探し回った。あいつは……死んでた。テントから少し離れた森の中で、木の枝を両目に突き刺して、自殺してたよ」


 俺が何も言えずにいると、出入口の薄幕にビルの影が映った。


「リック、仕事だ。出てこい」


 リックは立ち上がり、俺に背を向けて言う。


「……ペンを埋めに行ってくる」

「俺にも手伝わせてくれ」


 膝を立てて立ち上がろうとした途端、全身の骨が軋み、うつ伏せに倒れてしまう。左半身に激痛が走り、思わずうめき声が漏れる。


「無理するな、寝てろよ」


 リックの静止をよそに、俺はふらつきながらもなんとか立ち上がる。


「大丈夫だ……行くぞ。ビルも人手が欲しいはずだ、許してくれるだろ」

「お前もペンと同レベルのお人好しだな」


 リックの肩を借りてテントから出てきた俺を見て、ビルは一瞬驚いたような表情を見せたが、何も言わず俺の右手にスコップを握らせた。

 二人でペンを埋めるための穴を掘る。関節を動かす度に鋭い痛みが全身を貫いたが、ペンに何もしてやれないよりは遥かにマシだった。両目を失ったペンの死骸に土をかけていた時、リックがぽつりと呟いた。


「そうか、ペンが死んで、次の団長は俺か……」




 今夜も三人の恐怖症患者たちが怯えた足取りで――一人はビルに引き摺られながら――控えテントを後にした。

 無理に動いたせいで一層酷くなった痛みを堪えつつ、俺は傍で寝ているリックにしか聴こえない声で話した。


「なあリック、俺はダグラスを殺して、このサーカス団を解散させようと思う。協力してくれるか?」


 飛び上がるようにして起き上がったリックは、愕然とした表情で俺を凝視する。


「無謀だ……お前忘れたのか、奴は拳銃を持ってる。集合体恐怖症のレンいただろ、あいつもそれで殺られたんだ、俺はレンの死体も埋めたから知ってる、額に穴が……」

「無謀でも良い、俺は団員の皆が死ぬのをこれ以上見たくない。このままだと次に死ぬのはスミシーか、団長になるお前だぞ、リック」

「もしダグラス殺しが失敗したら、死ぬのはフォールの方じゃねえか」

「何もしなくても誰かが死ぬ、失敗すれば俺が死ぬ。だからダグラス殺しを決行して、成功させるのが最善の手なんだ」

「……何か策はあるのか?」

「ダグラスを殺る前に、まず説き伏せないとならない相手がいる。そいつの協力があればもしかすれば……」


 そう言って俺がテントの出入口に視線をやると、リックもつられて振り返る。そこにはメインテントへ出演者たちを連行し終えた、ビルの影が映っている。


「冗談やめろよ、あのアル中の説得なんて無理に決まってる。無線機でダグラスに連絡されて撃ち殺されるのが関の山だ。悪いが犬死にはごめんだ」

「良いさ、俺一人で行ってくるよ。でももし成功の兆しが見えたら、その時は他の団員を連れて逃げてくれ」

「それが団長として、最初で最後の仕事になってくれるのを祈っとくよ」


 出入口を開けて顔を出すと、ビルは折りたたみ式の椅子に腰掛けて肉と酒にありついていた。


「ビル、ちょっといいか?」

「なんだ死に損ない、今日はやけに動きたがるじゃねえか」

「話し相手が欲しくてさ……あんた、このサーカス団に入って何年くらいだ?」

「もう三十年くらい経つな。ここへ来てからは死体を見た数だけが自慢だ。ああ、先代のフォールもそのうちの一体だったなあ!」


 不快な笑い声を上げるビルをよそに、俺は続ける。


「あんたは元々町医者だったんだろ。自分より若い奴が死んでいくのを見て、心は痛まなかったのか」

「昔の話はするんじゃねえ! 酒が不味くなるだろうが!」

「なあビル。あんたにしか頼めない話がある。その……俺を逃がして欲しいんだ」


 そう言うが早いか、ビルは血相を変えて立ち上がり、酒の瓶に手をかけ、俺を睨みつける。


「……テメェはケガ人だから今のは聞かなかったことにしてやる。だが次同じことを言ってみろ、これで頭をカチ割ってダグラスに引き渡してやるからな。話は終わりだ、とっととテントへ戻れ!」

「悪いがそれは出来ない。今は演目中だから、あんたもダグラスに連絡は出来ないだろ。もう一度言う、俺を逃がしてくれ……いや、俺に協力してくれ」


 言い終えると同時に、目を血走らせたビルが右手を強く振り下ろすのが見えた。突如脳天から鼓膜へ鈍い音が響き、視界が一瞬暗転する。直後に割れるような頭の痛み。顔や首筋に流れてきた温かいものは、俺の血だ。頭蓋の中の脳が激しく揺さぶられる。足の裏に出来るだけ力を込めて踏ん張り、倒れそうになるのを必死で堪える。不意に口の中に違和感を覚え、舌で確かめてみると、殴られた衝撃で強制的に噛み合わせられた奥歯が砕けていた。明滅する視界は流れ出る血でカーテンがかかったようにぼやけ、その奥に当惑した表情で俺を見るビルの姿があった。その手には無線機が握られている。もしビルが通信ボタンを押していたら、俺の声はダグラスに筒抜けだ。それでも俺は同じ言葉を吐き続ける。もう後戻りは出来ない。


「……頼む、協力してくれ。あんたもやり直せる」

「……なんだと?」


 気圧されたビルが俺の言葉に反応したのを見計らい、一気にまくし立てた。


「ダグラスを殺して団員を全員自由にする。ビル、あんたも例外じゃない。あんたはダグラスに弱みを握られてここへ来た、俺たちと同じ被害者だ。アルコール中毒は自由になった後で治療すれば良い。そうすれば、あんたはまた医者としてやり直せるはずだ」


 ビルは鼻で笑って尋ねる。


「お前は自由になってどうする?」

「俺は……人の恐怖症やトラウマを見世物にして弄ぶような連中を、一人残らず根絶やしにするつもりだ。こんなクソみたいなサーカス団が、二度と作られない世界にしたいんだ」


 ビルが息を呑む音が聴こえた。一瞬、明らかに狼狽した彼の表情は、無線機から聴こえてきたダグラスの声によってすぐ元に戻った。


「どうしたビル、さっき一瞬通信状態になったが、何かあったか?」

「……すみませんボス、俺の押し間違いです。問題ありません」


 応答を終えたビルは俺に背を向けた。捨て台詞と共に、簡易トイレの方へ歩き出す。

「ガキが絵空事言いやがって……」


 安堵から身体の力が抜け、その場に座り込む。分散されていた神経が徐々に頭の傷に集中し始め、明確となった痛みに叫び出しそうになる。漆黒の夜空を仰ぎながらテントに体を預けていると、皺だらけの手が伸びてきて視界を塞いだ。ビルが俺の頭に包帯を巻いている。


「何も言うんじゃねえぞ、黙って聞いてろ……。いいか、俺が町医者の立場を失ってここへ連れて来られた時、俺の中に分厚い大きな壁が出来た。誰も壊せねえと思っていたが、十数年前に一度、その壁にヒビを入れた奴がいた。あなたはやり直せる、こんなサーカス団が二度と作られない世の中にしたいって、全く同じことを言ってた奴がいたんだ。それが先代フォールだった、お前の母親だ。哀れな女の戯言だと一蹴したが、今思えばあの時、俺はここを立ち去る機会を一度逃したんだ。結局あいつは死んじまったが、お前が俺の壁を壊した。だからやり遂げろ。これが俺の最後の仕事だ」


 応急処置を終えたビルは再び俺に背を向け、今度は町の方角へ向かって歩き出す。


「そういえば便所に酒と煙草を忘れちまってたな、まぁ良いか。じゃあな、フォール」


 俺の顔を温かいものが流れていく。それが血ではないことは、自分が一番よくわかっていた。滲んだ視界に映るビルの後ろ姿は次第に小さくなり、やがて見えなくなった。




 満身創痍の身体を引き摺りながらメインテントへと歩を進める。延々と悲鳴を上げ続けている左半身と頭は、俺の動きを一層鈍くする。それでも演目のために向かう時と比べれば、数段気分は良かった。

 向かったのはいつもの裏口ではなく、客が出入りする表口の方だった。初めて見る観客たちの背中は、やけに小さく見えた。ステージでは暗所恐怖症の少年が、ダグラスの鞭に打たれて泣いている。俺はビルの置き土産であるスピリタスの栓を抜き、一滴残らずテントに振りかけた。濡れたピエロの顔が、忌々しいダグラスと重なって見えた。


「笑っていられるのも今のうちだ」


 ビルの煙草と共に置かれていたライターを取り出し、俺はテントに火をつけた。

 度数九十パーセントを超えるアルコールは瞬く間に燃え上がり、長年俺を閉じ込めていた恐怖と苦しみの権化を焼いていく。ポリエステルが燃焼するつんとした臭いが辺りに立ち込め、異変に気付いた入口付近の観客が悲鳴を上げる。その阿鼻叫喚をしっかり聴いてから、最後の力を振り絞って裏口へと走った。

 バチバチという断末魔を上げながら、テントは真っ赤に燃えていく。脱出を試みようと出口へ大挙する観客たちを、高く舞い上がる火柱が生き物のようにうねり、阻んでいる。そのうち一人が着ていた高価そうな服に燃え移り、狂乱に拍車をかけていった。


「こっちだ、早く!」


 裏口から三人の少年たちを逃がし、俺はステージ上で呆然と立ち尽くしているダグラスを見据える。既に天井付近にまで広がった炎が、赤と白のストライプの破片をいくつも二人の間に降らせている。奴の目が俺を捉え、怒りに震え始めた。その形相は、炎に包まれた背景も相まって地獄の鬼そのものだった。


「俺のテントに火をつけたのはてめぇか、フォール!」


 握り潰さんばかりの勢いで無線機を鷲掴みにし、怒声を上げる。


「ビル! てめぇ何してやがる! とっととなんとかしろ!」

「ビルはもういない、俺が解放したんだ。団員たちもすぐに自由になる。俺がお前を殺せばな」


 怒り狂ったダグラスは無線機を地面に叩きつけ、ホルスターから拳銃を抜き、俺に向かって突きつけた。


「ゴミの分際で図に乗りやがって……俺は死なねえ、殺されるのはてめぇの方だフォール!」

「手が震えてるぞダグラス。お前、俺にビビってるだろ、何故だか教えてやる。お前は俺たちを見世物にし、毎日のように重い罰を与えてきた。そんな生活の中でお前が一番恐れていたことは、俺たち団員の逆襲だ。俺たちがお前を恐れる以上に、お前は俺たちを恐れて生きてきた。パフォーマンスや罰の重さはエスカレートしていったが、結局それもお前の恐れを加速させただけだった。そして今日、謀反は現実になった。今お前は間違いなく恐れているはずだ、俺のことを。まだわからないか? お前も立派な恐怖症患者なんだよ。自分の行いの積み重ねで、お前は恐怖症患者の恐怖症になったんだ」

「俺がお前らを恐れてるだと? ふざけるな! そんなわけがあるか!」


 ダグラスが一瞬怯み、銃を握る手が僅かに緩んだのを俺は見逃さなかった。体勢を低くし、醜く突き出た奴の腹めがけて突っ込む。

 意表を突かれ、もろにタックルを受けたダグラスの身体が浮き、俺たちは倒れ込む。すぐさまマウントを取り、顔面に向けて拳を振り下ろす。包帯でせき止められていた血が再び流れ出し、奴の顔を真紅に染めていく。

絶対にここで殺す。大きく拳を振りかぶった瞬間。凄まじい叫び声と同時に、ダグラスが左に身をよじった。俺の眼前に突き出された奴の右手が一瞬明滅し、同時に真正面から殴りつけられたような衝撃が俺を襲った。左に激しく振られた頭を戻すと、顔面の左半分に暗幕がかけられたような違和感を覚える。そこでようやく、ダグラスが発砲した弾丸が俺の左目を貫いたとわかった。二人の血に塗れたダグラスの顔には、二つの目と、口から覗く歯だけが見える。奴が笑っている。


「俺は何も怖くねえ。死ね、フォール!」

「嘘をつくな。昔逃げ出したレンを一発で殺したお前が、今は目の前の俺すら仕留められない。それが証拠だ、お前も俺たちと同類だ」

「次は外さねえさ」


 二発目の弾丸が放たれる瞬間、何者かの足が視界に飛び込んできて、ダグラスの右手を踏みつけた。指の骨が折れる嫌な音が響き、直後にダグラスの絶叫が上がる。顔を上げると、そこには凛々しい顔をした大男が立っていた。


「リック、お前……逃げろって言っただろ」

「何言ってんだ。俺が助けに来なかったら死んでたぞ、フォール」


 ダグラスの表情には、明確な怯えの色が見えていた。リックは不自然に曲がったダグラスの右手から拳銃をもぎ取ってから、その大きな手で奴の口をこじ開けた。


「いいぞ、スミシー」


 リックが声をかけた方へ振り返ると、そこにはスミシーが立っていた。彼女の胸の中央、差し出すような形で並んだ手の中には、青い毛を纏った巨大なタランチュラがいた。これから何をされるのか察したダグラスが目を見開き「やめろ」と声を上げるが、口をこじ開けられているため間抜けな音しか出ない。スミシーがダグラスの口元へ手をもっていく、暗い穴に潜む習性のあるその毒蜘蛛は、八本の足を器用に動かし、いとも簡単に奴の口腔内へ侵入した。


「アハハハハハハ。アハハハハハハ。アハハハハハハ」


苦悶の表情でのたうち回るダグラスを見下ろして、スミシーが狂ったように笑う。初めて聴く彼女の笑い声は、しばらくの間、周囲に響き渡った。


 リックが俺に拳銃を手渡して言う。


「お前の役目だ。ダグラスを撃て」


 足元には中年の男が倒れている。毒蜘蛛に口腔内を何度も噛まれ、全身に毒が回って痙攣しているその姿に、恐怖を抱く要素はどこにもなかった。

ダグラスに銃口を向ける。奴は毒で麻痺した身体を精一杯よじらせて逃げようとしたが、すぐに諦めたようだった。


「哀れだな、ダグラス」


口をついて出た俺の言葉に反応し奴が俺を見る。これまでとは違う慈しむような視線に嫌悪感を覚え、俺は拳銃を握り直して奴の眉間に照準を合わせる。すると奴は、うわ言のように何かを呟いた。


「オリビア……」


 困惑する俺を見つめながら、ダグラスは言葉を続ける。


「オリビア、お前の母親の本当の名前だ。あの女は十五でお前を孕んだ……孕ませたのは俺だ。いいか、お前には俺の血も流れてんだよ」


 拳銃を握る手が震える。呂律の回らなくなった口で、ダグラスは続ける。


「オリビアは美しかった。だから鞭打ちの代わりに、性処理に使わせてもらった……妊娠した時は面倒くせぇから殺しちまおうとも思ったが、俺は考えた。妊婦を高所から落とす流産ショーはウケるんじゃねぇかってな。予想は大当たりだった、おかげで客入りは倍以上になったよ。だが結局てめぇは産まれた。あの女が毎回腹を庇って落ちてたおかげで、奇跡的に腹ん中のガキは流れずに済んだんだ。てめぇを育てる了承を俺から得るために、あの女は他の団員の代わりになってまでサーカスに出続けた。最期に内臓が破裂して死ぬまでな。そしたらどうだ、必死で育てたガキも高所恐怖症ときた。親子二代に渡って充分稼がせてもらったぜ……ククククク……傑作だ、ざまあみろ。どうだ、屈辱か、息子よ」


 パン、という乾いた音と共に、ダグラスは動かなくなった。リックが問う。


「良かったのか」

「当然だ」


 ほとんどが焼け落ち、骨組みだけになったテントを訪れる者は、もう誰一人としていない。俺は天を仰ぐ。骨組みの彼方に広がる大きな夜空は、自由になった俺の未来を暗示しているようだった。




「怖いものと言えばよお、正義の殺人鬼って知ってるか?」


 酒に酔った四人の青年たちの内一人が、再び七不思議を語り出した時、カウンターに座っていた男が静かに立ち上がり、店を後にした。店内にいた者は皆、その男のことを気にも留めなかった。


「聞いた話だけどよ、女や子供を売って金儲けしてるような、あくどい連中だけを狙った殺人鬼がいるんだとよ。孤児院だとか養護施設だとかのお偉いさんが眉間を撃ち抜かれて死んでたら、大抵そいつの仕業だ。被害者の経歴を洗うと毎回真っ黒だから、サツも黙認してるらしい。だから正義の殺人鬼って呼ばれてんだ。驚くのはここからで、そいつは世界中で同じような殺人を繰り返してるらしい。ただの模倣犯だって言う奴も中にはいるが、俺は正義の殺人鬼の単独犯だって方に賭けてんだ。で、そいつの特徴ってのがな……片目が無い、白髪の男なんだとよ」




 バーを後にした男は、とある孤児院の前で足を止めた。電灯の光が漏れるカーテンの隙間から中の様子を伺うと、一見して誠実そうな男が二人、ソファに座って向かい合い、何か話しているようだった。片方の男が手にするファイルには、この孤児院に預けられているであろう子供たちの顔写真が、乱雑に貼られている。


「この子は雷や爆発音などの大きな音を非常に怖がります」

「ほう、それは面白そうだ。リストに入れておくか」


 二人がそんなやりとりを交わした時、窓が叩かれた。


「夜分遅くにすみません、お尋ねしたいことがあるのですが」


 一人の男が面倒臭そうに立ち上がり、窓を開ける。


「こんな夜更けに、一体何だね?」

「お前らは、何が怖い?」


 消音機付きの銃声が二発、微かに響き、夜の静寂に溶けた。

 床に転がった二つの骸を確認した隻眼の男もまた、夜闇に輝く白髪を風になびかせながら、何処ともなく歩き始め、やがて見えなくなった。


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恐怖ショー 高巻 渦 @uzu_uzu

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