あたらしくない私たち

@_naranuhoka_

あたらしくない私たち



1 氷上清夏

この人は、別に私の心がめあてというわけではないのかもしれない。

建築家が建てた家を訪ねる、という三十分の短い番組を見ていた。日曜日の二十三時。部屋着に着替えて、すっかりくつろいでいた。都内じゃ一戸建ては無理だよねとか安いマンション買ってフルリノベーションするのが賢そうとか茶々を入れながら、景介が同僚にもらったという赤ワインをちびちび飲んでチーズクラッカーをつまんだ。

あーいい夜、と景介が指の塩気を舐めながらもう一方の手で清(せい)夏(か)の頭をかきなぜる。無骨な指が髪をまさぐるのを感じながら、ほんとだねえ、と笑いかける。

自分の語彙がひらがなにほどけ、幼児のように甘ったるく伸び切っていることにうっすらとだけ恥ずかしさはあるものの、恋人とくっつきあっていると無抵抗で思考のねじが緩み、語彙が単純化していく感覚はどうしようもなく心地良い。べったりと鍋の底で溶け切った餅のように恋人にひっついている二十八歳の自分を見たら、高校生の頃の自分は顔に筋肉を引きつらせるんじゃないだろうか。

けれど、恋愛の醍醐味って結局、好きな男の前で九歳児に戻れることなんじゃないだろうか、と思わないでもない。現に、景介が子供じみた悪ふざけをしたり幼児のように語尾を伸ばして甘えてくることがちっともいやじゃないのだから。

完璧な夜だった。画面の中の、四十代の夫婦は子供がおらず、共に仕事で独立して余裕のある生活をしているのだと紹介されている。見た目も若々しく、男女の雰囲気が残っていた。それは全くいやらしさがなく、むしろすこやかなセクシーさで好ましく見えた。思わず口にする。

「夫婦だけで生きていくっていのも、それはそれで素敵だよね」

「そう?」

返ってきた返事は想定外で、あまりに率直に否定されたので「えっ」と素の声が出る。景介は清夏の反応こそ予想外だったらしく「え?」と顔を覗き込まれた。

「子供を持たない、っていう選択肢は……僕は、あんまり考えられないな。清夏は違うの?」

「あ、そうなんだ」深刻な雰囲気にならないように、声色に気をつけて発音する。「私は、いても、いなくても景介君とだったら楽しそうだなぁって思って。この夫婦も、子供がいないからこそいい服着て、いい暮らしして、ずっとお洒落でいられるのかなあって」

「確かにお金を自分たちだけに使ってたら、そりゃ綺麗にしてられるよね」

言い方にうっすらと棘を感じた。テレビの画面の中で夫婦は吹き抜けのリビングで談笑している。いたたまれなくなってその笑顔を直視できない。

「けど、僕はそういう風に生きたいとは思わないな。自分の欲望を優先順位の一位においてる気がして」

欲望? 優先順位? そうだろうか? この、お金に潤沢に恵まれているだろうけれど工夫に満ちた暮らしを営んでいる歳上の夫婦にそういうぎらついた単語は似合わないのに、あまりに景介がとうとうと自然に述べるので、思考が流れていきそうになる。

いつかは尋ねなければと思っていた。結婚前提を謳い文句にしているマッチングアプリを介して出会った景介は今年三十歳になる。交際を始める時に「結婚は考えてる?」とたずねたらしっかりとうなずいてくれた。それは清夏にとって安心できる約束だった。けれど、次の段階の質問は先延ばしにしていた。

景介は清夏の沈黙にわずかに困惑したように、首を傾げてみせた。

「言ったことなかったっけ。僕、できれば……というか、絶対子供はほしいって思ってる」

どん、と大きな握りこぶしでお腹を押さえつけられているみたいに、咄嗟に呼吸が止まった。

初耳だった。子供が好きなのは知っていたし、たぶん望んでいるんだろうとも薄々察していた。けれど。

絶対。言葉の響きが、重くのしかかる。

「もし相手が……っていうか、いまの場合は清夏なんだけど、もし結婚したいなって思ってる相手が子供産めないとか、産みたくないっていう人だったら、結婚はちょっと厳しいかな。というか、できない」

あくまでも景介の声は淡々としていた。さっきまでの蕩けた雰囲気はほとんど残っていない。

指先に残っていたクラッカーの粉をそっと擦り合わせてティッシュで拭う。

景介の言い分に違和感はあるものの、それをうまく取り出して言語化できず、反論できない。これって、すんなりと飲み込めない私がおかしいのだろうか。男の人の主張としては、一般的で妥当なのだろうか。

「清夏だって、もし俺が結婚願望ないって言ったら別れるでしょ? 自分は結婚願望があるんだから」

「……うーん、まあ、そうかな」

「その決断と僕への好意とか愛情とか愛着は別問題でしょ。そういうことだよ」

うまく言いくるめられたような気がして、すっきりと頷けずにいると、景介は一瞬もどかしそうな顔をしたが「いいじゃん、どちらにせよ先の話なんだから」と取りなすように口を横に引いてにんと笑う。子供の頃に矯正をしたらしく、まるで橋みたいに整った見事な歯並びだ。

「あくまでも、清夏が小説家としてある程度落ち着いて、僕ももうちょっと稼げるようになってからの話だからさ。同棲すらしてないんだし、まずは関係性をもっと深めてからまた話そうよ。ね?」

「そうだね」

ある程度落ち着くってなんだ、とは思ったものの小さな声で返事をする。清夏の不満を感じたのか、景介は腕を広げて頭を抱き寄せた。胸いっぱいに彼の匂いを嗅ぎながら、取り繕われている、と思う。けれど明日は月曜日だ。七時半には起きて八時には家を出なければ行けない景介のことを考えると、蒸し返して議論し直す気にはなれなかった。

お風呂入って寝ようか、と囁かれ、一緒に入ろうと誘われる前に「先にさっとシャワー浴びてくるね」と立ち上がった。


翌朝、景介を送りだしてベッドに戻った。けれど三十分もすると尿意で目が覚めてしまい、お手洗いに立った。景介が飲み残していったカフェオレを飲み切ってマグカップを洗い、洗面所で眉だけ簡単に描く。

「フリーで働くって自由でいいですよね。要するに仕事も一緒に働く人も働く時間も自分の裁量で選べるってことでしょ? それに越したことないですよ」

付き合う前のデートで、フリーライターをしていると自己紹介したら景介に心底羨ましそうに言われたことをなぜか思いだす。所詮安全な高所からの感想だと反感を覚えたのが半分、清夏と同じような働き方に切り替えるには犠牲にしなければいけない持ち物がたくさんある目の前の男性への憐憫を抱いたのが半分だった。新卒からずっと大企業に勤務していて、去年主任に昇格して、すでに年収は同世代の倍、もしかしたらそれ以上あるともなると「やりたいことが他に見つかった」「もう少し通勤時間が遅くして在宅勤務の頻度を増やしたい」くらいの気分で転職するわけにもいかないのだろう。

清夏は高卒で、正社員経験は一度もない。二十五歳の時にとある小説誌で新人賞を受賞して、その時に契約社員からフリーランスになった。そして現在、二十八歳になる。かなり早い段階で普通を逸脱したキャリアを進んでいる身からすれば、中学から受験して中高一貫の私立に進学して、名門と言われる大学に入って、名前を言えば日本人なら誰でも知っている企業に勤めている景介は、アイドルとか俳優とか、そういう人種と同じレベルの奇跡みたいな存在に思える。そういう人が自分の恋人であるということに、今でも不思議な感覚になる。

冷凍庫から食パンを一枚拝借し、トースターで焼く。携帯のおやすみモードを解除し、ライブチャットのログイン画面に行き【五時間待機】にセットする。

景介には「小説だけじゃ食べられないから、フリーランスでライターをしている」と話している。時々業務委託でライティングを請け負っているのでライターであることは嘘ではないとはいえ、月に稼ぐ額の八割はアダルトライブチャットの配信業によるものだと知れば色々な意味で卒倒されるんじゃないだろうか。

常連の男の人が五分前にログインしていたのですかさず【コマバさんこんばんは♪ おちんぽ触ってるの?】とメッセージを送る。他にも同じように待機している人たちに【こんにちは♪ 一緒にえっちなことしよ~?】とテンプレートの営業メッセージを無心で送っていく。そのうちコマバさんから着信が入った。

「おはよ〜うわみぃちゃんエッロ。今日もいきなりノーブラですか。おっぱい垂れるよ?」

「垂れるほどないって知ってるくせに。ガチャ切り対策にはいきなり全脱ぎが一番手っ取り早いの。時間稼ぎしたところで結局脱ぐんじゃん?」

「さすがっす先輩」がさがさがさとこすれるようなノイズがした。笑ったらしい。

コマバさんは数人いる固定客のうちの一人だ。かれこれ三年近い付き合いがある。顔から下しか映さないけれど、声から推測するにおそらく三十代後半か、四十代半ばまでと言ったところだろうと思う。

無料でアダルトビデオがフルで見られる時代に、よくライブチャットにお金突っ込めるよなあ、と思うけれど、今なお女性がかなり稼げるツールだ。男性客いわく、臨場感と素人が相手である生々しさがいいらしい。

コマバさんはいわゆるライブチャットにおける「神客」の部類に入る。大概の人はいかに時間をかけずに射精するかに注視しているので雑談していると無視されたりおざなりな返答しかされなかったり、下手すると途中で切られてしまう。コマバさんは雑談OKのスタンスなので、最長で四十分話していたことがある。とりあえず最後に駆け込みで「ごめん時間切れになるから抜かせて」と雑に処理するかあるいは自慰をしないまま通話を終えるパターンがほとんどだ。

一分八十円だから、四十分の通話は三二〇〇円の稼ぎになる。前勤めていた派遣の事務の時給は一三〇〇円だったから、それを考えるとやはりライブチャットは割りがいい仕事だ。恋人はもちろん友達にすら自分が何で生計を立てているのか明かせないが、到底やめる気にはなれない。生活をそのまま換金しているような生々しい手ごたえを得られるのは、在宅かつ携帯さえあれば稼げるライブチャットならではだ。おしっこをしている時、今通話がかかってきたらこのおしっこもお金になるのにな、と一瞬くだらない考えがよぎる。

生活をそのまま換金しているような生々しい手応えにはいまだにぞくぞくする。下着もしくは裸でいれば、見る人が現れてそれがお金になる。自分の性別が女性であるだけで。

あまりにもばかばかしいけれど、どうせ同じように生活をして歳をとるだけなら、お金になった方がいいに決まっている。ライブチャットを始めてから、いつ通話が来てもいいように清夏はほぼ一年中ノーブラで、冬以外はほぼ裸族のような格好で過ごしている。

「彼氏とはまだラブラブなの?」

「ラブラブだったんだけどさ~。聞いてよ。ちょっと今ピンチ」

「何。浮気してた?  LINE見ちゃった?」途端コマバさんの声が跳ね上がる。

「それなら話は早いんだけどね。別れればいいからさ」思わず素でため息が漏れた。「じゃなくてもっと深刻っていうか根本的な価値観の違いっていうのかな。彼、絶対子供欲しい人だったんだよね。今まで話してなかったから知らなくて」

「あー。みぃちゃんは子供欲しくないんだ。それは揉めますな」

「欲しくないってほどじゃないよ。でもお金かかるし子供産んだ人のツイッター見たらだいたいワンオペで死んでるし、絶対子供欲しいとは思わないかな。そもそも収入源の八割はライブチャットのお母さんってやばすぎるよね」

母親になったらさすがにやめるでしょ、とコマバさんは笑った。正直、清夏からすればあまり笑えない。「こんなのやってられるのも今のうちだけ」と思いながら登録したのに、六年も続けているのだから。

「まー今の若い子ってそうだよね。俺の知り合いも、子供いるダチは大変そうだもん。女の人はもっとしんどいだろうね、当事者だから」

「っていうかさ、絶対子供欲しい、って意見自体は別にいいんだけど、その後こう言ったんだよ。『もし付き合ってる人が子供産めなかったり、産まない人だったら、結婚はできないと思う』って」

うへあ、とコマバさんが声を上げた。半笑いが溶けていたが、それ以上に呆れているような声色だった。

「要するにみぃちゃんが不妊症だったら捨てるよって言ってるようなもんじゃん。女の人のそんなこと言う? 冷てえー。オブラートもクソもないね」

「そうそう。そういうことなんだよ。そういうことを付き合っている張本人に、面と向かって言うんだから、びっくりして何も言い返せなかったよ」

「男からしてもそいつはやばいと思うよ。それに気づいてないって言うのも闇を感じるね。女友だちいなさそう」けけ、とコマバさんが実に楽しそうに笑う。「これを機に別れたら?」

「そうだよね……でも私本当は二十八歳だからさ、そんなことで彼氏選べる立場でもないんだよね」

「あ、二十五歳はチャットの設定上なのね。おっさんからしたらどっちにしろ超若いと思うけど。何、彼氏結構稼ぎあるとか?」

女友達が相手だったらもっと濁しただろうな、と思いながら「うん、いわゆるハイスペ彼氏」と返す。思い切って言った。「ほぼ同い年だけど、私の年収の四倍くらいあるよ」狙い通り、うひゃあと素っ頓狂な歓声が聞こえてきた。

「年収一千万以上あるんじゃないの。くっそエリートじゃん」

「そんなにはない。ちゃんと訊いたわけじゃないけど七百とか八百とかじゃないかな。どっちにしろ私からしたらすごい年収だけどね」

「ふーん。確かに二十代でそれならどんだけ遅くとも三十五には確実に桁数変わってるね。別れるには勿体無いかもねー」

「うん。勿体無いって言う理由だけで付き合い続けるのも失礼極まりないとは思ってるんだけど」

「あはは、真面目だな。先に失礼なことをみぃちゃんに言ってきたのはハイスペ彼氏の方だろうよ」

「そうだね。じゃ、別にいっか」

「そういうこと。あ、やべポイント切れるわ。ちんこも萎え萎えだし」

「ごめんね、課金して普通に抜く?」

「いいよ、話面白かったし。進展あったらチャットで教えてよ。今日はおしゃべりの日ってことで。あとでAVのサンプルで抜くわ」

「学生みたいなオナニーだね。ありがと、また話そー」

 通話が切れた。二十三分二十六秒。景介の愚痴が二千円足らずに変わった。けれど別に溜飲が下がるでもなく、小さくため息を吐いて水を飲みにキッチンへ立った。冷蔵庫にミネラルウォーターが冷やされていることは分かっていたが、面倒くさくてコップに水道水を汲んで飲む。

二十代以降、男の人と付き合って一番びっくりしたのはほぼ全員がミネラルウォーターを箱買いしているということだ。「水を買ってるわけじゃないよ。安心と便利を買ってるんだよ」と言っている人がいたけれど、貧乏性かつ正真正銘貧困層にいる自分がそんな生活をする日が来るとは思えない。

 

清夏が初めてライブチャットに登録したのは、二十三歳の時だ。

高校を出たあと就職したのは都内の小さな印刷所だった。事務と経理を兼ねた契約社員で、毎日まいにち領収書だの請求書だのの処理に追われていた。

社会人五年目の手取りは十七万で、都内で住宅手当のない生活は苦しかった。ガールズバーかスナックでバイトしようかとも思ったけれど、万が一会社にばれたら面倒なことになる。当時の会社では副業は禁止ということになっていた。

【スマホ 稼げる 女】――バカみたいな単語の羅列で検索を繰り返してヒットしたのがライブチャットのバイトだった。スマホがあればいつでも自宅で稼げる、というのが魅力的だった。

すぐに登録して待機モードに設定したら、間髪入れずにビデオ通話の着信があった。あとで知ったことだが、ライブチャットは新人時期が一番稼げるらしい。よくわからないまま、下着姿や裸を見せた。横柄な態度をとる男性客にはいらだったが、大概の人には言われるがままに身体を見せたり下着越しに性器を刺激しているふりをしたり適当に喘ぎ声をあげてみせた。自分でも驚くほど、見知らぬ異性に裸を見せることに抵抗はなかった。卑猥な言葉をかけてくる人はいても、所詮画面の中にしかいない。汚い手で肌を撫でまわされることも、唾液まみれの舌でよごされることもない。顔さえ映さなければ、身元がばれるリスクもほとんどない。

初めは暇つぶしあるいは面白半分でやっていたが、稼げる額が伸びてくるとだんだん真剣に取り組むようになり、月にだいたい七、八万円稼ぐようになって、しまいには十万円台の月もあった。

一方で、高校生の頃から趣味でちまちまと小説を書いては投稿することも継続していた。印刷所での事務の仕事が、あまりにも退屈でつまらなかったせいもある。毎日が昨日のコピーのような、以下同文でまとめられる日々がつづき、あわよくば賞を獲って会社を辞めたい、と思う一心で終業後は家でwordを立ち上げた。合間にビデオ通話がかかってこれば対応した。どちらかと言えばもともと集中力は途切れやすい方なので、原稿中に携帯が鳴ることはさしてストレスではなかったのだ。

五度目の投稿で賞に選ばれた。二十五歳の時だ。誰もが知る老舗の出版社が開催している、短編の賞だった。天にも昇る気持ちでパーティーに出席し、スピーチをして、担当編集がついた。けれど当時担当についてくれた二歳歳上の編集・桐原伶は挨拶するや否やこうたずねてきた。

「氷上さんは、何か仕事はされていますか?」

「契約社員してたんですけど、受賞したので契約更新断りました。今は、家でちょこちょこバイトしてるくらいですね」

 伶は一瞬黙ったあと「在宅のお仕事であれば、作家業と両立しやすいですもんね。今後も続けられそうですか」と言った。軌道に乗ったらすぐにでもやめたいというのが本音だったが、本音を言えないような雰囲気が流れていることには気づいていた。曖昧に頷くと、「よかった」と伶は小さく笑った。

「ご存知の通り、出版業界はここ三十年ほど斜陽産業というのもあって、売れている方でも二足の草鞋でお仕事されている方がほとんどなんです。氷上さん、しばらくはそのお仕事を手放さないようにした方が良いかと思います。もちろん作家として軌道に乗るまで私が死ぬ気でサポートしますが、安定した収入源を確保しているかどうかって結構精神状態に直結しているので」

 フォーマルなワンピースに合わせて九センチのヒールを履いている清夏より五センチほどさらに背の高い編集は、小声で囁いた。これで念願の作家になれる、子供の頃からの夢が叶った、と浮かれていた気持ちは、しゅるしゅると空気の抜けた風船のように小さく、干し梅のようにしょぼくれてしまった。

当時こそ、お祝いの席で突き放されたように感じてあまりいい印象はなかったけれど、今なお伶とは仲がいい。二年前に文芸からノンフィクションに異動となり、清夏の担当をはずれた。やはり大手出版社だけあって在宅勤務が選択制になったらしく、現在は夫とともに水戸で暮らしている。

謝礼を支払っているわけでもないのに、伶は今でも丁寧に清夏の書いた原稿を読んではレターパックで赤入れと感想を書き込んだ原稿を送り返してくれる。現在の担当編集ももちろんいるが、伶ほどには清夏に才能を見出してくれていないようで、原稿を送ってみても反応はあまり温度が高くない。

投稿生活をしていた頃以上に死に物狂いで書いているし、年に一冊の頻度で小説を出してはいるものの、売れ行きは全く芳しくなかった。三冊目を出す準備はしているものの、書き直しを何度も食らっているせいで一向に進んでいない。

正午になり、服に着替えて景介の家を出る準備をした。「パソコン持ってきてここで原稿書けばいいじゃん」と言われているものの、夜こそライブチャットの稼ぎ時なので基本的に週末以外は自宅に戻っている。小説の原稿に一番集中して取り掛かるのは午後だ。「もう一緒に住んじゃおうよ。同棲した方が安く済むし、もちろん僕が多く出すよ?」と景介には何度もせっつかれているが、いつも曖昧に濁している。

 景介は週三でテレワークをしている。同棲が始まればライブチャットは継続不可能で、そうなればいくら景介が多く持つと言っても生活費を捻出することは難しくなり、別な働き口を見つけるほかない。けれど、家でできる仕事じゃないと原稿との両立が厳しい。だから、すぐには同棲に切り替えられない。

 我ながらあまりにもばかみたいな理由だ。同棲するくらいならいっそ結婚したい、といつも心の中で思っていた。でも、今日は違った。絶対という言葉が文鎮のように昨晩の景介の発言を思考の真ん中にとどまり続けている。

絶対子供が欲しい、と思っている男の人と自分は付き合っている。その事実を確認するだけで、臓器が水を吸った泥のようにずんと重くなった。

 小説家になるという夢は確かに叶った。けれどまだスタート地点に立っただけで、これからが本番なのだ。しばらくは自分の面倒を見るだけで精一杯だ。いつになったら次の本が出せるのか、作家として成功したと言えるのか、まったく未知数の状態で母親になんかなれるはずがない。

【清夏さん、元気? 土曜日の晩、東京に行くから飲もうよ】

夕方、自宅に戻る支度をしていると伶からLINEが来た。

【ちょうどよかった。ちょっと相談したいことある!】と送ると、【任せて】【なんでも聞く】と立て続けに返ってきた。

子供は作らない方針、と学生時代から決めているらしく、伶たちは夫婦だけで暮らしている。夫の前の婚約者とはそのことで意見が割れて別れたと以前話していた。かつての戦友に、景介の発言を共有して意見を聞きたかった。


約束した渋谷の火鍋の店に、伶は髪をゆるいおだんごにまとめて、ぶかっとしたシルエットの黒いワンピースで現れた。相変わらず絵本の中のおとなみたいな格好してるね、と言うと「どういう感想?」と苦笑いされた。

仕事で会っていた時は隙のないパンツスーツ姿の印象しかなかったので、初めて私服で会った時は思わず「桐原さんですか?」と本人かどうか確認したくらいだ。「婚活してた時はデート服っぽいの着て頑張ってたけど、その反動で今は身体のライン出ない服ばっかり着てますよー」と肩をすくめていた。

「清夏さんこそ相変わらずだね。清夏さんに似てるほっそいギャルいるなあと思ったら本人なんだもん」

 清夏が着てきたのはぴたりと身体にはりつくような素材のノースリブニットに、ハイウエストのスキニ―デニムである。服に合わせてオリーブ色のカラコンを入れた。これみよがしな格好をしているせいで、キャバクラのスカウトをまくのがうっとうしかった。年齢を考えればかなり痛いファッションの好みなのは百も承知だが、十代の頃は本当にお金がなく、母親と服を共有していて自分が着たい服を着られなかった。今なおギャル服を着るのはその反動だ。

「彼氏はコンサバっぽい服が好きなんだよね。女友だちと会う時くらい自分の格好したいから」

「いいよいいよ、清夏さん、顔はっきりしてるから似合ってるし」

 メディア系の仕事をしているせいか元々なのか、伶は清夏の奇抜な服の好みに口出しせず、むしろ褒めてくれる。ありがとう、と肩をすくめてみせた。

「そういえば清夏さん髪伸ばしてるの? 首長いから短い方が似合うのに」

「んー。私もそう思うんだけど、付き合ってすぐの頃彼が髪長い方が女の子っぽくて可愛いって言ってて。なんとなく伸ばしてる」

「なんか高校生っぽい方程式だね。ロングヘアイコールいい女、って」

伶の言葉にいまは笑えなかった。鍋とつまみを頼み、ビールが来るのを待つ。

「今日テンション低くない? あっ、話したいことあるってもしかして彼氏さん絡み?」もしかして何か揉めたの? と口についた泡を舐め取りながら伶が言う。「うん、彼のこと」と切りだした。

「こないだテレビ見てたら、子供がいない共働き夫婦の素敵なお宅訪問、みたいなのやってて」

「あー……子供ほしいって言われたの?」その通り、と笑ってうなずく。

「そっか、子供ほしい人だったのね。結婚願望が二十代のうちからはっきりある男性のほとんどがそうかもしれないけど」

「そうだよね。ナイーブな話題だからちゃんと話したことなかったんだけど、こないだ家でテレビ見てる時に絶対子供ほしい、私が産めない体質だったら結婚はできないとまで言われちゃった」

軽く口にしたつもりだったのに、みるみる伶の表情がこわばり頬を硬くするのがわかった。火を吹き消したろうそくのように完全に顔から笑みを消して「そこまで言われたの?」と静かに問われ、反応の強さに少しひるみつつうなずく。

「少し端折ったけど、でも、そうだね。結婚したいと思った相手が不妊の体質だったり、産まないって選択肢を選ぶのであれば結婚は難しい、だったかな。なんというか、彼がそういうことを恋人に対して言う人だとは思わなくて、正直びっくりした。うん、びっくりっていう感情が最初に来たかな」

あくまでも、淡々と軽く話そうと努めたのに、伶の眠たげにも見える一重の目にみるみる涙がせりあがるのが見えてぎょっとした。

大丈夫? と微笑みかけたけれど、伶は笑わなかった。張り詰めた表情のまま、じっとこちらを見つめる。涙は溢れることなく瞳の表面を守ってふるえていた。森の中で突然湖に出くわした野鹿のような気持ちで見つめ返してしまう。

「何それひどい。ひどすぎる。そんなこと、付き合っている女の人に普通、言う? 清夏さんが付き合ってる人にそんなこと言われてるっていうことが悲しい」

あまりに真っ直ぐな目で真っ直ぐな言葉を放り込まれ、咄嗟に黙り込んだ。伶は急かさず、すっと目をそらしてくれた。個室に火鍋が運ばれて来て、二人の間でぐつぐつと煮え始める。底の見えない橙色のスープにあぶくが浮かび、ぶくぶくと揺れるのを眺める。

「そうだね。傷ついた。悲しかったな、すごく」

 そうだよ、当たり前だよ、と伶が声をふるわせる。自分のために怒ってくれる友人の姿には胸が熱くなったけれど、景介の発言への悲しみで涙はせり上がってこなかった。ただ、林から吹いてくる風にさらされているみたいにうら淋しい気持ちになっただけだった。おずおずと伶が言う。

「いままでは話聞くかぎりなんというか、女性に理解があって紳士的な人だと思ってたんだけどな。そういうこと付き合ってる女の人に言っちゃう人、ってなると見方が変わってくるかも」

「そうだねー。なんというか、子供が絶対欲しいって言う考えを持ってることじゃなくて、そのまんまの言葉を私に発言したっていうことが悲しい。っていうか飲み込みきれないのかも」

「それで、何か言い返したの?」

「その場では言えなかった。そういうものかな? って飲みこまれちゃって」

 伶は一瞬眉根を寄せた。

「意外。清夏さんって弁立つ人じゃない」

「こんなことで何か反論する方が、揚げ足取ってるというかフェミぶってるって思われそうで、なんか、言えなかった。流しちゃった。よくないよね」

それに、あまりに収入に違いがあるので、なんとなく二人の関係性は彼の方にパワーバランスが傾いているような気がするのだ――とは言えなかった。伶は大きな出版社で働く大卒のエリートだ。気を遣われるのが嫌だった。

伶は小さく肩をすくめた。

「付き合ってるんだもん、しょうがないよ。恋人だと、本音だけで接するわけにいかないもんね」

自分たちの場合、それだけではないような気がした。もし別れて再び恋愛市場という土俵に戻されたとしたら、より早く、より多くの人から手を差し伸べられるのはどちらか、そんなのは火を見るよりも明らかだ。フリーターの身で夢ばかり追っている清夏と付き合いたがって、ましてや結婚相手にしたいと思うような好事家はもう二度と現れないんじゃないだろうか。ましてや景介は、コマバさんの言い方を借りれば「ハイスペック」なのだから。

かいつまんでそう説明すると、伶はうーん、と小さくうなった。

「じゃあ、彼氏のモラルは疑ってるけど、次の相手が見つかる保証がないから別れる理由にならないってこと?」

「身も蓋もないけどそういうこと。向こうには失礼な理由だけどね。人を不動産扱いしてるっていうか」

「失礼なこと言ったのは向こうが先だと思うけどね。まあ、結論は急がなくてもいいんじゃないかな。まだ二十代なんだし」

そうかな、と呟いたけれど「やばい、鍋煮えすぎじゃない? 火加減弱めなきゃ」と伶がテーブル裏を覗き込み始めたのでうやむやになった。


火鍋を食べたあと、「もう一軒行ける?」と訊くと「夫が青山で飲み会終わったって言ってるから、合流して帰るよ。ごめん」と手を合わせられた。

ううん大丈夫だよ、と意識して声のトーンを上げる。子供生むわけじゃないし誘うの遠慮しないでね、これからも遊んでねと結婚する前に散々念押しされたものの、なんだかんだ伶が家族である夫を優先するのを目にするとほんのわずかにさみしさが湧く。

優先順位の問題ではないし誰かと家族になるとはそういうことなんだろうとも想像はつくけれど、ほんの一瞬、自分がまだ高校生なんじゃないかと錯覚してしまう。級友が公務員試験に申し込むのを見た時。だらだら喋りながら一緒に課題をしていたのにいつの間にか終わらせて携帯を触っているのに気づいた時。母が選んだ白い綿素材の下着をつけている女生徒がいつの間にか自分と数人しかいないことに気づいて急いで体操服をひっかぶった時。わずかな羞恥といらだち、焦燥感が一瞬よりも短いスコールになって記憶を濡らして去って行く。

駅の改札口で分かれ、井の頭線に乗る。干し柿のようなあまったるい息を吐く酔った乗客に背を向けて、壁に張り付くようにして携帯を見る。【友だちとのごはん終わったー? 久しぶりに家系ラーメン食べた】【シンプルに腹がキツい】と景介からLINEが来ていた。【今家に帰るところだよ~ 楽しかった】【ラーメンいいね! 私たちは火鍋食べたよ】と返信する。すぐに既読がついて、クマが「おかえり!」と手を広げているスタンプが送られてきた。

仕事で忙殺されているだろうに、朝と晩必ず連絡をくれて、一緒に過ごしていない時も清夏のことを気にかけてくれる。いつも、ありがたいと思っていた。身分不相応に素敵な恋人を持ってしまった、と浮かれていた。

過去形になってしまうのは、わかってしまったからだ。景介は、清夏がうまずめとわかれば人生から切り離すという考えの持ち主で、現状清夏を結婚相手の候補として見ている以上その後ろにはまだ見ぬ子供の姿が必ずある。もし景介と結婚したいと思うなら、自分は必ず、彼の子供を産まなければならない。

そんなの交換条件じゃないか。生まれたいかどうかもわからない人を自分の身体から引きずりだして、自分が景介という男性に選ばれるために、子供をなして、親になる。人様の人生をスタートさせる。その命は、何事もなければ八十年は永らえる。自分の命があと五十年はもつということすら時々持て余すのに、だ。

そんなの異常だ。おかしい。でも、そんなことを言いだしたら誰も、子供なんか持てない。私はプライドを傷つけられたことに腹を立てているだけなんじゃないか?「清夏と一緒にいられるなら、なんだって受け入れるよ」「清夏が生みたいなら生んでほしいし、生まないって選択肢を選ぶならそれを尊重するよ」などと物分かりが良すぎる耳心地のいい言葉をやすやすかけてもらえると、子供を生む生まないにかかわらず人生を共にするだけの価値があると、それだけの価値を見込まれて景介に結婚前提の交際を申し込まれたのだと、自惚れていた。けれど蓋を開けてみたらそうじゃなかった。だから私は八つ当たりまがいに腹を立てているだけなんじゃないだろうか。

若いわけでもない、キャリアは皆無、後ろ暗い手法で日銭を稼いで生計を立て、夢ばかり追っている自分が「純粋に私が目当てで付き合ってるわけじゃないなんてひどい」「子供産まない私には一緒にいる価値がないってこと?」と主張したところで、外野からすれば痛々しいヒステリーにしか見えないだろう。

だとしても、景介の発言をうまく飲み込めない。

こんなことで傷ついたと喚くのは、私がおかしいのだろうか。わからなくなって、ひりつくほどびっしりと鳥肌を立てる腕で自分を抱いた。


2 桐原伶

二〇二〇年四月――未来そのもののような西暦で、地球規模の人間の間引きが始まった、と思いながらニュースを見守った。

世のなかは大騒ぎになった。当時伶は二十八歳で、三嶋高志と付き合い始めて半年目だった。もし恋人がいなかったら自分はどうしていただろう、とめまぐるしく更新される記事を流し読みしながら考えた。考えたくもない、というのが正直なところだった。

 そして今年、伶は三十歳になる。

「子供のこと、真剣に考えてみない?」

 誕生日のお祝いはフレンチだった。水戸にもこんなお店あるんだ、おいしいねと笑いあっていたら、ふいに夫は真顔で刺しこんだ。たった今浮かべたばかりの笑顔が凍りついて、冷めたカレーのように心にゆるやかに膜が張るのを感じた。

「……私、子供についてはあまり積極的に考えられないな。付き合う前からくどいくらい伝えてたと思うんだけど」

「もちろん伶ちゃんの考えは知ってるよ。二年間、あんまりその話題振らないようにしてたし。でも、俺は今年四十歳になる。考えるなら最後のチャンスなんじゃないかなって」

 華奢なグラスの中で星のようにこまかに泡立つシャンパンも、清潔な白い百合の花束も、半月のかたちをしたプラチナのイヤリングも、いつだったか伶が褒めたネイビーのストライプのシャツと同色のパンツの組み合わせも、全部これを言うために用意されたものだったのか。そう思うと、口のなかで咀嚼しているフォアグラが急に水を吸ったスポンジのようなものに感じられた。あまり意識しないようにしてどうにか喉の奥に押しやり、嚥下する。

「……三嶋は、子供がほしくない私でもいいと思って結婚してくれたんだと思ってたよ」

「そうだよ、別にそれ自体は変わってない」夫は大きく目を見開いた。「伶ちゃんと二人だけの家族でもいいと思ってる。でも、もしすきな人の子供がいたら、より楽しいだろうなとも思うんだよ」

 それはわかる。夫は子供が好きだ。学生時代は四年間ずっと学習塾で小学生を相手に講師をしていたらしい。クマのように縦にも横にも大きな身体にどんぐりまなこがチャームポイントの赤ら顔。キャラクターじみた見た目の彼が教師になっていたらきっと生徒からも父母からも信頼を集めただろうな、と思った。

 かといって、その彼に自分の子供を見せてあげたいか、一緒に子供をつくりたいかと言われれば、それはまったく別なのだ。それは夫への愛情の量がそこまで至っていないからということではない。誰が相手でも、自分が女で産む側である以上、変わることはない。

「ごめんね。正直今は子供についてはちょっと考えられないな」

「今は、っていつかは変わる可能性もあるってこと?」

 言葉の綾でしかなかったものの、不承不承うなずく。

「でも、かぎりなく可能性は低いと思ってほしい。二十歳そこそこの時から十年以上、自分の中の結論は変わらないから」

「そっか。俺はともかく伶ちゃんはまだ三十歳なんだから、考える余地は充分あると思うよ。その時はまた二人で考えよう」

 夫がにっこりと笑ってみせる。いつも彼が浮かべる、やわらかい線だけでできた能天気にも見える笑顔。本音なのかどうかわからず、曖昧にうなずいた。 

コースの最後に、小さな火花を飛ばしながらアニバーサリープレートが運ばれてきて、二人で写真を撮ってもらった。スタッフが構えるスマホに向けて、ぐっとスマイルのスタンプを押すようにしてどうにか口角を持ち上げた。


「ねえ、本気で子供がほしいの?」

帰り道、タクシーを探しつつ、駅までの道のりでしずかにたずねると、夫は明らかに期待に満ちた表情でこちらを振り返った。目をそらして言う。

「もしそうなら、私を妻にしておくのは得策じゃないと思うよ」

「何言ってんの! 本末転倒すぎるだろ」途端、夫は飛び上がるようにして慌てた。「あのね、大前提として俺は伶ちゃんとの子供がほしいわけ。伶ちゃんが本当に、子供がいらないって思うんだったら今のままで全然いいと思ってるんだよ。俺、お店でもそう言ったじゃん」

 だったら、子供のことなどずっと言いださないでいてくれればよかったのに――そう思ってしまうのはあまりに虫が良すぎるだろうか。結婚というのはつくづく重い契約だ。お互いに人生の手綱を握りあっているのだから。

「本当にさ、俺幸せだなあって思うんだよ。帰ったら好きな人がいて、付き合った時から変わらず仲良くて、地元についてきてもらって、のんびりした街でゆっくり暮らせて」

「そだね」

「でも、そこに俺らの子供がいたら、今とはまったく別の楽しさが生まれると思うんだよ。その可能性をまったく考えないで生きていくのって、ちょっとだけさびしいことなような気がする」

 夫の言うことは、もちろんわからないわけじゃない。夫の血を引いた子供はきっと可愛い。けれど――圧倒的にマジョリティに属している意見を述べている人って、どうしてこんなに堂々としているんだろう、とも思う。

「でも、生まれてしまったらもう二人には戻れないんだよ」

「伶ちゃん」

「今日、お祝いありがとうね。でも、子供はほしくないんだ。いつか、ほしいって心から思う日が来るかどうか、わからない。それに賭けて私と暮らすことが三嶋にとってつらくなる日が来るかもしれないよ」

 街灯に照らされて、二人の影が長く長く目の前に伸びている。体格は全然違うのに、影だけを見るとどちらがどちらのシルエットかわからない。

「そんなことないよ。俺は伶ちゃんがすきなんだから」夫は弱々しく微笑んだ。「不安にさせたり、焦らせるつもりじゃなかったんだけど……ごめん。また、ゆっくり話そう。大丈夫、子供がいなかったとしても、俺は伶ちゃんと生きていくって決めてるから」

百合の大きな花束を抱きかかえた夫は、まるで寝入った幼児を抱えているみたいに見えた。手をつないで、水戸駅を目指した。


自分の人生に子供はいらない、産みたくない。伶がはっきりと自分の考えを言語化したのは大学四年の終わりだった。

私子供ほしいってあんまり思わないんだよね、と初めて誰かに明かしたのはおそらくゼミの同期だったか院生の先輩だったか、いずれにせよ同性だった。名前も顔もうろ覚えだが、反応は思いがけず強かったから覚えている。

――うそ、もったいない。まだ二十二とかなのに、そんなに早く人生の選択肢減らしちゃうの?

 お母さんにならないなんてもったいない、という方向性の意見ではないことに少なからず安堵しながら、「これから先も、自分の中で変わることはない気がする」と返した。もちろん、彼女の意見もわからないでもなかった。選択を捨てるということは、ありえたもうひとつの人生の未来を捨てるということだ。

 実際、伶の決意によって、大学を卒業したら同棲してしばらくしたら入籍しようか、と話していた恋人・遼一とは別れることになった。

同じ大学で、工学部の先輩だった遼一は、「子供がいない未来なら、伶とは結婚できない」と苦々しい顔をして言った。五年付き合っていた私ではなくいもしない子供を取るのね、と皮肉をぶつけると「伶には悪いけど、現在よりも未来の方が大事だってわかったんだ」と気障なバンドの歌詞のようなことを言った。人間関係自体は現在の夫よりもずっと長いのに、苦々しい思い出が先行しすぎて、思い返すことはめったにない。

 だからこそ夫と付き合う時に、はっきり言い渡したのだ。私は子供を産む気がほとんどないけど、それでも大丈夫? と。

 夫は「伶ちゃんがすきだから、伶ちゃんがいれば充分だよ」と返事を寄越した。あの時彼は、未来ではなく現在を――伶と付き合いたいという即物的な欲求を優先したに過ぎないのだろうか。

 夫とともに都内から水戸に移ったのは、感染が怖かったからではない。企業コンサルトである夫が、会社から独立して自営になり、完全に仕事をリモートに切り替えたので地元に拠点を移した。それについてきただけだ。亡くなった大叔父の家が空き家で、使わないかと両親から打診があったらしい。

「水戸からなら何かあっても都内に通勤できるし、一緒に行くよ。私も仕事完全に在宅にできたし」

 私も茨城に行きたい、離れて暮らしたくない、と言うと夫はひどく感激していた。週末婚を覚悟していたらしい。

「向こうの親になんかあったら桐原さんが面倒みる介護要員になっちゃうんじゃないの」などと口の悪い同期に意地悪く言われたが、つくば市に住む彼の両親は七十代の今も健康で、つかず離れずの距離で仲良くしている。子供のことをせっつかれることもなく、「こんな若い娘さんが嫁に来てくれるなんて」「末娘ができたみたいでうれしい、うちは男二人でむさくるしいから」と可愛がられている。

「なあ、そっちのお母さんたちには水戸に移ることなんか言われた?」

 引っ越しの作業当日、段取り良く荷物が外へ運ばれていく様子を眺めながら夫に訊かれた。

「ああ、三嶋の仕事の関係で引っ越しするけど出版社はやめてないよって言ってある。車の運転練習しなさいよとは言われたけど、それくらい」

 ふうん、と夫は考えるような顔つきになった。何? と問うと「いや、俺の地元に引っ張っていくかたちになるから、お母さんとしては寂しいんじゃないかなって」と苦笑いする。自分が悪く言われていないか、気になったのだろう。

「東京からそう離れてるわけじゃないんだし、心配しないでいいよ。もう、私三十歳だよ? 結婚した子供がいまさらどこ引っ越したって気にしてないよ」

 そんなことないよ、と思ったよりもはっきりと夫は否定した。すべての荷物が運び出されて、会話はそこで終わった。

 実際には、夫に言ったことは嘘だ。水戸に住むことになった、と電話で報告すると「どうしてあなたが合わせなきゃいけないのよ」と母親はいきなり喧嘩腰で噛みついてきた。「三嶋さんが地元に帰るなら、あなたがこっちに帰ってきたって別にいいんじゃないの?」

「……どういう意味?」

本当に意味が全くわからず訊き返した。「だってあなた、仕事は在宅でもできるんでしょう」とこたえになっていないことを言う。

「東京と水戸はともかく、水戸と新潟じゃ、いくらなんでも遠いでしょ」

「子供がいないんだったら、別に問題ないじゃない。三嶋さんも一緒にとは言ってないのよ」

 二年も前に結婚した娘に自分が何を言っているのか、わかっているのだろうか。怒りとあきれで、口がふさがらなかった。

 私たちはお母さんたちみたいに、夫婦として破綻しているわけじゃない、まだ結婚して二年目の仲のいい新婚夫婦なのだとさけびたくなった。伶だけでも新潟に来ればいい、とまるで譲歩したかのように言われるのも胃がちぎれるくらい腹立たしいことこの上なかった。それはお母さんの気持ちだけを優先した考えでしょう、私たち夫婦の関係性などまったく考慮していない意見を簡単に言わないでほしいとわめきたかった。

もちろんそんなこと口が裂けても言えるはずがなかった。いらいらしながら「ごめん、結構ばたばたで急遽決まったことだから。住所はあとでメールするね」と無理やり電話を終わらせた。

住所を送るよりも先に、母親から長文のメールが届いて、うんざりしながらスクロールした。流し見したかぎり、夫の都合で夫の地元に伶がついていく、ということがどうしても気に食わないらしい。それなら三嶋が伶についていくというかたちで新潟に家を移ってもいいはず、それが無理なら伶だけでもこっちに来ればいい、夫婦で夫の地元に移住することが理解できない、と要するに電話で言っていたことが長々と綴ってあった。

 夫と結婚したことによって、田舎のあの古い大きな箱のような家から飛びだして、あたらしい家族をつくったつもりだった。けれど母親にはそれがわからないらしい。人形遊びのように、娘を知らない男に貸し出しているような感覚で話をしているふしがあるのはうすうす気づいていた。この引っ越しの報告の件で確信へと変わった。

 夫は伶と母親の関係性があまりよくないことは知っていても、幼少期の伶が母親にどんなふうに育てられたかまでは知らない。伶ちゃんは箱入り娘だから、と折に触れてからかわれるが、その表現と実際ではあまりにも乖離がある。

「私、小さい時からお母さんに嫌われてるんだよね」

レンタカーで水戸に向かいながら助手席で呟いてみた。夫が一瞬顔を凍りつかせ、すぐに「逆でしょ。愛されすぎてるから重たく思うだけだよ」と笑みをつくってみせた。苦笑いだけ返す。

家を出て十年以上経ち、結婚して夫を持った今でも、自分が意見すれば娘は母親の言うことを何よりも優先すると思われつづけている。少なくとも家にいた頃は、そうしていたからだ。

結婚相手は、唯一自分の意思で選べる家族だ。仕事は充実していたし、経済的にも余裕はあったけれど、それとは全く関係なく、どうしても、すぐにでも、結婚がしたかった。恋愛ではだめだった。結婚して、家族になってほしかった。

選べなかった方の家族は、今でも伶に絡みついて、離れようとしない。影のように、色濃く、べったりと。


誕生日の日付が変わる直前まで、伶は夫の性器を咥えていた。一向に十分な硬さにみなぎらないそれを、舌でやさしくなめたりさすったりするが、「ごめん、もういいよ」と夫が口を離すよう促した。「ワイン、飲み過ぎちゃったかな」

「そうかもね」

脱いでいたショーツを穿き直す。せめてもう少し夫と裸でくっつきあっていたい、と思い腋の上に頭を置いて寄り添う格好で寝そべったが、すでにいびきが聴こえ始めていた。しばらく寝顔を眺めていたが、諦めてTシャツをかぶり、もう一つの枕を引っ張りよせて仰向けになる。

 誕生日ぐらい、セックスしたかった。別に、挿入できる状態にならないならならないでかまわない。いれたりつながったりという、即物的な方法以外でも、くっつきあったり肌をやさしく撫でまわしたり、そういうスキンシップだけでもいいから、したかった。リビングだけでは余ったので寝室にも活けた百合の花粉の強い匂いが鼻につき、布団にもぐりこむ。

 今日、子供のことを言われて驚いたのは、以前から〈子供はほしくない〉という考えを伝えていたからだけが理由ではない。

水戸に移って、二年。セックスレスとまではいかないが、頻度が落ちている。

 そもそも夫は男性にしては性欲が薄い方だ。いつだったか、どういう時に一人でするの? と冗談めかしてたずねたら「そういう話を奥さんとするのはあんまり」と顔をこわばらせた。夫の中で自慰行為というのは排泄と同列なのだろうか。彼が自身の性癖について吐露したことも、ほとんどない。

「なんでそういうこと訊くの」と問われ、少しむっとした。妻なのに、訊いたらだめなのか――こたえる代わりに、「三嶋って、あんまり性欲ない方だよね」と返した。途端、夫の顔から静かに表情がなくなるのが見てとれた。

「誰かと比べてるの? 俺は俺だよ。ない方って言われても、わからない」

 自分の失言で夫を傷つけたことはわかっていたけれど、かと言って謝るのも癪だった。黙り込んでいると「疲れたから、今日は先に寝させて」と取り繕うような笑みを貼り付けて寝室へ行ってしまった。

 子供ができたら、自分たちのような夫婦はまっさきにセックスレスになるんだろう、と思う。三十歳になったばかりなのに、もう自分の女としての寿命は流木のように乾ききっているのだろうか、と時々思う。それでいて「母親」としての役割は果たしてほしいと願われてもいる皮肉さに笑ってしまう。

 セックスがしたいのではなく、セックスしたいと思われていたい、ただそれだけなのに、夫は疲れた顔をして寝入っている。ぱちんと頬を叩いてみたけれど、顔を歪めて首をひねっただけだった。

 ふいに携帯が通知で光った。夫から背を向ける格好で、LINEを開く。

先週渋谷で会った、かつての担当作家で今は友人である氷上清夏からだった。原稿の赤入れ依頼だろうか、と思いながらメッセージを読む。思わず「えっ」と声を出しそうになった。

【伶さん誕生日おめでとう! 一日勘違いしててすごいぎりぎりになっちゃったーごめん。幸福な三十歳の幕開けとなったでしょうか。

ところでこないだ私が住んでいたアパートで火災騒ぎがあり、私の部屋もボヤの被害に遭いました。幸いすぐに火は消し止められたので被害は壁紙ぐらいです!

それで、なんと今は彼氏ではなく、仕事で知り合った男性の家に居候して避難生活をしています。今、二日目です。

我ながらなんでこんなことになったのかわかりませんが、今のところ快適です。人の家で書く原稿も新鮮だなって。

書きあがったら送らせてね。あらためて、ハッピーバースデイ! またあらためて二人でお祝いしましょう】

 二度読んでみたがさっぱり状況がわからない。彼女の最寄り駅をどうにか思いだして【浜田山 火事】で検索すると、確かにネットニュースでまとめられていた。今週月曜日、住人の煙草の不始末でぼや騒ぎになったらしい。

【お祝いありがとう。ぬるっとした感じで三十歳になって、あんまり感慨もなく不思議な感じで三十代に突入しました。

そんなことより火事、大丈夫だった? 無事でなによりです、災難だったね。

どういう関係性の人のおうちにいるの?笑 めちゃくちゃ興味深いので今度電話で聞かせて】

 送信すると、すぐに既読がついてOKとライオンが跳ねているスタンプが送られてきた。あれほど独りから脱したくて仕方なかったのに、独身って自由でいいな、と羨んでいることに気づいて、携帯の電源を落として目を瞑る。

 新人賞の受賞パーティーで初めて氷上清夏と会った時は、こんなにも打ち解けた仲になるとは思わなかった。

 マネキンから外してそのまま着てきたようなブルーのフォーマルなドレスに身を包んだ清夏はこちらが不安になるほど細く、遠目から見た時は十代かと思った。勝気そうな大きな目をきょろきょろとせわしなく動かし、ものを書く人にしてはめずらしく、やや派手な造作の顔をしているのが印象的だった。お綺麗ですね、ハーフですか? と先輩作家にたずねられて「いや、父方が九州出身なので濃いだけです」とそっけなくこたえ、雰囲気がさっとこわばったところに慌てて割って入って話題を変えた。それが彼女との最初のコンタクトだ。

 初めこそぶっきらぼうな印象があったが、打ちあわせを重ねていくうちに、単にシャイなだけだと気づいた。親しくなって心をひらいた相手にはとことんひとなつっこくなるタイプだったので、水商売とか向いてそうなタイプだな、とほんのり失礼な感想を持った。実際、そういうバイトの経験も多少あるそうだ。

 結婚式こそしなかったものの、友人を招いた食事会に清夏も招いた。その夜、夫が彼女に対して述べた感想は、今思いだしても内臓がすっと冷える。

「新人作家の、氷上さんって子、随分やせてたね。骨そのものって感じなのにノースリーブ着てるから、余計貧相に見えたよ。ちょっと病的でぞっとしたな」

 自分の範疇ではない異性の容姿をこき下ろすとき特有の、男の容赦のなさというのはなんて残酷なんだろう。ましてや配偶者である男の、あまり見たくはない側面を直視して怖気すら覚えた。彼女は伶と親しい間柄だと知っているのに。

「体質で、食べても太れないみたい」とあえて淡々と返すと、ふうん、と夫は興味なさげに呟いて「俺は伶ちゃんくらいのが好き」と二の腕をつまんできた。やめてよー、と冗談めかして返しながらも、半分は本気で振り払った。

そもそも清夏は見てくれを商売道具にしているわけではない。それが眩しくもあり、もっと若い頃に出会っていたら自意識の薄さがかえって疎ましくもあっただろう、と思わないでもない。

「なーに、伶ちゃん眠れないの?」

 寝返りを打っていると、夫が後ろから腕を回して抱きしめてきた。甘い気持ちになったのもつかのま、また寝息が背中で聴こえてきた。


3 氷上清夏

三日前から、清夏は浜田山のアパートを離れて、赤坂のタワーマンションで生活している。一体何の因果なのか。

【21時に帰りますー 家で食べるから適当にUberで頼んどいて】

【了解です。ケンタッキー頼んでもいいですか?】

【脂っこすぎ、却下。頼むなら自分の分だけにして。おれは寿司の気分】

 OK、と簡単に返信しておく。結局銀のさらで二人前を注文した。檜山の家に移ってから、食べるものはほぼすべて出前で賄っている。全身鏡がないのできちんと確かめていないが、来た時よりは確実に太っているはずだ。

 なぜ男の人って揃いも揃って部屋に鏡を置かないのだろう。景介の部屋にもない。自分の容姿に無頓着でいられることに、羨ましさといらだちを覚える。

【今日なにしてたの】

【いつも通りスマホ越しにちんぽしばいてます】

【わろた おれの家で何してんねんwww別にええけど】

 檜山さんには、部屋の何を使っても構わないと言われていた。勝手に洗面所の棚を物色したり、冷凍庫の隅でかちかちに凍っていた水餃子を解凍してワンタンスープにしたり、リビングの大画面テレビでyoutubeを流したり、ただ窓から都内を見下ろしたり、好き勝手している。三十八階が具体的に地上から何メートルなのかよくわからないが、駅も道路もジオラマのようだった。

 元の家は今もそのままだ。解約する気は今のところないけれど、戻る目処が立っていないのは事実だった。いつまでいていい? と訊くと「俺が決めることじゃないから」とだけ言われた。いいように解釈することにして、あまり深く考えないことにした。

 檜山の家に転がり込んだのは、完全になりゆきだ。そもそもそこまで親しいわけでもない。正しく言えば、親しくないわけではないが、素性を知ったのはつい最近だし、互いについて知っていることはごくわずかだ。

関係性で言えば、元客に当たる。檜山の素性は、ライブチャットで常連客だったコマバさんだ。コマバは昔済んでいた駅の地名から取ったらしい。年齢は三十八歳で、不動産会社を経営している。チャットでは三、四年の付き合いがあったが、首から上が映されることはなかったので、てっきり同い歳くらいかと勝手に思っていた。会ってみて初めて、彼がちょっぴり頭皮が髪から透けて見える小柄な体型のおじさんだと知った。初めて顔を合わせたのは六本木のカフェで、ヘラヘラとした笑みをマスク越しに透かして、「いつもお世話になっております」とおどける声には聞き覚えしかなくて、余計違和感があった。

 今日は十時に起きた。すでにコマバさん、もとい檜山は出勤して留守だった。冷蔵庫に入っていたアイスコーヒーをもらい、持ち込んだパソコンのWordを縦書きにして原稿を書いていた。もちろんライブチャットの着信がくれば対応して裸を見せたりする。住む家が変わろうが、やることは変わらない。

家事代行でも雇っているのか、一人暮らしにはあまりに広い家なのに掃除は行き届いている。正直、自宅よりもずっと快適だった。家から出ないまま十八時になった。「買いに行くのだるいっしょ? アカウント教えるから適当に出前して食べて」と言われているので、お昼はありがたくラーメンを頼んだ。もちろん自分では出前なんて取ったことなどない。

インターホンが鳴り、お鮨が詰まったパックを受け取る。三分の一ほど平らげたところで、玄関からかちりとロックが解除される音がした。

「お帰りなさい。早かったですね」

 現れた檜山は、や、と手を挙げた。照れくさいのか元々そういう人なのか、同居しているというのにいざ面と向かうと清夏と目を合わせようとしない。

「ミーティングがバラシになったんだよ。結局鮨取ったの? 俺も食いたい」

「私、もう結構食べちゃったんで残り食べていいですよ」

「待って、とりあえず着替えてくるから」

 洗濯かごに突っ込んであった服を引っ掴んで寝室へ行く。グレーの皺の寄った部屋着姿で戻ってきた。うんと歳を食った浪人生のようで、少し笑ってしまう。

「今日は稼げた?」ライブチャットのことを指しているらしい。

「そうでもないですね。普通。六千円くらい」

「稼ぎ時はこれからっしょ。寝室使う?」

「んー、まだちょっと休みます」

 あそ、と言って真っ先にサーモンに手を伸ばす。「あ、コップ取ってきましょうか」と立ち上がりかけた清夏を「大丈夫、自分でやる」と手で制して台所に向かった。「それより、彼氏大丈夫なの。連絡してんの?」

「ああ、まあ大丈夫です」

 聞いてきたわりに、檜山は興味なさそうな顔をして鮨をぽんぽんと口に運んでいる。予防線として彼氏の話題を出した、と考えるのは自意識過剰だろうか。

 鮨を食べ終えた檜山は、しりをかきながらソファに戻り、あぐらをかいた脚の上でパソコンを開いた。「仕事ですか?」とたずねると「うん」と言う。

「私も稼いでこようかな……」

立ち上がると、「おう、頑張って」とパソコンから目を離さないまま声をかけられる。へんな人とルームシェアしてるな、と思いながら携帯を持って寝室に向かった。

 

まさか自分が住むアパートで火事が起こるなど夢にも思っていなかった。

 先週の日曜日の朝、なんだか妙な匂いがする、と思って目を覚ましたら霧が立ち込めていた。霧、じゃなくて煙――気づいて慌ててメガネをかけて、寝巻きのまま部屋を飛び出した。同じようにパジャマ姿の住人たちが悲鳴を上げながら階段を降りているのを見て、あ、夢じゃないんだと思いながらどうにか階下に降りた。もつれそうになる足が、がくがくふるえていた。

 同じ階で煙草の不始末があったらしい。幸い部屋を一つ挟んでいたから清夏の部屋まで火が及ぶことはなかったものの、部屋は煙で燻されてどうにも住める状態ではなかった。唯一空いていた上階の部屋には、清夏の横の部屋の住人が使うことになり、「どうしますか?」と大家さんに申し訳なさそうに訊かれた。保険を適用して引越しすることもできるとのことだったけれど、お風呂トイレ別で家賃が六万八千円の今の部屋を気に入っているので、別に出て行きたいわけでもないし、無駄に移動するのも気が引けた。

当分の避難先として頼った景介に事情を話すと「このままうちに住んだらいいじゃん」と簡単に言った。そして、「ついでだし引っ越して同棲する? 僕、そろそろ更新月だから元々考えてたんだよ」と続けた。

 要するに、関係を進めようと言われているのはわかっていた。さりげない流れではあったけれど、景介の頬は緊張のせいかわずかにこわばっていた。

ライブチャットで生計を立てている女が、彼氏と同棲なんてできるはずがない、ということだけではなく、今は景介との関係を進展させたいと思っていない。それはつまり結論は一つだ。けれど別れ話を切りだすきっかけなどあるはずもなく、「作家として成功するまでは何も考えない」と思考に蓋をしている。

仮に景介と別れたとして、またマッチングアプリをインストールして一からプロフィールを書いて写真を設定してタイムラインをさもしくスクロールする日々に戻らなければいけないのかと考えると、それだけでぞっとする。結局、恋人がいることの最大のメリットは、恋人を探さなくていいということなのだ。思い返すだけでうんざりするほど擦り減る作業だった。

 こたえを保留にしたまま景介が会社に行ったあと、いつもどおりライブチャットとして稼働した。その時かけてきたのが、コマバさんだった。

「あれ、いつもと家違わない? 出張先?」

「違う。今彼氏の家」

「あーあのデリカシーにかける彼氏の家から配信してんの。勇気あるなあ」

「それがね、私いま家なき子状態なんだよ」

「はあ? ホームレスってことすか。どういうこと?」

事情をかいつまんで説明して、「しばらくログインできないかも。彼氏基本テレワークだから」と言うと、「そら災難だったね」と慰められた。

「本当にね。普通の会社員だったら、むしろ彼氏と同棲する展開になってラッキー、ぐらい思ったかもしれない。でも、私しばらく誰かと同棲するつもりはないんだよね。ライブチャット辞めたくないし」

「そうなん?」

「私普段小説書いてるの。ほぼ素人だけど三年前にデビューしてる。家で原稿書きながら最低限の日銭稼げるから、結構ちょうどいいんだ、ライブチャット」

 まさかこんなエロサイトで会った人に身の上話をすることになるとは思わなかったが、それなりに付き合いが長いので明かした。軽く流されるかと思いきや、「へええマジ? かっこいいじゃん!」と急にコマバさんの声が跳ねあがった。

「俺小説書いてる人って人生で初めて会ったよ。本出してるの?」

「出してるよ。二冊ね」

「すげー。確かに作家ならライブチャットと相性いいかもね。そもそもめずらしいし、いろんな変なやつと話せるし」あ、俺も含めて、と小さく笑う。

「部屋探してるなら、貸そうか? 俺の部屋」一瞬、何を言われたのかわからなかった。へ、と二の句を継げずにいると、コマバさんはのんびりと続けた。

「俺んち、一人暮らしなのに無駄に広いのよ。客用寝室もあるから、たまに友達泊めたりしてるの。おっさんの家で良ければ、全然使ってくれていいよ」

 あまりの展開に言葉を失っていると、「そりゃいきなりはい、住みますとはならんわなあ。怪しすぎるよね」と笑う声がした。「でも、なんだかんだ、みぃちゃんとは長い付き合いじゃん? 住んでるところも近そうだし、実際会って仲良くなれたらいいなーとは思ってたのよ」

「……このサイトで、女の子と会ったことあるんですか?」

「んー、ないない。まあでもエロ要素多めのマッチングアプリみたいなもんじゃない?  実際、そういう使い方してる子もたまーにいるみたいだしね。パパ活的なの流行ってんじゃん。俺、会社経営してるから出会い系で会った子にふっかけられたりすることもあるんだよね」

「へ、経営者だったんですか」

「そう。なんならいま会社からかけてる。こういうご時世だからみんな家で仕事させててさ」

「いつも変な時間にかけてくるからフリーターとかパチプロなのかと思ってた」

 ひゃひゃひゃ、とコマバさんが奇怪な笑い声を上げた。そして、「まあ、困ってるなら今日の昼会ってみる? それで家来るか決めたらいいんじゃない」とのんびりと言った。

 サイトで会った男の人と実際に会ったのは初めてだった。どう考えてもリスキーだし、下手すれば何か事件にでも巻き込まれかねない。それでも指定された乃木坂のカフェに出向いたのは、好奇心がほとんどだった。その時点では、見知らぬ男の家にころがりこむ気はもちろんなかった。

「おつ〜。みぃちゃんさんですよね? 初めまして。檜山といいます。あ、コマバです」

 現れたのはめがねをかけたごく普通の男の人だった。何飲む?  とメニューを渡され、「ジンジャーエールで」と答えた。

やや小柄な、中肉中背のアラフォー男性といったところか。店員を呼んで「アイスコーヒーとジンジャーエールで」と注文するのをしげしげ眺めた。

「俺は何回もビデオで顔見てるからなんというか、あんまり印象変わらないな。今何歳ですか? 二十五歳だっけ?」

「それはプロフィール上だけです。本当は二十八歳」

「あ、そうだったわ。おじさんからしたら大して変わんないけどね。あ、俺今年三十九っす」

「ふーん」

「あ、メシ食う? お腹空いてるならなんでも食べなよ。君、ちょっとびっくりするぐらいガリガリじゃん。蹴ったら折れそう」

 あまりにも率直な言い草に面食らったものの、なぜだかそこまで不快な気持ちにならなかった。遠慮なく海老のオープンサンドのランチセットを注文した。

「檜山さんでしたっけ」

「うん」

「会社運営してるのにライブチャットで抜くなんて、随分チンケな遊び方してたんですね。正直、もっと貧乏な人を相手にしてると思って通話してました」

 途端、喉をぐんとのけぞらせる勢いで大笑いした。「人聞き悪すぎ。こんな、陽が燦々とさしてくるオシャレカフェで抜くとか言わないでくれる? あと、俺みぃちゃんとビデ通する時基本雑談じゃん」

「確かに。本来の用途で使うこと少ないですよね」

「登録したての時はそらまあ何回かはね。でもこの歳にもなるとそこまでリビドーが湧いてこないっつうか、君とは普通にしゃべる方が楽しかったからさ」

「そうなんだ」

「ライブチャットって、なんというか古い遊び方じゃん。俺が中学生くらいの時からあるんじゃねーかなあ」

 そして彼はぽつぽつと自分について話し始めた。七年前から不動産会社を経営していること、若い頃に結婚していたこと、半年も持たずに相手の浮気で離婚したこと、今は赤坂のマンションで一人暮らししていることを話した。

「今は独身なんだけど、使ってない部屋があるからたまに友達泊めたりするのに使ってるんだよ。俺、基本家は寝に帰ってるだけで昼間ほぼ使ってないから」

「へえ」

「俺は今から会社戻るけど、住所と鍵渡すから、家いたら? 使うかどうかは見てから決めたらいいよ。あ、もし帰るんなら鍵はポストに入れといて」

 シルバーの薄っぺらなカードを本当に渡してくるのでぎょっとした。咄嗟に反応できずに顔を覗き込むと、「何、すごい顔して」と笑う。

「……会ったばっかりのライブチャットの嬢によく鍵渡せますね」

「あー。君が犯罪者かもしれないってこと? 俺、家に大して物置いてないから、窃盗されたところで何も困んないよ。あ、洗濯機ぶち壊されるとかはさすがにキツいけど」LINE教えてよ、と言われてQRコードを見せた。

「住所送っとくよ。どうする? 家、行く?」

「んー……行こうかな」

「じゃあ鍵置いてく」伝票を持って立ちあがろうとする。あまりにあっさりしているので「帰り何時ですか」とたずねた。彼は少し笑って「わかったら連絡するよ」と言って、会計しに行った。そしてそのまま出て行ってしまった。

 鍵をもらった以上、行くだけ行くほかなかった。

乃木坂から十五分ほど歩いて辿り着いたのはタワーマンションで、エスカレーターでフロントまで登りながらくらくらした。なんだかホテルのラウンジのような建物の中で、すれ違う男女がみんな質のいい服を着て姿勢良く歩いていた。毎日こういう場所で寝起きして暮らしている人がいるんだと思うと、感情がぐっちゃりと汚い色に混ざり合い、ねじれながら揺れた。

カードを使って部屋に入る。言われていた通り、物は少なくシンプルな部屋だった。それでもさもしく物品を眺め回してしまう。東京に来てから、というより人生で一番家賃の高い家にいるのは間違いないのだ。

エアコンはつけっぱなしだった。洗面所で手を洗い、全部屋のドアを開けた。リビングとダイニング、寝室、やたら広いクローゼットがあるだけだった。キッチンで吸っているのかやや煙草の匂いが気になったものの、それ以外はこざっぱりとした綺麗で広い部屋、という印象だ。好奇心で洗面所の棚を見たものの、女物の化粧品の類は置いていない。しばらくは誰も出入りしていないのだろう。

壁紙の張り替えと清掃が完了するのは一週間後だ。土日はいつも通り景介の家に行けばいい。檜山さんはそこそこ清潔感があって顔の造形にも癖はなく、美男ではないとしてもなんとも言えない愛嬌があって好感を持てた。部屋を貸してもらう代償に寝ることになっても別にいい、と思うくらいには。

 腹が決まると、マンションを出て自宅に戻った。元々、景介の家にお世話になるんだろうと思ってスーツケースに荷物を一通り突っ込んでいたのでそれを持っていくだけで澄んだ。念のため、と思って避妊具の入ったポーチを引っ掴んで鞄に押し込む。もちろんそんなもの異性の部屋に持って行きたくなどなかったけれど、最も避けるべき事態になるよりはましだ。仕方ない。

【昨日はありがとう! 実は、高校の友だちが、最近同棲解消したらしいんだ。一人でいると鬱っぽくなっちゃうみたいで、家探してるなら一緒に住んでって頼まれたから、当分その子の家にお世話になることにします】――景介にLINEを送った。何か突っ込まれることがあったとしてもごまかせるだろう。

四〇分ほどかけてもう一度赤坂のタワマンに戻り、スマホとパソコンを出してライブチャットで稼働した。どんどん携帯が熱くなっていくので、【Wi-Fi使いたいんですが、パスワードどこに書いてありますか】とLINEした。ものの五秒で既読になる。

【さっそく俺んち満喫しようとしてない?笑 全然いいけど。パスワードは多分、テレビの近くに本体があるから、裏見て! ほこりだらけかもしんない!】

【了解です。家から荷物持ってきたので、しばらくお世話になります】

 送るか迷ったけれど送信した。返事は【りょうかーい。冷蔵庫に食べ物突っ込んであるから適当に食べていいよ】とあっさりしたものだった。

その日、檜山は深夜になっても帰ってこなかった。【帰り何時ですか?】とLINEを送ったら日付が変わってから【今帰ってる 寝ててー】と返ってきた。寝室は二つあり、狭い方を使うことにした。起きていた方がいいのか、寝ていた方がいっそ安全なのか、迷っているうちに寝入ってしまった。気がついたら朝だった。

「おはようございまーす……」

 リビングに行ったけれど誰もいなかった。コーヒーを飲んだ形跡と部屋着を脱いだ形跡だけが残っていた。

携帯を見たら【遅くなったー もう寝てる? あと5分】【仕事行ってくるー 菓子パン買ってきたから食っていいよ】とLINEが来ていた。ありがとうと猫が笑っているスタンプを送った。本当に家には寝る時しかいないらしい。

 実際、ありがたかった。部屋が一つしかない景介の家だったら、彼が在宅勤務の時は家を離れなければならないし、そうなればライブチャットとして稼働できない。ほんの数日だとしても、本来得られるお金を得られないというのは清夏にとって大きなストレスだった。

 その日は二十時過ぎに檜山が帰宅した。「ピザ取ろう。どれがいい?」とスマホを見せられ、クワトロフォルマッジとマルゲリータ、フライドポテトとフライドチキンと、二ℓのコーラを注文した。「こんなに食べられるかねえ」と言いながら二人で平らげた。残ったポテトを檜山が捨てようとするので「明日の朝ごはんにする」と止めた。檜山は「育ちがいいね」と笑いながら冷蔵庫にしまった。

「育ちがいいんじゃなくてその逆。貧乏性なだけですよ」

「だとしても偉いな、自分の金じゃないから別に気にすることないのに。俺シャワー浴びてくるわ。あ、湯舟使いたかったからためていいからね」

「了解です」

 五分ほどで戻ってきたかと思うと「仕事するから、適当にしてて」と言われた。適当ってなんだ、と思いつつ湯舟をためながらお風呂でもライブチャットを稼働した。三人の客と通話して気が済んで、頭を洗って上がった。

 家から持ち込んでいた部屋着に着替え、リビングを覗く。檜山はパソコンと向かい合っていた。寝室に行こうとドアを閉めようとしたら「あ、上がった?」と気配で気づかれた。椅子ごと振り返り、「もう寝る?」と言う。

 どういう意味だ、と思いながら「もうちょっと配信してから寝る」とこたえると「寝室使っていいよ」とまたパソコンに戻った。そろそろとドアを閉める。

 リビングから檜山が出入りする気配がするたびどきりとして振り返ったものの、こちらの部屋に彼が入ってくることは一切なく、ドア越しに声をかけられることすらなかった。歯を磨きに洗面所に行ったら、入れ違いだった彼に「お先ー、お休み」と声をかけられた。それだけだった。

 一人でセミダブルベッドに潜り込みながら、天井を見上げた。なんだろうこの生活、と思う。チャットとはいえ風俗業で会った男の家に泊まって、何も起こらないのか。すでに裸を見せたことはなんどもあるのに。

 あの男は一体何が目的で、清夏に何を求めているのだろう。


4 桐原伶 

 今日家主が静岡出張で出払ってるからもし暇だったら遊びに来てよ、タワマンだから景色綺麗だよと清夏からメッセージが来た。あまりの自由さと傲慢さにあきれたが、だからこそ彼女は物書きなのだろうな、と奇妙な納得を覚えた。丁重に断った代わりに、せっかくなので電話で近況を聞いた。

「要するに神待ち少女のおとな版、みたいな生活をしてるってこと?」

「あ、そうそう。さすが伶さん、理解早いね」

 居候し始めてすでに三日目らしく、「今のところ夜這いは来る気配全くないよ。本当に何もしてない」とのことだった。本当だろうかと一瞬疑わしく思ったけれど、あけすけな性格の清夏が嘘をつくとも思えない。

「奇特な人だね。アセクシュアルなのかな」と推測を呟くと、「それはない。バツイチだし」と返ってきた。

「どういう人なの? そもそもどこで会った人なの?」

「えーっとね、歳は三十八歳で不動産の会社経営してる。お金には余裕ありそうだよ。会ったのは本当たまたま、知り合ったのもすごい最近だから」

「条件は悪くなさそうな人だね。景介さんとはどうしてるの?」

 一瞬間があった。「別れてはないよ。一週間会ってないけど」と返ってくる。

「どうしたの、別れる気なの?」

「正直、何もしてない時は子供絶対欲しい発言のことばっかり考えてる。頭を冷やす意味でも、このタイミングで別な人と生活できてラッキーだったかも」

 自分も誕生日に「子供をつくらないか」と夫に言われたと相談しようかと思ったが、あと三十分ほどで夫が帰宅することに気づいてやめた。代わりにたずねる。

「彼氏じゃない男の人と一緒に生活するのって、窮屈じゃないの?」

「それがねえ、全然そんなことないよ」ときっぱりと清夏は言った。「そもそも部屋が広くて複数あるからわりと居住スペースを分けられてるからっていうのが大きいけど、私同じ空間に人がいても気にならない質なんだよね」

「そうなんだ、ちょっと意外」

「私、高校生までワンルームで親と二人暮らしだったの。だからかもね」

「へえ」

軽く聞き流してしまったけれど、よくよく考えればかなり特殊な環境下で彼女は育ってきたらしい。くわしく聞いてみようと口をひらきかけたところで、玄関で物音がした。「あ、旦那さん? それじゃあね、東京来ることあれば教えてねー」と察しよく清夏が電話を切ってしまった。携帯を置き、おかえりなさいと出迎えに行く。

「ただいま。何、友達と電話? しててよかったのに、気ぃ遣わせちゃったね」

「ううん、向こうから切れたの。そうめん茹でようか」

「いや、ラーメン食ってきた。暑いしシャワー浴びるわ」

「それならお風呂溜めるよ。一緒に入る?」

 さりげなく言ったが、夫はひらりと手を振って脱衣所へ入って行ってしまった。すれ違った一瞬、体臭に混じってにんにくと脂の匂いがした。

 同じ部屋で暮らしていても性的なことが起こらない、という点では清夏の暮らしと変わらないな、と皮肉な笑みが浮かぶ。そんなに私って女性として魅力に欠ける? 飽きたの? そそられない? ――居丈高に言い放ってしまいたい衝動に駆られる。生理前なのだろうか、ほんのり体温が高く身体の真ん中がちりちりと熱い。けれど夫の指にしろ性器にしろ、彼の一部が押し入ってくることは今晩もないだろうと強くつよく確信する。

 夫からセックスを求められることがめったにないのは、あの頃の罰なのかもしれないと時々考える。もしひとりあたりの生涯のセックス回数が決まっているのだとしたら、とっくに使い果たしたと言い切れるくらい、してきたからだ。

夫には言っていない。「大学時代に二人と付き合って、そのうちの一人と長く付き合ってたんだけど、その人と別れてからは仕事ばっかりだった」と説明している。確かに特定の恋人を持つことは数年なかったが、その間、男ととことん寝た。それはもう、やりまくったとしか言い表しようがないほどに。

結局、付き合っていない男と寝るかどうかというのは、コンビニ弁当を食べて廃棄するか捨てて廃棄するかの違いでしかないのかもしれない――というのが一通り男と寝るということをためして伶の中で生まれた持論だ。

 男遊び、と呼ぶにはあまりにもしずかで、ちまたにあふれかえっていることだったと思う。特別性欲が強い方ではない。それでもやめられなかった。生理が遅れればすぐに薬局に飛び込んで妊娠検査薬を試し、違和感を覚えれば婦人科で性病検査をした。われながらばかなループに取り込まれていることはわかっていた。けれど安心すればまた、同じことを繰り返した。

 長く付き合っていた遼一と皮膚を引き剝がすようにして別れたあと、ぽっかりと休日が暇になった。男女ともにヤリ目の人間しかいないとネットで揶揄されているアプリをインストールして、適当にプロフィールを埋めた。顔がはっきりとは映っていない、スタイルしか判別できないような写真しか載せなかったのに、誘蛾灯に集まる羽虫のように男たちからのいいねが押し寄せてきた。身体をひらく意思があるということをほんの少し会話に滲ませただけで、彼らは伶にとてもやさしくしてくれた。可愛いと囁き、スタイルが良いと褒め、もっと仲良くなりたいと熱いまなざしで顔を覗き込む。そしてホテルか部屋へ移動する。

起承転結が決まりきった四コママンガを繰り返しているだけなのに、なぜかやめられなかった。口説かれるまでの過程はそれなりに楽しいのに、肝心のオチはいつも大したことはなく、それどころか「早く終わらないかな」と思いながら気だるく天井を見つめている。それ何にまた、アプリをひらいてめぼしい相手からコンタクトが来ていないか確認する。いつでもやめられる、と自分に言い聞かせなければ正気を保っていられないほど、まさしくあれは一種の中毒だった。

束縛気味の恋人ができて、やっとやめた。やめられないのでは、と思っていたけれど、早い段階でなし崩しに半同棲生活になったこともあり、目をかいくぐってまでしようとは思えなかった。結局その男とは向こうの浮気が原因ですぐに別れたけれど。

 話を聞く限り、夫にはいわゆるワンナイトもしくはセックスフレンドを持った経験は若い頃を含めてもあまり経験がないようだ。もてるタイプじゃないからさ、とおどけていたが、そういうことではないんじゃないかとうすうす疑い始めている。生活にセックスがなくても平気なのは、根底に自己肯定感がしっかりと敷かれているからなのではないか。きっと本人に言えば、「突飛すぎるよ」とあきれられるのだろうけれど。

 それは、今日電話していた清夏にも言えることだ。

「住まわせてもらってる人とは寝ていない」という清夏に、思い切って「どうしてしないの?」とたずねた。

清夏は「どうしてって」と口ごもった。「どうしてだろうね。まあ、そういう雰囲気にはいまのところなってないかな」

「雰囲気……」うまく飲みこめずにいると、清夏が言った。

「私も、男性の家にお世話になるからにはそういうことになるかなとは覚悟してたんだよ。でも何も起こらなかったから、そういう人なのかなって。奇特な人だよね。まあ、私がタイプじゃないか、彼氏がいることも知ってるからそういう気にならないだけかもしれないけど」

 言外に余裕が感ぜられて、勝手にいらだちを覚えた。「彼氏からその人に乗り換えちゃえば」と無責任に混ぜ返すと「気は合うけど、その人とはそういう関係にはならない気がする。仲いい親戚のおじさんの家で暮らしてるみたいな感覚」と返ってきた。セックスすることによって二人の関係があっさりと変色してありがちな色恋に終わればいい、と話を聞きながら自分が意地悪く考えていたことに気づいて、かっと顔に血が集まる感覚があった。素知らぬ顔で話を変えた。

 自分がもし清夏と同じように、独身で、男の家に世話になるとしたらまっさきに寝ただろうと確信できる。彼らの関係性がどういうものなのかは今一つ要領を得なかったが、もし伶が同じように三日も男と暮らしていたら、間違いなくすでに寝ていた。そうしなければ不安だからだ。異性と一緒に生活していて、寝てもいないのに間が持つのが信じられなかった。

 記憶のかぎり、伶が家やホテルに行こうと男に誘われて断った経験はほとんどない。したいと思わなくても、欲望をちらつかせられればついていった。

 初めは、自分の若さや容姿や雰囲気が男の欲望をかきたてるから誘われるのだと思い込んでいた。けれど、さみだれに男と性を交わすことが生活から遠のいて、やっと気づいた。

そうではない。この女は断らないだろう、強く言えば流されるだろうと皆見抜いていただけだ。廃棄されるコンビニ弁当を渡されて何の感慨もなく食べているつもりが、自分もまた同じ廃棄弁当だった。それを彼らはするどい嗅覚を持って嗅ぎ当てて声をかけてきた。それだけのことだ。

それに気づいたのはすでに結婚してからだったのは、まだ幸運だったのだと思う。もしまだ決まった相手がいなければ、ますます自己肯定をまだ見ぬ相手に委ねにふらふら彷徨っていたに違いない。


 土曜日、久しぶりに昼間から夫の時間が空いたので車で出かけた。

海が見えるイタリアンレストランは、ファッション雑誌の編集をする同僚に「茨城移住するならここがおすすめだよ」と教えてもらった店だ。「なんか、結婚する前みたいだね」と笑いかけると「こっち来てから昼に一緒に出掛けるの、いつぶりだろうね」と夫も笑った。

「子供つくろうとか言ってこのざまだもんなー。しばらくは厳しいかもな」

「きっとあかちゃんができたらこんなふうにデートするのもおあずけだよ」

 反論されるかと思いきや、そうだろうな、と夫が呟いた。レストランは混んでいたが、予約をしていたので窓際の席に着くことができた。

「そういえばおふくろの誕生日にスカーフ送ってくれてたんだって? すげええよろこんでたよ。ありがとうな」

「ああ、電話でお礼言われたよ」

「スカーフだけじゃなくて手紙も入れてたんだろ? プレゼントじゃなくてそっちに感激してたよ。実の息子からはもらったことないのに、つって」

「ものだけ贈るんじゃあまりにもそっけないし、日ごろお世話になってるから」

 ランチのメニューを広げ、海老とトマトのパスタのランチセットを頼むことにした。「私パスタにするからピザ頼んでほしいなあ」と言うと「ちょうどピザ食べたいと思ってたよ」と夫が微笑む。

 レモンの香りのする水を口にしていると、「きっとお母さんの教育がよかったのねっておふくろが言ってたよ」と夫が言った。差しこんでくる真昼の陽射しを眩しがるふりをして、目をほそめた。

「そんなことないよ」

「もちろん伶がしっかりしてるのは伶ちゃん自身の努力なんだろうけど、厳しく育てられたっていうのは、俺は知ってるからさ。俺とか、俺の家族の前でもいい娘であろうって気を張ってるんだとしたら、もうちょっと力抜いてもいいんじゃないかって、ちょっと心配になった」

「そんなことないよ。義務としてお母さんにプレゼント送ったわけじゃないし」

「いや、それはわかってるよ」慌てたように言う。「ただ、前に伶ちゃんが言ってたことが気になって」

 ランチセットのサラダが運ばれてくる。サニーレタスのフリルが夏の光でふちどられているのに目を奪われていると「お母さんに嫌われてたって、引っ越しの時に言ってただろ」と夫が言った。覚えてたの? と素で驚いて訊き返すと「あたりまえだろ」と少し傷ついたような顔で言い返された。

「もしかして、それで伶ちゃんは子供を持つことに積極的になれないんじゃないかなって、思って」

 ピザとパスタも運ばれてきた。湯気を立てるそれらは絵本から飛びだしてきたみたいに鮮やかな色をしている。

「そうだね。正直それが大きいかな」

「そっか」

「あなたのお母さんのことは、忖度なしに本当に心から大好き。お父さんも。もし、ああいう両親のもとで生まれてたら子供を持とうって思えたかもしれない」

夫は何か言いかけた。けれど、それは言葉にはならない。

夫に、具体的に母親との間にどのような確執があったかは話していない。教育熱心に度が過ぎる教員の母親に厳しく育てられてきた、くらいにしか夫は考えていない。マンション経営で充分経済的に余裕のある両親のもとでのびのびと育ってきた坊ちゃんである夫に話すことがためらわれた。

同情されたくないのでも、母親を軽蔑されるのが怖いでもない。ただ、理解しあえないのは確かで、それが明確になってしまうことが怖かった。

 夫の前の婚約者である遼一もまた、夫と同じように、理解のある両親のもとで愛情を湯水のように浴びせられて育ってきた人だった。臆面なく「尊敬する人は父」と言える、そういう育ち方をしていた。

遼一と旅先の展望台へ出かけた時、たまたま帰りのエレベーターで乗り合わせた親子が子供をひどく叱りつけている場に遭遇したことがあった。五歳くらいの男の子を、母緒がものすごい剣幕で怒鳴り、ぎゃんぎゃんと火のついたように子供は泣き叫んでいた。エレベーター内は異様な空気に包まれ、伶は誰とも目を合わせないように壁をぼんやり眺めてやり過ごした。先に親子連れが降りていって、ぎこちない空気だけが取り残された。

「……すごかったねー今のお母さん」

 何も触れないのも不自然かと思い、そう声をかけても遼一は無言だった。眉をひそめてむっすりと黙っているので、遼一? と呼びかけると「ありえないでしょ、あんな小さい子供にさあ」と低い声でぶつぶつと言う。「可哀そうで見てられなかったよ」と不愉快そうに吐き捨てるので、ふっと意地悪な感情が内側からぷつぷつとあぶくのように湧きあがり、くちびるがむずつくのを感じた。

「そうかな。私の家もあんな感じだったよ」

 え? と遼一が顔をひきつらせた。エレベーターが一階につき、地上についた。白い陽射しに目を灼かれながら、駐車場を目指して歩きだす。

「何してもお母さんに怒鳴られたし、可愛がられた記憶なんてほとんどないよ。毎日親の顔色疑って、機嫌が悪ければ何しても叩かれた」

「……そうなの?」

「私、勉強はできる方だったけどお兄ちゃんが天才型っていうか、そこまで勉強しなくてもぜーんぶ百点、オール5、みたいな子供だったんだよね。でも私は努力して努力してやっと平均点八十五点とか九十点を出すタイプだから、母親の考える及第点は一向に越えられないわけ」

「そうなんだ」

 車にたどり着き、助手席に乗り込む。遼一が妙に顔をこわばらせて言葉少なになっていることには気づいていたが、被虐心めいた気持ちが止まらなかった。

「いまだに小学生とか中学生の頃の夢見るんだよね。悪い点数の試験を隠そうとして、捨てたはずなのに居間に置いてあって血の気が引く夢とか、模試の結果が悪くて家に帰れなくて川に捨てるかどうか迷ってるとか、そういうの」

 遼一は黙っている。伶は勢いが止まらなくなった。

「高校生くらいかな。親に殴られたり怒鳴られたりしたことない人がいるって知った時びっくりしたよ。しかもそっちの方が大多数なんだよね。私が勉強を頑張ってきた理由って、誰かに勝ちたいとか良い順位を取りたいとかじゃなくて、母親に怒られたり殴られたりするのが怖いから、っていう動機しかなかったから」

 いかに自分の子供時代や家庭が母親の絶対王政で成り立っていたか、ぺらぺらと話した。あんなことをされた、こんなことをしてくれなかった、どちらかといえば過保護気味なくらいやさしい母親のもとで育ったらしい遼一が知らない世界の親のエピソードなどいくらでもあった。

初めのうちは「可哀そう」「厳しいね」と相槌を打ってた遼一は、しだいに何も口を挟まなくなり、完全に黙り込んでしまった。それでも得意になって話し続けていると、「あのさあ」と遼一が低く切り込んできた。急に冷たいフォークでもあてられたみたいに心臓がひやりとして、口をつぐむ。

「もうさ、伶も大人じゃん。いつまでかわいそうぶってるの? それは伶が子供の時の話でしょ。親元で暮らしてるわけじゃないんだし、いいかげん自立したら」

 一瞬、何を言われてるのかわからなくて「え?」と訊き返してしまった。

遼一は、むっすりと顔を顰めて「憐憫してほしいのもわかるけど、そういうのってかっこ悪いよ。もう大人なんだから」と繰り返した。

いつまでかわいそうぶってるの。かっこ悪い。大人なんだから。言葉がばらばらの破片となって耳に届き、みるみるうちに自分の顔に熱があつまるのを感じた。さっきまでしゃあしゃあと饒舌に、母親がいかに自分に厳しくあたってきたか、理不尽な暴力を幼い頃からふるわれてきたかを語っていた自分の声の余韻がよみがえり、舌を噛みちぎりたくなった。

 親に愛されてきた遼一に、けっして愉快とは言えない自分の話を聞かせることで何がしたかったのだろうと助手席に沈み込むようにして凭れかかりながらぼんやり考えた。彼の言うように、憐憫や同情を引きたくて話したつもりではなかったけれど、でもそう聞こえてあたりまえだろうとも思うし、実際には遼一は自分を憐れんだり慰めるのではなく、いい歳になってまだ親の仕打ちに怒りを覚えて傷をみせびらかそうとする伶に辟易し、うんざりさせただけだった。

猛烈に恥ずかしかった。怒りや悲しみや驚きや動揺が、一緒くたになってどす黒い絵の具のように胸を塗りつぶし、さっきまでの自分の振る舞いが速く過去へと流れていくことだけを考えた。愛されて育ってきた人に、自分の過去や親や受けた暴力について明かしたり話すのは金輪際やめよう、と誓った。

もちろん遼一があとになって伶に家庭や母親のことをあらためてたずねられることはなかった。訊かれるということはあの時の自分を遼一が覚えているということだからふれられないことに安堵していたのに、同時にひどく傷ついた。

なかったことにされている、と感じた。遼一はあくまでも、自立していて、天真爛漫で、傷を治癒したあとの、自立している伶としか付き合いたくないのだと、わかったからだった。

夫には、「母とは昔から折り合いが悪いの」くらいにしか伝えていない。

母親からされたことを通して、自分まで何かを疑われるのがどうしても怖かった。二度とあんな思いはしたくない。


5 氷上清夏

 金曜日に景介から【うちに泊まりに来ない?】と連絡があったので、「彼氏の家に行ってきます」と檜山に断って家を出た。戻ってくるよね? とも向こうの家に移るの? とも言われなかった。「うん」のひと言だった。

 赤坂からの方が景介の住む品川まで出やすかった。改札で待っていた景介は、髪を切って少しさっぱりしていた。こちらに気がついて「お疲れ」と手を振る。

「景介君と会うのひさしぶりだね、なんか」

「そう? いつも会うの週一とかだったじゃん」

こっちが勝手に一週間を長く感じただけだったらしい。「生活、がらっと変わったからなんか新鮮で」と流しておく。

 焼肉でも食べる? と言われたけれど、ゆっくり話せないと思ったので普通の居酒屋にした。運よく個室に通されたので混んでいるわりにはしずかだった。

 ひととおり注文を終え、友達とのルームシェアについてあれこれ聞かれた。「一緒にピザ取って食べたり、なんか大学生の飲み会の延長みたいな感じだよ」と適当に話を合わせておく。誰がライブチャットの客の家に厄介になっていると想像するだろう。景介は「へー、なんか楽しそうだね」と相槌を打ちながらも、台詞と表情がちぐはぐに思えた。いつ解消するのか訊きたいんだろうな、と察しつつも、別の話題にすり替えてこたえなかった。

「景介君はどうしてたの。いつも通り?」

「そうだね」そっか、と呟いてモヒートで流し込む。混んできたのだろうか、仕切り戸越しに会社員の団体らしい大きな笑い声が聞こえてきた。

「ね、景介君ってどうして子供が欲しいの」

景介は、ゆっくりと目をまばたきした。

「改めて訊かれると難しいな。僕にとっては、すごく当たり前のことだから」

当たり前、という表現がすでに耳に引っかかったものの、こんなところで揚げ足を取っていたら話が進まない。

「じゃ、学生くらいから意識してたの?」とたずねると「そうだね。いなくてもいいと思ったことは人生で一度もないしこれからもそうだと思う」と頷いた。

話の展開次第ではそのまま別れ話につながりかねないことを景介もよくわかっているようだった。表情は暗いとまでは言えなくとも、どこか硝子のような硬質さを孕んでいた。

「僕がもし、自分のエゴを最優先して人生設計するとしたら、たぶん子供を持つっていう選択肢は真っ先に除外されると思うんだよね。結婚ももしかしたらそうかもしれないけど、子供持つ持たないに比べたらかかるコストが違いすぎるから、子供を持たない夫婦っていう選択肢も選ぶかもしれない。養育費にかかる全部のお金を自分たちの楽しみに全部費やして、旅行とか買い物とか、我慢せずに楽しむ、っていう生活の仕方も選択肢として、あるよね」

「うん」

「でも、もし僕の両親が、自分たちのエゴや欲望を優先する人生を選んでいたら、僕は生まれなかったわけじゃん。せっかく紡いできた命の連鎖を、自分のエゴで断ち切るのはなんというか、こわいし罪悪感がある」

共感しているわけでも、完全に理解できたわけでもないけれど、小さくうなずいた。どうして罪悪感があるの? と深掘りしたところで、おそらく生理的な感覚だろうから、これ以上噛み砕いて説明してもらうのは不可能だろう。

「だから、親とかもっと前の代の先祖から受け継いできた命の連鎖というかリレーを止めたくないんだよ。これは、僕個人のエゴで止めていいものじゃない」

清夏はテーブルに目を落として、「エゴ?」とごく小さく呟いた。耳聡く景介が拾い上げて「そう、エゴ」と言い直す。

「……じゃあ、自分たちの生活や趣味を優先して子供を持たずに裕福な暮らしをしている人たちは、エゴなんだ」

 言い方に棘を感じたのか、景介は「そこまでは言ってないけど」とやや強く声を張った。「でも、僕はそういう生き方を選ぼうとは思わない。そういう人たちを批判しているとかじゃなくて、価値観が違うなと思っているだけ」

 エゴ、という言葉を当てはめている時点で批判的かつ差別的なまなざしが透けていることにこの人は気づいていないんだな、と思いながら「そう」と頷く。

「だから、子供が欲しい。僕個人の望みっていうよりも、親とか、先祖とか大きな枠組みの中での希望っていう感覚かな」

 子供が欲しいという気持ちは希望で、子供を持たない生き方はエゴなのか。  となれば、子供よりも優先すべき事項と清夏が考えるかぎり、〈小説家として自立する〉という目標も景介の言い分ではエゴなのだ。

もちろん彼が清夏の夢や目標を「エゴ」として捉えているわけではないというのはわかっている。子供を持つということに賛成するイコール夢を捨てさせられることだと思っているわけでもない。むしろ、彼は夢を追っている努力家の自分が好きなのだ。そして同時に、自分の子供をもうけてほしいと同じだけの熱量で思っている。彼の中でそこに矛盾は生じていない。そんな無謀なジャグリングを実現できる人間など、どれぐらいの確率で存在しているのか思いをはせていないというだけなのだ。

「……受け継いできた命とか遺伝子を未来につなぐことって、そんなに大切?」

口調には気をつけたつもりだったけれど、空気が固く引き締まるのを感じた。そもそもどうしてそんなことを疑問に思うのかわからない、という顔をして景介は自分を見つめていた。

「大切だよ。理由を考えたこともないくらい、大事なことだよ」

 だったらもし無精子症だったらあなたの生や人生には意味がないってことになるけど、それはどう考えているの? ――よほど訊いてしまいたかったが、ぐっと我慢した。この期に及んでまだ、景介と別れる踏ん切りがつかなかった。

経済的に自立さえしていれば、男の人ありきで人生設計を立てずに済んだだろうに。もはや自分がしがみついているのは風に吹き曝される脆い掘っ立て小屋のようなものだとしても打ち壊すことができない。それが今の自分の状況だ。

「でも……妊娠出産をするのは、女性でしょ。産むかどうかも決めるのも女性じゃないの」

「え?」景介はぽかんとしていた。

「男の人が決められる範疇って、もっと手前の段階までなんじゃないかな」

 すると、景介は一瞬黙り込んだ。そして言った。

「要するに清夏は、男はもっとしたてに出るべきだと考えてるんじゃないの」

ぎょっとした。指摘する景介の口調は、どこか得意気にすら聞こえた。

「そんなこと」

「要するに」景介は言いかけた声を無視した。「産めない性別のおまえが、えらそうに指図してくる権利なんてない、もっと女性を敬った態度を取ってへりくだった上で『産んでください』とお願いするべきなんだって思ってるんじゃないの。違う?」

違う、と言い返そうとして口をつぐむ。

景介の言い草はあまりにも嫌味を孕んでいるが、かといって自分が主張していることとどう違うのか、わからなくなった。景介がもっとしたてに出ていれば発言の揚げ足を取るような真似をしないで済んでいたかもしれない――本当にそうなのだろうか? 逆に、景介と結婚したがっていた頃の自分は彼にへつらっていただろうか、あるいはへつらうべきだったのだろうか。この発想が出てくる時点で、彼への敬意も愛情も打算抜きには存在していなかったことの証明でしかないように思えて、頭から消す。どうにか言葉を絞り出した。

「したてに出るべきだとは思わない。けど、産む側とそうではない側で公平だとも思ってないかもしれない」

「どうして公平じゃないの?」景介は素で驚いたのか、眉毛を跳ねさせた。「両方がいないと命は誕生しないのに」

遺伝子を二分の一ずつ出し合っているのだから妊娠出産において権利は男女平等というのが景介の考えらしい。まるで居酒屋の勘定だなと思ったものの、あまりに険があるので口にはしなかった。

「公平ではないんじゃないかな。身体の見た目が変わるのも、つわりで具合が悪くなるのも、痛い思いをするのも、こっち側、なんだし。それに、下手すれば出産で命を落とす可能性だってないわけじゃないんだよ。私が妊娠したとして、景介君が死ぬことは絶対にないじゃん」

「……それもそうだね」

 ごめんと謝られたものの、自分が言いたかったことと微妙に違う気がしてなんとなく腑に落ち切らない。出産が一か八かの博打的な要素を含んでいることは事実でも、それだけを指して〈出産は公平じゃない〉と主張しているのではないのだけれど、なんとなく、景介には伝わり切っていない気がした。

なんとなく話はそこで尻切れとんぼになり、景介がすべての会計を済ませた。

色気からもっとも遠いやりとりをしていたにもかかわらず、家に着くと景介はいつもと変わりなくセックスを求めてきた。自分のことを愛しているという証なのか、むしろその逆なのか、何もわからなかった。気持ちがのっていないにもかかわらず断らずに無難に甘ったるい声を適当にあげて揺さぶられている自分が一番嘘つきなのはよくよくわかった。

もう時間がない。この身体にも、人生にも、期限がついている。


「それでこの家に戻ってきたわけね。もう別れたらいいじゃん」

 檜山はゲーミングチェアに深く座って肩をすくめた。清夏は力なく首を振る。

「この先に結婚っていう選択肢はないと思ってます。でも、思いきれなくて」

 我ながらばかみたいなことをしゃべっている、と思い小さく唇を噛む。自分が若ければ、小説家でなければ、貧乏でなければ。そのどれでもないから、別れを自分から切りだす勇気が出なかったのだ。

「……ただ、今日大家さんからも連絡があって。来週の水曜日には、壁紙の張り替え作業と清掃が終わるらしいので、家に戻る目途が立ちました」

「そう、よかったじゃない」

「今まで長々とお世話になりました。あの、少ないですけど今までの食費です」

 封筒を差し出すと、檜山はちらっと見ただけで「いらないよ、お気遣いなく」とひらりと手を振った。

「でも」

「そもそも、君がここに住むのも俺が勝手に提案したことだから受け取れないよ。しまって」

強く言われて、これ以上食い下がる方が失礼な気がして鞄に封筒をしまった。

「で、水曜日にここを出るつもりなの?」

「はい」

「別に、いたけりゃずっといてもいいよ。俺、家と会社の往復だから基本的に使ってないし、出張もわりと多いし。無害だったでしょ?」

 意味をはかりかねて、清夏は曖昧に首を傾げた。

「無害っていうか、存在感は確かにあんまりなかったですけど」

「でしょ? よく言われるよ」――ということは過去にも自分のように家にころがりこんできた赤の他人がいたということだろうか、とちらりと思う。

「檜山さんってなんで私にやさしくしてくれるんですか」

 言葉にすると、まるで陳腐なメロドラマの登場人物みたいでなんだかくちびるがむずがゆかった。檜山は「何、急に」と口を歪めて煙草を取り出した。換気扇の下に行って火を点ける。

「すみません。私、下心なしに異性から親切にされた経験ほとんどないんです。だから、てっきり泊めてもらう以上はそういうことするのかなって初めは檜山さんのこと疑ってました」

咄嗟に口走りながら、顔に熱が集まるのを感じる。すごく恥ずかしいことを明かしてしまったんじゃないかと思って檜山の顔を見られずにいたら「そんなもんでしょう。若い女の子なんて」とあっさりとした温度の言葉が返ってきて、頬に雫のように溜まっていた熱がゆっくりと流れていくのを感じた。

「男が女の子にやさしくする時に、下心がない奴はまずいないよ。表面に出すか、出さないかの違いがあるくらいで」

「……やっぱ、そうなんですかね。今、自分で言いながら自分でちょっと傷ついたんで、そう言ってもらえるとなんかほっとしました」

檜山はふっと笑った。煙がゆるく彼にまとわりつく。

「性欲は全くないわけではないんだよ。実際あのサイト使ってはいたし。でも、他人を巻き込む必要があるほど逼迫してないし、経験値でわかっちゃってるんだよね。自己処理の方が楽だし向いてるってことが」檜山はリビングに戻ってきて向いのソファに座った。「だから、君が言うところの見返りを俺が要求することはないから安心してよ。いたいだけ家にいたらいいし、出たい時に出ればいい」

「それって檜山さんに何かメリットがあるんですか」

直球を投げても彼はひるまなかった。にやにやと口元をゆるめて「君はメリットがないと人にやさしくしないの?」と意地悪く言う。

とんと胸を指で押されたように、一瞬間を置いた。今何か反論しても嘘くさく響きそうだな、と思いながらそばにあったクッションを引き寄せ、言葉を選ぶ。

「長い関係性がないなら、そうだと思う。少なくとも、私たちそこまで長い付き合いがあるわけでも信用関係があるわけじゃないから。さっきは聞き流しちゃったけど、利害関係がある以上、やっぱり友達っていうのも少し違う気がするし」

言葉を選びながら口にする。檜山はうん、うん、とうなずいて、「確かにね」と言った。「でも君にやさしくするメリットが全くないわけじゃないよ」

「なんで」恩を売れるとでも思っているんだろうか。まさか。

「うーん。たとえ性的なこと抜きにしても、誰かと暮らすのってそれなりに楽しいじゃん。刺激になるしさ。俺ほっとくとどこまでも生活荒れちゃうタイプだから、人がいてくれた方が助かるんだよね」

あまりにあっさりした回答に、なんだか肩透かしを食らった。男だろうが女だろうが、誰でも代替は利くということでもある気がする。納得がいかずにむっすり黙っていると、「誰かつっても、そりゃもちろん汚いおっさんとかは無理だけどさ。そこはまあ俺にも選ぶ権利は多少あると思ってるけど」と続ける。

それでも腑には落ちなかった。要するにお金持ちにしか許されない道楽みたいなものなんだろうか、と無理やり型にはめてみようとする。

「何、不満げじゃん。君は俺とやりたいの? そういうわけじゃないでしょ?」

本人を前にして肯定するのも変かな、と思って曖昧に笑ってごまかすと、檜山は小さく肩をすくめた。

「不安にさせてたなら謝るよ。ごめん。でも、セックスしなくても関係性が成り立つなら、しないに越したことないっていうのが俺の持論なんだよ」

「……それって、寝ると関係性に終わりがくるとか、そういうこと?」

「そういう発想自体、俺からしたら青いな。まあ、近しいけどちょっと違うよ」檜山は子供をなだめるような、いつになく柔らかい顔つきだった。「セックスするってなったら、なんつうかなあ、嘘つかなきゃいけないじゃん。男も女も」

「嘘? 演技ってこと?」

「そう。恋人であれセフレであれナンパであれなんでもいいけどさ、やってる最中ってエロい雰囲気作んないと成り立たないじゃない。好きだよとか、異性として欲情してるよとか、なんでもいいけどさ、あれが俺、苦手なんだよ。さっきまで素でしゃべってて、笑いころげてたのに急にしっとりムーディな空気出されるとさ、なんか、むなしくなるんだよ。なんというか、それまで人対人として接してたのに、急にちんこと性欲だけを搾取されてるみたいで、いままでの関係性とか積み上げてきた時間全部嘘くさく思えてくる」

思い当たらないでもなかった。はるか昔、男友だちの家に泊まった晩、うっかりキスした時に、一番それを感じたかもしれない。

「わからないわけじゃないけど、それってどちらかといえば女性側の気持ちな気がする。檜山さんって意外と乙女メンタルだね」

「ま、俺自身そこまで性欲強くないからそう思うんだと思うよ。搾取されてるとまでは思わないけど、違和感はあるかな。もちろん、なったらなったでラッキー、って感じであっさりスイッチ入る時もあるけどさ。ある程度相手にリスペクトがあると、虚無感と違和感の方が強いな」

それって私に対して敬意を少しは払ってるってこと? と冗談めかして言うと、「じゃなきゃ泊めたりしないよ」と返ってきた。

胸がざらりとする。その違和感を掴みきらないうちに、檜山は思いがけないことをつづけた。

「じゃあさ、俺が無償で君に親切にすることによって罪悪感が湧いてくるなら一個だけ頼んでもいい?」 

「なんですか」

 内心、どぎまぎしながら訊き返す。檜山はほそい目をじっと清夏にあてた。

「君さ。俺の会社で働いてみない?」


6 桐原伶

自分は一体どうやって生まれたのだろうか。最初に疑問を持ったのは、中学二年の秋だった。

 もちろん、行為の意味を知らなかったわけではない。かといって哲学的な問いとして不思議に思ったのでもない。そうではなく、自分という生命が誰の意思で、どうして誕生に至ったのか、シンプルに経緯がわからないのだ。

 伶には歳の離れた兄・倫がいる。六歳離れているので、中学生の時点ですでに兄は大学生で新潟の実家を離れていた。なんとなく暇を持て余して、埃臭い兄の部屋に忍び込み、クローゼットの中をそれとなく眺めたことがあった。

 思いがけず整理整頓されたクローゼットには、分厚いアルバムがいくつもならんでいた。長男だから母親がはりきってつくったんだろう、と思いながら一番左端の、色あせたアルバムを引っ張り出した。几帳面な兄はやはり時系列順に並べていたらしい。女学生のようにおさげに髪を編んだ母親が、ほやほやと湯気が立ちそうなほど真っ赤な顔をしたちいさなあかんぼうを抱きかかえている写真がまっさきに目に飛び込んできた。お母さんにそっくりだね、と親戚からも友達からも言われる通り、色の白い瓜実顔、目鼻立ちの薄さや笑うと唇が大きく横に広がるところは我ながら似ていると思った。

 一枚一枚分厚いページをぱたんぱたんとめくる。今よりずっと若い母や祖父母、今とは違う家具が置かれた家の様子、見覚えのある玩具で遊ぶ赤ん坊の兄。

 おかしい。ページをめくる手が速くなる。埃が舞い上がり、噎せそうになる。ない。ない。どこにもない。

 父親の姿が、一切ないのだ。

 一つ目のアルバムをしまい、二冊目と三冊目を引っ張り出した。同じだった。ハイハイをしている兄やよその子供とじゃれている兄、それを見守るのは母と、母方の祖父母だけ――。【倫4か月 夜泣きが激しい】【倫初めてのお米に目をぱちくり! おいしかったネ】など、時々リンゴやハート型にくりぬかれた小さなメッセージカードで写真の説明があったが、すべて母親の字だった。

父の影は一切ない。あとから剥がされた、という形跡すらなく、ページごとにぎっしりと写真が詰め込まれていた。

アルバムを戻して自室に戻った。クローゼットの中から自分のアルバムの一冊目を取りだした。もどかしい手つきでページをめくる。

父親の姿はなかった。どこにも。

 自分のアルバムに父の姿がないことはなんとなく知っていた。小さな頃から何度か見ていたからだ。でも、兄のアルバムにもないということは初めて知った。

 物心ついた時から、父親の影が極めて薄い家庭だった。銀行マンの父が仙台で単身赴任をしていたためだ。伶が父親の住む仙台へ行ったことは一度もない。

 月に一度父親が自宅へ戻ってきても、母親と会話することはほとんどなかった。母親の前で父親と遊んだり話したりしていると機嫌が悪くなるので、父親に懐くことがないまま小学校にあがり、それ以降も父親と会話をする機会は一切なかった。

離婚すればいいのに、と思いはしたけれど到底母親には言えない。母親の前で父親のことを話題に出すのは桐原家ではタブーの風潮があった。お父さん、という単語を母親の前で発したことも記憶のかぎり一切ない。いるのに、いないふりをしなければいけない。母親の絶対王政が敷かれる桐原家で穏便に生活する上では必至のルールだった。

なぜ、兄のアルバムに父の姿は一切ないのだろう。全部写真を撮っていたのが父親だから、と考えるのが一番合理的かつ現実的なのだろうけれど、だとしても父親が映る側に一度もまわらなかったと考えるのは不自然だ。

そもそも子育て自体に父親は関与していない、あるいは関与を許されなかった。そう考える方が自然なのではないか。

 冷え切った両親の仲が、何が原因でいつからそうなったのかは知らない。けれど、アルバムをつくったであろう母親の意思が反映されているのだと、伶にはっきりとわかる。なぜなら十四年間、父を黙殺しつづける母親を見てきたから。

 いつから不仲になったのかわからないにしろ、せいぜい自分が生まれたあとのことだと思っていた。けれど、兄のアルバムを見るかぎり、それよりずっと前から母親は夫の存在を否定していたらしい。それなのに、兄が生まれて六年後に伶が生まれている。

 なぜ? どうして? どうやって? ――混乱しても、誰にもたずねることはできない。そもそも、両親の生々しい男女の面など想像もしたくなかった。けれど、疑念だけが取り残され、心に深く根を下ろした。

あの歪みきった夫婦の間で、どういう話し合いの元で子供が生まれてきたのか想像もつかない。誰の意思で私は生まれてきたんだろう、と時々考える。


 この街はファミリードラマの舞台みたいに整っている。そう思いながら、日傘を差してどうにか指定されたマンションへと向かった。

新卒時代、週刊誌で伶にメンターとしてついてくれた五歳上の中原さんがマンションを買ったから遊びに来ないか、と連絡をくれた。妊娠を機に休職しているが、それまではほとんど毎日のように一緒に食堂で昼食をかっこむようにして取り、取材のアポの取り方やメールの送り方、記事ができあがって週刊誌が発売されたあとのクレーム対応、謝罪で持っていくおみやげの選び方に至るまで指導してくれた先輩だ。 

「中原さん、元気かなあ。お子さん三歳だっけ」

「もう結構大きいよね。女性初のデスクになるかもって言われてたのに、もう編集に戻らないのかな」

一人で行くのも照れくさかったので、元同期で今は別の出版社で絵本の営業をしている千早を誘った。自分が担当した絵本をいくつも持ってきたらしい。

「いらっしゃーい! 二人とも久しぶり。暑かったでしょ、あがって」

 中から出てきた薄化粧の女性が、記憶の中の中原さんに結び付くまで一瞬間があった。手をつないでいる男の子は、現れた大人をじっと見て「こんにちは」と挨拶した。赤ちゃんっぽさはほとんどなく、イメージしていた三歳児よりずっと大人びている。

エアコンの効いたリビングに招かれる。アンパンマングッズやカラフルな玩具や床マットが敷き詰められ、まさしく子供がいるお家、という感じがした。

「彗汰っていうの。今年の五月から幼稚園に通い始めたんだ。去年から枠待ってたんだけどたまたま近くの社員寮が移動することになって空きが出て入れたの。ほーんとラッキーだった」

「ぼく、もも組で一番背大きいんだよ」

「そう。この子四月生まれだから、三月生まれの子と並ぶと全然違うの。年少さんの方が遊び相手が多いみたい」

 お母さんに似てしっかりしてそうですねと千早が大きくうなずくと、中原さんは否定しなかった。「お茶出すからすわってて」とキッチンへ向かう。手を洗うために先に洗面所を借りた。

「中原さん、まだバウムクーヘン好きですか? ねんりんどう行ってきたんで持ってきました」

「ありがとう! 大好き! 覚えててくれたんだね」

「前どっかのテレビ局の記事書いた時にクレーム入って、謝りにいく時に自分の分までちゃっかり買ってましたよね」

 あったあった、と中原さんが笑いながらアイスティーを出してくれた。ぼくも飲むー、とさわぐ彗汰君には「彗はこっちね」と中原さんがプラスチック製のコップを渡す。

「彗汰君、今日は何してたの?」

「ん。ご本読んでたよ。どろんこハリー」

 そう言ってリビングにあった絵本を持ってくる。もう字が読めるの、すごいねーと千早が声をあげると、「練習してるの、ママと」といばるでもなく言う。

「すごーい。さすが中原さん、英才教育してるんですか」

「そんな大層なものじゃないけどね。でも、子供を産んだ以上は選択肢をできるだけ持たせてあげるのが親の義務かなあとは思ってる」

 彗汰君は幼稚園のほかに英語教室とリトミック、ダンス教室に通っているのだという。「三歳でそんなにできるんですか」と驚くと、「言葉もろくに話せない一歳児からいるよ」と中原さんは肩をすくめる。へえ、すごーい、と千早と伶の声が揃った。すごーい、と彗汰君もにこにこしながら復唱した。

 彗汰君に誘われるがままアンパンマンのアニメをタブレットで見て、ひらがなを覚えるカードゲームの相手をして、自由帳にお絵かきをして遊んだ。三歳ながらいろんな習い事をしているだけあって、人見知りすることなく「この子知ってる? りんごちゃんっていうの」「ぼくしまうま描くの上手いんだよ」とあれこれ話しかけてきた。中原さんはにこにこしながらそれを眺めていた。


「楽しかったのって、この距離感だからだよね」

 電車に乗りこんだ途端、ぼそりと千早が呟いた。来た時も思ったけれど、やはり子供連れのお母さんや家族が多い駅だ。

遊び疲れた彗汰君が寝入ってしまい、やっと中原さんとゆっくり話せると思いきや四十分もしないうちに彗汰君はぐずりながら起きてしまった。玩具や絵本であやしても、機嫌はなおらず、ぐずぐずと中原さんの胸に顔を押しつけるようにして泣きつづけた。「ごめんね、ちょっと疲れたみたい」と中原さんが困ったように彗汰君を抱いて、こちらが言いだすかたちで家をあとにした。

「そうかもね。最後ぐずって泣いちゃってたし……今頃ワンオペで彗汰君見ながら夕食の支度してるんだろうね」

「うわぁやっぱり無理だー」と、千早は失礼と言えるくらいはっきりと頭を抱えた。「先輩の子供と半日遊んどいてこの感想って最低すぎるってわかってるんだけど、再確認した。子供いたら楽しいだろうし幸せなんだろうなとはもちろん思うけど、自分ができるとは思えない」

 千早のあまりにも率直な感想に、むしろほっとした。「本当それ。中原さんはすごいよ」と相槌を打つ。

「編集ってまあみんな似たようなものだとは思うけどさ、大概はワーカホリックみたいなところあるじゃん」

「そうだね」

「中原さんなんてその最たる人ってイメージがあったからさ。あっさり専業主婦になって三年も経つのってすごいなって思った。いくら旦那さんが稼ぎあるからって言ってもさ」

中原さんが三年前にバツイチの大手電機メーカーの部長と電撃結婚したのにはびっくりしたけれど、さらにそれができちゃった婚だと知って仰天した。あれだけのキャリアがありながら専業主婦なんてもったいない、と咄嗟に口走りそうになって慌てて「その方が子育てに集中できますもんね」と言い換えた。中原さんは「結婚はどうでもよかったんだけど子供はほしいって思ってたからさあ」とからっと笑っていた。

かつて慕っていた上司のお子さんは想像していたよりずっと可愛かった。内側からランプが点ったように桃色に照るまんまるな頬っぺた、ほよほよと頼りない栗色の髪の毛、むっちりと肉の輪ができた小さな手足。抱っこすると、つむじからはなぜか西瓜のような水っぽい匂いがした。あ、子供の匂いだ、と思った。

「三年間、平日はほぼワンオペで育児かあ。すごすぎるよね」

「ね。わが子とずっとふたりっきり、ってだんだん気狂いそう。言葉通じる前はもっと大変だっただろうね」

 散々家で「可愛い、天使」「小さい子がいるだけで癒されます」などと言い合っていただけに、大人二人だけになった途端こんなことを言いかわすのは少し後ろめたい。けれど、この感覚を分かち合えるだろうと確信していたからこそ、千早に「一緒に中原さんちに遊びに行かない?」と誘ったのだ。

 電車の窓から川が見えた。自然と都会のいいとこどり、と駅のホームの不動産広告で謳われていた通り、初めて降りたけれど新しい建物が多く、住みやすそうな街だった。そのぶんなんとなく、全体的につくりものめいたよそよそしさが拭えない。思い込みだろうか。

「あらためて思った。やっぱりよその子供だから無責任に可愛いって思えるんだと思う。叔母のポジションで可愛がるのが一番らくなんだよ」

「わかる。今日味わったのって楽しいところだけだもんね」

 千早は今付き合っている人はいないらしい。そもそも学生時代からあまり恋愛に興味がなかったそうだ。新卒時代の飲み会で、「男の人と何かするより、自分一人で映画観たり旅行行ったりするほうが楽しい」と話すのを聞いて、当時は変わった子だと思っていた。見た目はむしろ相当綺麗な部類だし、異性から声をかけられる機会も多かったはずだ。それでも、千早の浮ついた噂は一つも聞かないまま転職していった。

結婚した今になってからわかる。千早の生き方がどれほど稀有で眩しいものなのか。今となっては、人に依存しない彼女が眩しく思えてたまらない。

「伶、子供はちょっと、って結婚前に言ってたけど今も考えは変わらない?」

ちらりと千早が伶の左手の指輪に目をやる。

「子供は嫌いじゃないんだけどね。本当に可愛いなーって思ったし、自分の子供だったらそれこそ気が狂うくらいいとしくてたまんないって思う。でも、産もうって覚悟はとうてい湧きそうにない」

「そうだよねー。当事者になれるかは、雲泥の差があるよ」

 中原さんから子供ができたと報告をされた時、もちろん祝福したけれど、一緒に働いていた上司が自分たちとは違うフェーズに人生を移す決断をしたということが無性に寂しかった。これからは気軽にお茶や飲み会に誘えなくなる、とか会う頻度がぐっと下がる、ということよりも、同じような生活を送っていた上司が自分の人生を肯定して、主役を子供に明け渡すことに踏み切った、ということで、どうしようもなく遠いところへ行ってしまったような気がしたのだ。対岸の遙か向こう側へ渡ってしまったようで。

きっと伶が目の前を横たわる広く大きな川を渡る日はない。

「っていうかちょっと意外だったな」千早がほんのりと含み笑いしていた。

「何が」

「お子さん、まだ三歳なのにあんなにたくさん習いごとさせるタイプなんだ、って正直思っちゃった」

「ああ」もちろん伶も何も胸に浮かんでこなかったわけではない。けれど、「子供に選択肢をできるだけ持たせてあげるのが親の義務」と話す中原さんの気持ちも、もちろんわからないでもなかった。

そう言うと、千早は「ま、それはそうなんだけどね」と口を尖らせる。「ただね、私の親もああいう、タイプだったから」

「そうなの? 小さい時からたくさん習いごととか勉強させられてたの?」

 させられてた、という言い方の時点で少し棘があるな、と口にしてから思う。

「そうだよ。もちろんありがたいことだとは思うし、そのどれかは今でも血肉にはなってるんだろうけど……私がもし、親が期待する方向への興味を持たなかったり何も器用にできない子供だったら、しんどかっただろうね」

「千早が?」

「親も私も、両方だよ」ときっぱりと言う。「私はたまたま勉強が苦じゃないというか、ぶっちゃけできる子供だったからよかったけどさ。弟はそうじゃないタイプで、今はとび職みたいなことしてるのね」

 初めて聞く話だった。へえ、と相槌を打つと、「意外でしょ?」と表情を読んだように言う。「両親も私も大学出てるから、なんならお父さんは院も出てるからさ、弟のことはなんというか、一家のバグみたいな扱いなんだよね。工業系の高校しか受からなかった時から、理解の範疇を超えた存在として扱ってると言うか。もちろん、弟自身は気さくで友達も多くて、いつも彼女がいて、私なんかよりよほど楽しそうな人生なんだけど」

「うん」

「親としては、相当がっかりしたみたいね。期待してあれこれお金かけて育てるのを悪いとは思わないけど、勝手な話だよね。もちろん人様の子育てを批判するつもりは全然ないんだけど」

 それ以上千早は続けなかった。けれど、まだ自我もおぼつかない彗汰君に、両親から並々ならぬ期待がかけられているのを垣間見て自身の家庭を思いだしたのだろう。

「結婚とか出産って、すごいな……」

 思わず呟く。「あんただって人妻でしょうが」と千早が突っ込む。そうだけど、と心の中で返す。

自分は向こう側へは行けない。行きたいと、思えない。ほやほやと湯気を立てるつきたて餅のように温かった慧汰君の感触がふっと腕のあたりによみがえる。

――子供を産むことの良さって、この子を通して自分も子供時代を再体験できることだと思うんだよね。

三歳になるわが子を抱きながら中原さんがしみじみとつぶやいた時、じゃあなおさら無理だ、と思った。

私には子供を育てることができない。再体験したい子供時代なんて、一瞬もないのだから。

 二人とも言葉少なになり、「そういえば、言うの迷ったんだけど」と千早が切りだした。伶が降りる渋谷駅まであと二駅だ。

「伶がトイレに行ってる時、中原さんが言ってたんだよね。もしかして桐原ちゃん、妊娠してるのかな? って」

「へっ」

青天の霹靂だった。一拍おいて、なんだか失礼だなと思ってむっとする。   

千早は「いや、行きの電車では何も聞いてないですよって言ったら、そうだよね、むしろ子供はあんまり持とうと考えてないって言ってたもんね、ってすぐ打ち消してたけど」と慌てたように顔の前で首を振った。縁起でもないこと言わないでよ、と口走りそうになって、それこそいくらなんでもひどい言いぐさだ、と思って飲みこむ。

「ねえ、どうして私が妊娠してるって中原さんは思ったの? 私もしかして太ったかな」

 結婚して最初の一年は数人に「幸せ太りしたんじゃない」と指摘されることもあったし、実際三キロほど太った。けれど、ある程度食事制限をしたおかげで今は中原さんと一緒に働いていた頃と同じ体型に戻ったはずだ。「さあ……」と千早は曖昧に首を傾げた。「なんか、雰囲気がそう見えたって。本当にただ思い付きで言ってただけだと思うよ。ごめん、なんか変なこと言った」

「ううん」

 千早より先に電車を降りる。山手線に乗り換えて品川まで行き、常磐線特急に乗り換える際、ふと嫌な予感が切傷のように胸をよぎった。いちど改札を出て薬局に飛び込み、妊娠検査薬を買った。駅に戻り、トイレに駆け込む。

 安心したいだけだ。いやな予感を払拭してから家に帰りたいだけ。そう言い聞かせながら、はやる心臓をおさえて、手つきがばらばらとわななきそうになるのをどうにか落ち着けて、箱から中身を取りだす。使い方は知っていた。

スティックに尿をかけ、崖から崖へと飛び移る間合いを計るような気持ちで一分経つのを待つ。スティックの小窓に浮かんだ青い線を見て、パッケージの説明をもう一度読んだ。小窓に青い線が浮かんだら陽性、何も浮かばないまま判定終了サインの赤い線が浮かんだら陰性。もういちどスティックを見つめる。すでに判定終了サインがくっきりと浮かんでいた。さっきまでなかったはずの青い線がそこにある。

心臓が、たったいま朽ち果てようとしているかのように痛い。いつもより高い位置で早鐘を打っている。動悸と痛みに耐えながら手元を見下ろす。

ピルを飲み違えたのだろうか。

それ以外考えられない。どうして、どうして、と唱えても、もう結果は胎のなかにある。

ピルを飲んでいても、処理が大変だから中に出さないよう夫には伝えている。けれどひと月前の晩、夫が客先からもらってきたというワインを飲んで二人ともしたたか酔っていた。最後までしたかどうかもさだかでないうちに、気がついたら日曜日の昼間だった。休みでよかった、と思いながらシャワーを浴びて、いつも通り家で過ごした。あの時の一回で、まさか。

すでにつぶした箱に使用済みスティックを押し込み、ナプキン用のごみ箱に放り込んだ。鞄の中に入れていた水を飲む。なまぬるく、舌にぬらついた。

スマホの検索窓に【中絶 いつまで可能】と打ち込む。そして、最後の月経の日付とおそらく妊娠したであろう晩の日付を確認する。水戸に戻る前に婦人科へかけこむべきなのだろうか。

気づけば腕にびっしりと針のように鳥肌が立っていた。


7 氷上清夏

 思ってもみないことになった。

「やってみたいです」とこたえたら、話は早かった。形式上、事務所で面接があったものの檜山と一対一だったので面接というより請け負う仕事の内容について簡単に説明があっただけだった。

「事務員の経験はある? とりあえず勤怠の管理と請求書の管理、あと経理もやれるんだったら経費計算も頼みたい」

「ひととおり事務作業は経験あるんで、できると思います。エクセルもさわれます。勤怠管理だけわかんないから習いたいです」

じゃあそれでいいよ、と檜山は簡単にうなずいた。

「週に二回、それか三回。出勤か在宅か選んでいいよ。慣れるまでは出勤してもらうことになると思うけど。あと、時給は千四百円。あんまり出せなくて申し訳ないけど、出来次第ではもうちょっと引き上げてもいい」

「いえ、とりあえずその額で大丈夫です」

「助かったよ。求人出してるんだけど全然応募こないし、あれ維持費に百万単位かかるから掲載つづけるのもしんどくってさ」

「はあ」

「じゃ、とりあえず明日ここに九時ね。っていうか、一緒に出勤する?」

 檜山はひゃひゃひゃと男子小学生のように笑った。そうします、と言って本当に二人で出勤した。

 やましい関係ではないにしろ、出会った場所はこれ以上考えつかないほどにいかがわしい。もしほかの社員に詮索されたらどうするつもりなのだろう。檜山の楽観性にあきれたが、彼の会社はごく規模は小さく、清夏を入れて七人しかいない。ほかにいる事務員は在宅勤務で、営業社員は基本的に出払っている。家でも会社でも檜山と常に二人っきりなのか、と思うとなんだか笑ってしまった。言われるがまま、名刺の情報をスプレッドシートに打ち込んだり、勤怠管理を習ったり、請求書を発行したりした。

「昼飯行こう」と誘われ、会社のすぐそばのトンカツ定食に入った。

「君は作家のわりに、単純作業が結構得意みたいだね。ミスが少ないって長峰さんがびっくりしてたよ」

 長峰とは先輩事務員だ。ZOOMでしか挨拶をしていないけれど、急に入ってきた清夏という存在にどことなく猜疑心を持っているような気配はうっすら感じた。とはいえ顔を合わせることはほぼないので、滞りはない。

「住所の打ち込み、前の会社でも結構手打ちでやってたので慣れてるんです。っていうか、正確なんじゃなくてタイピングがそもそも人より速いんだと思う」

「あーなるほどね。つまんない作業ばっかでごめんね」

「まあ、事務員ってそういうものなんで」

 午後から打ちあわせがあるらしく、トンカツ屋の前でわかれた。じゃあ次は家で、となにげなく言われ、そばで食べていたサラリーマンがちらりと清夏を見るのがわかった。黙って手を振った。

 知人の会社で事務員として手伝いをすることになった、と週末、家をたずねた時に伝えると景介は間髪入れずに「何の知り合い?」とたずねてきた。咄嗟に「前勤めてた会社から独立した先輩」と嘘をつくと、へえと景介は小さく呟いた。

「急に会社勤めなんてしたら原稿書く時間なくなるんじゃないの」

「週五じゃなくて週三で入ってるから大丈夫だよ。むしろ時間にメリハリついて良い気がする」

「ふうん。じゃ、よかったじゃん。知り合いの会社なら融通利くもんね、そういう縁は大事にしないとね」

 道徳の授業のまとめのような感想に、そうだね、と曖昧に笑う。ライブチャットを始めて六年近く経つけれど、客と会ってそのうえ会社にまで入れてもらうことになるとは想像もしていなかった。

「それよりさ、夏休みにどこか旅行行かない? 有給たまってるから、今年のお盆は十日くらい休みにしようかと思ってるんだよね」

 そういえばそんな時期だった。ワクチン接種が進んだこともあり、今年は帰省をする人が多いようだ。

「尾道に行ってみたいって言ってなかった? 夏だから暑いだろうけど、外国人観光客がいないから空いてるかもよ。それか東北の方とか、いっそ北海道もいいかもね。レンタカー借りるからさ、食べ歩いたり美術館回ったりしようよ」

 景介が楽しそうに言う。相槌を打ちながらも、まったく胸が弾まない。

「ごめん、働き始めたばっかりだから、まだ休みがどうなるかわかんないんだ。わかり次第また決めるんでもいいかな」

「あーそうかあ。働き始めるの、お盆の後にすればよかったのに。まあ、いま言ってもしょうがないけどさ」

 旅行に誘われる気配はなんとなく察していた。そもそもマッチングアプリのプロフィールに行ったことがある国の国旗の絵文字を並べるタイプの人だった。今までも二度ほど温泉街に一緒に行ったことがある。

 でも、もうこの人と一緒に遠出したいとどうしても思えない。

「あのさ、全然関係ないんだけど……」

「うん、何」

「景介君ってもし子供ができたら出生前診断受けたいって思う?」

「へ?」

ベッドの上でビーズクッションを枕代わりにして携帯をいじっていた景介が驚いた顔でこっちを見ている。目を合わせずに、もういちど繰り返す。

「出生前診断。今って事前に障害があるかどうか、調べられるから」

「ああ……受けないと思う。というか、正直受けたくないっていう方が感覚的に近いかな」

 予想通りの回答だった。どうして? とたずねると、景介はぽつりと言う。

「どういう子供でも、その子は僕の子供だと思うから。たとえ障害があったとしても、長く生きられないとしても、育てたいかな」

「それっておかしいんじゃないのかな」

 限界だった。手で持て余していた石を川に投げるようにして言い差す。景介は、ぎょっとした顔で清夏を凝視していた。

「だって、景介君って私が不妊の体質だったら結婚相手には選ばないんでしょう。妊娠障害がある女の人を配偶者から排除するのに、子供だったら無差別に自分の子供として受け入れるって、矛盾してると思うけど」

「……どういうこと? 問題が全然別でしょ、それは」

 否定はしていても、景介の声にいつもの覇気がない。付き合っている異性に突っ込まれたことがなかったんだな、とちらりと思う。

「私は別だと思わない。だって排除されるかもしれない側だから。景介君が言ったんだよ。子供が産めない女性、あるいは産まない女性とは結婚できないって」

「……それは、確かに言ったよ。でも」

「ねえ。あの時は怖くて訊けなかったんだけど、もし私が今の時点で不妊だとか、卵子がないとか、そういうことが判明したら私たち別れるの?」

「わからない」景介は声にかぶせるようにしてぴしゃりと言った。「ごまかしてるとかじゃないけど、正直、それはわからないよ。今は医療が発達してるから通常の方法じゃなくても子供を持つことは可能だし、そもそも、清夏じゃなくて僕が不妊の体質だっていうこともありえるじゃん」

「そうだね」

 景介はベッドの上であぐらをかき、むっすりと押し黙った。清夏が何を思っていきなり出生前診断の話を持ち出したのか図りかねているのだろう。

「そもそも、その質問で僕から何を訊きたいの? それがちょっとよくわからないんだけど。明らかに世間話ではなさそうだし」

 声から甘やかさがすっぱり抜け落ちている。清夏はゆっくりと言葉を選んだ。

「一か月前くらいになると思うけど、前、テレビ見てる時に言ってたじゃん。景介君は、子供を持たない夫婦になるつもりはまったくなくて、かつ子供を産まない、もしくは産めない人とは結婚できないって」

「そうだけど」

「私、その言葉をずっと忘れられないんだよ。おおげさでもなんでもなく、毎日まいにち、ずっと考えてる」景介は顔をこわばらせたまま、視点を虫ピンで固定されたみたいに前を見つめている。「繰り返しになるけど、付き合っているどこかのタイミングで私がなんらかの不妊の体質だってわかった時に、別れることになるんだろうなってことがわかったから。私が、産まずめだってわかったら景介君は自分の人生から私っていう選択肢を消すんだろうなって」

「そんなことないよ! さっきも否定したじゃん」

「そうだね。でも、あの時の私にはそう聞こえたよ。それは私が子供を持つことに正直前向きじゃないからってだけじゃないよ。産む側の性別の人が聞いたら、そう解釈してもしょうがないんじゃないかな」

 景介の顔を見ていられなくなって、自分の膝を抱えて床に目を落とす。

「あとになってごちゃごちゃ言うのはずるいってわかってる。でも、この一か月ずっとわからなかった」

「何が」景介の声がかすれていた。

「あなたが、どうして付き合っている女性に対して『子供を産まない、産めない人とは結婚できない』って発言したのか、わからないの。だってそれって、子供を産めないっていうたったひとつの条件があるだけで、それ以外の、たとえばひととなりだとか積み上げてきた思い出とかまったく関係なしに自分の人生から排除するって言ってるのと同じじゃん。産めない女性はどういう人間性で、どういう価値観で、っていうことと関係なく自分には必要ない、って意味だよね」

 景介は押し黙っている。真空のような、きんと耳の痛くなる沈黙を押しのけてどうにか言葉をつなぐ。もはや対話ではなく演説だな、と思いながら。

「あなたがしたのは、そういうふうに私が捉えてもおかしくない発言だったんだよ。私がもし、妊娠出産に対して前向きに考えてたとしても、付き合ってる男の人にそんな言い方されたら傷ついたと思うよ。産む側の性別の人がどうとらえるかまったく考慮されてない発言だと思う。それを、景介君が言ったっていうのが、私は悲しかった」

 言い切って黙り込む。ひと月の間ずっと考えていたことだった。伶や檜山に相談してきて、少しずつ自分が覚えた違和感や彼の発言の落ち度について言語化してきた。

「そうだね」

 長いながい沈黙を終えて、景介が呟いた。

「配慮に欠ける発言だった。確かに、女の人に言うにはデリカシーがないというか、失礼な言い方だったと思う。申し訳ない」

 景介は居住まいをただし、頭を下げさえした。うん、とだけ呟く。

 やっと謝罪を引きだすことができた。けれど満足感とは程遠い。胸の内で猛々しく荒れ狂っていた波が、さあっとしずかに引いていくのを感じた。寄る辺ない悲しみが、足元をくるんで立ち去る。

「ごめん、ここひと月ずっと考えてたの? 軽く発言したわけではないんだけど、そこまで清夏が重く捉えるとは思ってなかったよ」

「そうだね。結構ずっと考えてたよ」

 景介が気まずそうに黙り込む。そして、ぽつりと言った。

「あんまりこういうこと分かち合うのってどうかなって思ってたんだけど、清夏と前に付き合ってた人と、似たようなことで意見が割れてお別れしたんだよ」

 お別れした、という幼稚な言い方がなんとなく引っかかったものの「子供のこと?」とうながす。こくりとうなずいた。

「その人は出産の痛みとか恐怖とか、経済的な心配とか、複合的な理由であんまり子供を持つことに前向きじゃなかったんだよね。子供もあんまり好きじゃないみたいだったし。それで、結局結婚までいかなかった」

「そうなんだ」

景介が以前どういう人と付き合っていたのかは訊かないようにしていた。けれど、こういう好条件が揃っていて結婚願望がある男性が婚活市場に残っていたことが少し不思議だった。やっと合点が言った。

「その人と、意見が合わなかったからっていうのもあって、清夏には早い段階で自分の考えを伝えてはっきりさせておきたかったっていうのが正直ある。でも先走り過ぎたっていうか、伝えることに重点を置きすぎてたと思う。ごめん」

「そっか」女性を機能で選ぶなんてひどい、と息巻いておきながら、ひととなりだとか人間性とかではなく、不動産のように条件で景介を交際相手として選んだのは清夏も同じなのだ。打算で選んだ景介よりも、彼が以前付き合っていたという女性の方がきっと自分と気が合うだろう、と思う。

「その人と私、友達になれそうだな」

 やめてよ、と顔をしかめるかと思いきや、景介は「そうだね、本を読む子だったからなってたかもしれない」とあっさりうなずいた。「でも、別れたあと音信不通になっちゃったから、今はどうしているかわからない」

それはまさしく自分たちの未来だ。そう思い、清夏は小さくうつむいた。

 そもそも、本音をぶちまけて糾弾した以上、もう自分たちの関係性はここで終わるんだろうか。ぼんやりしていると、景介はにっこりと笑ってみせた。

「でも、いい機会になったと思ってる。話してくれてありがとう」

「そう?」

「こういうのってデリケートな話題だから、どうしても、男の僕からは振りづらい話題というか……まあ、そのせいで清夏を傷つけちゃったけど、付き合っている以上はいつかははっきりさせておかないといけない問題じゃん。僕ら、一応結婚前提で付き合ってるんだから」

――結婚前提。それがまだ彼の中で有効であることにぎょっとする。

「もし清夏が子供を産む際経済的に不安だっていうなら、僕にも考えがあるんだよ。お金は積み立ててあるから。あと、具体的にどれぐらい世帯年収があれば都内でも子供を育てられるのか、あるいはどこの地域なら養育費の補助が多く出るのかとか、知っておけば安心できるでしょ?」

 何を言っているのだろう、と思う。以前、清夏が「私は収入が不安定だから、自立できるまでは少なくとも子供を持つことに積極的になれない」と発言したことを踏まえて言っているつもりなのか。

「……景介君って、本当に私に子供産んでほしいの?」

「もちろん」間髪入れずにうなずいた。「好きだから。僕の子供産んでほしいって思ってるよ」――二段論法が全く理解できず、いっそ気持ち悪いとすら思った。自分が二十歳やそこらだったらまっすぐにうれしいと思っただろうな、と想像がつくからこそ悲しくなった。

「あと、出産が怖いとか痛みが恐怖だっていうので不安があるんだったら、無痛分娩すればいいじゃん。それぐらいの費用全然出せるよ」

 景介は堂々としていた。それがとても、いびつで、怖いと思った。

「ばかじゃないの?」

 口に出すつもりはなかったのに、気づいた時にはもう言い放たれていた。

え、とまるく目と口をひらいた景介が、手をつないでいた親に突然突き飛ばされた子供のような顔をして、ぽかんとこちらを見つめていた。

「あのさ、私たちはそんな短絡的なことをさして『怖い』って言ってるわけじゃないよ。自分とは別の人間がお腹の中に十か月いる状態のまま生活して、家事とか仕事とかもしなきゃいけなくて、日本じゃつわりに対する薬は認可されてないからひたすら耐えるだけでいつ終わるかもわかんないし、身体の見た目もどんどん変わるし、産んでも元に戻らないし、もちろん出産当日は命を落とす可能性だってあるくらい危険で、無痛分娩しても副作用が出たら完全に痛みを取り除けるわけじゃないんだよ。私だって友達に出産経験者がいるわけじゃないから別にくわしいとかじゃないけど、でも、これくらいの知識はあるよ。当事者だから。『脚の間からあかちゃん出てくるなんてこわーい痛そー』っていう即物的な痛みだけを指して『怖い』って言ってるわけじゃないよ。絶対子供ほしいっていうわりに、どうしてそんなことも想像できないの?」

 言い切ると、景介は真っ白な顔をしていた。荷物をひっつかみ、「うちにあるものはあとで送るから」と言い捨てて家を飛び出した。


 品川駅を目指してぐんぐん歩く。

「清夏、待ってよ。送ってくから」

 ばたばたと足音がしたと思ったら、後ろから腕を掴まれた。「送らなくていい」と言うと「そういうわけにいかないだろ、今二十三時過ぎてるよ」ととんちんかんなことを言われた。口実ではなく、夜間で危ないから送りにきたのか。

「……っていうか、これで終わりにする気?」

 まあそれが本題だよね、と思いながら振り向く。目を合わせる勇気がなくて、肩のあたりを眺めた。景介の背後の運河を眺める。自分の家からは遠かったけど、品川のこの風景は好きだったな、とぼんやり思う。

「もう、無理でしょ。これ以上つづけてもお互い時間の無駄だよ」

「そうだとしても、いきなり家飛びだすなんてひどいよ。すごいびっくりした」

「……それはごめん」

しばらく二人とも黙っていた。景介がぽつりと言う。

「……俺、正直あんまりわかってないんだよ。なんで清夏が怒ったのか」

「ああ、無痛分娩のくだり?」

「それもあるけど」景介は小さく鼻のあたりに皺を寄せた。「あんまりはっきり訊けなかったけど、清夏は子供がほしくないんだよね? 僕が先に『絶対子供ほしい』って先回りしちゃったから、言えなかったんじゃないかなって」

「違うよ」風が髪を煽る。「私、子供が欲しくないわけじゃないよ。どちらかと言えば、いつかは欲しいと思ってる。ほしいっていうか、自分の子供に会ってみたい、っていう好奇心が近いから、遺伝子を受けつなぐ云々っていう景介君の考えとは違う理由だけど。ま、一応は作家だしね。やっぱり自分の子供を持つっていうことには興味あるよ」

「……そうなの? 僕、てっきり子供ほしくないんだと思ってた」

「違うよ。子供が欲しくないんじゃないよ」

ただ、絶対に子供ほしい、って女性に言えてしまうような想像力が著しく欠けるような男性のために自分の命を張ってまで子供を産みたいと思わないだけだよ――そこまで言う勇気はなかった。言ってあげた方がいっそやさしさだろうか、と一瞬思う。

「景介君みたいな考えを持っている男の人のためには子供産めないって思った。ごめん、それだけ」

「……なんだよそれ」

「わざわざ家出てきてくれてありがとう。でも一人で帰る。何か私の荷物残ってれば全部捨ててくれていいから」

 歩きだす。彼は追ってこなかった。それはそうだ。家から追いかけてきた時点では、景介は自分に非があるなんて思いもしていなかったのだろう。

 今赤坂に戻って檜山の家に行ったら、彼にすがってしまう。そう思い、浜田山まで一時間近くかけて帰ることにした。

 二週間ぶりに家に戻る。深呼吸して匂いを嗅いでみたけれど、煙くささは一切なかった。景介が使っていた部屋着をごみ袋に突っ込み、歯ブラシも剃刀もワックスも捨てた。あとで送る、ととっさに言ってしまったものの、実際に送られてきても不愉快なだけだろう。ごみ袋の口を縛り、玄関の前に置いた。シャワーを浴びて、歯を磨き、ベッドに倒れこむ。

【彼氏と別れました!! とりあえず今日は自宅で寝ます。また荷物とりにいきます】

 檜山に送ると、一時を回っているのにすぐに既読がついた。【マジ⁉ 別れたか~】【もっとまっとうな価値観の男いるよ。とりあえずお疲れさん】と送られてきた。ぶわ、と涙がせりあがるようにして零れてきた。

 半分は自業自得だな。瞼をシーツにこすりつけて涙を拭きながら、冷静に思う。景介から何かメッセージが来るかと思っていたけれど何も来ていなかった。

 もう二度と誰とも付き合えないんじゃないか、と思う。誰かと別れたあとはいつもそう思う。

 けれど、本当にありえるような気がしてならない。二十八歳の、自称作家のプアワーカー。おそらく自分のスペックで付き合える上限をさらに超えた相手を自分の手で切ったのだ。

【今度から週五で働きたいです。ダメですか】

 返事を見るのが怖くて檜山に送りつけてすぐ電源を落とした。朝に【かまわないよ。今週から週五でお願いします】と返事が来ているのを確認した。


8 桐原伶

「妊娠?」

清夏は目を大きく見開いた。なぜだかこんな時に、この子は子供の頃から綺麗な顔をしていたのだろうかとふと思う。

 病院で妊娠が確定となり、最低限の荷物しか持たないまま、新幹線で東京に来た。夫には「熱っぽくて、咳もあるし陽性かもしれない。抗体検査してくる」と言っている。まさか東京まで出てきているとは思っていないはずだ。

自分でも何がしたいのかわからなかった。家にはまっすぐ戻れなかった。「少し話せない?」と清夏に電話したら、異様な雰囲気を感じたのか「それなら私の家で話すのはどう?」と言ってくれた。居候生活はいつのまに終えていたらしい。

 おめでとう、とつづけるかどうか迷っている清夏の逡巡を押しのけるようにして「完全に、事故なの」と言った。「ピルを飲み間違えたみたいで」

「旦那さんには話したの?」

「話してない。というか、妊娠がわかってからまだ顔を見てない。コロナの抗体検査してくるって嘘言って家出てきたから、まだ水戸にいると思ってる」

清夏はおずおずと「病院には行った方がいいよ」と言った。何かの間違いって可能性も万一ないでもないし、処置に期限があるんでしょ」

「病院には行った。妊娠は確定事項」

「なら」

「そうなんだけど、ちょっと」歯切れの悪い返事をしたせいか、清夏ははっとしたように目を見開いた。言いにくそうに口をひらく。

「……もしかして、産む可能性も考えてるの?」

「何とも言えない。産みたい、っていう方向性じゃなくて、おろすなら相応の理由がなければいけないんじゃないかって踏みとどまってる感じ」

「そっか」何か言いたそうではあったけれど、デリケートな話題のせいで清夏は口が重かった。「思ったこと率直に言ってほしい」と言うと、「それ、普通旦那さんに言う台詞でしょ」と苦笑いされた。

「現状の私が妊娠発覚したら、何も考えずに中絶するよ。経済的な理由が大きいかな。子供も私も共倒れする未来しか見えないから。けど、もし伶さんの立場だったらどうだろうね、うっかり産んじゃうかもね」

「うっかり?」

「作家だし、そりゃあ人よりかは好奇心はあるよ。ただ、それだけのために八十年はもつ存在をこの世に生み出すって相当なエゴだなとは思うから、産む可能性は三割か二割くらいかな」

「そっか」

清夏との違いはそこにあると思った。自分の遺伝子を引き継いだ子供に会ってみたいという欲望が伶の中にはほとんどない。子供が嫌いと言うわけじゃないし、もし家の前にあかんぼうの捨て子がいたとして、成人するまで保護にすることになったら、それなりに責任を持って育てるような気がする。でも。

 わが子だから、怖いのだ。少しでも自分に似ているところが発露したら、それだけでその子を憎んだり、疎ましく思って産んだことを後悔してしまうかもしれない。

「突然家に来て申し訳ないんだけど、今晩泊めてもらっても大丈夫? 無理ならホテル取るから遠慮なく言って」

「それは全然大丈夫。布団一組しかないから一緒に寝てもらうことになるけど」

「ありがとう、ごめんね急に来て」

「気にしないで。あ、でも仕事するかも」

「原稿?」

「や、違う。仕事って言うかバイトって言うか」

 そういえば清夏がどんなふうに生計を立てているのか、きちんと訊いたことはない。何のバイト? と訊くと清夏は「あ、そうだ言ってなかったよね」と言った。「私、事務員始めたんだけど、それより前はライブチャットで稼ぐお金が主要な収入だったんだよね。今でも副業としてずるずる続けてる」

「え、そうなんだ」そもそもライブチャットがどういう媒体なのかよく知らないまま相槌を打つ。携帯を操作しながら、清夏が淡々と言う。

「チャットって言っても基本ビデオ通話しないと稼げないけどね。ま、バーチャルのセクキャバが一番近いかな」

「へえ」

「うまくいけば月二十万は稼げるよ。正直、原稿でもらうお金よりずっと安定してた。もう何年もやってるから顔見知りも多いしね」

 重苦しい雰囲気をあえて上塗りするように、清夏は饒舌だった。

「そんなに昔からあるんだ」

「そうだよ。コロナになってさ、一瞬キャバ嬢とかがズームで接客したりしてたじゃん、有料で」

「ああ、テレビで見たことある」

「それの庶民版みたいな感じ。タイミングあえばどういう感じか見せてあげるよ、面白いよ」

見せるというのが具体的に何を指しているかわからないままうなずいた。

「夕食つくってくる。カレー作るよ。食欲ある?」

正直に言えば全くなかったけれど、誰かがつくってくれる料理を食べるのは久しぶりだった。「少ししか食べられないかもしれないけど食べたい」とこたえると、「つくってるから適当にしてて。あ、疲れてるだろうから座ってていいからね」と台所へ立つ。大学時代の宅飲みを思いだした。

「ねえ、伶さん」にんじんを切りながら清夏が言う。「私のところに来たってことは、産んだ方がいいよって背中を押してほしいわけではないんだよね?」

「……どうかな。今は、あまり深く考えられない。三秒ごとに結論が変わりそうになる。産むか産まないかっていうんじゃなくて、黙っておろすか夫に話すかっていう違いだけど」

「そっか。もし、産んだ方がいいって言ってほしくて来てたとしたら、おめでとうって言わなくて申し訳なかったなってちょっと思ってさ」

「そっか。そこは全然、気にしてない。ありがとね」

 子供はいらないと公言していた友人が「妊娠した」と言って家をたずねてきたら、誰だって動揺するに決まっている。清夏が落ち着いてみえたのは、単に自分に気を遣っていただけなのだ。

「明日、帰るんだよね?」

豚肉のパックを剥がしながら清夏が問う。それにはこたえられなかった。無言の理由は訊かれなかった。


 カレーを食べた後、疲れが今になって出てきたせいか眠気が襲いかかってきた。ぼうっとしていると「お風呂溜めたから今日はもう寝なよ」とパジャマを渡された。何から何まで申し訳ない、と思いながら素直に湯船に浸かった。

 お風呂から上がり、歯を磨いて先に布団に入った。同性の家に泊まるのは、それこそ学生ぶりだとふと気づく。清夏はパソコンに向かっていた。

「清夏さん、例の人以外でいま気になる人とかいないの?」

「んー?」画面から目を離さないまま清夏がうなる。「まだそういう気分じゃないな。年齢的にはインターバルおかずに次の相手探さないとまずいなとは思ってるんだけど、気分が乗らない。暑いし」

 季節って関係ある? と返すと「めちゃくちゃあるよー」と苦笑いされた。「私、結局マッチングアプリとか使わないと彼氏できないからさ、常に知らない人と初デートなわけよ。博打みたいなもんだから、せめて涼しい時じゃないとやりたくない。疲れちゃった」

「そっか、そうだよね」

「あと、今ひっさしぶりに会社員始めたから、ちょっと忙しい」

「あ、言ってたね。事務員だっけ。転職活動したとか?」

「違うよ。前家に居候してた相手に雇用されてるってだけだから。会社員って言っても時給で働いてるからパートね、パート」

 まさかそんなことあるとはね、と清夏が小さく肩をすくめる。

「さすが小説家、すごい縁を引き寄せるね」

「そんな大したものじゃないよ。行きがかり上で事務することになっただけ」

「その人の会社に入ることにしたから、自分の家に戻ってきたの? 公私混同を分けると言うか」

 清夏は「いや、違う」ときっぱり言った。「結局彼氏と別れたからさ。結局子供持つ持たないの価値観が、わかりあえなかったから」

「そうだったんだ」なんとなく、察してはいた。

「それで、いま人と暮らしてたら相手が誰であれすがっちゃうかもなあと思って、家に戻ってきた。なんか、頭冷やしたくて」

「そう。大変だったね」

 清夏は肩をすくめて「最初に彼の考えを知った時点でこうなることはわかってたから」と言った。そっかと短い相槌を打った。

 清夏は「私もシャワー浴びてくる。寝てていいからね」と立ち上がった。水音を聴きながらうつらうつらしていたものの、まだ夜の八時ということもあって、完全な眠気はまだ来ない。

 目をつむっていると、そのうち清夏の笑い声が聴こえた。誰かと通話しているらしい。薄く目を開けると、清夏は裸のうえにカーディガンを羽織ったあられもない姿でぺたんと座椅子に座り込んでいた。

「あーごめん、起こしちゃった?」

「いや、目瞑ってただけ。電話してた?」

「違う違う。これがさっき言ってたライブチャット。ビデオ通話してた」

そういってスマホをかざして見せる。

「次電話来たらどういうのかみせてあげようか」

「え」

「こんなの見る機会ないでしょ。あ、伶さんが映らないようにだけ気を付けて。キャスト以外の人が映るの禁止行為なんだよね」

さっそく携帯が鳴り、清夏は素早く電話を取った。部屋着のTシャツをまくりあげ、乳房をまるだしにしている。ぎょっとして、自分がいるとやりづらいだろうと思い、あまり視界に清夏を入れないようにした。「わーおちんぽ大きい!」と甲高い声を上げたり、アニメのヒロインのようなつくりものめいた嬌声が上がる。「終わったよ」と清夏がいつものトーンで言う。その乖離が不気味だった。

「短いね」

「んー、さっきの人はそうだね。でも平均しても一人五分も話してないんじゃないかな? みんなオナニーの佳境になってからかけてくるしね」

「ふうん。ねえ、見ちゃって悪いんだけど、なんでブラしてないの」

「へ?」清夏はきょとんとしている。

「いや、時間稼ぎするなら下着つけて、じらしたほうがいいんじゃないのかなって思ったの。素人考えでごめん」

「あー。私も最初はそうしてたけど、結局結構早い段階ではずすからそのあとまたつけて次の人の電話出てまたはずして、ってすごいだるいんだよ。単純に下着傷むし。だからもう、量をさばく方向でしてる」

「そういうことかぁ」こういう仕事にも効率があるのかと思うと興味深い。

「あ、伶さんが映らないようにしてくれれば、次電話来たらちょっと男性の画面見てみる? 不愉快かもしれないけど、ちょっと共有したい」

「うん、わかった」ベッドに昇り、清夏と少し離れた場所で待機する。しばらくして、通話がかかってきた。清夏が自分にも見えるように、腕を伸ばして携帯の画面を見えるようにしてくれた。

写っているのは、裸の男の首から下だった。モザイクのかかっていない男性器が下から煽るような角度で映り、激しくしごかれている。体毛を処理していない乳首や突き出た腹もしっかりと写っていた。うわあ、と声を出さないようにのけぞり、もういいよと清夏に合図する。清夏は携帯をあれこれ動かして、時には自分の指を性器に立てて舐めて見せたり、様々な角度で自分の身体を映していた。

「どう? すさまじいでしょう」

終わったあと、清夏は楽しげに言った。どこか、露悪的な意地悪さが目の端に昏く佇んでいた。「ほとんどの人があんな感じだよ。通話出たらいきなりおったったものを見せつけてひたすらしごいてるの。モザイクかけてる人なんてほぼいない。私はキャストだからモザイクなしで性器写したら即アカバンだけどね」

「……清夏さんが裸を映すのはわかるけど、なんで向こうも自分のものを見せつけてくるんだろう。何の意味があるの?」

「さあ、なんだろうね。見てもらいたいっていう性癖の人もいるけど、見せつけてこっちを煽ってるつもりの寒い人も多いよ。入れたいでしょ? 大きいでしょ? もっと舐めてって。そこはあんまり年齢とか関係ないねー」

「そうなんだ。男の人って自分の裸とか見た目になんでそんなに肯定的なんだろうね」

思いだす光景があった。自分の部屋で、男の部屋で、ホテルで。付き合っている恋人も、ゆきずりの男も、お風呂から上がったあと、真っ裸かもしくは下着を履いただけの格好で部屋に戻ってきた。鍛えていようが、だらしなく太っていようが、醜い体毛が濡れてはりついていようが、皆態度は変わらなかった気がする。とても堂々と、自然にふるまうのだ。裸をさらしていても。

それを清夏に言うと、「男の人って審査員席から立ち上がったことないんじゃない? 自分がジャッジされる場に引きずり出されたことなんてないんでしょ」と皮肉っぽく笑った。Tシャツとショーツ一枚の清夏はおそろしく華奢だ。

「ま、ライブチャットは結局バーチャルだから、あんまりストレスないよ。むかつく奴はガチャ切りして通報すればいいし。年始年末とか連休とかの方が稼げるから、会社員始める前は結局ほぼ毎日稼働してた」

「すごいね」

「水商売は一通り試したけどこれは家で稼げるから一番楽だな。歳とったら人妻熟女系のサイトに移ればいいしね。女の身体って何歳になっても値段つくんだよ、キモいけど逆手に取ればそれだけで生活費は最低限稼げるからさ」

清夏は淡々と言った。なんてたくましい生き方、と思ったけれど、下に見ていると思われるのが怖くて黙っていた。


 疲れているわりに寝つけずにいると、清夏が映画でも見る? と言ってパソコンでホラー映画を流し始めた。

「何このチョイス」とあきれていると「熱中しすぎないでだらだら観るのにはこういうのがちょうどよかったりするんだよね」と清夏が言った。実際、面白いということも本気で恐怖におびえるということもなく、B級ホラー映画はエンタメとしてちょうどよかった。

「私、清夏さんのためだったら子供産めるし、一緒に育てたいって思ったかもしれない」ふと思いついて口にしてみる。

「えっ、急にどうしたの? 私のためならって、それどういうシチュエーション?」

冗談だと思っているのか、清夏は笑っている。

「三嶋と暮らすのは、もちろん楽しいし幸せだよ。でも根本的に、男性と一緒に暮らし続けるのって無理があると思うんだよね」

「そういうものなのかな」

「別に、三嶋に対する愛情が薄れてきたとか、限りがあるとか、そういうわけじゃないよ。結婚してよかったとは思ってるし、今まで付き合ってたどの男の人よりも愛してる、それは本当。でも、ずっと一緒にいることがふたりにとってベストなのかは、わからなくなってきた。時々、ただの同居人くらいにしか思ってないのかなって思うこともあったし」

 座椅子であぐらをかいていた清夏が、ぎょっとしたようにこちらを振り向く。

「うそ。伶さんにべたぼれって感じなのかと思ってたよ」

「最初の頃はそうだったけど、結婚してからはそうでもない。醒めたわけではないとは思うけど」

「ふーん……きょうだいみたいな感じ?」

「そうだね、彼はたまに言うね。伶ちゃんは妹みたいだって」

 伶も時々、夫を兄のようにも弟のようにも感じる。仲が深まった証拠だという人もいるが、たがいをきょうだいのように思っている夫婦としてあと五十年近く寄り添うのかと思うと、時々泣きたくなる。あまりにも、男女でいられる時間は短いということに。

「そういえばさ、私結局彼氏と別れたたじゃん」

清夏が切りだした。気にはなっていたが終わったことをつつくのも無神経かと思って遠慮していたので、「うん」と耳を傾ける。

「いろいろむかつくこと言われたけど、妊娠とか子育てについて自分の考えを深堀りする機会になったのはよかったかも。なあなあにしてたけど、実際ごりごりの適齢期だしさ」

「なるほどね。それで、清夏さんの中で結論は出た?」

「さっきも言った通り、好奇心で子供を持つ可能性はあるかもしれない」と清夏ははっきりと言った。「けど今は原稿で手一杯だから結局現実味はないのは変わらない。それに、勉強すればするほど、子供を持たないことが結局リスクヘッジなんだなって思うもん」

 前半は伶とはやや違う、物書きらしい考え方だったが、知識をつければつけるほど消極的な考えに寄っていくというのがあまりにも共感できる。自分がいま妊娠中の身であることを忘れて、わかる、と返した。

「でしょ? 実情を知れば知るほど自分には無理だなって思っちゃう」

「女性だったらさ、この歳ならみんなある程度は当事者意識持ってるじゃない? そういう相手のためだったら産んでもいいって思う。でも三嶋は、子供がいる人生といない人生を今なら選べますって言われた時にじゃあ子供がいる方が得かな? くらいの軽さで『子供欲しい』って言ってる気がしないでもないんだよね。オプション感覚なんじゃないかな、男って」

「そうだね。私も、彼氏に絶対子供ほしいって言われた時、いろいろ衝撃があって感情ふっとんだけど、よく考えたらセクハラだった、あれは」

結局、映画を最後までは観なかった。ベッドに二人で並ぶ。

「ねえ伶さん」清夏がふいに言う。「しんどくなったらいつでも東京来てよ。平安時代みたいに、通い婚の方が案外仲良くなれるかもしれないしさ」

 伶は黙っていた。けれど清夏の手を探してつないだ。なんかハイジとクララみたい、とひっそりと笑われる。

「男の人なんて、いっそいない方が楽なのかもしれない、って清夏さんといると思うよ。だからといってじゃあ一人で潔く生きていこう、とは全然思えない」

「うん」

「結婚してなくても、恋人がいなくても、自分ひとりだけで十分楽しい、って笑っていられる女の人が心から羨ましい。もっと言うと、いつか清夏さんもそうなるんじゃないかなあって思うと時々さみしくなるよ」

伶自身がよくよくわかっている。いまだに思春期みたいに男の人のことで心をぎりぎりと擦り減らして本気で傷つき、振り回されているなんて、女子高生の頃は想像もしていなかった。決まった相手を定めて、愛されて、精神をどっしりと安定させて豊かな暮らしをしていると思っていた。

そんな日がいつか来るのだろうか。


朝目覚めると、夫からLINEが来ていた。

【陽性だったんだね、大丈夫? 俺は今のところ無症状だけど検査行ってきます。ホテル暮らし大変だと思うけど、何かできることがあったらすぐ教えて。荷物とかも必要だろうし】――検査の結果陽性反応が出てそのままホテルで療養することになった、と昨日の夜勢いに任せて送ったものへの返信だ。おそらく夫は陰性判定しか出ないだろうが、濃厚接触者としてしばらくは仕事にも影響が出るだろう。申し訳なく思う一方で、これで水戸へ戻らなくて済むことにほっとしていた。ちょうど明日から夏季休暇に入るので、仕事の心配は特にない。万が一何かあってもパソコンを持ってきているのでなんとかなるだろう。

「清夏さん、泊めてくれてありがとう。私、今日新潟に帰ることにする」

「え? 実家?」清夏はきょとんとした。

「そう。ちょっと、確かめたいことがあって」

「へえ……でも、伶さんって実家と折り悪いんじゃなかったっけ」

 なんのために行くのか、と言いたげに清夏が問う。伶は短く首を振った。

「別に、妊娠のことを報告するとか応援してもらうとか、そのつもりは一切ない。自分がどうして子供を持たないって決めたのか、中絶ずる前に再確認しようかと思って」

自分がどれほど悪趣味なことを言っているかはわかっている。けれど、堕胎するという結論に全くの罪悪感がないわけではないのだ。あの家に戻って家族と話すことで、それを打ち消そうと思った。

「体調は大丈夫なの?」清夏がぽつりと言う。本当はもっとほかのことを言いたいのだろうと察しつつ、うなずく。

「……こんなこと言うのも最低なんだけど、中絶できる最終デッドまでまだ時間はあるんだ。それまでには水戸に帰るよ」

「わかった。じゃあ東京駅まで送るよ。ついでに千疋屋のパーラーでお茶しよ」

「何から何までありがとう。清夏さんがいてくれて助かったよ」

 いいよ、と清夏が照れくさそうに笑う。

カーテン越しに、蝉の元気のいい合唱が響き渡っている。故郷は東京よりは涼しいだろうか。


9 氷上清夏

 檜山の会社が夏季休暇に入り、退屈な日々が戻ってきた。昼間はカーテンを閉め切って本を読んだりビデオ電話をかけてくる客に裸を見せたりして過ごし、夕方から原稿を書く。

お盆は同じように暇をもてあましている人が多いのか、ひっきりなしに通話がかかってきた。一度だけ檜山がかけてきたことがあって、それに気づかないままショーツ一枚の格好で出た。

「君、家では裸族なわけ。腹下すよ」と聞きなれた笑い声が返ってきて、もちろんきまり悪かったが恥ずかしがるそぶりを見せる方が恥ずかしいと思い、乳房をまるだしにしたまま「暑いし、いま夏休みでじゃんじゃん電話かかってくるからこのまま出てます」と返した。

「っていうか、なんか用ですか。このサイトからかけてきたら有料でしょ。LINEで話しかければいいじゃないですか」

「うちの会社ボーナスないから、夏のお小遣いとしてかけてみた。っていうのは嘘で、君、休みに入ってからずっとログインしてるみたいじゃん。暇なのかなって思ってさあ」

「それを観測してる時点で檜山さんも同類でしょ」

 腹立ちまぎれに言い返す。わはは、と豪快に笑い、「それはその通り。毎日家でずっと映画観てる。スクリーン買ったから余計家閉じこもってるよ」と言う。

 一緒に観てあげましょうかと軽口を叩こうとして、ふと口をつぐむ。彼氏がいなくなって、依存先を求めていると思われるのではないかと思ったからだ。

「小説で忙しかったら断ってくれていいんだけど、その調子だとそうでもなさそうだね。家で腐ってるならどっか遊びに行かない」

「え」

「っていっても俺は半分仕事だけど。打ちあわせで広島行くんだけど、単身で行くのも退屈だからさ。もし暇だったらどうかなって。俺が仕事してる間はどっかで原稿書くでも好きに出歩くでもいいし」

「広島ですか」

修学旅行で一度行ったことがある。原爆ドームに折鶴を持っていって、資料館を見学したくらいの記憶しかないけれど、単純に遠い街へ行ってみたいと思った。むんと熱気が立ちこめ、舞い上がった砂でほんのりと視界が霞んでいた景色が脳裏によみがえる。

「行きます。あの、交通費とか宿とかは」

勢いごんで訊くと、ふはっと大きな笑い声で返ってきた。

「出す出す。誘っておいて自腹出させるほどケチな経営者じゃないよ」

 ほっとしつつも、檜山が〈経営者〉という単語を出したことですっと体温が一度下がった。あくまでも彼からすれば自分は社員なのだ。そもそもその前から、ライブチャットのキャストという関係性なのだから、さっき調子に乗って「一緒に映画観てあげましょうか」などと言わなくてよかったと今さら思った。

「急なんだけど、明後日の正午に出て一泊しようと思ってる。予定大丈夫?」

「大丈夫です。おじさんに裸見せて日銭稼ぐくらいしか予定ないんで」

「大した予定だな。まあ広島で食いたいもんでも探しといて」

 あ、Amazon来たわ、と言って雑に通話が切れた。さすがに、知り合いになって久しい今自慰の手助けをする流れになったらどう対処すればいいのだろうと思っていたので少しほっとした。一方的に裸を見られた、という怒りがうっすらとないでもなかったけれど。


 広島へ行く当日、檜山と東京駅で落ち合った。トートバッグと日傘のみで現れた清夏を見て「随分身軽だな」と言う。「駅弁でも買ってく?」。

「いいですね。私牛しぐれ弁当がいいな」

「ガッツリ行くなー。俺幕の内弁当でいいや」

 お弁当を二つ買って新幹線に乗り込む。お盆なので混んでいた。さっそく牛しぐれ弁当の蓋を開けてぱくつく。新幹線が走りだし、車窓の向こうでぐんぐんと景色が変わっていく感覚が楽しい。そもそも乗ること自体数年ぶりだ。

「三時間半で着くんでしたっけ」

「そうだよ。帰りは飛行機にしようかな」

「暇だから原稿やります」

「精が出るねえ」

 そうはいっても横に人がいる状態だと集中して書くのは難しかったので、校正作業をした。その間檜山はIpadでメモを取ったり映画を観たりして過ごしていた。一時間も校正をやっていると飽きてきて、そのうち眠ってしまった。

 気がつくとすでに大阪に着いていた。「まだ大阪かぁ」と呟くと「これでもだいぶ遠くに来た方よ」と本を開いていた檜山が苦笑いする。ずっと起きていたらしい。お腹すいたな、とこぼすと檜山は荷物から茎わかめを取りだして「ほい」と渡してきた。

「ありがとうございます。好きなんですか、茎わかめ」

「いや、君は食欲旺盛だからさ。腹減った、って言われたらこれあげようと思って、待ちあわせ前にキオスクで買った」

 予想通りだったわ、とにやつかれる。まるきり子供扱いされているのは恥ずかしかったが、ありがたく頂戴して口にいくつか放り込んだ。帰省なのか旅行なのか、幼児の甲高い声が前方の方でにぎやかに響いていた。

「広島着いたら、まずホテルにチェックインしよう。で、俺はレンタカーでお客さん先に行って打ちあわせするから、適当に過ごしてて」

「退屈だな。ついてっちゃだめですか」

 あまり深く考えずに発言したが、「別にそれでもいいよ。秘書ってことにしとくか」と了承されてしまった。思いっきり普段着の格好で着ているので断ろうとしたが「会社の作業着持ってきてるから貸すよ」と丸め込まれてしまった。

 雑談しているうちに広島についた。ホームへ降りた途端、全身を熱気に包まれて毛穴がぶわっと暴力的なスピードでひらいていくのを感じた。駅の外に出ると、四時近いにもかかわらず、鋭角に差してくる太陽光で肌が痛いほどだった。慌てて日傘を差す。

駅前のレンタカーを借りてホテルに寄らずにそのまま顧客先へ向かった。広島って意外と栄えてる、と呟くと「失礼な。中国地方では一番の都会だからな」と檜山が言う。

「へえ、そうなんだ。そういえば檜山さん実家どこでしたっけ」

「島根。東京育ちのきみが想像つかないくらいの、ど田舎だよ。役所の職員か、じいさんばあさんと老人ホームの職員くらいしか歩いてない」

「東京生まれって言っても、そんないいもんじゃないです。どっちかといえば田舎暮らしの方が子供の頃は憧れました」

「なんで」

「家が広いから」

思った通り、豪快な笑い声が車内に弾ける。別にウケ狙いで言ってるんじゃないんですけど、と言うと「いやあ、いかにも子供らしい理由だなあって思ってさ」と笑いながら言う。「実際俺の家、死ぬほどデカくて部屋も多かったしな。ガキの頃、部屋数えたら十四個あった」

「部屋を数えるって発想がまず羨ましい。うちの家、ワンルームでしたから」

「え?」檜山の声はまだ半笑いが溶けていた。清夏は淡々と話す。

「私、母子家庭だったんです。父親は三歳の時に交通事故で他界しました。母親は二十歳の時に私を産んで、パートしかしたことない人だったからずーっと貧乏だった。蒲田の、家賃六万円のワンルームに十八年間住んでたんです」

「そうか」

「母親とは別に仲はよかったけど、着替えを見るのも、見られるのも毎日ほんのちょっとだけ嫌だったな」

 物が溢れた、ごっちゃりとした実家の部屋。居住スペースが常に物置もかねているから、何がどこにあるのかすぐにわからなくなった。置く場所がないからランドセルを置くのは洗濯機の上で、宿題はアイロン台でして、おやつは常に家に常備されていたうまい棒。級友が遊びに来たことなどもちろんいちどもなく、それが原因で小学三年生の一時来クラスの女子にはじかれていた。

 時々は遊びに出かけたし、外食もした。そこまで悲壮感が漂う子供時代だったとは思わない。玩具や遊びのレパートリーが少なかったからこそ図書館に入り浸って本を読んだり空想で遊ぶ子供となり、いまの清夏の作家業につながっている。感謝しているとまではいかないが、「取材もしてないのによくここまで想像でかけるね」と時々伶やほかの編集を感心させるのはあの時代があってこそだ、とは思う。

「私、お盆だけじゃないんです。基本的に家にいる時は常にライブチャットとしていつでも稼働してます。年始年末も、誕生日も、原稿書いてる時もずっと」

「すごい徹底してるね」

「別に借金があるわけでもないんです。会社員時代全然お金遣わなかったからちょっとは貯金もあります。ただ、ずっと、お金稼がなきゃっていう意識が抜けないんです」

「強迫観念なのかね、それは」

「たぶん。母親が身体壊したり休んでるの見ると、子供ながらに心配になったんです。この狭い家もいつか家賃を払えなくなって住めなくなるんじゃないかって。毎日自転車操業でかつかつの暮らしをしてるのはわかってましたから」

「うん」

「その意識が、大人になっても抜けないんです。だから、家にさえいてスマホがあればお金を稼ぐことができるライブチャットは貧乏性の私にとって天職なのかもしれません」

 茶化されるかと思ったが、檜山は黙っていた。十分ほどして、「ここだよ。俺のリュックから作業着出してそれ羽織りな」と言って車を停めた。


 打ちあわせは一時間ほどで終わった。出てきた年配の社員に檜山は「この子、最近入った社員で勉強のために連れてきました」と紹介した。ほーん、とからかうような目つきが笑顔にくわわったものの、特に余計な詮索はされなかった。

出された緑茶を啜りながら、熱心に打ち合わせするのをパソコンで議事録を取るふりをしながら聞いていた。とりあえず契約の意向は決まったらしく、見積もりを見せながら檜山はあれこれ工事内容について説明した。檜山の会社ではマンションアパートの管理のほかに、事務所や倉庫など法人の物件管理も行う。今日は修繕についての打ちあわせだったらしい。

「じゃ、ありがとうございました。あらためて契約書はお送りいたします」

「わざわざありがとねえ。気を付けて」

 レンタカーに戻る。「これで今日の仕事終わり」と檜山が言うので、思わず「えっ」と叫ぶ。「このためだけに広島来たんですか」

「そうだよ。一応建物の様子見たかったし……明日も大阪でミーティングあったけど、めんどいからそっちはzoomにしてもらった。ここからじゃ遠いしね」

「んな適当な」

 もしかして今日の打ちあわせをわざわざ現地で設定したのは清夏を連れ出す口実だったのだろうか、と一瞬邪推が胸をよぎったが、そんなはずもない。実際に建物を見ておきたかったというのが理由だろう。

「じゃあ、ホテルにチェックインしますか」

「いや、気が変わった」と檜山が宣言した。「今から島根に行く」

「……はあ?」

 全く意味がわからない。檜山はカーナビをセットしながら言った。

「だいたいこっから二時間半もあれば着くよ。長時間移動続きで悪いけど、見せたいものがある」

「なんですか」っていうか泊まるところどうするんですか、と言うと、檜山は唇を横ににんと引いて笑った。

「俺の実家、リノべして古民家の民泊やってるんだよ。前までは外国人に結構人気あったんだけどこのご時世で毎日閑古鳥だろうから、ひやかしがてら行こう」

「……なんで?」いろいろ言いたいことはあったが、集約して尋ねる。檜山はハンドルを握ったまま指を一本たてた。

「田舎の、ばかでかい家がどういうものか見せてやろうかと思って。数えるくらい部屋がある家なんて、行ったことないだろ」

「ないですけど」

「じゃ、行こうか。悪いけどホテルに連絡してキャンセルって入れといてくれる? もうカードで払い済みだから金額返ってくることはないと思うけど、心配かけたら申し訳ないからさ」

 みょうなところで親切と常識を発揮するので思わず笑ってしまう。けれど、すぐに気づいた。みょうなところで、じゃない。この男は常に親切だった。とりわけ、清夏に対して、おかしいくらいに。

「夕飯どうしますか」

「さっきおふくろに連絡したから夜めし用意してくれると思う。ただ着くの九時近くになっちゃうから、サービスエリアで軽く食べよう。せっかく広島来たのに牡蠣とかじゃなくて悪いけど」

「いや、おごりならなんでもありがたくいただきます」

「そう言われると逆に高級なもん食べさせたくなるな。どっかのタイミングで下道降りて食べよう」

 車が高速へ入る。空が桃色に照っていた。何というどこの山かわからないけれど、薄青い嶺が景色の額縁のようにしずかに佇んでいる。常に視界に山があるって、なんかいいな、と思う。景色のスケールがどっしりと大きいから。

 PUFFYの「これが私の生きる道」をスマホから流す。寝てていいよ、と言われたけれど、島根に着くまでの道のり、ずっと檜山としゃべっていた。


 街灯のほとんどない山道を通り抜けて、夜十時に檜山の実家に着いた。「この子、会社の社員。出張で、近くまで来たから泊まりに来た」と両親に紹介された。八十歳近いと聞いていたが、夜遅くに訪れた清夏たちをはりきってもてなしてくれた。檜山が話していた通り、三角屋根の大きな古い箱のような屋敷で、居間にあがると見上げるほど天井が高かった。いろりがある! と騒ぐと「今は使ってないよ、観光客向け」と檜山がすっかりくつろいだ様子で煙草に火を点けた。

「こんな遠いところ、よう来たねえ。今、お料理温めてますけん、ちょっとだけ待っててねえ」

 女将である檜山のお母さんは、小柄な清夏よりもさらに小さく、小学生くらいの背丈しかなかった。それでもてきぱきと動いて、どんどん料理が運ばれてきた。

「いえ、遅くにすみません」

「いいのいいの。若い子なんてめーったに来んけん」

 こまごまとした小皿が座敷のテーブルに並べられ、ビールを注がれた。出されるがまま食べていくと「ひらめの刺身も食べるやろ」「桃冷やしとったけん」などどんどんテーブルに皿が増えていった。お母さんが台所へ戻ったタイミングで檜山が「おい、もう止めないと今度は西瓜と温泉まんじゅうでも出されるぞ」と口を挟んだ。失礼がないようほとんどをむりやり平らげた清夏と違い、檜山はおしんこと刺身に手をつけただけで、あとはずっとビールを飲んでいた。

「無理して全部食べなくていいよ。田舎の年寄りは、若い人はとにかくいつでも空腹だと思い込んでるから」

「西瓜、切ったっけえあんたらも食べるやろ」

 檜山が冗談を言うそばから、鈍角に切られた大きな西瓜が本当に出てきて、思わず目を合わせて笑ってしまった。

 はち切れそうなお腹を抱えて、お風呂に入った。リノベーションで特に手をかけたらしく、檜風呂だった。ためしに窓を開けると、まるく太った青蛙が二匹へりに並んでいて、思わず悲鳴をあげて窓を閉めた。どうかしたー? と遠くから檜山の声がして、「なんでもないです!」と大声で返した。

 お風呂から上がり、歯磨きを済ませる。居間に顔を出すと、「うわ、君か」と檜山が肩をはねさせて驚いた。

「幽霊扱いしないでください」

「自分で連れてきておいてなんだけど、実家に若い女の子がいるのにちょっとびっくりしてさ。おふくろがもう布団敷いてくれてるから、自由に休んでて」

「あ、はい。部屋同じですか?」

 あまり深く考えずに訊くと、檜山は苦笑いして「いくら老人つってもそこらへんの常識くらいあるわ」と一蹴して風呂へ向かってしまった。それはそうか、とあとから顔が赤くなるのを感じた。

「清夏さん、お部屋はここを使ってね」と檜山のお母さんが部屋を案内してくれた。木の板がぎしぎしとなる廊下を歩きながら、ふとこちらを振り返る。

「清夏さん、失礼ですけど、うちの子とお付き合いしとるん?」

「あ、いえ、会社に雇ってもらってるだけです」

「そうなん。えらい美人なお嫁さん連れてきたんかと思ったわあ」

 かかかとひっくり返る勢いで腹から豪快に笑ってみせた。あの人はお母さん似なんだなとふと思う。

「東京から来とるんやろ? ゆっくり休んでな」

「ありがとうございます。ごはん、おいしかったです。ごちそうさまでした」

「いーえー、ほいたら、おやすみなさいませ」

 あてられた部屋は、普段自分が住んでいる部屋の二倍ほど広かった。おそらく一番広い部屋をあてがってくれたのだろう。黄色いレトロな扇風機がカラカラと回り、蚊取り線香がおいてある。天井は高く、太い梁が剥きだしになっている。思わず写真を撮って、伶に【なぜか、前居候していた相手の実家に泊まっています】と送った。新潟の彼女の実家も、ここに劣らず大きな家なのだろう。

【俺は普通に自分の部屋で寝ます。遠くまで付き合わせてごめん。明日は特に予定ないのでゆっくり寝ててください】

 檜山からLINEが来た。部屋を見に行ってみたい気持ちはあったものの、もそもそと布団にもぐりこんで【ういっす】とひと言送った。豆電球だけ残して電気を消す。ベッドではなく布団に寝ているので、自分がまるで小人になって天井を見上げているような気持ちになった。

 蝉の輪唱が響き渡っている。彼は子供の頃こんな田舎で暮らしていたんだな、とふと思った。見せたいものがある、と子供みたいにまっすぐ前を見ながら檜山が車を走らせた横顔が、ふっと目の裏によみがえった。


10 桐原伶

新潟に帰るのは、二年ぶりのことだ。

 コロナを言い訳に、帰省をせずにいた。それまでは儀礼的に盆休みと年始年末の年二回は顔を出していたけれど、あくまでも「帰省した」という事実をつくるためだけに帰っていたに過ぎない。

 どうしてあの頃あんなにも母親を恐れていたのだろうか。いや、今もそれは変わることはない。

車窓を流れていく田んぼを眺めやる。さすがに、大学入学を機に家を離れてから母親に手をあげられることはなくなったが、褒められた経験は一度としてない。つねに母親の顔色をうかがいながら生活して、一刻も早く家を出て自立することだけを目標にしていた。六つ上の兄はさっさと東京の大学に出て、今は北欧に外交官として駐在している。おそらく帰ってくるつもりはないだろう。

県内もしくは近隣の大学ではなく、東京の大学を第一志望にした模試の結果を渡した時、母親は一言目に「良いご身分だこと」と言った。どういう意味か捉えかねて黙っていると、じろりと伶をにらんで「お兄ちゃんみたいにあんたまで家を出られると思ったら大間違いだから。新潟大で充分よ」と言い放った。

結局、反対とたくさんの嫌味を押し切るかたちで東京に進学した。もちろん恥じる必要などどこにもない、いわゆる難関と呼ばれる国立大学だったが、母は最後まで伶の大学についてよく言わなかった。

入学式の時も、「派手な人ばっかりね、親も学生も」とぼそりと吐き捨てた。ほんの三センチのヒールで靴擦れをしていた伶は、足が痛むふりをしてずっとうつむいていた。自分たちのすぐそばを信じられないくらい綺麗な親子が通って、姉妹のように笑い合っている姿が目に入らないように視線を背けた。東京の容赦無い強い陽射しを浴びて、母親の後頭部がうっすら髪越しに地肌を透かしているのが見えた。

優秀な兄と比べられるばかりで褒められなかったのは成績だけではない。容姿もまた、物心がついた時から腐された。

「可愛くない」「ブス」「大きくなればましになると思ったのに逆だったわね」――小学三年生の時に、目が悪くなってめがねをかけるようになり、ますます母の貶めはひどくなった。自分の容姿への評価が「ブス」ではなく「美人とは言えないが、さしてそう悪いわけでもない」にようやく移行したのはほんの最近のことだ。もっといえば、自分はブスという前提で生きていた。

付き合い始めた頃、夫がことあるごとに「伶ちゃんは本当に可愛いなあ」「最初に会った時からすごくタイプだと思ってた」と言い募るので、いたたまれなさから「無理して言わなくていいよ」と言ったことがある。「自分がブスだってことは、よくわかってるから」

その時の夫の反応はよく覚えている。「何を言ってるの⁉」とそれこそひどい醜女でもみるかのように、心からぎょっとしたような顔つきになって伶を凝視したからだ。「そんなわけないじゃん。なんでそんなこと言うの。こんなに可愛いのに、卑下しないでよ」

慰めようとしているのだとその時は思った。けれど、時間が経つにつれて、やっとわかった。

「あんたはブスなんだから」「鏡なんか見ても変わりゃしないでしょうが」「大人になったらその顔も少しもまともになったらいいのにね」――虐待だとかいじめだとかも思いつかないほど、容姿をけなされることが日常に溶け込み過ぎていたせいで、伶は伶自身を大事にすることを思いつかなかった。その価値が自分にはないと思い込まされていたからだ。

実際には世間にはよくいる十人並みの容姿で、可愛いとも美人とも言えなくとも、夫のように「可愛い」「タイプだ」と言ってくれる人もいる。その可愛いには顔の造形がというよりも、存在そのものを肯定する意味で「可愛い」と言っているのだと、長いこと気づかないでいた。

 年々顔が母親に似てくる。それに気づくたびになんて皮肉なんだろうと思う。自分が産んだ、自分に似ている子供を散々口汚く貶めて、いったい何がしたかったのか本当に意味がわからない。けれど、夫と結婚した今でも伶の中にある「自分はブスだ」という前提は根っこに埋まったまま翻ることはない。夫が悲しそうな顔をするから口にしないだけだ。

 新幹線がトンネルに入り、田んぼが途切れた。目を閉じる。

 母親から投げつけられた言葉の数々が刺青のように肌に染みついて、それを薄くするだけで精いっぱいだった。別に、親から蝶よ花よとちやほやされておひめさま扱いされたかったわけじゃない。けれど、浴びせられた吐瀉物からどうにか這い出たと思ったら、もう三十歳になっていた。

 思考の末にまた母親をスケープゴートに利用していることには気づいている。でも、私は本当に、私だけの意思でこんな人間になったのだろうか。一番身近な人間によって生まれた歪みごと、背負いこまされているんじゃないだろうか。

 目を閉じる。新幹線はまだトンネルから抜けきらない。

 

 駅のホームを降りると、暑さよりも濃い緑の匂いの気配を強く感じた。もちろん屋外に面しているわけではないのだけれど、空気の粒が東京より鮮明な感じがした。湿気がないぶん、都内よりは涼しい。

 グレーの車、と伝えられていたので、乗車場を見回す。それらしき車はなかったので、自販機でアイスコーヒーを買った。猛暑というわけでもないのに、喉がひりついていた。緊張しているのかもしれない、と思う。

 すっと目の前にグレーと言うよりシルバーの車が来た。運転席を覗き込むと父親がハンドルを握っている。軽く目を合わせてから、後ろの席に乗り込んだ。

「お疲れ様。ありがとう」声をかけると、父親は低く、うん、と返事を寄越した。帰省の迎えを父親に頼んだのは初めてだった。

 農作業用のジャンパーに、老眼鏡。見知らぬ人からすれば、立派な田舎の「おじいちゃん」なんだな、と思うと胸がきゅっと軋むように狭くなる。

「なんか、夏の新潟って久しぶりに来た気がする」

「ああ……結婚の挨拶以来かもね。東京、感染状況ひどいみたいだし」

ミラー越しに皴の寄った小さな目と合う。今年六十五歳だ。こうしてあらためて会うと、すっかり老け込んだな、と思う。とはいえ、幼少期の父親の面影など、ほとんど思いだせない。アルバムに一枚も父親の姿がなかったせいだろうか。

「何か、話したいことがあるってメールに書いてたけど」

 薄く沈黙が車内を支配し始めた頃、ようやく父親が口火を切った。ああうん、と小さくうなずく。自分から「お父さんと二人で話したいから新潟駅に迎えに来てくれる?」と頼んでおいて、なんとなく自分から話しだすのは億劫だった。

 そもそも伶が人生で父親と会話したことなど、ほとんど皆無に等しい。受験、就活、結婚、人生の節目で介入してくるのは母親ばかりで、父親にはその都度メールで事後報告する程度だった。父親は伶が入った大学や会社名は知っていても、学部や専攻、職種は知らないのではないだろうか。趣味や食事の嗜好もおそらく把握されてはいないだろう。

「もしかして三嶋さんとうまくいってない、とかかな」

 父親がおそるおそる口にする。まあそう思うよね、と思いながら「いや、別にそういうわけじゃないよ」と苦笑した。

「よかった。正直、家から迎えに行くまで、離婚の相談されるんじゃないかって父さんひやひやしてたんよ」

「まさか」ふと、間が空いた。何か言いたげな雰囲気を感じ取って、言うか言わまいか迷っていると「逆か。父さんたちを反面教師にしてたら、離婚とかしないか」と冗談めかして父親が苦笑まじりに言った。

「どうだろうね。絶対離婚なんてしない、って力んでる方がよほど夫婦として危うい気もするけど」

「ふうん」お茶でもしていくか、と問われたが「車で話す方がいい。適当に道流して」と頼んだ。ふと気になってたずねる。

「家出てくるとき、お母さんに何か言われた?」

「いや、なんも。農協に顔出すって言って出てきた。伶のことは言ってない」

「そうだよね、よかった」

そもそも、今日帰省するということは母親には伝えていない。一日日付をずらして伝えた。今日は母親の妹である叔母の家に泊まる予定だ。父親は、ふうと苦笑いして言った。

「俺が伶を迎えに行ったってばれたら、ほら、揉めるから」

 母親は伶を暴力で支配していたが、配偶者である父親のことは忌み嫌い存在を黙殺することを徹底していた。幼い頃、単身赴任をしていた父親が仙台から帰ってきた時におんぶをねだって甘えていたら母親が台所から飛んできて「降りなさい」と低い声で言い放ち、ぴしゃりと戸を閉めて出て行った。失禁するかと思うほど恐ろしい形相に、父に懐く気が一切引いた。子供ながらに、家の中で誰の言うことを聞くのが一番自分に不利益が少ないのか瞬時に察した。小学校に上がる頃には、父親に話しかけられてもわざとそっけない態度を取った。ちょうど、母親がそうしているように。

 たかが、嫁いでいった娘を駅に迎えに行くだけでも機嫌を損なう。もう、互いに還暦を過ぎて何年も経つというのに、未だに母親は潔癖なまでに父親を厭い、伶と接触することを嫌がる。

「ねえ、私ってなんで生まれてきたのかな」

「……はい?」父親の声には呆れと半笑いが溶けていた。

「いや、哲学的な話じゃないよ。お兄ちゃんが生まれた時点で夫婦としては破綻してたんだとしたら、なんで私が生まれてきたのかなって思って」

「はあ」

「昔アルバム見たら、お兄ちゃんの時点でお父さんの写真なかったから、この時から夫婦仲終わってたんだろうなって子供ながらに察したんだよ。それで、なんで私が生まれたんだろう? って疑問だったわけ」

 そうだね、と思いあたりがあるのか父親がうなずく。街並みに見覚えがあって目をこらすと、伶が通っていた高校付近まで来ていた。別に気を利かせてこのあたりまで来たのではなく、偶然だろう。父親は入学式も卒業式にも来ていない。

「中学生の時だったからさ、本当にお兄ちゃんと私で生物学的父親は同一人物なのかなって疑ったりしたよ。ドラマの見過ぎだろうけど」

「伶は正真正銘お父さんの子供だよ。どう証明すればいいのかわからないけど」

「わかってるよ。顔とか結構、似てるところあるし」

 疑いを晴らしたかったのではなく、思春期の頃から今に至るまで自分の出自にうっすらと疑念を持ったまま過ごしていたということを知ってほしかっただけだ。謝られるんだろうか、と思ったけれど、父親は穏やかな顔をして運転しているだけだった。

父の不貞だとか、実は多額の借金があるとか、わかりやすい過失があるわけでもないのに、どうしてこうも母は夫を邪険にできるのか。全く意味がわからなかった。そして、それと同じくらい、母と別れなかった父の気が知れなかった。

「確かにお母さんの……雛子の態度に腹が立つこともいっぱいあったよ。でも、今となってはもう、三十年以上一緒にいるからね。もう、どうこうしようとは思わないよ。それは雛子も一緒じゃないかな」

「あんなひどい人の家族で居続けるのがお父さんの人生なの? それでいいの?」

自分が残酷なことを口走っているのはわかっていた。父は、はは、とひらがなを並べるような乾いた笑い声を零した。そして言った。

「まあ、伶からしたらそう見えるかもしれん。けど倫や伶っていう子供を生んでくれたっていうだけで、お母さんには一生頭上がらんと思ってるんよ、俺は」

「何それ……」

「まあ、伶にはまだわからんかもなあ。親になったらたぶん、わかるよ」

「そのことなんだけど」父の話に水を差す格好になってもかまわない、と思った。今言わなければ、もう実家まであと十分ほどで着いてしまう。

「私、高志さんと揉めてるの。子供を持つかどうかで。高志さんはできれば子供が欲しいと思ってて、元々子供好きなんだよね。でも、私は子供を持とうとは思ってないし、これからも考えは変わらない」

父は絶句していた。沈黙のあと、「それは、別れ話をしているっていうことなの」と静かに問うた。

「そこまで一触即発って感じじゃない。結婚する前から伝えてるから。私の考えとか、育ちについて」

「育ち?」

「お父さんは知らなかったと思うけど」一旦言葉を切った。もったいぶっているのではなく、ラジオの音に紛れずに確実に父に届けるために、曲の盛り上がりが通り過ぎるのを少し待った。「私、お母さんに殴られて育ってるんだよ。小さい時から、高校生まで、十八年間ずっと。あと、お兄ちゃんも殴られてたし」

私虐待されてたんだよね、とか、親が暴力的ですぐ手が出る人だった、とか、恋人もしくはごく親しい人にさらすことはわりとよくあることだ。むしろ同情を釣る形で使ったことも多い。けれど、身内に明かすのはこんなにも緊張するものなのかと思った。

「え」

父親はすぐには言葉にならなかったらしい。やはり知らなかったんだな、と思う。知り得ようがなかった。それくらい、子供や、子育てや、家庭から蚊帳の外に弾かれていた。

「それは良くないなあ。俺は一回も叩いたりしたことはないよ。親にそういうことされたこともないしね」

え、と声が出た。

返ってきた言葉の声色が場違いにゆったりと間延びしていることにぽかんとしてしまう。別にそういうことを言いたいわけじゃない、と思ったが父親はなおも「俺もお母さんに蹴られたことそういえばあるな」と笑いながらつづけた。

伶は黙っていた。あまりのことに、言葉を発せなかった。

圧倒的に、会話ができていない。成り立っていない。妻は子供を殴っていたが自分は子供を殴っていないから親として道を外していない、と今ここで伶に主張して何になるというのだ。父がどうだったかを取り沙汰したいのではなく、伶や兄が父親不在のほぼ母子家庭の状況下でどういう子供時代を送っていたのか、配偶者である女が自分の子供をどんな風に育てて、躾けていたのか、それを父親にも知ってほしかった。父親の口から母を断罪してほしいのではなく、ただ知ってほしかった。知って、悔いてほしかった。自分が関わることが許されなかった母の絶対王政の聖域の中で、子供らがどういう仕打ちを受けて、それがどういう歪みを生んだのか、それを知って悔いるべきだと思った。

それなのに、伶の告白によって父親が傷ついたようには到底見えない。自分もまた母親から暴力を受けていたという意味では同じ被害者だとでも思っているのだろうか。

それは絶対に違う。衣食住を自分で用意できない立場の人間とそうではない人間が受ける暴力は、絶対に同じではない。父親は逃げられたはずだ、と言いたいのではない。逃げ出して距離をおくのではなく、対話して立ち向かい、対峙して状況を変える権利や能力があったはずなのに何十年にも渡って放棄しつづけた。それはまさしく父親の原罪ではないのか。

流れていく水田が、鏡のように空を映し出す。田植え前の故郷の風景は、それでも圧倒的に輝きを放っていた。

所詮父親は単身赴任で月に一度しか母と接することはなかった。けれど伶たちは毎日母親と暮らしていた。その時点で、受けていた暴力の重さも頻度も比べるまでもなくこちらが重かったはずだ。まずは、「悪かった」と私たちに謝るべきじゃないのか。なぜまっさきに出てくる言葉が親としての自分を正当化するような保身なのか。

「お父さん」

「ん?」

「どうしてお母さんと結婚したの?」

ごまかされるのでは、と思いながらもたずねる。「お見合いだよ」とあっさりとしたこたえが返ってきて驚いた。

「そうだったんだ。恋愛結婚ではないだろうとは思ってはいたけど」

「お母さんのお父さん、伶のおじいちゃんが五十歳の時膵臓がんで亡くならはってね。それで、お母さんは急いでお見合いして婿を取ったんだよ。雛子が二十五歳で、俺は二十八歳の時だわね」

「若いね」すべて初めて聞く話だった。家族の歴史や成り立ちめいたことを訊くのは、タブーの気配が強く感ぜられる家だったからだ。

「伶からしたらそうだろうけど、田舎だし昔のことだからそうでもなかったよ」

 伶の実家は米農家だ。十年前までは母方の祖母と父親が農作業をしていたが、祖母が他界したため今は父親が一人で担っている。さして大規模な農家でもなければ地主でもないのに、一家の大黒柱が突然病死したからと言って、急にお見合いをするなんてなんだかいささか旧態前とした話だ。思ったことを率直に言うと、「そうだね、お母さんはあんまり乗り気ではなかったと思うよ」と父親は隠すでもなく言う。

「それは、子供を持つことも?」

「いや、子供が欲しいって言うのがあったから結婚してるからね。別に、あとつぎのためだけのことではなくてさ。お母さん、ほら、教員してたし、男の子と女の子が一人ずつほしい、みたいなことは言ってたよ」

「じゃあお母さんは自分の自己実現や幸せのために子供を持ったんだね」

 小さく呟いたが、父親は意味を取れなかったのか、どうだろう、と曖昧な返事をするだけだった。

自分の幸せのためじゃなくて、まだ生まれていない人を幸せにするために子供を産んでほしかったよ、と心の中で続ける。それが産む側の、最低限の義務なんじゃないのか。伶は小さく唇を噛む。下腹部が張っている感覚があるのがわずらわしかった。


11 氷上清夏

 東京に戻ってくると猛暑日が続き、日中は寝て夕方に図書館で本を借りに行って、夜中に原稿を書いたり本を読んだりするようになった。コンビニに買い出しへ行ったりオリジン弁当で割引になった惣菜を選ぶのは楽しい。誰とも会わないでいると、広島や島根に行ったことなど、前世の記憶のように遠く感じる。

 檜山の実家で朝ごはんを食べたあと、「じゃ東京戻ろうか」と家を出た。レンタカーを返すために広島まで一旦引き返してそこからは飛行機で戻ろう、と檜山が言った。

【島根、楽しそうで何より! それにしても、社員を自分の実家に連れてくなんて相当変わった人だね。遠回しにプロポーズしてるようなものじゃん】

 車内で伶からのLINEに気づき、読み上げようかどうか、迷う。けれどしばらくは車にふたりっきりであることを考えてやめた。

「何、楽しそうじゃん」

「友達に島根の写真送ってたんです。その子は今帰省して、新潟にいるんだけど」

「君は実家に帰ってるの? 確か蒲田だって行ってなかった?」

 高校生まで母親と同居していたアパートはすでに引っ越していた。同じ最寄り駅の、もっと家賃の安いワンルームに一人で住んでいる。

「帰ってない……っていうか、会う時は私の家にお母さんが来るパターンが多いかな。野菜とか買ってきて、作り置きのおかずを何品か作って帰って行きます」

「いいお母さんじゃない。仲いいんだね」

「そうですね。一つの部屋で十八年同棲してたんで、喧嘩はしないようにお互い気を遣いあってはいたのかも」

「同棲って」檜山は笑ったが、部屋が小さかったためにセミダブルベッドでいつも二人並んで寝ていたと言うと、笑みが消え、真顔でぽつりと言った。

「なるほどな。それ、息子だったら相当きついな。布団は分けるだろうけど……いや、娘だってしんどいか。ごめん」

「高校生くらいになると、うちは貧乏だからしょうがないって割り切って普通に寝てたんですけど、中学三年間が一番つらかったかな。その頃母親には彼氏がいたから、なんだろう、母親から性を感じてしまったというか」

 母親のことは嫌いではないし、どちらかといえば仲は良い方だと思う。けれど、十八年間密に過ごしすぎた反動なのか、いまは家族と言うより親族のような距離感だ。ミラー越しにちらりと檜山が清夏を見やった。

「君はあけっぴろげに見えて、結構複雑な生い立ちなんだな」

「複雑じゃない人なんて、少し掘り下げたら誰もいないんじゃないかな」

 伶のことを思い浮かべながら呟く。そうかもしれないな、と檜山が呟いた。

 十三時に広島に着き、お好み焼きを食べた。そして広島空港に移動し、夕方に羽田空港についた。「移動だけで一日使っちゃったな。申し訳ない」

「そんな。まさか島根まで行けると思わなかったし、全然いいですよ。あ、でも牡蠣食べればよかったな」

 羽田から出ているバスで渋谷に向かった。清夏が窓際に座り、檜山が隣に座る。二日間の間で一番距離が近くなり、何でもないような顔で車窓に目を逃がした。

渋谷で降りたらオイスターバー行きません? と言おうとして、口をつぐんだ。檜山はポケットから財布を取りだし、乱暴な仕草でお札を二枚抜き出すと、ほい、と軽い口調で清夏に差し出してきたのだ。

「……なんですか」

 全く意味がわからず、固まっていると「給料みたいなもの」と檜山は言った。「本当なら夏季休暇なのに二日も連れまわしたから、それくらい出しますよ」

「いや、いいですって。仕事だとは別に思ってないし」

「でも俺といたらいやでも仕事の気分は思いだすじゃん。そのストレス分だよ。ホテルのキャンセルとかレンタカーの手配とかなんだかんだやらせちゃったし」

 いらないです、ともういちど繰り返したが、檜山は清夏以上に頑固に譲らなかった。暗闇の中、密接した状態で檜山がずっと自分にお金を差し出している状況そのものがいやで渋々受け取った。お礼を言うに言えず、財布にしまった。

夕食を渋谷で取ろうとしたものの、時短営業のお店がほとんどだったため「家に帰ろうか」とそのまま解散した。井の頭線に乗り込み、一人になった解放感と寂しさ、疲労がどっと押し寄せてきて、夕飯はとらないでそのまま寝た。

 お盆休みは、広島と島根に行った以外、特に遠出の予定はない。【伶さんいつまで新潟にいるー?】と連絡を送ったら、一日経ってから【まだわからない、決まったら連絡するね】と返ってきた。

ライブチャットは複数サイトで同時に待機しているのでそれなりの頻度で通話があったが、事務員のパートをしている今、以前ほど本腰が入らない。営業メールを送るでも動画をアップするでもなくぼんやりしていると、LINEの通知があった。伶かと思ったが、送ってきたのは母親だった。

【お盆休み? 今日の夜泊まりに行ってもいい?】

 LINE越しでも会話するのは年始年末依頼だ。急な申込みに驚きはしたが、暇を持て余すよりはいいかと思って【大丈夫】と短く返事をした。母親は理由を述べるでもなく【ありがとう ではまた連絡する】と帰ってきた。

何時に来る予定? とつづけて送ったが【夕方くらい】と要領を得ない回答が来ただけだった。


 家を空けるのもためらわれ、母親から連絡があるまで家で過ごした。【井の頭線乗った。浜田山まであと二十分】とLINEが来たのは十八時半だった。【ごはんどうする?】と訊くと【食欲あんまりない。清夏にまかせる】と返ってきたので、面倒だったがそうめんを茹でることにした。

 大葉を刻んだり豚ばら肉を茹でていたらそろそろ母親が駅に到着する時間だった。自転車を走らせると、駅の交番横で母親が日傘を差して立っていた。

「お疲れ。どうしたの、急に」

 母親はそれにはこたえず、「ごめん、あんたの家歯ブラシのあまりあったりする? 忘れちゃった」と言った。あるから貸す、と言うと「ごめんね、急に来て」と重そうなトートバッグを持ち直したので自転車の籠に入れさせた。

 あんたすっぴんで出てきたの? と問われて「日焼け止めは一応塗ったけど」とこたえると「高校生だってもっと色気づいてるわよ。無頓着ね」と大きな声で笑う。商店街中に通り抜けるような声量で笑うので、早く通り抜けたい一心で自転車を押す。耳が遠くなったのだろうか。若い時から苦労しているせいか、見た目は若作りしていても老いるスピードが速いような気がしてならない。

「夕飯そうめんでいい?」

「いいいい、暑いのにごめん」昔から、ありがとうの代わりに謝る人だった、と思いながらアパートの鍵を開けた。

 そうめんを茹でて、大皿に盛ってテーブルに並べて夕食にした。食欲がない、と言うので少なめによそったにもかかわらず母親は半分しか手をつけず、「もうお腹いっぱい」と子供のように箸を置いてしまう。

「もう、せっかく二束茹でたのに。明日の朝食べる?」

「うん、そうする。温麺つくるわ」

 じゃあ自分の分も少し残そうかな、と思っていると「私ね、胃の切除手術したの」と母親がぽつりと言った。咄嗟に言葉を変換できず、「何それ?」と訊き返してしまう。清夏の視線から逃れるように母親はついっと目をそらし、「胃がんだったの。もう、切って三か月目」と早口で言った。「今は通院だけ。薬はたぶん一生服まなきゃいけないけど」

 突然の告白に頭がついていかない。「がんって、大丈夫なの? 切除したらもうおしまいなの?」と矢継ぎ早にたずねると、「たぶん」と曖昧な返事が返ってくる。貧相な知恵を絞って「転移とか大丈夫なの? 早期の発見だった?」と訊くと、「大丈夫だいじょうぶ、たまたま検査のタイミングがよくてすぐ見つかったから」とひらりと手を振る。ほっとしたものの、母親の腕は枯れ枝のようにあまりにほそく、直視するのがためらわれるほどだった。確かに、駅で姿を見た時「痩せたな」と思わないでもなかったが、清夏と同じでもともと痩せやすい体質なので、夏場であまり食が進まないだけだろうと片付けた。

「手術の時に言ってよー。なんで三か月目で報告するの」

「急なことだったの。入院中はコロナで面会は全部断ってたらしいし、どっちにしろでしょ」

他人事めいたいいかげんな回答にいらだったが、大きな手術を一人きりで乗り越えた母親を強く責めるのも酷な話だと思い、ぐっとのみこんだ。大変だったね、言ってくれればいいのに、無事でよかった――相手が友人や恋人だったらまっさきにかけるだろう言葉が、胸でつかえて出てこない。

「……今は普通にごはん食べられるの?」

「消化がいいものだったらね。最初の頃はお粥と白湯ばっかりだったから、久しぶりにお味噌汁飲んだ時すごくしょっぱく感じたわ」

「そうめんとか、うどんなら食べられる? 明日買い置きしようか」

「ごはんなら食べられるから、わざわざ買う必要ないわよ。ごめん、疲れたからお風呂使わせて」

「ああ、うん。バスタオルこれ使って」

母親が食べ残したそうめんを自分の皿に移して、ラップをかけて冷蔵庫にしまう。お風呂から上がったらあらためてがんについて訊かなければ、と思ったが、「疲れちゃったから先に寝させて」と早々と寝付いてしまった。


 翌日、起きるとすでに母親が台所に立っていた。おはよう、と声をかけると振り向いて言う。「もやしと卵、使ったよ。ツナ缶とかないの?」

「めちゃくちゃある。そこの、上の棚」

 ニュースを流し見しながら温麺を食べた。なんだか小学生の夏休みに戻ったみたいだな、と思う。同じことを思ったのか、「なんか、蒲田に住んでた頃みたいね」と母親が笑う。

「ねえ、今日なにか予定ある?」

「ないよ。どっか行く?」

母親と出かけるのも面映ゆかったけれど、家にずっと二人でいるのも気詰まりなのでそう言ってみた。それに、檜山からもらった二万円をさっさと使ってしまいたい気持ちもある。貯金にまわすのもなんだか後ろ暗く、かと言って自分の私利私欲、たとえば化粧品や服を買うために使うのも気が引けた。それなら母親を連れてランチでも行ってぱっと遣いきってしまいたい。母親は「行きたいところがあるのよ」と言った。

「え、どこ?」

「結構遠いよ。東村山市」清夏の家からはだいたい三十分ほどの郊外だ。「何かあるの」と問うと、母親はぽつりと言った。

「私さあ、大きな病気するのってあんたを産んでから初めてだったのよ」

「ああ、うん」何の話だろう、と思いながらうなずく。

「それでね、急に不安になったわけよ。ああ、いま死んだら後悔するんだろうなあって」

「……縁起でもないこと言わないでよ」ごめんて、と母親が笑う。けれどすぐに笑みを消して、静かに続けた。

「まあ運よくきれいに治してもらったわけだけどさ。それでね、死ぬ前に行っておこうかなと思って」

「死ぬって何。やっぱり転移してたの?」

気色ばんでさけぶと、母親はきっぱりと言った。

「私じゃないわよ。私の母さん。東村山の老人ホームにいるらしいの。あの人が死ぬ前に、顔見ておこうかなって」

 祖母と母親は絶縁状態にあったはずだ。ただ、くわしい話を聞いたことはほとんどなかった。「一人じゃ怖くて、清夏の家に寄ったの。ごめん」と母親は迷子の子供のように呟いた。


 電車の中で、ぽつぽつと母親が祖母との関係について話してくれた。

 父親との間に子供ができた時、祖母は猛反対したらしい。それに逆らうようにして清夏を産み、当時大学生だった父親と籍を入れた。怒り狂った祖母から逃れるようにして父親の学生寮にころがりこみ、そこで清夏を育てた。

「おばあちゃんってどういう人だったの?」

「すぐものさしで背中叩いてくるような厳しい人だったよ。ま、あの人も父親と離縁してるけどね。女買うわギャンブルはするわ、あげくに私の養育費を株に全部突っ込んで溶かすような荒い人だったからね」

「おじいちゃんって生きてるの」

「いや、私が中学生の時にクモ膜下出血で死んだよ。母親にとっていい夫じゃなかったかもしれないけど、私は結構父さんのことが好きだったな。何しても子供には怒らないし、面白い人だったからさ」

「ふうん。じゃ、お母さんって父親似なんだね」

「どっちかと言えばね。あんたはみょうに真面目な子に育ったから、ばあさんの血なんだろうね、そこは。日記なんかこまめにつけてるタイプだったし、あんたが文章で仕事してるのも、そういうところを継いだんだろうねえ」

 別に真面目でもないけどな、と思ったけれど、母親がそんなふうに清夏を見ていたんだということが照れくさくて黙っていた。

「おばあちゃんと会うのいつぶり?」

「清夏の年齢とそのまま一緒じゃないかな。叔母ちゃん……母さんの妹がね、教えてくれたのよ。って言っても十年以上経ってるけど、ずっと見舞いに行ってなかった。もう、ぼけちゃってるみたい」

「そっか」

「それ聞いて逆にほっとした。またものさしで叩かれたらたまらないからさ」

 母ははすっぱに笑ってみせた。けれど、削げてしまった頬に浮かんだ笑みは、すぐに滑り落ちてどこか心細そうにドア上の駅の表示を見上げていた。手をつないであげようかと一瞬思ったけれど、子供扱いしているようだし、勇気が出なくてやめた。代わりに言う。

「特別会いたいとは思ったことなかったけど、私にもおばあちゃんいるんだね。生きてるうちに会えるなら嬉しい。誘ってくれたのはよかった」

「自分が死にそうになって初めて母親に会いたいって思うのも虫がいい話だけどね。でも、誰かの子供でいられる時間ってもう大して残されてない気がしてさ」

 どきりとした。それは清夏にも言えることで、母親がいなくなれば、自分は誰かの子供という存在ではなくなり、ひとりぼっちになる。もちろん、血縁だけが人間関係のすべてではないけれど、自分よりずっと早くその日をおびえている母親を見て、胸がざわりと揺れた。

 

 東村山駅から歩いて十分ほどして辿り着いた。

グループホームもみの樹、というのが祖母のいる老人ホームの名前だった。「結構新しそうだね」と声をかけると、母親は「そうね」と短くこたえた。東村山についてから、緊張のせいか口が重くなっている。

「香山かよ子の娘です。十三時に予約しております」

 受付で母親が言うと、五分ほど待たされたのちフェイスシールドを二つ渡された。これを着けて面会するらしい。

「こちらへどうぞ」

 館内はクリーム色で統一されて、なぜか、小三まで放課後に通っていた学童保育を思いだした。祖母は個室にいるらしい。香山かよ子、と書かれたネームプレートの下がった部屋をスタッフがノックした。

「香山さーん、娘さんが来ましたよお。お孫さんも、お見えですう」

 部屋のまんなかにベッドがあり、白髪の老婦が身体を起こしてこちらを見ていた。短い白髪は地肌を透かすほど薄く、たんぽぽの綿毛を連想させた。焦点の定まらない目で、窓の外の景色でも見るようにしてこちらを眺めている。

「そうですか、わざわざありがとうございます」

やはり、自分の娘が来訪しているとはわかっていないらしい。スタッフは「じゃあ、ごゆっくりねえ」と気にするでもなく部屋を出て行く。

「……かあさん、久しぶり」

母親の声はふるえていた。怖いのか、感動しているのか、嬉しいのか。祖母と面識のない清夏は、部屋の隅に立ったまま二人の様子を眺めた。

 祖母は今年で八十四歳になるらしい。人生でほとんど高齢者と近しくしたことがないので、祖母の淡い反応が年相応なのかそうでもないのかよくわからない。母親は熱心に話かけてどうにか意思疎通を図ろうとしていたが、祖母は「はあ」「そうですか」と大きな声で繰り返すだけで、一向に会話が成り立たなかった。母親は苦笑いして「どうやら来るのが遅すぎたみたい」と清夏を振り返った。

「……どうだろうね」

「まあしょうがない。誰だって歳は取るんだから。ねえ、ちょっとホームの外に出られないか職員の人に訊いてみてくれない? 中庭がきれいだったから散歩ぐらいできないかな」

カウンターでたずねると、車椅子を出してくれることになった。けれど、いざ車椅子に祖母を乗せて食堂から中庭に出ようとしたら、あまりの暑さに祖母が嫌がるそぶりを見せたので食堂でアイスコーヒーをみんなで飲んだ。

「ばあちゃん、コーヒー飲めるんだ。意外」

 ミルクも砂糖もなしにブラックでごくごくとおいしそうに飲み干しているのを見て思わず呟く。「確かにね、私も初めて見た。ここで味を覚えたのかね」と母親も面白そうに眺めている。

「今日は暑くて残念でしたけど、秋になると紅葉がね、きれいなんですよ。銀杏拾いしたがる方もいらっしゃるくらい」車椅子を出してくれた職員がにこやかに言う。「へえ、楽しそうですね」と母親が相槌を打った。

「ねえ、なかなかいいところに住んでるね。私らなんかよりずっと」

 級友に話しかけるみたいに母親が祖母の顔を覗き込んで言う。祖母はしわくちゃの顔で澄まして「おかげさんでねえ」とこたえ、清夏たちを爆笑させた。

 帰り道、玄関で祖母はしゃぼんだまの表面のようなふんにゃりとした笑みで清夏と母親を見送った。一緒にお茶をして中庭を眺めていた二人が自分の娘とその娘であることは、最後まで理解していないようだったが「次いらっしゃることがあれば、銀杏をお持たせしますよ」とやけに流暢に言った。母親が涙ぐんで鼻を啜るのを、見ないふりをした。

「思ったよりもばあちゃんだったねー」

 東村山駅までの下り道を降りながら母親があっさりと言い放った。日傘の影に入れてやりながら「まあ、そうだね」と相槌を打つ。

「ショックっちゃあショックだったけど、かえって気が楽になったよ。もしぼけてなかったらホームで怒鳴り散らされて追い返されてたかもしれないからさ」

「まさか」笑っていなしたものの、母親の表情は案外硬かった。厳格な母親の前で、肩をこわばらせて過ごしていた生真面目な少女の面影が一瞬透けて見える。おおざっぱで何事もどんぶり勘定な人だと思っていたが、祖母への反発からことさらはすっぱな母親を演じていたに過ぎないのかもしれない、とふと思う。

「ねえ、がんばって新宿か銀座まで出ない? 資生堂パーラー奢るからさあ」

「太っ腹ね。疲れたし、確かに甘いもの食べたいわね」

 日はまだ高く、電車の中でうつらうつらしながら戻る。秋になれば中庭が金色に染まるのだと、祖母が誇らしそうに指さして話していたのが、瞼の裏でうっすらよみがえった。


12 桐原伶

 父親に頼んで、叔母の住む隣市に送ってもらった。

「明日はうちに泊まるんだろ?」

「たぶんね。お母さんには何も言わないでおいて」

 何か言いたそうだったが、父親は何も言わなかった。母親に抑圧され過ぎた弊害なのか、娘に対してもあまり強く主張することがない。

「駅で、伶が立ってる時さ」

「うん」

「お母さんに見えて、一瞬ぎょっとしたよ。もちろん若い頃のな」

 やめてよ、と心の底からうんざりした声が出た。父親は、「そんなにいやがることでもないでしょうが。親子なんだから」と鷹揚に笑った。

 あの、神経質で性格がきつい母親の配偶者をまがりなりとも四十年近くつとめているだけあって、父親はどこか人の気持ちに鈍いところがある。いらだちはもちろんあったが、黙っていた。

「今日ありがとうね。また連絡する」

「はいよ。俺も、伶とちゃんと二人で話せてよかったよ」

 ドアを降りる間際、思いがけず鼻の奥がつんとした。三十年親子でいたのに、きちんと対話したのは今日が初めてだったのだ。

【イタリアンのお店で大丈夫―? 先に入ってるね】

 駅ビルの中にあるお店に叔母はすでにいるようだ。【了解! 向かってます】と返信し、意識して歩幅を広げて歩く。

「伶。お久しぶり」

 店に入ると、店内を見回すより先に、窓際でひらりと叔母が手を振った。

「美紀ちゃん、ありがとうね。お待たせ」

「あんたと二人でごはん食べるの、何年振りだろうねえ」

母親の妹は母親より十歳若く、叔母ちゃんではなく美紀ちゃんと呼んでいた。独身で、雑貨屋の雇われ店長をしている。実家から車で三十分ほどのマンションに住んでいるので子供の頃よく遊びに行った。

神経質でがみがみうるさい母親と違って、大雑把で明るくやさしい叔母が大好きだった。いい歳なんだから結婚すればいいのに、と母親はぶつぶつ言っていたが、恋人はその時々でいたようだ。お母さんよりっぽど楽しそうに生きてるし美紀ちゃんはもててるよ、と子供ながらに内心思っていた。

席についてパスタとピザを頼む。あらためて向かい合うと、若いと思っていた叔母も、歳相応に見えた。それでも、母親と並んでも姉妹とすぐに見抜く人は少ないだろう。大ぶりのアクセサリーに太いボーダーのドルマンスリーブのチュニックとデニム。長年接客業に就いているだけあって、格好は若々しい。

「そうだね。下手したら中学生ぶりとかかもね」

「あんたももう結婚してる奥さんだもんね。そりゃ私もおばあちゃんになるわけだわ」妊娠のことをまだ伝えていないのに〈おばあちゃん〉という言葉が出てきてどんと心臓が前にせり出す。料理が出てきてから話そうと笑みを作る。

「美紀ちゃんは相変わらず? 仕事はどう?」

「コロナで一時期はどうなるかと思ったけど、案外けろっとしてるかな。まーあんまり変わらないよ。伶こそ東京から引っ越したんでしょう。茨城だっけか」

「うん。水戸だからこっちよりは都会だよ」

「それはそうだ」

水を口に含む。あのね、と切り出すと叔母が一瞬緊張するのがわかった。

「今、妊娠してるの」

ええっ、と大きな声をあげて叔母は口元に手をやった。目が輝いている。

「……おどかさんでよお。おめでとう、何ヶ月なの?つわりはない?」

「まだ初期だよ。それで帰省したの」

「姉さんたちには言ったの?」

「まだ。あのね、美紀ちゃん。私、中絶するつもりなの」

今度こそ叔母の表情がさっと消えた。丸く目を見開いて「何か産めない事情があるの?」と小さな声で言った。真正面から非難されなかったことにほっとする。

「産めない事情……はないかな。勿論百パーセント夫の子供だし、経済的に困ってるわけでもない。でもね、元々子供はつくらないつもりだったんだ」

「旦那さんに反対されてるの?」

「違う。夫はむしろ子供好きな人だから、産んでほしいと思ってると思う。私個人がね、子供を産みたいと思えない」

お待たせしましたー、と場違いに明るい声が響いて、ピザとパスタが届いた。絵の具で描いたように明るい色の料理を無表情で見下ろし、叔母は押し黙っている。手を伸ばし、取り皿にパスタを盛りつける。

「……正直ね、二年前にあんたが結婚するって決まった時、意外だなと思ったの。ああいう、特殊な家庭で育ってるのを見てきたからさ」

叔母がぽつりと漏らす。マルゲリータを一切れ口に運びながら、「そんなこと思ってたんだ」と返す。結婚を報告した時、「よかったねえ、これで肩の荷が降りたわあ」と叔母は豪快に笑っていた。

「ただね、夫婦仲が冷え切った親を見てきたからこそ、家庭っていうものに人よりもこだわりがあるのかなぁとも思ったわけよ。そんなこと、お祝いの感想で言うことでもないから黙ってたけどさ」

あ、これ思ったよりも辛いね、とアラビアータを食べながら叔母が笑って見せる。どうにかこの場を暗くしまい、と気遣っているのが透けて見える。

「うん、それは大いにあると思う」

「でも子供はほしくないのね。あれだけきつい人に育てられたら、それもそうだわね」叔母はふっと片頬を歪めて笑った。こうしてみると、母親と全く似ていないわけではないんだな、と思う。

「美紀ちゃんから見てもお母さんってそう見えた?」

「まぁね。あんたや倫が三つだか四つだかの時から、そんな激しく怒る? って勢いで叱りつけてたからね。今で言う毒親ってやつか。口出しできるような相手でもないから、言わないようにはしてたけどね。できるだけ実家に顔出してたのは伶が私に懐いてたからって言うのもあるけど、家の中に誰も味方がいない姪や甥があんまり不憫だったからっていうのは正直大いにある」

「そう」

叔母が緩衝材として物言いのきつい母親の間に立って何かと自分たちをかばってくれていたことをふと思いだす。子供の頃は、家が近いからしょっちゅう遊びに来てくれるのだと思っていたが、華やかな独身だった叔母が休みの日にわざわざ実家に顔を出してくれていた意味を考えると、鼻がつんとした。

「ねえ、姉さんにも言うの? 子供のこと」

 叔母がわずかに眉をひそめて問う。わからない、と呟く。

「産まないならつもりなら、わざわざ言う必要もないと思うけど。どうせまたギャーギャー騒いで、あんたが傷つくことになるよ」

「そうだけど、私が子供を堕胎するのはお母さんが私を愛さなかったせいだって、知ってほしいような気もしないでもない」

「あんた」叔母が絶句している。伶はテーブルに目を落とす。

「親離れできてないのは私の方なんだよ。たぶん」


 泊めてほしい、と頼むと「明日は実家に顔出しなさいよ」と釘を刺しながらも一緒に帰ることになった。

「ごめんね。急にお願いして。もし美紀ちゃんに『中絶するのは絶対にやめろ』って言われたりしたらどうしようって思って。話をしてから頼もうと思ったの」

「そりゃ、大賛成とは全く思わないよ。でも、あんたの身体とあんたの人生のことだからね。口出しできないよ」

「ありがとう」

「ただね」車のミラー越しに叔母がちらりと伶を見た。「これがもし、自分の娘から言われたらこんなには冷静ではいられなかったと思うよ。お母さんには話さないで、向こうで全部、済ませたら?」

 姪ではなく姉を気遣って言っているのだ。それはそうだけど、と小さく呟く。

 マンションに着いた。アイスコーヒー飲む? と問われ、水玉模様のグラスを受け取った。「なんか、懐かしいね。夏休みに泊まりに来た小学生の時みたい」

「そのコップそんな前からあったっけ? あ、伶が買ってきてくれたクッキー開けちゃってよ」

 東京駅で吟味せずに二箱掴んで買ってきたクッキーは、量は少なかったが口の中でほろほろと崩れてあまいミルクの風味が口いっぱいに広がった。

「うちってさ、おばあちゃんも厳しかったよね」

「えー? まあ、そうかもね。あんたのお母さんみたいな教育ママ系ではなかったけど、家事の仕方とか食事の仕方とか、結構口出ししてくる方だったな」

「……あのさ。明らかに美紀ちゃんよりお母さんに対しての方が厳しくなかった? 一緒に住んでたからそう見えたんだけど」

「そりゃあそうよ。だって姉さんは長女だもん」

否定されるかと思っていたので、叔母がやけにきっぱりと言って驚いた。

「そういうものなの? 長男ならまだわかるけど」

「跡継ぎには変わりないからね。大学受ける時もすごい揉めたよ。ほら、姉さんって宮城の教育大出てるじゃない? 私が金沢の大学行った時はそこまで言われなかったからちょっとかわいそうだったけど」

「そっか。それはちょっと同情する」とはいえそういう経緯があったのであれば、どうして伶が東京に進学することをあれほど嫌がったのか、余計わからない。そうぼやくと「単純に寂しかったんでしょ、そりゃあ」と叔母が笑う。

「実家にいた時、全然仲良くなかったし、何しても怒鳴られてばっかりだったよ」

「行き過ぎた愛情だよ。伶を嫌ってたわけじゃないと思うよ」

 夫にも言われたなと思って苦笑した。今頃どうしているだろう。陽性だと思い込んでどこにも出かけられずにいるとしたら、いまさらながら申し訳ない。

「ねえ、美紀ちゃんって子供ほしいって思ったことある?」

 子供の頃からずっと不思議に思っていたことだった。教員だった母親よりも、ずっと叔母の方が子供好きなように見えたからだ。

「あるよ」あっさりと返事が返ってくる。

「なんで、持たなかったの? 結婚したいと思う人がいなかった?」

「いたよ。いたけど、既婚者と付き合ってたのよ、私。十年くらい」

 びっくりしすぎて固まっていると、叔母は目をそらしながら言う。

「知らなかったでしょ? たぶんあんたのお母さんも知らないと思うよ。あの人は潔癖だからね。そもそもお互いの恋愛事情なんて、一回も分かち合ったことなんてない。そういうきょうだいだったんよね」

「……知らなかった。付き合ってる人がいるのはなんとなく、知ってたけど」

煙草を吸わないはずの叔母の部屋に、ライターがあるのをなんどかみかけていた。美紀ちゃんの? とわざと問うと「借り物」といたずらっぽく笑っていた。

「だから子供は持てんかったの。ほぼワンオペで子供育ててる姉さんの手伝いするだけでも大変だったし、仕事はやめたくなかったし、後悔はないけどね。あんたと倫の叔母になれただけでも充分」

「そっか」

「そういう意味では、私は姉さんにすごく感謝してるよ。子供を産んで育てた当事者からすれば随分調子のいい話かもしれないけど、それは本当。虫のいい感想だけどね」叔母はにっこりと笑った。

幼い頃は、美紀ちゃんの家の子供として生まれたかった、とばかり思っていた。けれど、違うのかもしれないと今になって思う。

いつだって叔母が機嫌が良くて自分たち兄妹にやさしかったのは、母親ではなくその妹だったからなのかもしれない。その発見に寂しさがないわけではないけれど、乾いた土がすっと水を吸うように腑に落ちた。


「あなた、こっちにはいつまでいるわけ」

 駅まで迎えに来た母親は、伶が車に乗り込んだとたんにそう訊いた。最初から喧嘩腰に聞こえるのは、こっちの思い込みだろうか。

「一泊したら帰る」ミラー越しに、母親が眉根を寄せるのが見なくてもわかる。

「二日しかいないなら、新幹線代もったいないじゃない」

「仕事があるから」自分の返事も、紙を千切って渡すようなそっけないものになる。母親と話していると自然とこうなってしまうようになった。

「そう。三嶋さんは?」

「水戸に残ってるよ」

「自営だものね。あなたも苦労するわよ」そうかもしれないね、と口の中で返す。

 どうして帰ってきたの? とでも訊かれるかと思ったけれど、さしてそれ以上会話をするでもなく実家に着いた。車を洗っていた父親は、伶を見て、おう、というふうに手を上げた。伶も手を上げ返す。車を挟むようにして、母親は父親の姿など見えていないかのように玄関へ小走りに吸い込まれていった。

 実家に上がるたびに、自分が大きくなったように感じる。身長の伸びが止まったのは中学三年生だ。家がやたらと広く感じていた年齢なんてせいぜい十年たらずなのに、その頃の記憶こそが実家の記憶そのものなのだろうか。

 いつもと同じ、何も変わり映えしない実家だ。すでにうんざりとした思いを抱きつつ、自室に入る。大きな学習机、扇風機、ベッド、タンス。母親が清掃してくれたのか、部屋は綺麗でカーペットの代わりに茣蓙が敷いてあった。キャリーケースを置き、ベッドに座る。

 この家にいい思い出はほとんどない。いつだって母親の機嫌をうかがってびくびくしていた。なんどこのベッドで突っ伏して泣いていたかわからない。母親にこっぴどく怒られた晩、夜中まで嗚咽を漏らしていたら突然ドアがばんっと音を立てて開き「聞こえよがしなことしないでさっさと寝ろ」と母親が怒鳴り込んできたこともあった。あの時はひたすらに悲しかったけれど、大人になってから振り返るとひたすら自分が憐れでならない。

 夕餉のあと、自室にこもっていたら三嶋から【具合は大丈夫? 相変わらず俺は無症状でぴんぴんしています】とLINEが来た。昨日も【伶ちゃん、体調はどう?】【何か困ったことあれば言ってね 俺は無症状だから】とメッセージが来ていて、既読だけつけて返さなかった。仕事にも影響が出ているだろうし、本当は陽性ではないのに自分の嘘のせいで外に買い物にも行けない夫に申し訳なくなり、【いま電話できる?】と送った。すぐに通話がかかってくる。

「伶ちゃん! 体調大丈夫なの? 熱下がった?」

 二日ぶりに聞く夫の声がやけに懐かしく、直接心臓に流れてきたみたいで泣きそうになった。顔が見たくなって、「ビデオ通話にして」と頼むと、画面が切り替わった。下から映しているせいで、普段より間延びした画角の夫が眉毛をハの字に下げてこちらを見ている。

「伶ちゃんも映せる? 顔見たいな」

「あ、うん」

ホテルにいないことがばれてしまう、と思ったがそのままビデオ通話に切り替えた。案の定、夫はあれ? とすっとんきょうな声を上げた。

「伶ちゃん、どこで療養してるの? なんか、人の家みたい」

「ごめん。今、私実家に来てる。ここは私の部屋だよ」

「えっ、どういうこと? わざわざ実家で療養してるってこと?」

 夫が混乱したように声を上げた。違うよ、と静かに切り返す。

「ごめんね、私コロナ罹ってないの。陰性だったの」

「そうなの⁉ よかったよ、全然連絡帰ってこないからぶっ倒れてるんじゃないかって気が気じゃなかったからさ」

「ばたばたしてて、ごめん。三嶋も、罹ってないはずだから仕事したり外食したりしても大丈夫だよ。仕事に影響出ちゃったと思うから申し訳ない」

 いーのいーの、とタオルを広げるみたいに夫がゆったりと笑う。なぜ、もっと追及しないのだろう。嘘をついて家を出てきたことをいまさらになって後ろめたく思った。

「で、なんで新潟にいるの? もしかして何かあった?」

 夫が声をひそめて問う。「ううん、単なる帰省だから心配しないで」とこたえると、ほっとしたように笑った。

 いい人なのだ。誰よりも善良で、やさしく、他人の悪意や打算には鈍い。こんな人が自分の父親だったら、どれだけ救われただろうか。三嶋を父親に持った子供は、彼の子供時代の片鱗をどんなふうに覗かせるだろうか。

 自分の子供だから、いやなのかもしれない。もし、三嶋がバツイチで、前妻との子供を持っていたら、その子供のことは受け入れていたような気がする。あるいは突然遠縁の子供を育てることになるとか、家の前に捨て子がされていたとか、自分の生い立ちとは全く関係のないところからやってきた子供だったら、案外と受け入れられたんじゃないだろうか――荒唐無稽な想像を頭から追いやる。そんなのは他責でしかない。

「どう、皆さん変わらず元気にしてた?」

「うん。ほとんど初めて、父親と一対一で話したよ。あと、叔母とも会った。母親の妹で、どっちかと言えば叔母の方が私と似てて仲いいんだよね」

「そっか、楽しそうで何よりだよ」

「うん」

しばらく夫はほんのりと笑ったまま、黙っていた。何を話していいかわからずに言葉を探していると、「お母さんは元気にしてる?」と訊かれた。

「ん……いつもどおりかな」

「そっか。陽性だと思ってたから俺も次の週末まで仕事休みにしたんだよね。せっかくなら俺も新潟に追いかけていこうかな。結婚してから一回も挨拶に行けてないしさあ」ここらで俺の株を上げておかないと、とおどけたように夫が言う。慌てて「明日で帰るから」と口を挟む。

「そうなの? もうちょっとゆっくりしていったらいいのに。めったに帰れるわけじゃないんだからさ」

「そうだけど」

「伶ちゃんが長く家にいるだけで、お母さんたちにとっては親孝行になると思うよ。仕事、まだ始まらないでしょ? もうちょっといてあげなよ」

 しみじみとした口調で説教じみたことを言われて、かっとなった。夫には何の悪気もない。ただ、伶がこの家でどんな仕打ちを受けてきたか、どんな思いを押し殺して帰省しているか、想像できていないだけだ。

「……三嶋にはわからないよ。きちんとしたおうちで、お父さんお母さんからまっすぐに愛されて育ってきたあなたには、わからない」

「……伶ちゃん?」

「私が、どんな気持ちでこの家に毎回帰ってると思ってるの? 私がどんな思いでこの家を出たかわかる? 縁を切らないで年に何回かは顔出してるだけでも、私にとってはこれ以上ないくらいの親孝行のつもりなんだよ」

「そんな。ただ俺は」

「年々母親に似てくる自分に気づいてしにたくなる私の気持ちなんて、ちゃんとした家で素敵な両親に愛情を持って育てられたあなたにはわからないよ」

 言い募りながら、なんだか芝居じみていると頭の片隅で思う。確かに私は親にきちんとしたかたちで愛されてこなかたったしあの家で起こっていたことは間違いなく虐待だった、だからと言って、そうではない夫を責め立てる理由にはならない。頭ではきちんと理解している。それなのに、癇癪が止まらない。

「何しても褒められたことなんて一度もないし、やることなすこと難癖つけられたの、子供の時からずっと。あんな親の子供の私が、まともな親になんてなれるはずない」

「……伶ちゃんは、自分の人生でうまくいかないことがあると、そうやってお母さんのせいにする癖があるよ。子供のことだけじゃない。自分でも自覚してるだろ? 確かにお母さんに厳しく育てられたのはかわいそうだって俺も思うよ、でももう、大人だろ。親のせいにできる年齢じゃないんじゃないの」

 その言葉を聞いた途端、自分の中で重い陶器に罅が入ってごとりと割れる音がした。とうとう言わせた、となぜだか奇妙な達成感があった。

「……親に殴られずに育ったあなたに、そんなこと言われたくない」

「いや、ごめん、俺が口出しできることじゃないとは思うんだけど」

「あなたにはわからない。一生わからない」

 夫が何か言いかけたが、通話を切った。すぐに着信があったが、携帯の電源を落とした。ぶるぶると身体がふるえた。眼球が滾るように熱くなり、目を閉じる。

 夫からすれば意味不明のやつあたりでしかない。わかっていて誘導尋問して、当たり散らした。家庭が不和だとか親からの愛情を十分に感じられなかったとか、そういうことを盾にして振りかざしていい年齢はとっくに過ぎている。そんなことわかっている。わかっていてやめられないのだ。

両親と仲のいい三嶋に対して引け目を感じるのと同時に、すこやかに育ってきたらしい夫に自分が通ってきた地獄をひけらかして慄かせたいという後ろ暗い欲求がどうしても、ある。傷口を見せびらかす子供と何一つ変わらない、あまりにも幼稚なアピールだ。

ばかばかしい、と自分に向けて吐き捨てて、消灯してベッドにもぐりこんだ。


 尿意で目が覚めて、お手洗いに立った。時計を見ると、まだ零時半だった。二時間ほど寝ていたらしい。

 部屋を出ると、居間に明かりがついていた。消し忘れかと思っていたら、父親が背中を丸めて新聞を読んでいた。

「今読んでるの? 遅くない?」あきれて声をかけると、「いつも寝る前に読んでるんだよ」と苦笑いする。それもまた、母親との接触を極力避けるためにそうしているのだろうと思うとあまりにも物寂しい気持ちになってたまらなくなった。

「お父さん」

「うん?」

「お母さんと二人で生活するのって、しんどくない?」

父親は小さな目をしばたかせた。

「どうしたんだ」

「なんとなく思っただけ。お兄ちゃんもそうだと思うけど、私はどんなことがあってもこの家には戻ってこないと思う。お母さんは何かっていうと私を呼び戻そうとするけどね」

「寂しいんだよ、お母さんも」

「だからって私を生きがいにするのは違うと思う」

 吐き捨てると、父親は傷ついたように唇を小さくすぼめた。この人にあたってもしょうがない。さっき夫にしたことを、父親相手に繰り返しているだけだ。母親にだけは、自分の意見を伝えることができないから。

「ごめん、言い過ぎた。お父さんに言ってもしょうがないよね」

「伶」

「そもそもこの家はもう誰も継がないし、農業も無理してつづけることないと思う。というか、無理してこの家でお母さんと暮らし続ける必要もないと思うよ。いつ帰ってきても、お父さんがお母さんに冷たくあたられてるの見るの、きつかった。夫婦のことだから口出ししなかったけど、お母さんが怖くて言えなかっただけで、ずっとお父さんがかわいそうだった。今さら味方みたいな顔して差し出がましいこと言ってごめん」

 父親は黙って伶の顔を見ていた。「そうだな」とごく小さな声で呟いて、少しうつむく。「でもな、無理して一緒に住んでるわけではないよ。お母さんも、あれで昔よりは態度も性格も丸くなったし、お互いじいさんばあさんになってきたから、いちいちつっかかってくることもなくなった。お母さんにとって俺は、食事が必要な空気みたいなものだな」

「でも」

「お互い離れた方が幸せなんじゃないかって言いたいんだろ? 父さんも何度も考えたよ。でも、やっぱり婿養子としてこの家に来た以上は責任をまっとうして死ぬまで畑とか田んぼの面倒見ようと思うし、伶や倫の実家はこの家なんだから、ここで暮らし続けると思う。気ぃ遣ってくれてありがとね」

 ほんのりと父親が微笑む。喉がかっと熱くなって、涙がせり上がってくる前に何も言わずに自分の部屋に戻った。

焚きつけておいて、父親がこの家に居続けることを選んでいることにほっとしていた。母親がひとりになれば、伶に依存することは目に見えている。伶たち夫婦と一緒に住む、とでも言い出しかねない。結局、面倒なことを父親に押し付けているだけだ。

 家族とはなんとおそろしい檻なのだろう。血縁という名の格子に囚われて、死ぬまで出ることが許されない。思い込み過ぎだろうか。罰のように、下腹がきゅっと重くなった。 


堺景介

「堺は結局いつ結婚するんだ?」と飲み会の場で課長が赤らんだ顔でからんできた。苦笑しながら「いや、別れたんです」とこたえると、その場にいた三人の社員は顔を見合わせた。

「そりゃまた、なんで」

 デリカシーの配慮もなくストレートに課長に切り込まれて、いっそすがすがしい気持ちになった。苦笑いしながら酒を煽る。

「子供を持つ持たないで意見が分かれたんですよ」と淡々と言うと「先輩は子供ほしくないってことですか?」と後輩の西間沙綾が首を傾げた。

「違う。逆。彼女が子供ほしくない人だった」

「へえー。まあ、今はいろんな考えがあるからしょうがないな」

 同期の謙一が小さく肩をすくめる。大学時代の恋人と二年前に結婚して、今は一児の父親だ。たまたま好きになって付き合った相手が自分の子供をすんなり産んでくれた謙一に言われると、お門違いな怒りだとはわかっていても、うっすらと腹立たしい。いや、もっと単純に、羨ましくてたまらなくなる。

「彼女と結婚したいと思ってたんですけど、俺、子供は絶対ほしいと思ってるんでやっぱり別れることになりました。こういうのって付き合う前だとわからないから、難しいですね」

「ふーん。堺さんってそんなに子供好きなんですね」

 西間がハイボールを飲みながら言う。「俺の家、四人兄弟の三番目だから、子供多い家ってやっぱり憧れがある」と言うと、三人はそれぞれ驚いた。

「なるほどねー、家庭環境って確かにあるよな」

「彼女は一人っ子だったし、あんまりイメージがなかったのかもしれないです」

 景介の家は、四人の子供たちがそれぞれあまり歳が離れていなかったこともあり、いつもにぎやかだった。兄は結婚して名古屋にいるが、下の弟と妹とは今でも仲が良く、実家に帰る時は互いに誘い合う。

「四人って、堺の世代でも結構めずらしいんじゃないの?」

「だと思います。下の妹が生まれるまで男続きで大変だった、って親父が言ってました。多くてもどこも、三人きょうだいとかですかね」

「夫婦仲がよろしかったようで」課長が下卑たように嗤う。四人きょうだいであることを明かすとなんとなく聞いた相手の頭に思い浮かぶことではあるので、あっさりと口にされて残りの三人で黙って苦笑いした。けれど、西間の表情はどことなく冴えなかった。

「やっぱり堺も子供はたくさんほしいの?」謙一が顔を覗き込んでくる。「できれば二人はほしいな、男女一人ずつは絶対ほしい」とこたえた。

「もし、両方男の子だったら? あるいは両方女の子だったら」

 ふいに西間が口を挟んだ。ぎょっとしたが、表情には出さず「うーん、三人目を考えるかも」とこたえる。謙一も課長も、うんうん、とうなずいていた。

 けれど、西間は笑わなかった。景介とも誰とも目を合わさずに言う。

「それって、私たちからしたら恐ろしい希望ですね」

 私たち、という言い方が耳にひっかかった。どういう意味? と景介が問うより早く「恐ろしいって何が?」と謙一がたずねた。

西間は口角だけキュッと持ち上げて笑う。目は笑っていない。

「だって、産むのは堺さんじゃなくて、奥さんじゃないですか。その人が、一人目で『こんなにしんどいことは二度とできない』『二人目は無理』って言ったら、どうするんですか。また、前の彼女みたいに別れるんですか」

 さっと血の気が引いて足元まで降りるのを感じた。課長は「いやあ」と取り繕うようにうっすら笑ったが、謙一は慌てたように「そんな言い方はさ」と口走る。

 まるで清夏が職場の飲み会に現れて断罪しているかのような錯覚を覚える。西間と元恋人はまるで似ていないのに。

 西間は小さく肩をすくめた。

「すみません、感じ悪いこと言って。でも、子供が何人ほしいとか、男女の比率とか、そういうのって産む側の人が決めるべきことだと思いますよ。だって命がけのことなんだから」

「それはさ、ちゃんとわかってるよ」畳み掛けるように言い返すと、ちらりと西間がこちらを見た。「もちろんあくまで希望っていうか単なる夢だし、性別に関しては女の人どころか、まあ神のみぞ知るっていう領域にはなるんだし」

 口が勝手に早回しになる。どうしてこんなに必死に話してるんだろう、と頭の片隅で思う。西間は「そうですか?」と首をかしげた。

「先輩のご実家、四人きょうだいの末っ子が妹さんなんですよね。それってたぶんですけど女の子が産まれるまで子供をつくりつづけたってことですよね」

「まあ、実際そうだけど」どうしても女の子がほしかった、という話は繰り返し聞かされていた。三番目に生まれたのが景介でがっかりした、とオチに使われていたからだ。

「それって本当にお母さんの意思なんですかね」

 西間が小さく呟く。何が、というと、それにはこたえずに指を立ててみせる。

「昔からよくあるじゃないですか、大家族十人きょうだいの家密着、みたいな実録バラエティ。ああいうの、今あんまり放送できないらしいですよ」

「現代じゃそういう家が少ないからだろ」

「違いますよ。多産DVなんじゃないかって、クレームが入るからですよ。それに、グロテスクじゃないですか。お金持ちでもないのに、むしろ貧乏なのにぽこぽこ無計画に子供増やして、結果余計貧乏になっておいしくなさそうなごはんを狭いおうちで囲んで食べるなんて」

 多産DV。聞き慣れない言葉だったが、謙一が耳ざとく「西ちゃん、言い過ぎだよ」と口を挟んだ。西間は、すみません、と口を動かした。時間差で、謙一がたしなめた理由がわかった。

 要するに、景介の実家が四人きょうだいであることを、多産DVじゃないかと暗に言いたいのだ――わかった途端、かっと顔が熱くなった。あまりに失礼で無神経な発言だ。そう言おうとしたが、「そういうのって、案外あるかもな」と課長がぼそりと呟いたのだ。「何がですか」と気色ばんでたずねる。

「女の人の意思と関係なく子供つくって産ませるみたいなこと。二人も三人も四人も同じだろ、って麻痺するのかもな。だって男は何も変わってないんだもん」

 もちろん堺の家がそうだって言いたいわけじゃないよ、と慌てて言い訳するのが耳に入ったが、そのあとどんな流れでどんなふうに話題が変わり、どんなことを話したか、あまり覚えていない。


 パンの焼ける香ばしい匂いがした。近所にパン屋でもできたのかな、と思いながら目を開けると、知らない部屋にいた。

「匂いで起きたんですか? 食いしん坊ですね」

 西間がにっこりと笑いながらトースターからクロワッサンを取りだしているのが見えた。思わず自分の格好を見下ろす。服を着ていない。けれど、なぜかボクサーパンツは履いていた。

「覚えてないですよね? 堺さん、私と一緒にタクシーに乗ったんですよ。寝ちゃったから、住所わかんなくて連れて帰ってきたんです」

「……申し訳ない、本当に全然、覚えてない」いそいで服をひっかぶった。

 だからなかったことにしたい、と言外にこめたメッセージまで読み取ったのかはわからないが、西間は「まあ、べろべろに酔ってたし、家に着いたら勝手に服脱いでぐうぐう寝だしたんで一瞬後悔しましたけど」と苦笑いした。どうやら決定的なことはしなかったらしい。惜しいような安堵するような複雑な気持ちだった。清夏と別れて以来、ほかの女性との身体接触は一切ない。

「まあ、パン焼いたんで食べてください。コーヒーとオレンジジュースどっちがいいですか」

「オレンジジュースくれる?」

「子供みたいですね、可愛い」

 ローテーブルを囲んで朝食を食べた。ここ何駅? と問うと「祐天寺です」と言う。部屋はあまり広くはなかったが、打ちっぱなしのコンクリートの壁や赤いドアを見るかぎり、デザイナーズマンションらしい。

「……西間さんってもしかしてあんまり子供ほしいって思ってない人なのかな」

 朝にふさわしい話題だとも思わなかったが、昨日訊けずにいたことをたずねた。西間は驚くでもなく、「別に、どちらでもないです」と言った。

「今は仕事楽しいし、もうちょっとこういう暮らししたいなーって思うけど、いつかはほしいって思うかもしれないですね」

「そっか」要領を得ない回答に、釈然としない。同じ違和感を清夏と話した時にも思った覚えがある。彼女もまた、「子供、産みたくないの?」と問うと「そういうわけじゃないよ。現状、自分のことに精一杯だから積極的にほしいとも思わないけど」とどちらとも取れない言い方をしていた。それって結局ほしくないってことなんじゃないか、と思ったが、そうだときっぱり肯定されることが怖くてそれ以上掘り下げられなかった。

「昨日、俺の話にあんまり、いい印象持ってないような気がしたからさ」

 言葉を選びながら言うと「まあ、ぶっちゃけむかつきながら聞いてましたよ」とあっさりと西間が言った。むかつく、というくだけた言葉があまりにまっすぐに景介の胸を刺す。

「ただ、男の人の本音ってこういう感じなんだ、っていう勉強になってそれはそれでよかったです。彼氏っていう関係性だと腹割って話しづらいし」

「ふうん」どのあたりにむかついたのか、もっと聞いてみたいような気もしたが、昨日の疲弊が残っていたこともあり黙ってクロワッサンを食べた。ごちそうさまでした、と言うと「はーい」と皿を持ってキッチンへ行く。白いTシャツに黒い短パンという簡単な部屋着姿が、急に生々しく見えて目をそらした。まだ自分がズボンを履いていないことに気づき、急いでズボンを探す。西間が畳んで床に置いてくれていたのを見て、ほんの一瞬、まだ帰るのをよそうかという下心が湧きあがったが、振り払ってズボンを履く。

「あれ、もしかして何か予定ありました? 今日」

 キッチンから西間が戻ってきた。「いや、そういうわけじゃないけどあんまり長居すると迷惑だから」と言うと、西間は「迷惑」となぜか復唱した。

「そんなことはないですけど。私、先輩に憧れてましたから」

「えっ」驚きと、やはりそうだったのかという納得がないまぜになる。西間は照れることもなく、さらりと「正直、噂になってるのかと思いました。木山さんにもそれとなく言われたことあったくらいだし」と謙一の名前を出す。

「いや、まあ、ちらっと聞いたことはあったけど」

「ですよね。でも、私があんまり子供ほしくない女の時点で、範疇外ですよね」

 威圧的な言い方にたじろぐ。自分は今、西間に今くどかれているのだろうか、それとも責められているのだろうか。

「範疇外とまでは思わないよ。ただ、前の彼女とすごく揉めたから、できたらニーズが一致してる女の人だとお互いにとっていいのかなとは思うけど」

「そうですね。そうだと思います」自分から振ってきたくせになげやりな言い方だった。西間は長い髪を気だるそうにかきあげた。

「駅まで送っていきます。昨日のタク代だけもらえますか。三千円でいいです」

「ああ、うん。ごめん」財布には現金が一切入っていなかった。LINEPayで送る。西間は一連の動作を眺めながら、小さく呟いた。

「私も男の人に生まれてたら、もっと単純に子供ほしいって言えたのにな」

 言外に咎められているような気配を感じて、あまりいい気分はしなかったが「そう?」と苦笑いしてみせる。西間は、大きくうなずいた。

「課長も言ってたじゃないですか。子供二人産もうが三人産もうが男は何も痛手がないから変わらない、みたいなこと。男の人を責めるわけじゃないけど、どれだけ男の人が当事者意識を持ったとしても、その部分は何があっても変えられないから」

 西間が何を言おうとしているのかよくわからないまま、一緒にマンションを出た。そんなにわがままかな、と口の中で呟くと、ん? と西間が振り向いた。

「男が子供をほしがることって、そんなにわがままなことなのかな。結構、普遍的な望みだと思うけどな」

「わがままじゃないですよ。信じてる宗教の違いですよ」

「宗教?」西間はにっこりと笑う。

「子供が絶対ほしいって思ってる女の人を根気よく探し出すしかないんだと思います。だって、男の人にとってはすべての出産は代理出産なんですから」

「そうなのかな」

「産む方が偉いとか、身体的負担を負わないからずるいとか、そういうふうに思ってるわけじゃないです。でも、いざ『絶対子供ほしい』って男の人から言われると、ぞっとするっていうだけ」

 じゃあ私、人と約束してるんで、と西間も改札を通って別のホームへ行ってしまった。記憶にあるわけではないが、なんとなく、酔った勢いで西間に迫って断られたんじゃないかとぼんやり思った。


西間弥生

 出張で近くに寄ったから、と東京から要が久しぶりに顔を出した。半年前に学生時代からの恋人と結婚してから初めてのことだ。

「帰ってくるならもっと豪華なごはん用意したのに」

 夫婦だけの食事だと思っていたので、夕食は焼いたほっけ、芋の子汁、ひじきの豆の煮もの、納豆と地味なものしか用意していなかった。要に自分のぶんのほっけを出したので、弥生のぶんはサバの味噌煮缶を中身だけ出して温めたものである。「充分だよ、俺魚好きだし」と要が朗らかに笑う。偏食でほとんどの野菜に手をつけない妹の沙綾と違って、昔から好き嫌いのない子だった。「万里さんは元気か?」夫が豆の煮物を突きながら訊く。

「元気だよ。主任になったとかで、仕事でばたばたしてる」

「出世か、すごいな」

「そうそう。女性初の管理職目指して色々頑張ってるよ。資格とか」

 要は無邪気に言う。「でも、子供ができたらそういうのって」と弥生が遠慮がちに口を挟むと、要はああ、と口の中で呟く。

「俺たち、たぶん子供つくらないよ」

「たぶん? どういうこと?」驚きのあまり箸を置いて要を見つめる。もごもごと要が咀嚼して、飲みこんでから言った。

「二人とも、仕事がいま一番楽しい時期だし、まあ、都内で子供育てるのって大変だし……二人だけでもいいかなって、大学の時から話してたんだよね」

「そんな。でも、まだあなたたち三十になったばかりじゃない。諦めるのはまだ早いわよ」

「いや、別に子供を諦めたから仕事を頑張る、って方針になったわけじゃないよ。むしろ逆だよ」

「どういうこと」さっきから夫が何か物言いたげな視線を弥生に向けているのはわかっていたが、無視して要を見つめる。墨で描いたように黒々とした要の太い眉がほんのわずかにハの字に下がった。

「なんて言えばいいのかなあ。子供がいらない、嫌い、とかそういうことじゃないんだけど、自分たちの趣味や仕事を優先したいっていうのが学生時代からの彼女の考えなんだよ。万里の考えを尊重したいからしばらくは子供のことはあんまり考えてない」

「そんな」

あまりのことに絶句してしまう。何か検査をした結果、万里の身体が不妊だとわかったから諦める、というのならまだわかる。そういう理由があるわけではなく、ただ自分の生活や人生を優先するために子供をつくらない、というのが理解できない。学生同士のカップルなどではなく、二人はもう十分な大人で、ましてや夫婦となったのだ。

「要はそれでいいの?」

「子供が絶対ほしいとも別に思ってないからなあ。そりゃ、いたらいたなりの幸せがあるとは思うけど、でも俺が決められる話じゃないし」

「でも、万里さんの考えに従ってるうちは、あなた、子供を持てない人生なのよ。それでもいいの?」

「弥生」

夫が咎めるように言った。けれど、要は口をつぐんで黙っている。中学生の頃、サッカー部でいじめのようなものに遭い、泥靴の跡をつけたユニフォームを持って帰ってきて「誰にされたの、お母さん学校に怒ってあげるからこんなふうにした人の名前を言いなさい」と問いただした時と同じ顔をしている。

「体質のせいで子供を持てないっていうならまだわかるし、それならそれで万里さんのこと責めたりしないわよ。しょうがないもの。でも、別にそういうわけでもないんでしょう? 要するに、自分のわがままで子供を持ちたくないんでしょう?」

「弥生」夫がもういちど口を挟んだ。「わがままで、ってそんな言いぐさはないだろう。要たちなりに考えたことなんだから」

「でも」

「もう、結婚したいい大人なんだから、いいかげん親離れしろ。親だからって、言っていいことと悪いことがあるんだから」

「親だから、言ってあげてるんじゃない! 今さら理解ある父親ぶるなんて、あなたの方がひどいわ」

 年老いた両親が言い合っているというのに、要は白い顔をして黙っている。「あなたは要がかわいそうだと思わないの? 万里さんと結婚している以上は、この子の子供は生まれてこないのよ」

「弥生、落ち着きなさい」

「わかってるわよ。万里さんにも万里さんの考えがあることくらい。自分の人生とか、やりたいことを優先したい人ってことなんでしょう? それはわかるわよ。けど、いざ自分の息子がそういう人と結婚したばっかりに子供をあきらめなくちゃいけないってことが、どうしても、」

 言い終わるより先に要は席を立った。「どこに行くの、まだ話は終わってないわよ」とさけぶと「悪いけど、もう東京に帰るよ」とリビングのソファにかけていたジャケットを羽織った。リュックを背負い本当に部屋を出て行ってしまう。

「要」追いかけようとしたが、夫に腕を引かれたせいでそのまま要は出て行ってしまった。重くドアが閉まる音がして、弥生はへなへなと椅子に座った。

「おまえ、どうしたんだよ。あんな言い方したら、要が怒るに決まってるだろ」

 夫が顔をしかめながら食事を再開する。弥生はもう、食欲など残っていなかった。ぼんやりと冷めて水分を失いつつある料理を眺める。

「あなたこそ、よく平気でいられるわね。所詮、男親だものね。他人ごとなのよ」

「なんだ、その言い方は」

「本当の意味であの子の人生のことを考えてあげられるのは、本人と私しかいないのよ。せっかく結婚したのに、最初から子供の選択肢を奪われるなんて」

「俺たちの時代ならともかく、いまは子供をつくらないのも普通なんじゃないか? いちいち首つっこむようなことじゃないだろ」

「そうだけど、あの子が我慢して夫婦だけの人生を選ばされてるんだとしたら、不憫じゃない」

「夫婦で話し合って決めたことに部外者は意見できないだろ。たとえ親でも」

 仕事ばかりで土日はゴルフだの接待だの子供の世話のほとんどを弥生にまかせっきりにしていたくせに、いまになって理解のある親のように夫が振る舞うことが癪に障った。

「要に、メールでもLINEでも謝っておけよ。家に顔出しにくくなるだろう」

 夫の声が背中にかけられたのを無視してキッチンを出て、お風呂場へ行き湯を溜めた。いまの自分こそ思春期の頃の息子や娘のようだ。一瞬苦笑いが浮かびかけ、けれどすぐに悲しみに変わった。もちろん、夫が自分をたしなめる理由も、要が怒りで押し黙って東京に戻ってしまった理由もわかっているつもりなのだ。けれど、厳しいことを言ってやるのも親の務めではないか。

 とっくに自分の元を巣立ったとはいえ、腹を痛めて産んだ可愛いかわいい息子だ。正直に言えば、下の娘の沙綾より、ずっと可愛いし、特別な思い入れもある。贔屓しているとか偏愛しているとかそういうことではなく、母親にとって第一子の息子とはそういうものだ。

 要自身が納得しているとしても、やはり、子供を持てない人生を選ばされた息子が憐れでならない。まだ別の誰かとやり直せば充分間に合うと、咄嗟に口走らなかったのはさすがに要が怒るとわかっていたからだ。別に、万里のことを気に食わないとか気が合わないというわけでもないけれど、要が万里によって人生を制限させられているのでは、と思わないでもない。

 風呂と歯磨きを済ませ、リビングでクイズ番組を流し見しているとスマホが通知をバイブ音で知らせた。要かと思ったが、沙綾からでがっかりした。老眼鏡をかけて文面を読み、「えっ」と声を上げてしまう。

【要から聞いたよー かなり怒ってたからしばらく実家に顔出さないって言ってるよ。あと、こっちに連絡取るのも控えてほしいって。遅いと思うけど一応謝っておいたら?】

【あと正直私もお母さんの発言に引いた。同じ女性なのに万里さんのこと孫を産むツール扱いするのってひどいと思う。思ったとしても言わない方がいいよ】

【私も仕事と旅行で日程詰まってるから帰るの年始年末以降になりそうー。お父さんにもよろしく。では】

 では、って何よ。たかが東京から横浜に寄るくらいで、どうして〈日程が詰まっている〉などと言われなくてはならないのか。やつあたりだとわかりながら、沙綾からのメッセージに噛みつこうとする。目頭のあたりを揉みこむ。眼球の奥がずきずきする。返信をする気力など根こそぎ奪われてしまった。

長男が実家に拒絶を示したというのに、夫は向かいのソファであぐらをかいてのんきに足の爪を切っている。

「要、しばらくここに顔出したくないって言ってるの」

 夫はんー? と唸りながら顔を膝と膝の間にうずめている。爪が飛ぶから新聞か何か敷いてください、と言うのも忘れて、弥生は呟く。

「私、そんなにひどいことを言ってた?」

「まあ、要もおまえも、ちょっと頭に血が昇っただけだろ。またひょっこり顔出すんじゃないか」

「持とうと思えば持てるのに、子供を人生から排除されたのよ。万里さんが嫌いとかそういうんじゃないけど、あの人と結婚したばっかりに要は人生を制限されてるのよ。本当ならもっとたくさんの可能性があるのに、可哀そうだと思うのは当たり前じゃない」夫は困ったような顔をして弥生を眺めている。

「制限されてる、と思ってるのは弥生だけだろう。要本人が納得してるなら、それでいいじゃないか」

「そんなことない。あの子はやさしい子だから、万里さんに強く言えないで従ってるだけよ、どうせ」

 夫は何も言わなかった。ぱちん、ぱちんと爪を切る音が再開し、いやに耳障りに響いた。もう寝るわ、と呟いて寝室に引っ込んだ。

 子供の頃から不器用で、心根がやさしいせいで損ばかりしている子だった。妹におやつを取られて泣きべそをかいたり、買ってやったばかりの玩具を「なくした」と言い張って弥生にこっぴどく叱られたあと、友達のわがままに逆らえずに貸してやったことが判明したこともあった。子供の頃の要の表情はいつだって、泣いていたり、眉根をハの字に下げていた。そう、ちょうど今日のように。

眉が太いから、なんだか叱られた柴犬のようで可愛らしくもあった。子供たちが幼い頃のことを思い返していたら、目じりが濡れた。

 大人になってからも要の気弱さはつづいた。新卒で営業として入った会社で時代錯誤な方法でしごかれ、ノイローゼになって半年で辞めた。今はメーカーの総務で働いている。男の子なのに総務なんて、と思わないでもなかったが、「ノルマ課されずにバックヤードで黙々と働くぐらいが俺の性にはあってたよ」と夫に話す笑顔が以前と比べものにならないほど明るかったので「まあ、鬱になるよりはましよね」と後ろから声をかけた。要は黙って肩をすくめた。

 布団を頭までかぶる。子供の頃よりずっと明るく、楽しく生活をしている要を見て、淋しくもありそれ以上に安堵していた。このまま夫婦だけで生きていくのでもいい、と要が考えているならそれでもいいのかもしれない、でも。

 なんども寝返りを打つ。しばらくして、夫が部屋に入ってきて隣に横たわった。「ねえ」と話しかけると「寝たのかと思ったよ。怖がらせるなよ」と返ってくる。

「要は、私のことが嫌いだったのかな」

 口に出して呟くと、より真実味を帯びている気がした。「極端だな。そういうわけじゃないだろ」と夫がほとんど間をおかずにこたえた。

「でも……」

「俺からも少し聞いてみるから、しばらく放っておけ。向こうには向こうの家庭があるんだから」

「そればっかり。子供なんて、産んでもすぐ他人になるのね」

 夫はなぜか笑い声を上げた。

「そりゃあそういうもんだろ。わかってるなら要に子供を持たせることにこだわらなきゃいいのに」

「それとこれとは別だわ」

 夫がそれほど深刻にとらえず流そうとしていることに腹が立ったが、多少気はまぎれた。目を閉じる。子供時代の、困ったように笑う要がいた。


中原琴帆

 ぱちんと額を叩くと、ぎゃああああああ、と慧汰が泣いた。嘘つくからでしょう! と声を張り上げると、さらに泣き声が大きくたわんだ。

 喉がかっかと熱い。落ち着け、と目を瞑る。アンガーマネジメントとして六秒待つとよい、というのは出版社時代同期に教わった。いらだちを抑えようと目を閉じていても、びりびりと泣き声が鼓膜を揺さぶる。うんざりしながら目を開けると、彗汰は興奮しているのか、顔が赤紫っぽくなっていた。かわいそう、という憐憫ではなく、可愛くないな、という感想が湧きあがってきた。

 通っているリトミックの教室に行くのを彗汰がいやがるようなそぶりを見せることは前からあった。「絵本読みたい」「おなかが痛い」と渋るようになって手を焼いていた。それでも、半ば無理やり手を引いてスクールまで歩いていると、彗汰が必至な形相で訴えかけてきたのだ。

 ――年長クラスの子が叩いてくる。

 ――行くといじめられるから行きたくない。

 さっと血の気が引いた。なんてところに息子を通わせていたんだろう、と心から申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そうだったの? とふるえる声でたずねると、彗汰はこっくりとうなずいた。

 教室に行ってスクールに実態を聞かなければ、と思ったが、彗汰があまりにいやがるので家に戻って電話でスクールの様子のことを訊いた。そして、彗汰が年長の子供に乱暴されているということを明かすと、スクール長は絶句した。

 ――大変申し訳ありませんでした。私たちが見ていないところでお子さんたちの間で何かトラブルがあったのかもしれないです。もし差支えなければ彗汰君を叩いたお子さんのお名前を教えてもらえませんか。今日、来ているこの中にいれば事情を聞いてみます。

 彗汰を呼び、「慧ちゃんを叩いたお兄ちゃんって、なんて名前?」「もしかして女の子?」といろいろたずねたが、白い顔をして頭をぶんぶんと振るだけだった。仕返しが怖くて言えないのかもしれない、と思い、そのままスクール長に伝えた。彼女は、恐縮しきった声でそうですか、と言うと「レッスンが終わったら生徒さんたちに話を聞いてみます。また、ご連絡差し上げるというかたちでもよろしいでしょうか」と言った。お願いします、とこたえるほかなかった。

 レッスンを休んだ彗汰は、けろりとした様子でアンパンマンのシールブックで遊んでいた。「誰にも言わないから、慧ちゃんにやなことした子のこと教えて?」となんどかたずねたけれど、慧汰はこたえなかった。言いたくないのではなく、聞こえていないふりをして話をそらしているようにも見えた。

 その時点でうすうすわかっていたのだ。彗汰が、その場しのぎの話をしてレッスンを休もうとしたんじゃないか、と。

 それならそれで、「本当は意地悪をされていない」「行きたくなかっただけ」と嘘を認めさせたかった。怒らないから教えて、本当はリトミックいやだったんだよね? と猫なで声でたずねたけれど、「違うよ」といやにはっきりとこたえるので、やはりいじめがあるのではないかとスクールに疑念が湧いた。

 スクール長から連絡があったのは夕食を食べている時だった。

「連絡が遅くなりまして、申し訳ありません」とまず謝られた。「今日来ていたお子さんたちに、彗汰君のことを聞いてみました」

「……そしたら、なんて」

 スクール長は小さく咳払いして、つづけた。

「慧汰君が誰かに叩かれたり、何か嫌なことをされているところを見た子はいるか聞いたんですが、誰もいませんでした。もちろん、子供の話なので全部鵜呑みにしているわけでもないのですが」

「そうだったんですね」ただ、とスクール長は声をひそめた。

「慧汰君に引っ掻かれた、という子がいまして」

 心臓が、どんと大きく前にせりだした。

「……彗汰を引っ掻いたんじゃなくて? その子が引っ掻かれたんですか?

 自分の名前を出されて、彗汰がテーブル越しに琴帆を凝視している。視界に入れないようにして、「なんて言ってたんですか、その子は」とたずねる。スクール長の話によると、慧汰はレッスン中にほかの子供に話しかけたり、ちょっかいをかけることも多かったらしい。見かねた年中の女の子が注意すると、彗汰が手の甲を引っ掻いたそうだ。

「傷を見るかぎり、すでに治りかけてはいたんですが、彗汰君は何するかわからないから怖い、と女の子たちの間でその……避けるような風潮があったみたいです。けしていじめとかそういうレベルのことではないみたいなんですけど」

 スクール長がそのあとも彗汰の態度やまわりの子の反応について話していたが、要するに彗汰は教室の中で年長の子供たちに嫌われているらしかった。まだ三歳ですから、おおめに見てあげてねって年長の女の子たちには言っておいたんですけど、というフォローのようなことを言われて、耳がかっと熱くなるのを感じた。ふるえる声で、ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした、と謝った。

 来週からも引き続き通わせるかやんわりと訊かれたが、またご連絡します、と言って電話を切った。こわごわと彗汰が琴帆の顔を覗き込んでいる。

「慧汰、うそついたでしょう」

 彗汰はフォークを握ったまま、テーブルに目を落としている。子供のくせに、一丁前に嘘をついて、恥をかかされた。そのせいで、やぶから蛇を出す格好で彗汰が女の子にした乱暴も明るみに出た。教室に通わせつづけるなんて無理だ。

「だってぇ」

「ほかの女の子のおててを引っ掻いたって先生が言ってたよ。本当なの?」

 そういえば名前を聞いておくのを忘れていた。もし引っ掻いていたのが顔だったらと思うと血の気が引く。リビングの床に、さっきまで彗汰が遊んでいたシールブックや絵本が散らばっているのが目に見えて、かっとなった。

「うそついたらだめって、ママいつも言ってるよね?」

「ごめんなさあい」と彗汰が泣きだした。何度もチャンスは与えたではないか。その時に正直に話していれば、スクール長に電話をすることはなく、彗汰が教室でふざけて輪をみだしていることや女の子に乱暴を働いたこと、うっすらと年長の子供たちに嫌われているらしいことがスクール長や琴帆が知ることにはならなかったのに。

 自分が、慧汰が嘘をついたことや女の子の手を引っ掻いたことではなく、スクール長に慧汰の粗相を指摘されて恥をかかされたことに対して怒りをぶつけているような気がして、瞼の肉が勝手にひくひくと痙攣した。何もかもが嫌になって、食事は途中だったがほとんどを捨てた。

 

その晩、帰ってきた夫に慧汰の嘘のことを話した。三歳なのにずいぶん頭がまわるんだな、とのんきな声が返ってきて、かっと頭に血が昇った。被害者のていでスクールに電話をして、挙句慧汰の素行の悪さを淡々と指摘されて、どれだけ恥ずかしい思いをしたか訴えかけたが、夫にはぴんと来ていないようだった。

「あんまりきぃきぃ怒ってやるなよ。習いごとがいやだったってだけだろう」

「だとしても、伝え方があるじゃない。やり方が姑息なのよ」

 ふ、と夫が息を吐いた。酒を飲んできたのか、干し柿のようにむっと甘ったるい匂いが鼻についた。

「姑息って。ほんの三歳児だろ」

「真剣に考えてよ」

「教室やめたいって言ってもママには通用しない、って慧汰に思われてるんだよ。もう、あんまり厳しく詰め込まない方がいいんじゃない?」

「……何よそれ」

「向いてないってことだよ」

 夫は下着を掴むように棚から取りだして浴室へ行ってしまった。向いてないってことだよ。琴帆の子育てを指しているのではなく、慧汰の習いごとに対する向き不向きの話だと、あとから気づく。

 素直に、のびのびと、まっすぐに、誠実な子供に育ってほしい。ただそれだけだったのに、どうして慧汰はあんなこまっしゃくれた子供になってしまったのか。たった三歳なのに、先が思いやられる。

 習いごとをさせたいと相談した時、夫は聞き流していたあと「それのうちどれをやらせるの」と言い放った。リトミック、ダンス、英会話、すべて習わせるつもりだと言うと「琴帆は自分の子供を何にしたいの」と顔を引き攣らせた。

「何にって、別に……将来なんてまだまだわかんないわよ。本人の意思もあるし」

「五体満足な身体があるだけ、充分だよ。こんなに小さいうちから習いごと漬けなんて、なんか、病的だよ。東大にでも入れるつもり?」

 まるで琴帆が息子を学習塾に放り込んで勉強漬けにしているかのような言いぐさにかちんときた。適性が何かわからないからバランスよく習いごとを選んでいるだけだ、と言い返すと、夫は肩をすくめた。

「でも、琴帆にはある程度適性の希望があるんでしょ。要するに頭がいい子供にしたいんじゃないの」

「決めつけないでよ。そんな画一的な考えなんてしてない」

「でも、慧汰が絵本よりもYoutubeとかアニメにはまりそうになった時、真っ白い顔してタブレット取り上げてたじゃん。琴帆には理想の方向性があって、その通りに慧汰を進ませたいんじゃないの?」

 見られていたのか、と思いカッと顔に血が集まるのを感じた。ほとんど子育ては琴帆に丸投げしているくせに、そういうところだけは小姑のように観察されているのかと思うと激しいいらだちを覚えた。

「期待するのはわかるよ。俺だってそうだよ。できれば大学くらいは行ってほしいなとか、俺と同じようにサッカー好きになってほしいとか、そういうのはあるけどさ、でも、自分の望みどおりに子供を誘導してるように見えるよ」

 しょうがないじゃないか、まだ慧汰には自分の望みがなんなのかわからないのだから――そう言い返したかったが、黙っていた。「ま、全部やらせてみてそっから取捨選択するんでもいいかもね」と夫はパンフレットをテーブルに残して自室へ行ってしまった。

 結局私に全部まかせたくせに、と唇を噛む。慧汰がどんな大人に育つのか、すべて自分にかかっているという圧力が、どれだけ重いものかわからないくせに。

 リトミック教室はメールで解約の意向をどうにか送信した。マンツーマンの習いごとならどうだろう、と思いながら通信幼児教育について調べる。月謝は跳ね上がるが、出版社時代の貯金を崩せばどうということもない。

ベッドの中で、慧汰がもぞもぞと寝言を言うのが聴こえる。


 笹塚彰

 子供がほしいとは思わない、と言うとベッドの中で美奈は顔色を失った。

「どうして? あき君って子供嫌いなの?」

「嫌いとかではないよ。友達の子供とかは、可愛いなとは思うし。でも、自分が誰かの親になるっていうのとは次元が違うじゃん」

「そうなのかなあ。自分の子供だったらなおのこと可愛いし、抱っこしてみたいと思わない?」

 美奈の持つ子育てのイメージは抱っこどまりなのだろうか。だとしたらなおのこと、この子が母親になるというのはどうなんだろう、と思う。

「うん、さぞ可愛いだろうなって言うのはイメージできるよ。でも、子育てって可愛い瞬間の蓄積だけではないじゃん。夜泣きとかするし、言うこと聞かないし、受験とかの準備も大変だし」

「そうだけど、自分の子供だよ。大丈夫だよ」

 勢いでゴリ押しするんじゃなくてその根拠を述べてくれ、と口走りそうになって飲みこむ。美奈みたいなのが職場の後輩だったら毎日ストレスかかるだろうな、と思う。

そもそも、美奈は恋人ではない。複数いる遊び相手の一人だ。美奈はどうやら彰のことを彼氏だと勘違いしているのには、薄々気づいているけれど。

「欲しいけどな、赤ちゃん」と美奈があまったれたように言う。俺じゃない男とだったらどうぞご自由に、と心の中で言い捨てながら「子供が好きなんだね」と言った。うん、とさくらんぼのようなくちびるを半開きにして美奈が笑う。

「だって、可愛いんだもん。美奈が一番仲いいリサって子も、一昨年赤ちゃん生んでさ、インスタ赤ちゃんの投稿だらけだよ。昔は自分の自撮りと彼氏の車ばっか載せてたのに。よっぽど赤ちゃんに夢中なんだね」

 赤子に夢中なのではなく、自分たちの趣味や嗜好や生活どころではなくなっただけなのではないかと思ったが黙っていた。美奈は〈今日、すぐ、出会える〉という謳い文句のとてもわかりやすい趣旨のマッチングアプリで出会った二十三歳の派遣社員だ。食事に行ったあと、家来る? と言うと素直についてきた。前歯が二本大きく前に飛び出ているせいでいつも半開きになっている口元がだらしないイメージを加速させているのと、とにかく会話が一辺倒なので遊び相手としては二軍だ。けれどたまたま住んでいる駅が同じ線だったので、時間が空くと部屋に行ったり呼んだりしてしまう。

「あき君の子供、すごく頭いいだろうな。うちら二人ともぱっちり二重だからめちゃくちゃ可愛い子供産まれるかもよ」

 あき君との子供、という響きにぞっとした。「美奈はすぐ自分の子供TikTokとかに載せそうだからなー」と雑に混ぜ返す。

「えー載せないよ! でも海外の天使みたいな赤ちゃんの投稿、見るの結構好きなんだよね」

 美奈はまだちらちらと彰の反応を伺っている。美奈との子供だったらいいかもねとかそういう言質を引っ張りたいのだろうというのは察していた。

 ――子供の頃の私に会う、って考えてくれないかな。

 ゼミの同期である中原琴帆の言葉がふとよみがえる。美奈とは違い、琴帆とは、きちんと〈交際〉していた。全く浮気をしなかったかと言えば嘘にはなるが、三十四年の人生にいた多数の〈彼女もどき〉とは比較にならないくらい、琴帆のことは大事にしていたつもりだし、敬意も払っていた。それでも、「いつかは子供が欲しい」「結婚はどうでもいい。でも子供は産みたい」という彼女の主張を叶える気にはどうしてもなれなかった。琴帆と結婚したいとは思うけど、子供がほしいとは思えない、と絞り出すと、琴帆は白い顔で言ったのだ。子供の頃の私に会う、って考えてくれないかな、と。それに対して彰はこう返した。

 ――それはつまり、子供の頃の自分とも再会しなきゃいけないってことだろ。それはちょっと、勘弁してほしい。

 毎晩話し合った。セックスしている時に思い詰めた顔で「赤ちゃん、つくったらだめかな」と言われて萎んでしまったこともあった。結局、琴帆とは別れた。今は出版社を辞めて念願の子育てに没頭していると別の同期から経由して知った。よかったなと素直に思ったので感想を言うと、同期は肩をすくめた。

「俺結婚式の二次会行ったけど、旦那、バツイチの薄ら禿げたおっさんだったよ。いくら子供欲しいからってもうちょっと選べよって思ったわ」

「あ、そうなの? バツイチなんだ」

「それなら彰の子種もらっといて、認知だけしてもらっておっさんと育てるとかの方がいいんじゃないのって。あ、これ俺が言ったんじゃないよ、果歩子が言ってたんだよ。あいつも口悪いよなー」

 子種ねえ、と口の中で呟く。実際そういう話もないでもなかった。「一緒に育てなくていいから、私のこと妊娠させてよ」といつか琴帆が口走ったのだ。どうかしてる、と気持ちがさっと波のように引いて、琴帆と会うのを避けるようになった。誰よりも頭が切れると思っていたのに、思い詰めすぎて考えが極端に倫理を欠くようになった琴帆が恐ろしく思えた。

 それを話すと、同期は「マジ? なんでそうしなかったの?」と言ってのけた。あきれて「倫理的にそんなことゆるされるはずないだろ」と言うと、そうだけどさ、と口を尖らせた。「それってものすごく男に都合の良い話じゃない? リスク背負わずに自分の遺伝子を残せるんだからさ。中原って高給取りだし、親父が医者だから実家太いじゃん。俺だったら金銭援助してでも産んでもらったかも」

「……何のために?」心から理解できずに呟いた。同期はあっさりと言った。

「おまえ、自分の優秀な遺伝子を残さないまま死ぬのってもったいないって思ったことないの? そういう使命感があるから、遊んでる男でも一定の年齢になったら結婚して子供作るんじゃないのかな」

 大したエゴだな、と思ったが黙っていた。共感はしないが理解はできるし、証券会社にいる彰の上司や同僚にもそういう傲慢な理由で子供をもうけた男の話はたまに聞く。おそらく琴帆も似たような考えが根底にはあったはずだ。自分レベルの遺伝子を残したいとは正直あまり思わないが、確かにどういう子供が生まれるか気にならないと言えば嘘になる。

 でも、それ以上に怖かった。自分に似た性質の子供が生まれて、責任を持って育てなければならないということが、恐ろしい罰のように思えた。「自分のことが嫌いなの?」「どうしてそんなに卑下するの?」と琴帆になんども問われたが、そういうことではないのだ、と思った。

 けして自己肯定感は低い方ではない。長所だらけの人間だとは全く思わないが、異性に困ったことは少ないし社会的待遇も上位一割に入っているだろうという自負、というより事実はある。けれど、彰が彰を受け入れているのはあくまでも自分自身だからだ。自分の遺伝子を引いた自分に似た他者を受け入れることとは、まったく別問題ではないか。

「いっそ俺、その薄ら禿げと琴帆の子供だったら育てられるかもしれない」

「は?」同期は気味悪そうに顔を顰めていたが、本音だった。そんなやりとりをふと思いだしていると、ねえ、と美奈が不服そうに口をとがらせていた。寝たふりをしていたが、ばれていたらしい。

「あき君、今度温泉行こうよ。一年付き合ってるのに旅行行ったことないなんてつまんないよ」

「つまらないのはおまえのせいだろ。俺のせいにするなよ」

 布団をひっかむる。美奈が身を起こして半狂乱になって何かをわめいているが、水中から聞いているみたいに、単語がちらばって何を言っているのか全くわからない。


 山崎和奏

 お兄ちゃん県庁の人と結婚するんだって、とお母さんがLINEを送ってきた。家族LINEがあるのに和奏個人に送ってきたのはなんでなんだろう、と思いながら【そうなんだ! おめでとう】と返信する。

【どうやらできちゃった結婚みたいよ】

 続けてウサギが大きく口を開けてムンクのさけびのポーズをしているスタンプが送られてきた。「えっうそ」と声に出してしまう。

 兄の敦也は、和奏が高校生の時に大学の同級生と卒業とほぼ同時に結婚して、五年後に別れた。仲がよかったので聞いた時はとてもびっくりした。再婚したい、とは言っていたけれど、思っていたよりもずっと早い。

【どんなお嫁さんなんだろうねー】次は、と打って慌てて消して送る。

【一回だけうちに遊びに来たことあるけど、大人しそうな人だった。和奏と二歳しか変わらんらしいよ】

【ふうん、仲良くなれたらいいな】

 前の奥さんである葵さんは、妹のように和奏を可愛がってくれて、本当のお姉ちゃんみたいに大好きだった。兄から離婚の報告を受けた時、とても悲しかったし、葵さんは実家の群馬に帰ってしまったのだと知って、余計に寂しかった。

 お母さんから連絡をもらって一週間後に、家族LINEでお兄ちゃん本人が再婚することになったと報告した。もし可能なら、今週の土曜日に彼女を呼んで食事をしたいらしい。【和奏も来れるか? お金なかったら新幹線代出すから、帰省しなよ】と言われ、クマがOKしているスタンプを送った。話しやすい人だったらいいな、と思いながらいつもより高級なお菓子をお土産に買って行った。

 実家に着くとすでに夕方だったので、すぐに車でレストランまで行くことになった。「お兄ちゃんは?」と言うと、「彼女と一緒に行くから店で待ち合わせだって。いま同棲しとるんよ」とお母さんが教えてくれた。

「もしかして前のマンションじゃないよね」

「二人の前では言わないでね、そういうこと」

お母さんがぴしゃりと言った。どうやら、その通りらしい。しょうがないんだろうけど、お兄ちゃんのデリカシーのなさにちょっぴりうんざりした。

「まあ、どっちにしろ赤ちゃんが生まれたらまた引っ越すだろうから」

 お父さんが運転しながら言う。そういう問題じゃないでしょ、と口を尖らせると、お母さんが「とにかく、お店では昔の話とかしちゃだめだからね。再婚だってこともあんまり言わないで」と口うるさく言う。

 お店に着くと、すでにお兄ちゃんと彼女が席についていた。「こんにちは」と挨拶すると、すっと全身を撫でるように視線を動かし、どうも、というふうに頭をひょこんと下げた。和奏より歳上だし、社会人なのに、礼儀が全然なってない。四年間居酒屋でみっちりバイトしている和奏が一番嫌いなタイプだ。

「仁科友理奈さん。県庁で窓口やってくれてる後輩なんだ」

「そうなんだ」

「前も伝えたけど、妊娠二か月目なんだ。だから今日は、お酒ナシってことで」

 おめでとうございます、と言っても友理奈はぼんやりとした目でテーブルのあたりに目を落とし、膝の上で布ナプキンをいじくっている。

 お兄ちゃんは、妹の目から見ても贔屓目なしで立派な男の人だと思う。県内で一番頭のいい高校に進んで生徒会長とサッカー部部長を務め、バレンタインには数えきれないくらいのチョコレートをもらっていた。そして地元の国立大学に現役で合格して、県庁に勤務している。背が高くて顔もはっきりした造作だから、家に来た友達はみんな「イケメン」「和奏のお兄ちゃんかっこいいね」ときゃあきゃあ騒いだ。はっきり言って、自慢のお兄ちゃんだ。

 それなのに――兄のあたらしい奥さんである仁科友理奈という女の人は、全然お兄ちゃんにふさわしいように思えない。葵さんはすらっとした長身の美人で、兄と並ぶといかにもお似合いカップルだった。家族と合う時も積極的に話題を振って場を盛り上げ、話に入れずに拗ねている和奏に気遣って「そういえば和奏ちゃんって部活何してるの?」と話を振ってくれたりもした。

自慢のお兄ちゃんをとられた、という意識を子供の和奏が持たないくらい、完璧な相手だったのに。お兄ちゃんだって、葵さんにべた惚れしていたはずなのに。

食事会は、お兄ちゃんとお母さんばかりが話していて、話を振っても友理奈は「はい」「そうかもしれません」などと話をふくらませようともせず、気まずそうにお母さんが笑みを取り繕ってもお構いなしに食事をしていた。そのくせ、お兄ちゃんにしか聞こえないような小声でぼそぼそ話しかけ、肩を揺らして無言で笑ったりした。内容がわからない会話を目の前でされるのはどうにもいい気持ちがせず、両親も何とも言えない表情であたらしい夫婦を眺めていた。

 帰りも夫婦と別れて、三人だけで実家に戻った。

「お兄ちゃん、あんな人でいいのかな」と呟くと、お母さんが「そういうこと言わないの」と言った。もっと厳しく叱られるかと思ったけれど、思うところがあるのか、行きの車よりも弱々しい言い方だった。

「もう赤ちゃんがおなかにいるんだから」

 お父さんが呟く。ぽろっと零れた言い方に、自分に言い聞かせるようなニュアンスが嗅ぎ取れた。二人ともあの人のこといいと思ってないんだ、と思った。

「お兄ちゃんね、どうしても子供がほしかったんだって」

 信号待ちしていると、ふいにお母さんが沈黙を破った。

「そうなの? まあ、そりゃあ子供が好きなのは知ってるけど」

「葵さんとも、不妊治療しながら頑張ってたの。でも、葵さんは子供ができづらい体質だったのね。卵子がすごく少ないっていうことが検査でわかって」

 お父さんもいる車内で聞かされるのは少し気まずかったが、気になる話だったので「うん」と相槌を打つ。

「それで、すごくすごく悩んで、結局離婚することになったの。どうしても子供がほしいから、って」

「……それってさあ、めっちゃくちゃわがままじゃない? お兄ちゃん」

 当時は離婚理由について「ふうん、そうなんだ」と軽く流して考えていたが、大学四年になってから聞くとなんだか気分が悪くなった。葵さんも「子供ほしいな。二人くらい」「たくさん可愛い服着せてあげるんだ」といつも楽しそうに話していた。子供ができづらい体質だとわかっただけでもつらかっただろうに、それを理由に別れることになったなんて、どれだけ悲しかっただろう。

「お母さんたちも、聞いた時はちょっと複雑と言うか……和奏がさ、高校生の時に子宮筋腫で入院したことがあったでしょ?」

「ああ、うん」

いまとなっては淡い記憶だが、当時はすごく怖くて毎日不安だった。二か月くらい入院することになり、幸い筋腫を取り除くだけで済んだ。なんだ結構簡単じゃん、とけろっとしていたが、お母さんは術後に「よかったねえ」と泣きながら和奏を抱きしめてきた。

あとから知ったのは、子宮筋腫は子宮を取り除くケースもあるらしい。そうなるともちろん子供を産むことはできなくなるので、お母さんは子宮筋腫が判明した時、毎日家の隣のお宮さんでお参りしていたそうだ。

「和奏は子宮をとらずに済んだから、子供を産むことはできるんだけど、もし、子供をあきらめなきゃいけない身体になってたら……お兄ちゃんの選択肢は、お母さんにとって、ゆるせないものだったかもしれない。最終的には本人にまかせるとしても、もっと強く反対してたかもしれないなって思うの」

 お母さんが何を言おうとしているのかがわかって、でも、なんと言っていいかわからず、黙っていた。ふう、とお母さんがため息をつく。

「お母さんだってお兄ちゃんのことは可愛いし、孫の顔も見たい。子供を諦めたくない気持ちもすごくわかる。でもね、和奏のことがあったから、葵さんにも向こうのご家族にもすごく申し訳ないなって思うの」

「……そうだね」

「もし和奏が結婚することになったら、逆の立場になることだって万が一ありえないこともないわけじゃないから、一応話しておこうと思って」

 つまり、和奏が好きな男の人と結婚して、不妊だった時に「子供がほしいから別れたい」と離婚を告げられる可能性のことを指しているのだ。

 精密な検査をしたわけではないが、和奏は子宮を残したし、月経も規則正しくやってくるから、不妊体質ではないと信じている。けれど、もし、高校生の時の病気が原因で、妊娠の可能性がほかの人よりも低いということだって、お母さんの言うとおり、絶対にないとは言い切れないのだ。

 お父さんはずっと黙っていた。男の人には何か言われたくない話題だな、と思っていたので、正直その方がありがたかった。

「お母さん」

「うん?」

「私、お兄ちゃんのことちょっと嫌いになっちゃったな」

 お母さんはとがめなかった。しばらく黙って、「でも、赤ちゃんに非はないし、しっかり可愛がりなさいよ。和奏も叔母さんになるんだからね」と言った。


13氷上清夏

 書き直しを数十回繰り返して、GOが出た原稿の校正をやはり数十回命じられて、ようやく三冊目の小説を刊行できることになった。長かったなあ、と呟くと「これで勝負を掛けましょう」と担当編集が大きくうなずいだ。

そう簡単には売れないだろう、と思いつつも、数百冊分サイン本をつくり、書店においてもらうためのPOPを手書きでつくり、インタビューを受けた。ゲシュタルト崩壊するほど自分のペンネームを書いて、くたくたになって飯田橋駅に向かった。

後ろから「清夏?」と声をかけられ、何も考えずに振り向いた。景介がぼんやりとした顔でこちらを見ていた。

「後ろ姿見て、すぐわかった。仕事?」

「……新刊、出せることになったから。それで、出版社から帰ってきたところ。そっちこそ、こんなところで何してるの」

「知り合いの先輩が、奥さんとカフェ始めたから挨拶に行ってた。本、出せるんだね。おめでとう」

「ありがとう」

 しばらく見つめあった。「このあと予定なければ軽く飲む?」と景介が言った。言われなければ自分が誘っただろうと思いながら「そうしよっか」とこたえた。

 入ったのは創作イタリアンの店だった。テーブルではなくカウンターに通され、「こっちの方がかえって話しやすくていいかも」と清夏が言うと「相変わらず思ったことすぐ言うよね」と景介が苦笑いした。

「飲む?」

「疲れたし飲もうかな。ハイボール」

「じゃあ俺も同じのにするわ」

 適当に料理頼んで、というと、何品か併せて頼んでくれた。店員が去ると、「あらためて、新刊の出版おめでとう」と景介が言った。「ずっと直させられてるって言ってたやつだよね?」

「そう。ボツになるかと思ってたけど、なんとか本の形になることになった。手放したら手放したで、ちょっと寂しいけどね」

「大きなプロジェクトが終わったようなものだもんね。よかったね、本当に」

 しみじみと景介が言う。照れくさくなって、お冷を飲んだ。

「付き合ってる時さ、景介君、私の小説読まなかったじゃん」

「ああ、それは」責められると思ったのか、景介はむすりと唇を尖らせた。「前も話したと思うけど、俺の知らない分野のことだから、踏み込まない方がお互いのためかなと思ったんだよ。もともと小説とかそんなに読んでないし、ずぶの素人なのに恋人だからっていう理由で清夏の作品を読むのって、よっぽど失礼じゃない?」

「わかってる。私に敬意を払ってるから、そっとしておいてくれたんだよね」

「そうだけど」

「付き合ってる時から、頭では理解してたよ。でも、読んでほしかった。でもそれは、景介君に引け目があったからでもあってさ」

 ハイボールが運ばれてきた。乾杯もせずに、口をつける。

「どういうこと」

「私は、景介君みたいに大学も出てない、ちゃんとした会社で勤めてもいない、へんな経歴で小説家を自称してるだけの二十七歳だったから。なんというか、すごくまっとうな人に結婚相手の候補として選んでもらえてすごくうれしかったけど、そのぶん不安だったし、自信もなかった。だから、自分が作っているものを読んでもらうことで、『才能があるから、お金を稼ぐことよりも原稿を書くことを優先して続けた方がいい』って言ってほしかったんだと思う。要は言質を引き出したくて、無理に小説読ませようとしてた。ごめんね」

 景介はしばらく黙っていた。サラダや生ハム、チョリソーが次々に運ばれてきて、二人の間を埋めていく。雨粒がぽつりと落ちるように、景介が言う。

「原稿を読まないでも、俺は常々清夏にそう言ってるつもりだったんだけどな。確かに普通の人とは違う経歴かもしれないけど、学生の時から夢を追ってて、仕事もしながらそれを叶えて、原稿を頑張ってる清夏が好きだったよ」

「うん。わかってる。でも、いつも自信がなかった」

「それって俺のことをスペックで選んでたからか?」

 冗談めいた口調を装っていても、否定してほしい、と景介の悲痛そうなまなざしで感ぜられた。「ごめん。それだけじゃないけど、大いにあると思う」と正直に答えた。景介は苦々しそうに呟く。

「そっか。複雑だけど、もう別れてるしまあいいや。っていうか、逆の立場だったらしょうがないかもな」

「ごめん。もちろん、性格が合うとか、話してて楽しいとか、そういうのを踏まえてるっていう前提はあるよ。けどアプリを通して出会っている以上はそれを無視して相手を選ぶのって難しいかな。まあ、景介君は私のこと、数字で測れるものじゃない部分で選んでくれたのかもしれないけど」

「かもしれない、じゃなくてそうだよ。ストイックに自分がやりたいことをつづけて、ちゃんと成果も出してる清夏がかっこいいと思ったし、尊敬できると思ったから付き合ったんだし、結婚もしたかったんだよ」

 ありがとう、と言うと、景介は眉根を寄せてふてくされたようにサラダに箸を伸ばした。けれどそれもまた条件で選んでいる点では変わらないんじゃないか、とよぎりはしたものの、口にはしなかった。

「たまに、清夏が俺に遠慮してるような気がして、信用されてないんじゃないかなって思って不安だった。もし俺が清夏の小説を読むことで多少緩和されたんだとしたら、それは少し、後悔はあるけど」

「ううん」しばらく黙って料理をつまんだ。広島に初めて行ったことや母親が家にたずねてて一緒に祖母がいる老人ホームを訪ねたことを話した。景介は景介で、転職先を探したり北海道に旅行したりしていたらしい。「彼女できた?」と訊くと「もうちょっとためらいながら訊くもんだろ、普通」と苦笑いされた。

「人のせいにするなって感じだけど、あんな別れ方したの初めてだったからさ。しばらくいいかなって思う。正直、傷ついたよ。でもそれはお互いさまと言うか、もうちょっと一人で考えないとなとは思う」

「私も、頭に血が昇ってギャーギャー言ったけど、自分の考えとか人生とか考えるきっかけになったから、子供がほしいってはっきり意見がある人と付き合ったのはよかったと思ってるよ」

「なんか、絶妙に嬉しくないな」

「今さら取り繕う必要がないから」

「そらそうだな」

 ビールください、と景介が追加注文した。「訊くってことはもう彼氏できたの?」と問われ、「いない」とこたえると、ふーん、とあっさりと流された。

「清夏って意外と頑固だし主張激しいからなー」

「小説家なのに主張激しくないのは、それはそれで問題でしょ」

「確かに。失礼しました」

げらげらと笑う。もう二度と会いたくない、と思っていたが、案外と楽しく話せるものだな、と思った。けれどそれは、お互いがお互いの人生にもう責任を持っていないからでしかないこともわかっていた。

「そういえばさ、こないだ会社の女の子に言われたんだよ」

 ふと景介が切り出した。なに? とうながす。

「子供持つか持たないかは、どっちが正しいとかじゃなくて、結局信じてる宗教が違うみたいなものだ、って。その子も清夏と似たような考えの子で、たぶん、積極的に子供を持ちたいとは思ってないんだと思う」

「ふーん。まあ、そうやって割り切って考えた方が楽かもね」

「うん。ただ、『じゃあ次は絶対子供ほしいって思ってる女の子と付き合おう』っていうのも、ちょっと違うと思ってて。そうするのは合理的だけど、子供を持つってそういうことじゃないんじゃないかって、最近思った」

 景介が何を言いたいのかよくわからず、うん、とだけうなずく。しばらくして、ぽつりと言った。

「謝ることでもないかなって思うけど、俺はどうひっくり返っても当事者の性別ではないからさ。もっと慎重に伝えるべきだったなってそればっかり思うよ」

「結果が同じだとしても?」

 清夏の切り返しに、景介がぴくりと頬を引き攣らせた。怒り出すかと思ったが、「そうだね」と静かにうなずいた。

 会計は景介がした。「サイン本、一冊献本する」と渡すと、いちどは受け取りかけたのに「いや、やめておく」と返された。

「無料でもらう義理がないし、まだ読む勇気がない」

「そう。読みたいと思ったら自分のお金で買って。これからも書き続けるから」

「そうだね。あのさ、こういうかたちにはなったけど、俺、本当に清夏のこと人として応援してるよ。かっこいいと思ってた。付き合ってる時に言えって感じだけどさ」じゃあ、とJRの改札の前で別れた。そういえば、と思って「待って」と呼び止めた。

「なに?」

「ごめん、すごくどうでもいいんだけど、景介君って一人称俺に変えたの? 付き合ってる時僕って言ってなかった?」

ああ、と景介はきまり悪そうに肩をすくめた。

「付き合う前に清夏が『僕人称の男の人の方が好感を持てるから小説で異性を出すときは僕人称にしてる』みたいな話してたろ。だからとっさに合わせてた。仲いい人の前だとだいたい俺って言うよ」

「そうだったんだ。なんか違和感があって」さすが作家、と景介は苦笑いした。

「別に無理してあわせてたわけではないけど、なんとなく正せなくて、付き合ってる間は僕人称に統一してた。それだけだよ」

「そっか」

「じゃあ、げんきで」

「うん」

「いつか読むよ」

「どっちでもいいよ」

「じゃあ」

 景介は地下鉄へ続く階段へ降りて行った。一秒だけ後姿を見送り、改札を通って渋谷行きの電車に乗る。

 付き合っていた人と再会して言葉を交わしたのは初めてのことだった。ふうん、と思いながら車窓のなかで自分と目を合わせる。仕事帰りだったこともあり、化粧がよれていたことにいまになって気づく。

 久しぶりにお酒を飲んだせいか、頭がやわらかにふやけて重い。

 結婚相手としてどうとかスペックがどうとか、そういうこと抜きに景介を好くことができていたら、もっと違う結末になっていただろうか。それでも、「この人のために子供を産むことはできない」と突っぱねていただろうか。ただわかるのは、自分は交換条件があった上で景介に愛されていたわけではないし、愛情を疑い続けていたのは自分の方だったということだ。だからこそ「絶対に子供が欲しい」と言われたときに「じゃあ子供を産まない私には愛する価値がないっていうことなの?」とすぐさま不安に思った。そしてその不安をそのまま彼にぶつけた。

別れたことは受け入れているが、自分こそもっと違う伝え方があったかもな、と思わないでもない。

【元彼と飯田橋でたまたま会って飲みました。ウケる】

 酔った勢いのままで檜山にLINEした。【マジで⁉ すげー偶然】【やった?】とすぐに返ってくる。【やってない。小説のあとがき読んだみたいな気持ちになりました】と送ると【詩的w】【そっかーーおっさんなもんで下品な発想ですんません】と返ってきた。

 広島から帰ってきたあと、檜山からいちどだけ休日にメッセージが来たことがあった。今度はライブチャットのサイトではなく、LINEだった。

【何してる? 暇だったら箱根で行かない? 美術館行こう】

 どういう意味か計りかねて【どういう意味ですか】と思ったまま送った。【一人で行こうかとも思ったけど、君と行ったら楽しいかなって】と間髪入れずに返ってきた。ひねりも計算もない返しに、どきりするというよりもいっそ困ってしまった。

【わかりました、付き合います。でもお金は要らないので渡さないでください】

 そう送った。返信は【了解。12時の新宿発のロマンスカーで行くから、5分前には来て】とあった。

 急いで駅に向かうと、檜山はひらりと手を振って「昼飯食った? 食ってなければ中で買おうか」と言った。初めてロマンスカーに乗る、と言うと「初めてが俺で若干申し訳ないな」と頭をかいてみせた。

 一時間ほどで箱根について、彫刻の森美術館に行った。美術館というよりも大きな森林公園のようなそこは、いたるところに作品があった。ジャコメッティの彫刻を見て「君よりがりがりじゃん」と失礼なことを言うので、同じポーズで並んで写真を撮らせた。がはは、とあまりに大きな声で檜山が笑うのでスタッフが注意しに来て恥ずかしかった。

 園内は五時に閉園だったので、あわただしく登山鉄道で下山した。立ちながらうとうとしていると、「眠そうだね」と檜山が清夏を見下ろしていた。ふと、いまなら訊ける、と思ってたずねた。

「檜山さんって彼女つくらないんですか」

「へ? なんで?」

 めがねの奥で細い目がきょとんと見開かれている。「いや、なんだかんだ休日暇そうだなって思って」と言うと、「まあ、曲がりなりにも経営者なんで、暇なときは暇だし休みがない時はないんだよ」と苦笑いした。

「君こそ、また婚活始めないといけないんじゃないの」

「いや、最近新刊出したばっかりで、そこそこ忙しかったんです」

「あ、Amazonで買ったよ。まだ届いてない」

「ありがとうございます。言ってくれたら献本したのに」

「それじゃあ君のところにお金入らないでしょ。あ、もしかして本屋で買った方がよかったのかな」

「いや、そこは別にどっちでも大丈夫ですけど、次からは言ってくれたら手売りします」

「そうだね、その方がいい」

 急速に暮れていく空を眺めていると、「彼女は探してない」と声が降ってきた。

「心配してくれてた? もしかして」

「心配っていうか、別に」

「いたら楽しいだろうなあとは思うよ。でも、いまは目先のことで手いっぱいだから」ふうん、とうなると「納得してないじゃん」と檜山は苦笑いした。

「とりあえず、社員が食っていけるように全力を尽くすだけだよ、いまは」

「今日、口説かれるのかと思ってました」

 思い切って言った。登山鉄道で言うことじゃないな、と思っていると「せめてロマンスカーで言うべきだろ、ロマンスとかついてるくらいだし」と案の定笑われた。やっぱりこの人とは感性がなんとなく合う。

「社員にした以上、そんなせこいことしないって。恋愛的に君を好いてるとかどうこうしようとかじゃなくて、若いのに夢を追っててえらいなって思うから、俺なりに支援したいってだけ」

「だから雇ってくれたんですか」

「よけいなお世話だったら、全然率直に断ってくれてかまわないよ」

「そんなことないです。ただ、作家業が忙しくなったら自己都合で勝手にやめるかもしれませんよ」

「何言ってんだ、それに越したことないだろ。気にする必要ない」

 結局、檜山の意図がわかったようなわからないような、口説かれているようなそうでもないような会話を切り上げて、箱根駅で降りてロマンスカーに乗った。「未来の乗り物みたい」と呟くと、「俺はタイムマシンに似てると思ってた」と返される。

「檜山さんって相当変わってますよね」

「君にだけは言われたくないよ。作家やりながらライブチャットで配信して、そこの客の家に居候して、しかも会社にも入ってさあ。そんなやついるかね」

「全部檜山さんが仕組んだんじゃないですか」

「ま、そうだわな」

 眠くてたまらなかった。いま、彼に凭れかかったららくになる、ともわかっていた。けれどそれは恋愛感情を檜山に持っているからではない。一方的に自分が彼から搾取しているような気がして、その後ろめたさをうめるために「そうした方がらくなんじゃないか」と思っているだけだ。もしこの人が女性だったら、そんな考えにはならなかった。目を瞑る。

「檜山さん」

「ん?」

「いつになるかわかりませんが、必ず作家として売れて、賞ばんばん獲って、その時にはお鮨奢ります」

「おう。楽しみにしてるよ」

「だから今日はごちそうになります」

 言われなくても奢るって、と檜山が大きな口を開けて笑った。一瞬煙草の匂いが鼻をかすめる。この人と寝なくてよかったと、いつか思えればいいなと思った。

 道を断ったいまは、少しばかり淋しくて、悔しい。ひじかけに置いた二の腕が、わずかに面で接して温かかった。


14桐原伶

 ぴしゃっとドアが開き、反射でばね人形のようにベッドから起き上がった。「やめてよ、びっくりするじゃない」と驚かせた当本人である母親が言う。

「朝ごはんできてるから、早く起きなさい」

「ああ、うん」

 ドアを開け放したまま、木の廊下を鳴らして立ち去っていく。壁にかかった時計を確かめると、まだ八時四十分だった。これでも寝かせてくれた方なのだろうな、とうんざりしつつも思う。実家で暮らしていた頃は、土日であっても七時には起こされて泣きたいくらいの眠気を嚙み殺して朝食をとっていた。

 台所に向かうと、おにぎりと卵焼きが乗った皿にラップがかかっていた。すでに父と母は朝食を取ったのだろう。

大学生以降、朝は固形物をほとんど取らないのでおにぎりを半分食べたところで苦しくなったが、何も考えないようにして黙々と食べた。居間から顔を出した母親が「何時の新幹線で帰るの」と言う。

「あー……決めてない。夕方にでも帰ろうかな」

「じゃあお昼は食べていくのね。夜はいらないの?」

「うん、高志さんと食べる」

「そう」

そういえば昨日、一方的に電話を切ってそれっきりだったことを思いだす。今頃夫がどれほど気を揉んでいるだろう、と思ったらきゅっと内臓を引き絞られたように痛んだ。

いてもたってもいられなかった。さっと立ち上がって、部屋に戻る。「ちょっと、お皿」と当然とがった声が背中にかかったが、「ごめん、あとで洗うから置いておいて」と返す。

 携帯の電源をつけると、不在着信がいくつもかかっていた。かけ直したが、なぜだかつながらない。何かあったのだろうか。LINEを見返すと、最後に【俺も始発でそっちに行く。会うかどうかは伶ちゃんが決めて】とあった。どうやら夫は新潟に向かってきているようだ。

【昨日はほんとうにごめんなさい。わざわざありがとう。新潟駅に着く時間がわかったら教えて】

 既読はつかなかった。スマホを置いて台所に戻り、皿を洗って片づける。自室に戻ろうとしたら、居間にいた母親が「ちょっと待ちなさい」と低く伶を呼び止めた。声に険を感じて、嫌な予感を覚えながら「何」と返すと、針のようにとがった視線を向けられた。

「何か、報告することがあるんじゃないの」

「え、」

「――あなた、どうして籍を入れてないの?」

 頭が真っ白になった。

「どうして二年も黙ってたの。まさか、入れるつもりないなんて言わないわよね」と母親はなおも続けた。恐怖に支配されて、母親の表情を確かめることができない。じっと、さみどり色の茣蓙を見つめる。

「年金の申請で戸籍取り寄せたら、あんたの名前が三嶋に変わってないから肝冷やしたわよ。いったいどういうこと? ねえ、二年前に『入籍した』ってメールかなんかで言ってたの、あれ嘘だったの?」

 頭のなかがぐるぐると渦巻く。立っていられなくなって、ゆっくりと伶は座り込んだ。

 母親の言う通り、伶は入籍を選ばなかった。そして、それを伝えていなかった。

 最初は、籍を入れるつもりだったが、土壇場になって伶の希望で事実婚を選んだ。夫におそるおそる打ち明けると、「ああ、手続き大変だしそれでもいいかもね。別に変わらないでしょ」とごくあっさりと受け入れられた。

義父には初め、難色を示された。当然の反応だと思った。けれど義母が「伶ちゃんも自分の名前で仕事してるし、子供できた時に考えたらいいんじゃない」と寛容にうなずいてくれたおかげで、結果的には二人には納得してもらえた。

 けれど自分の両親には報告しなかった。わざわざ言うことでもないから、と夫をごまかして、そのまま挨拶や諸々の会食を押し通した。結婚して以降、母親が米や野菜を送ってくるときは「三嶋伶様」と宛名が記されていてちくりと胸が痛んだが、けれどすぐに慣れた。まずばれることはない。そう高を括っていた。

「ねえ、どうして? あなた本当に結婚したの? どういうこと? 向こうの家に何か言われたの?」

「……何も向こうの家には言われてない。二人で話し合って、事実婚を選んだの。だから、籍は入れてない。入れる予定もない」

「どうして?」

「……いまの苗字のまま仕事したかったし、籍を入れるメリットがあんまり感じられなかったから」

 試験結果を隠していた中学生のように声が弱弱しく震えた。母親は険しい顔をして宙をにらんでいる。心臓を見えない手でぎゅっと掴まれているような痛みを感じながら、伶は息をひそめて母親の出方を待った。

「どうして二年も黙ってたの」

「……ごめん」

「お母さんが戸籍取り寄せなかったらずっと知らないままだったことでしょ? 黙ってるつもりだったの?」

 そうだとも違うとも言えずに、伶はうなだれる。

 両親に「入籍を取りやめて事実婚を選ぶことにした」と報告しなかったのは、伶なりに考えての末の結論だ。事実婚のつもりが入籍することになったのであれば言ったかもしれないが、その逆なら黙っている方がいいと判断した。

 言えば「どうして?」「そんなのおかしい」と詰め寄られるにきまっているから。伶がどんな気持ちで事実婚を選んだのか母親が理解して同意してくれると思えなかったから。

 要するに、伶が母親を信用していないから。――だから、報告をあえてしなかった。

「黙っててごめん。でも、二人で話し合って、納得して決めたことだから」

「向こうの家には伝えてるの?」

「そうだけど」

「じゃあどうしてこっちには知らせないの? おかしいでしょ。あなた、親をばかにしてるの?」

 母親はぐしゃりと顔を歪めて、立ち上がった。貧相な背中をぼうと見送っていると、ぴしゃりと音を立てて母親の自室の戸が閉まった。


 結婚はしたい、でも、籍は入れないでいたい。声を絞り出すようにして打ち明けると、夫はぱちくりと目をまばたきさせて「いいよ、全然」と言った。あまりにあっけなく同意を得られて、かえって肩透かしを食らう格好になった。

「いいの?」

「子供つくる予定は今のところないわけだし……パスポートとか口座とか手続きを伶ちゃんだけにさせるの、申し訳ないなって俺も思ってたんだよ。お互い働いてるし、むしろ事実婚の方が二人にはあってるかもね」

 ありがとう、と伶は祈るような気持ちで夫に抱きついた。いやいや、全然、と照れたあと、「でも、籍入れない理由だけ教えてくれる?」とごくしずかに問われた。

 当然の問いだと思った。そもそも結婚することに拘泥していたのは伶の方だ。それなのにいざ結婚が決まると「やっぱり籍は入れたくない」と駄々をこねれば、夫だって不安に思うにきまっている。だからこそ、夫が予想に反して「いいよ」と賛成してくれたことに、うっすら感動していた。

「結婚はしたいの。三嶋と一緒に生きていきたい。ずっと」

「うん」

「でも、籍を入れるってことが、ちょっと重荷に感じたの。責任から逃れたいって思われたくないけど、でも、怖いって思ってる」

「うん」

「土壇場にごめん、本当にごめん」

「いいんだよ」

 ろくに順序だてて説明できないままとぼとぼと泣き出してしまった。自己防衛の汚い涙だ。情けない、となかば自分にあきれたけれど、夫は何も言わずに伶の背中を撫でさすった。

 受け入れがたい家で生を受けたからこそ、自分が選んだ人とあたらしく家族になりたい。だからこそ結婚することに固執してきた。けれど、いざ夫の人生を自分が請け負うのだと思うと、その重さが急に怖くなった。自分も母親みたいに失敗するんじゃないかと、身体がふるえた。

 まともな家族を知らない自分が、まともな人を受け入れて無理やり押し入ることが、とてつもなく禍々しい、卑劣な行為に思えたのだ。

 義両親に入籍をせずに事実婚として夫婦になることを伝えた帰り、「伶ちゃんの親御さんにも言わないとね」と何気なく言われて、咄嗟に「無理」と声が出た。ほとんど反射的な反応だった。

「でも、黙ってるわけにはいかないでしょ。何も婚約破棄するとかそういう話じゃなくて、戸籍上の事務的な話なんだし」

「だからこそ報告する必要ないでしょ。ばれるようなことでもない」

 そうだけど、と言い淀みながら、夫は困惑したように伶を見つめた。視線から逃れるようにしてうつむく。

「ごめん。言いたくない。お母さんは、どうせ私のやることなすこと気に食わないんだよ。どうせ何言っても伝わらない」

「伶ちゃん」

「ごめんね。でも、私の家って、ずっとそうだから。きちんと説明すれば何かが伝わるなんて、思ったことがない」

 あなたの家とは違う。心のなかでだけつづける。夫はなおも「せめて電話でもいいからひと言伝えたら」とめずらしく食い下がりつづけたけれど、頑としてうなずかなかった。そして、そのまま押し通して二年が経った。


 昼時になっても、昼食に伶が呼ばれることはなかった。夫は昼前には新潟についたらしく、立ち食い鮨の写真が送られてきた。【実家を出るの、もう少しかかりそう。申し訳ないけど、夕方までどこかで時間潰しててほしい】とメッセージを送ったら何かを察したのか【わかった】と簡潔に返事が来た。

 さすがに空腹を感じて十四時過ぎに自室を出て台所へ向かうと、テーブルの上に皿うどんがラップもかけられずに放置されていた。つくりはしたんだ、と思いながらすっかり冷めてしまったうどんを啜る。

 薄い硝子戸を隔てて台所と地続きになっている居間は、母親がいるのかテレビの音がわずかに漏れ聞こえた。おそらく伶が食事に降りてきた気配には気づいているはずだ。

 皿を洗い、思い切って居間に入った。母親が座椅子に腰かけてテレビを眺めている。伶を振り向くことはない。

「お母さん」返事はない。「籍のこと、黙っててごめん。心配かけたよね」

 テレビの中では、老人が自宅から持ってきた掛け軸の価格を鑑定してもらっている。とってつけたような笑い声が時々起こる。

 母親は伶を見ようともしない。何か反応してくれなければ一向に話が進まないのだが、伶を無視することに決めたらしい。中高生の頃からいくどとなくこんなやりとりがあったことを思いだして、血の気が引く。

「ねえ、何か言ってよ」

 思いきって言ったが、母親はぴくりと瞼をひくつかせただけだった。

「……勝手で申し訳ないんだけど、私、今日中には東京に帰るから、今のうちに話したいんだけど」

「好きにすれば」いきなり、母親が声を発した。

「え」

「話したいも何も、あんたがもう勝手に決めたことなんじゃないの。もう好きにすれば。どうでもいいわ、もう」

 岩の裂け目から出てきたような低く押しつぶした声で吐き捨てる。

ああそう、と言って実家をあとにできればどれだけ楽だろうと思う。別にそれは、母親ときちんと対峙して、お互いが納得するまで話し合いたいからという理由ではない。ここで曖昧にしたまま喧嘩別れしたら、後々母親のヒステリーを被るだけだから、ここで被害を最小限にしておきたいという、自己保身の打算のためでしかない。

 ため息をつきたいのを懸命に堪える。黙っていたこと、それ自体は百パーセント伶に非がある。でも、どうしてそれを打ち明けなかったのか、その理由は今までの自分の振る舞いに原因があると、少しでもよぎりはしないのだろうか。

 ああ、夫の言うとおりだ、と穴の底から空を見上げるようにして思う。子供を持ちたいと思えないことも、偶然為した子供をなかったことにしようとしていることも、親に自分の考えをつぶさに打ち明けて理解してもらう気にならないことも、すべて「こういう母親に育てられたから」せいだと思っている。

確かに自分はもう、いい年齢の大人だ。とうの昔に自立しているし、結婚もした。けれど――どうして私は、枯れ木のように痩せた初老の母親のことを、幼な子の頃と全く変わることなく「怖い」と思っているのだろう。

 母親はむっすりと口を閉ざして黙っている。こちらがしたてに出ようが、謝りつくそうが、自分の気が済むまで一向に口を利こうとしない、それが母親の常套手段であることを思いだして苦い唾が湧いた。きっと父親とも、母親が一方的に臍を曲げて、父親がなだめすかそうが機嫌を取ろうが黙殺してコミュニケーションを拒み続け、冷戦状態を長年続けた結果今に至るのだろうと思った。

 あまりにもばかばかしい家だ。ここで断ち切ってしまえれば、どんなに。

「話す気がないなら、しょうがないね。黙ってたのは悪かったと思ってるけど、私にも考えがあって選んだことだから、それ以上のことは謝れない。仕事あるし、タクシーで新潟駅行くね。うどん、ありがとう」

 精一杯譲歩した伶の台詞にも母親が反応することはもちろんなかった。もう母親の機嫌ばかりとって一方的に気持ちを擦り減らすわけにもいかないのだ、と自分に言い聞かせて自室に戻った。廊下に出たとたん、だらだらと意味もなく涙が出た。それは、高校生の頃母親に激昂されて流していた自己憐憫とくやしさによる涙とは違って、母親への憐憫も含まれていた。


 タクシーで三十分かけて新潟駅に向かう。青々と実った稲穂を揺らす田んぼが道路の両脇に広がっていた。この景色自体は子供の頃から別に嫌いではなかったな、と冷静に思いながら、速度のわりに景観がほとんど変わらない風景を目で追う。

【あと10分で新潟駅。待たせてごめんね】

【大丈夫だよ! フードコートみたいなところで仕事してる。こっちについたら少しお茶でもして東京に戻ろうか】

【せっかく来てくれたのに案内もできないでごめんね】

【全然! ゆっくりでいいからね】

 うさぎがハートをたくさん抱えているスタンプが送られてくる。同じ身内でもこうもコミュニケーションが違う。どうして、あの家では、常に母親の絶対王政で物事が進んで、侍女のように自分たちは母親に付き従って顔色を伺いながら過ごしていたのだろう。その関係性には物心ついた時から叩き込まれていて、ひっくり返ることはなかった。 

 父親に【東京に帰るね】とメールを送ると【了解です。次は年始年末に。気をつけて】と返ってきた。機嫌を損ねたままの母親と二人きりに残してしまったことに罪悪感が湧く。けれどそれは、今に始まったことではない。

 タクシーを降りて新潟駅の改札に向かう。探す間もなく「伶ちゃん」と夫が飛びだしてきて大きく両手を広げた。迷わず胸に飛び込む。

「三嶋、なんか、久しぶりだね。こんな遠くまで迎えに来てくれてありがとう」

「いやいや、全然。昨日無神経なこと言ってごめん。もう、帰ってこないんじゃないかと思ったら気が気じゃなくて」

「新潟に残るなんてこと私に限ってありえないよ、そもそも今日で縁が切れたようなものだから」

 咄嗟に口走る。当然夫の表情に罅が入るようにして笑顔が消え去った。「どういうこと」と血相を変えて言い募るのを「とりあえず、新幹線の時間まで喫茶行こう」と腕を叩いて連れ出す。夫はなおも何か言いかけたが「じゃあ十七時の新幹線に乗って、向こうで夕飯食べようか」と言った。

 駅ビル一階のタリーズに入った。夫はアイスコーヒーを硬い顔で啜っている。

「母親に、籍入れてなかったこと今になってばれちゃったの。ごめんね、三嶋の言う通りあとあと知られたから拗れちゃった」

「そっか」夫は小さく肩をすくめた。「まあ、しょうがないよ。それで、勘当するって言われたの?」

「ううん。縁切るとか勘当とか、言われたわけじゃないよ。ただ、こっちが謝ってるのに全然聞き入れてもらえなくて、そのまま家出てきちゃった。会話する気もないみたい」

家族仲がいい夫はあまり想像ができていないようだ。異星の話でも聞くみたいに曖昧な顔をして話を聞いている。苦笑いしながらつづけた。

「もちろん、黙って大事なこと決めて報告しなかったのは完全に私に非があると思うし、それは謝罪したんだけど……こっちとしてもこれ以上どうしようもないっていうか。何で黙ってたんだって言われても、お母さんのこと信頼してないからだよとか、言ったって理解する気もなしにいつもみたく頭ごなしに否定されるだけだと思ったからだよとか、正直に言うつもりもないしさ」

「うん」

「またいつもみたいに謝り倒せば多少は態度軟化させるかもしれないけど、岡さんが一人で勝手に怒ってこっちが許しを乞う、っていう構図が、三十にもなって続いてるのが、ばかばかしいって思った」

「そうだね」

「ならいっそ、家族であることをやめた方がお互いのためになるんじゃないかなって。元の苗字残したのに、それがきっかけで家族やめるなんて皮肉だね」

「伶ちゃん」

「ごめんね本当。三嶋の言う通りあの時にちゃんと親に言っておけばよかった、っていう後悔は一切ないんだけど、でも、ちゃんとしてる三嶋がこんな変な家の人間と結婚することになって、それが申し訳ないなって思う」

「そんなこと気にしてないよ。このことで伶ちゃんのことどうか思うなんて、絶対ないんだから」

うんとうなずいた。散々泣いたせいで引き攣るほど乾いていた眼球が、また涙でほとびていくのがわかる。

「そもそも、何で新潟に帰ってきてたの? お母さんにそのことで呼ばれた?」

「ううん、違う」

伶は瞼にとどまった涙を流し切って、夫を見つめた。

「三嶋。私、妊娠してる」


15氷上清夏

 短いエッセーを綴ったWordファイルを担当者に送り、パソコンを閉じる。二十三時。二日ぶりにシャワーを浴びた。久しく美容院に行っていないことを思いだす。カラーリングをして、ついでに短く切ってしまおうと思いつく。

 女性の自立、というのがエッセーのテーマだった。伶のことを書こう、とすぐに思いついたが、何を書くかはぎりぎりまで迷って、まだ伶が結婚する前に二人で出かけた日のことを書いた。

「急にごめん。暇だったら出てこられない?」と平日の夕方に伶から連絡が来たことがあった。渋谷駅で待ち合わせて、江ノ島に向かった。「家出少女みたいな行先だね」と言うと、核心をついてしまったようで伶はほんのりと苦笑いした。

「今日有給取って一人で引っ越しの準備してたんだけど、荷物整理していたらマリッジブルーみたいな感じになっちゃって。一人でいたくなくて、連絡した」

「そっか」江ノ電に乗るのはずいぶん久しぶりだった。時間帯が早いこともあり、なんだか伶と二人で高校を抜け出したような気分になった。

十七時半に江ノ島駅に到着した。空はまだ明るく、まだ淡い藍色をしていた。誰かが落とした指輪のように細い三日月が金色に照り、底はピーチネクターのような淡い桃色と、果肉のような柔いオレンジ色が入り混じっていた。

「なんだか絵本の挿絵の中みたい」

「ね。この近くに住んでる人たちは毎日こんな景色見られるのかな。羨ましい」

ビーチサンダルを履いた若い女の子たちが通り過ぎる。小さなベンチがあったので腰掛けて海を眺めた。

「茨城の海も嫌いじゃないけど、東京の海の方が好きだな。生活感がなくて」

「そう?」

「何度か行ってみたんだけど、茨城の海って、すぐそばで牡蠣小屋があったり子供が釣りしてたり、生活に根付いてるって感じがするんだよね。好きだけど、別にロマンティックな雰囲気からはかけ離れてる雰囲気なの」

「確かに。こっちの海はいかにもデート仕様かもね」

「普段見る分には、茨城の海もいいと思うんだけど、なんか、思い出すなあ。私、遼一と住んでたマンションが、海のすぐそばだったの」

「ああ、大学の時の人? 同棲してたんだ」

「うん。婚約してたんだ」さらりと伶が呟いた。「三嶋のことは本当に好きだし、愛してる。それは本当なんだけど、たまに思うんだよね。三嶋との結婚で一番大きかったのは、会ったタイミングだったなって」

 汐風が二人の間を通り抜ける。海の匂いは、いつも懐かしい。海は、まだ誰かに連れて行ってもらわないと行けない場所だった頃の匂いがする。

空の色が、刻々と濃く深くなっていく。時間が目に見えて過ぎるというのはなんだか残酷な景色でもあるな、とふと思った。

「もし、三嶋と付き合う前に付き合っていた人が遼一じゃなかったり、もっとあとに出会ってたら、結婚までは行かなかったかもしれない。次に出会った人と絶対結婚しよう、って思ってたから、結構私が三嶋を急かした格好で結婚したのね」

初めて聞く話だった。むしろ逆で、三嶋さんが怜を口説き落として結婚したのだと勝手に思い込んでいた。彼が、どちらかといえば三枚目キャラで見るからに大らかそうな容姿の男性だったせいもある。

「そうなんだ。まあ、そりゃ伶にアタックされたら、結婚するよね」

「正直、そういう計算もちょっとあったかも。女性に強く出られないところとか、基本フェミニストなところも、前から知ってたしね。でも、ちょっと急ぎすぎたかなあって思う日もないでもない。私がそうなんだから、三島はもっとそうなんじゃないかなって、時々申し訳なく思うよ」

つんと尖った伶の鼻が、内側からほんのりと赤く染まっていた。風が前から吹きつけてきて髪をぱらぱらとアニメーションのようにゆっくりとなびかせる。

「そっか」

自分が夫婦のことに口出しできることなんて何もないんじゃないか、と思って言葉を切って目を海に泳がせる。いくらこっちの方が付き合いは長いとはいえ、伶の人生の責任を負っているわけではない。

「海、きれい」

「ね」

陽がゆっくりと落ちていく。海の近くでは、どうしていつもと時間の過ぎ方が違うんだろう、とふと思う。帰りにしょっぱいもの食べたいな、と伶がいつものように明るく言い放った。

 メッセージ性やテーマを気にせず淡々とささやかな旅行記として書いた。伶にも送ると【私のこと書いてくれたなんて感激です。二年も前なんだね。ゆっくり読み返して味わいます】と連絡があった。水戸に戻ったらしい。【夫にも妊娠のこと話した また落ち着いたら会いましょう】とあり、おなかの子供をどうするかについては書かれていなかった。【楽しみにしてるね】とだけ送った。

 本を出しても、さして変化はなかった。檜山の会社は在宅勤務で週三のペースに落とし、原稿を書いている時にライブチャットの通知がくれば裸を見せる。なぜか十代のアイドルの子がTwitterで清夏の著書を【超感動しました‼ 病んでる女の子にオススメです☆】と紹介し、一時期Amazonで在庫がなくなり、ラジオやインタビューにぽつぽつと呼ばれることが増えた。

「最近忙しそうじゃん。勤務続けられそう?」

 会社面談と称して檜山とzoomで話した。「できればこのまま二足の草鞋でやっていきたいですけど」と言うと、「いや、ライブチャットやめてないから三足な」と突っ込まれる。

「執筆一本に絞るのが不安なのもわかるよ。でも、安心材料があるうちは現状維持のまま打破できないんじゃないの」

「……どういう意味ですか」画面の向こうで、檜山は咳払いした。

「一旦会社員は休んだら? 俺が始めさせたことではあるけど、作家として今、いい波が来てるんでしょ。これを逃す手はないよ」

 パソコン画面をにらんだまま黙り込んでいると「別に、作家業が不安定になればいつでも戻ってくればいい。事務じゃなくても何か業務は振るから、保険はある」と檜山は続けた。「別に追い出してるわけじゃないんだからさ」

「……私が抜けて、大丈夫なんですか」

「俺が二人分働けばなんとかね。まあ本当に無理だったら求人出せばいいし」

 一抹の淋しさはあったものの、休職という形で事務業務の稼働はしばらく止めることにした。「どうせライブチャットはやめないっしょ? まあたまには顔出してそっちで還元するってことで」と檜山は本気とも冗談ともつかない調子でへらへら笑った。

 ある意味生活が元に戻っただけだが、連載依頼が来たおかげで、刊行されるかもわからない原稿をひたすら書くよりはずっと安定した状態で原稿に取り組めるようになった。彼氏つくった方がいいんだろうなあ、と思わないでもないが、前ほど逼迫した義務感や焦燥感に駆られることはなくなり、まあ余裕ができたらぼちぼちアプリを再開しよう、くらいに考えている。けれどまた誰かと、子供のことで傷つけあうのではないかと思うとぐっとみぞおちが重くなった。

 恋人に「絶対に子供が欲しい」と言われてから別れるまでの数か月、ずっと、後ろめたかった。積極的に人生に子育てを組み込みたいと思っていない自分の罪を照らし出されたような気持ちになったからだ。

 景介や伶のようにキャリアを積んで社会の中で責務を果たしているわけでないし、今後もそうするつもりがない。けれど、子供も産みたいと思っていない。そういう中途半端な存在である自分を断罪されているような気分で毎日考えた。いま思えば、子供云々のことがなくとも別れていたような気もしないでもない。

 別れたことで後ろめたさからは解放されたけれど、産める性をあてがわれた自分が産まない選択肢を選び続けながら無為に歳をとっていくことへのうっすらとした罪悪感は胸の底にざらざらと砂のように残った。だからといって、罪悪感を消すために子供を持つとすれば本末転倒で、何のために景介と別れたのかわからなくなる。

 零時にベッドに入ったのに一時半まで眠れなくなり、しょうがないのでライブチャットで待機モードに設定してココアを入れた。今書いている小説のプロットを眺めていると、【おっす 先生 仕事辞めた途端に昼夜逆転生活すか】とライブチャットでメッセージが来た。【寝れないんで通話かけてください すっぴんだから画面オフですけど】と送ると、すぐに通知があった。

「久しぶり」

「そうですね。四六時中一緒にいた時もあったのに変な感じ」

「色気ない言い方だな。ま、確かにそうだね」檜山も画面を切っていた。

「最近どう? 原稿捗ってる?」

「ぼちぼちですね。なんか、元彼のこと考えてたら眠れなくなって」

「未練?」違いますよ、とすぐに言い返した。

「元彼のこと……っていうか、また誰かと付き合っても、子供産む産まないで揉めるのかなとか、女性として生まれてきたのに子供産まないのってどうなのかなって、そういうこと考えてたんです」

「ふうん」

「彼とのことではっきりしたんですけど、私、自分が子供あんまり産みたいと思ってないことに罪悪感があるみたいです。社会に何も貢献してないんだから子供ぐらい産まなきゃいけないんじゃないか、みたいな。別に誰にも責められてないんですけどね、なんででしょうね」

 重く受け止められたくなくて、あくまでも軽い口調を装った。檜山はしばらく黙ったあと、そうかな、と小さく呟いた。

「社会に貢献するっていうのが何を指してるのかいまいちわかんないけどさ、君は、作品をつくってるじゃん。子供を為さなくても作品が残る。死んだ後もだよ? そんなの、子供をつくって育てることと同じくらい崇高だと思うし、すごいことなんじゃないの」

 思いがけない言葉に咄嗟に返せなかった。檜山は「まあ、その歳なら悩むのもそりゃ当然だけどさ」と続けた。「自分が一所懸命やってることをもっと認めてもいいんじゃないの。生計立てられてないとか売れてないとか、まあ、自分の中では色々葛藤はあるかもだけどさ」

売れてないは余計です、と口を挟むと「口が滑った、すまんって」と大きな声で笑った。

「ま、子供ほしいって心の底から思う日が来るまでは頑張って小説書きゃいいじゃん。時間かかったけど、俺、君の作品読み切ったよ。素人の感想だけど、面白かったし君には才能があると思う。普段小説読まない俺でも充分楽しめたよ。それでも罪悪感持つ必要、あんのかね」

「……ない、って、いつか思えるまで、小説書き続けないとですね」

「一ファンとして、次回作楽しみにしてますよ先生」

 はいはいとこたえて通話を切った。歯を磨いて寝入ろうとした矢先、ふと原稿の別な展開を思いついた。急いでWordをひらいて勢いのままにタイピングする。すぐにでもテクストを書き出したかったが、明日は何も予定がないのだし、と思いなおしてベッドに入った。説明書のついていない玩具の遊び方を思いついた子供のようにわくわくしていた。早く試したくってたまらない、はだかんぼうで原っぱをわあっと駆け回りたいようなこの気持ち。

 生きている間に、何度味わえるだろうか。


16桐原伶

 妊娠の事実を伝えると、夫は小さく息を呑み、「伶ちゃんはどうしたいの」とごくしずかな声で問うた。

「産めない」

 夫はぎゅっと手をつないでくれた。ごめんと言おうとしたら、「そんなこと、言わなくていい」と強く遮られた。

「水戸に帰ったら、ゆっくりしようか」

「うん」

「俺の不注意だよ。伶ちゃん一人の身体に背負わせてしまって申し訳ない」

「それはもう、いいっこなしにしよう。このことで謝るの、お互いになしね」

 わかったと夫は押し込めるようにしてうなずいて、けれどうつむいた顎をしばらく沈めていた。

上越新幹線に乗り込む。「明日、婦人科に行ってくるよ」と言うと、「俺も行くよ。休みとってるから」と夫が言った。

「私が嘘ついたからだよね。ごめん。正直、三嶋の顔を見られるような精神状態じゃなくて、咄嗟に陽性だって言っちゃった」

「気にしないでいいんだよ」

 夫だって傷ついていないはずはないのだ。けれど、こちらを責めるようなことは何も言わず、余計なことは何も訊かずにいてくれた。

「電話でだって、俺、ひどいこと言ったし。このタイミングで最悪だったよな」

「……ごめん。あれ、私の誘導尋問だったと思う。三嶋が言ったことでどうか思ったわけじゃないから」

「だけど」

「だとしても、私の結論は変わらなかったと思うよ」

 あえてきっぱりと口にすると、夫は黙り込んだ。言い過ぎた、と思ったが、いまさら謝る方がいやみに思えて口をつぐむ。夫がぽつと言った。

「お母さんとは、話し合いできないまま出てきたの?」

「……ああ、うん。別に三嶋のこと待たせてるからとかじゃないけど、まあこっちにも予定はあるし、結局こっちが何言っても無視だったから切り上げてタクシー呼んで帰ってきた。今年年始年末帰るのやだな。連絡してもまた無視されかねないよ」

 ふ、と夫がゆるく息を吐いて笑った。どうしたの? と訊くと「いや」と小さく呟いた。「伶ちゃん見てるとさ。親の愛情は無尽蔵とか無条件って言うけど、本当に無償で愛しているのは子供の方なんだなって、心底思うよ。そうまでされても、年始年末ちゃんと顔出そうとするんだなって」

 何といっていいかわからず、むっすり黙っていると、伶の頭を撫でて「俺はずっと伶ちゃんのそばにいるよ」と言った。「伶ちゃんが望んでくれる間はずっと」

 ありがとう、と頭を彼の肩あたりに押し付けた。そして、高崎で彼が寝入ったのを見届けたあと、トートバッグからPCを取り出して、手紙を書いた。その日の夜自宅で印刷して、封をして切手を貼りポストまで歩いて行った。ふくれた封筒で差込口を押し開くと、月光も一緒に滑り落ちていった。


お母さんへ

手紙を書くのは初めてかもしれませんね。

小学校や中学校の時に、行事の一環で書いたことはあっても、本当に自分の意志で筆をとったのは初めてです。

私と高志さんは話し合った結果、主に私の意見を尊重してもらうかたちで事実婚を選びました。黙っていてごめんなさい。

報告しなかったのは、後ろめたかったからではなく、反対される、あるいは否定される、もしくは怒られるだろうと思い意図的に伝えませんでした。

報告がなかったことで、悲しませたり、傷つけたことを申し訳なく思います。ごめんなさい。

ただ、それ以外のことで私が謝るべきことはないと私は思っています。

思いだしたことがあります。

高校二年の二月から三年の七月まで、進路でのことで揉めてお母さんが私に口をきいてくれない時期がありましたね。

氷河期のような暮らしでした。正直に言えば、また同じことを繰り返しているな、と思いました。高校二年の時のことで言えば、私は十七歳、お母さんは五十歳で、十三年前のことです。

いま同じことを繰り返すには、私たちに残された時間はあまりにもわずかですし、距離も離れています。だから、こうして、手紙を書いています。

 高志さんに惹かれた理由はいくつもありますが、その一つは「家族を持つことにこだわりがない」ということ。

 結婚願望が強かった私からすればやきもきさせられたこともありましたが、「一緒にいたい時に一緒にいて、離れたい時に離れて、けど縁が切れるわけじゃない関係が理想かな」とぽつぽつ話すのを聞いて、すごく納得させられました。同時に、自分の家はその真逆なんだなと思うと、その皮肉さに笑ってしまうような、哀しくなるような、複雑な気持ちにもなりました。

 結婚願望が強かった私が事実婚を選んだ理由は、土壇場になって急に「家族であること」がすごく重く思えて、怖くなったから。

 そしてそれをお母さんたちに伝えなかったのは、三十歳になった今でも、自分の家や育ちを、肯定しきれずにいるから。

お母さんが自分の人生の時間、精神、体力、金銭、愛情を最大限私とお兄ちゃんに費やしてくれたことを心から感謝しているし、慈しみたいとも思っています。今後は自分の人生を楽しんでほしいし、その手伝いができるなら可能なかぎり支援したいとも思う。

ただ、機嫌を取らせるというかたちで支配することをやめないのであれば、家族や親子という枠から離れた方が私たちのためになると思います。

常に、お母さんの機嫌や顔色をうかがいながらびくびくしていました。三十歳にもなって、還暦近い実母のことを「怖い」と思っている自分を、とてもあわれで、情けないとも思いました。

そういう状態であり続けるのは、いやだと思いました。

今まで私のお母さんでいてくれてほんとうにありがとう。感謝してもしきれません。

ただ、今後は大人と大人として、新しい関係性をつくっていけませんか。「そんなことが許されると思うな」と思うのであれば、とても悲しいですが、私は、自分が思うとおりに生きていくことを選びます。

最後まで読んでくれてありがとう。             桐原伶


 手術の日程が決まり、費用は夫がすべて持つことになった。〈その日〉までとにかく安静に過ごそうと二人で話し合い、夫はできるだけ仕事をセーブして伶をいたわり、「病気をしてるわけじゃないのに」と言ってもほとんどの家事を伶の代わりに請け負った。

 宗教画のように穏やかな光に満ちた日々が続いていたが、前日になって急に胸がむかむかするような気持ちに襲われた。そしてその晩、夫にぶつけた。

「ねえ、三嶋は本当は堕ろしてほしくないんじゃないの?」

 夫は「堕ろす」という言葉に反応して一瞬厭そうに顔を顰めた。「そういう言葉を口に出して言うの、やめようよ」と言うのでますます癪に障った。

「胎教に悪いとでも言いたいの? そんなこと思う方が私の精神衛生上よくないんだよ。明日には、私の意思で手術受けるんだから」

「ごめん」夫はさっと表情をなくした。「今のは俺が無神経だった。でも、今日はもう安静にして寝ようよ」

「寝るのはいいけど質問にこたえて。三嶋は子供をどうしたいの? 本当は産んでほしいんじゃないの?」

 夫は顔を哀しげに引き攣らせた。実家で電話越しに彼を一方的に追い詰めていた時と同じだ、と頭では気づきながらも言葉を止めることができなかった。

「……おなかの子をどうするかは、伶ちゃんだけの意思で決めていい。生まれてない今は、伶ちゃんだけが当事者なんだから」

「そうかもしれないけど、私だけに決めさせるのもひどいと思う。三嶋は私に従ってうんうん言ってればいいもんね、私だけが悩んで、こんな重い荷物書わされて、ひどいよ」

 我ながら論理がめちゃくちゃだと思いながら言い募った。けれど、隙がないほどの物わかりのいい夫の態度に、慰められたり救われたりしていると同時に傷ついてもいた。「産みたくない」と伶の意思がはっきりしていることとは別に、夫が自分の希望や気持ちを一切言わないことが、どうしてかフェアでないように思えて、たった今、爆発した。

「伶ちゃんだけにつらい思いさせてるのは本当にごめん。伶ちゃんに意思決定を全部投げてるみたいに思ってたかもしれないけど、でも、伶ちゃんの決めたことがそのまま俺の意思でもあるんだよ」

「そんなの嘘。本当は子供ほしかったくせに。誕生日にあんなこと言われなかったら、私はこんなに罪悪感湧かずにさっさと事故として処理できたんだよ」

 夫の表情が歪んだ。土器に罅が入るように、夫が伶の言葉によって深く傷ついているという手ごたえそのものに傷つき、同時に酔いしれてもいた。

「ごめん」

「別にいい。けど、あんなこと言っておいて、いざこういうことになった時に私の意志だけを尊重しようとするのも、違和感がある」

 要はそう伝えたかっただけなのに、ずいぶんたくさんのものを薙ぎ倒しながらたどり着いたな、とぼんやり思う。

「ねえ、三嶋の気持ちを聞かせてよ。私のことを悩ませるからっていう理由で言わないなら、気にしないでいいよ。どっちにしたって、こんなの、悩まない方がおかしいんだから。三嶋が思ってることを、言ってよ」

 たくさんの矛盾を孕みながらも、けれどどうしようもなく本音だった。夫は、しばらく黙っていたがやがて雨がぽつぽつと乾いたアスファルトにしるしをつけるみたいに言葉を漏らした。

「本音で言えば、俺は妊娠のことを知った時、そりゃ嬉しかったよ。自分が子供がほしいと思ってるからとかじゃなく、反射条件みたいなもんだと思う。でも俺は、伶ちゃんの気持ちも知ってるし、計画的にとかじゃなく俺の不手際で……事故として起こったことだと思ってるから、ただただ申し訳ないとも思ってる」

「うん」

「俺は、伶ちゃんと違って親が放任主義だったし、ラッキーなことにあんまり不満なく育ったから、伶ちゃんがどうして子供を持ちたいと思えないか、理解はできても、完全に分かり合えてるわけではないと思う。けど俺なりに、お母さんに子供の頃からつらく当たられて、そういうふうに自分もなってしまうかもっていう恐怖とか、家族に対していい思い出がないとか、子供時代をやり直したいと思えないとか、そういうのはなんとなくわかってきて」

「うん」

「でも、おなかの子は伶ちゃんとは違うあたらしい誰かなんだよ。小さい頃のあなたがおなかのなかにいるわけじゃない。子供ができたのは、お母さんじゃなくて伶ちゃんなんだからさ」

 夫はほんのりと微笑んでいた。眉根を下げて泣きそうな顔をして笑っていた。

「だから、そんなに自分を疑わなくてもいいんじゃないかなって。ごめん、好き勝手言ったからぼっこぼこに殴ってくれていいんだよ」

「……そんなことできるわけないじゃん」

 うん、と夫は黙り込んで、伶を胸に抱きよせた。わんわん泣いた。夫はただただ背中を撫でさすってくれた。涙はいくらでも出た。それこそ幼子のように。

 

 翌朝、アラームが鳴るよりもずっと早く目が覚めた。夫を起こさないようにリビングに行き、カーテンを開けると、真四角に切り取った青空があった。瞳が染まりそうなくらい濃い青を、しばらく眺めていた。

「早く目が覚めた?」

 夫が声をかけてきた。うん、とこたえると「俺も、なぜか自然と目が覚めた」と後ろから伶を抱き寄せた。病院に行く時間は十一時で「朝ごはん、どこかで食べてから行こうか」と言うと「いいね」と夫が伶の肩に鼻をうずめながら笑った。

 川辺の喫茶でホットドッグのセットを食べた。ふと、一昨日の晩に清夏が送ってくれた随筆を思いだして、くちびるがほころんだ。どうしたの? と夫が問う。

「昔、海の近くの家に住んでて」

「うん」

「朝起きたら遮光カーテン越しに海の水面がきらきら反射しててきれいで、その時のこと思いだしたの」ふうん、と夫が喉を鳴らした。

「なんだか神話みたいな暮らしだね」

「海じゃなくて運河っぽかたったけどね。今の家気に入ってるからしばらく引っ越したくないけど、おじいちゃんおばあちゃんになったら川とか海の近くで暮らすのもいいな」

「いいね」

夫がしずかに笑った。

 手紙を出して一週間近く経つが母親からは何の連絡もない。叔母にだけは、今日病院に行くことをメールで知らせていた。「わかった。とにかく伶の身体が一番大事だよ。安静にね」と返ってきた。

 昼前に病院に向かった。淡々と手術の説明を受け、同意書にサインを書いた。

「行ってくるね」

「うん」

 マスクをしている夫が、自分以上に不安そうな目をしていたので、手術室に入る直前、そっと手をつないだ。手術が終わったら一緒に家でうどんを食べようと約束していた。冷凍うどんを夫は冷蔵庫に移してきただろうかと、なぜか麻酔がかかる寸前にそんなことを考えた。

 自分ではない誰かを自分の意思であやめたことを、いつか悔やむだろうか。死にたくなるほど後悔するだろうか。それでよかったんだよ、最善のことを尽くしたんだよと、夫ではなく自分が――伶本人が、伶をいたわれるだろうか。

 産んでも、産まなくても、自分がくだした選択を間違いだと心の底から悔やむ日がきっとくる。

 だとすれば、あたらしい誰かをこの世界に引きずりださなくてよかった。自分の生を肯定できるまでは、生まれてしまった人と手を取り合って、どうにかこの地獄を生き延びていくほかない。


 淡々と処置が済んだ。入院することもなく、タクシーを呼んで夫とマンションまで帰った。身体、大丈夫? と控えめに夫が伶の腹に手を当てた。「生理痛くらい。なんか、へんな感じ」と正直に答えた。思い切ってつづける。

「こんな日にこんなこと言っていいのかわかんないけどさ、なんだかすっごくおなかすいちゃったよ」

 はは、と静かに夫が笑った。「帰ったらすぐにうどん茹でるよ。あ……解凍してくるの忘れちゃったな」やっぱりね、と苦笑いしてしまう。

「三嶋も疲れたでしょ。出前取ろう」

「そうだね」

 タクシーの中できつねうどんを二つ頼み、夫に寄りかかるようにして目を閉じた。お疲れさま、と何度も頭を撫でられた。

「三嶋」

 名前を呼んだだけなのに、肩と頭でふれあっている夫が心をこわばらせるのわかった。伶ちゃん、と遮るように名前を呼ばれる。

「言わないで」

「え?」

「伶ちゃん、今、謝ろうとしたでしょ。だから」言わないでいいから、と夫は静かにつづけた。

「……だね」ごめん、とくちびるが動きかけて「家帰ったらゆっくりしたい」と言い換えた。うん、と夫が強く伶の肩を抱いた。

 油揚げとネギだけが入ったシンプルなうどんに天かすをまぶして二人で食べて、軽くシャワーを浴びてベッドに入った。伶ちゃん、今日は本当にお疲れさま、と夫が耳元でささやいた。

「三嶋」

「うん?」

「お母さん……私がおなかにできた時、産むって決めたから私がいるんだね。あたりまえなんだけど、あの人も、子供ができて、戸惑ったり不安になったり、産むかどうかを葛藤する日々があって、産むことを選んで私が今生きてるんだなって。なんか、それってすごいことだなって思ったの。別に、それをありがたいとも尊いとも、正直思えないけど……あの人にもそういう日々があったんだなって思って。それだけ」

「そうだね」三嶋は言葉を短く切った。「伶ちゃんのお母さんは、伶ちゃんと会うことを選んだんだね」

 すっと涙が頬を伝った。伶は自分の生を肯定する気はさらさらないし、それは母親との関係性が原因だとも、はっきり思っている。許したわけでも、感謝しているわけでも、同情しているわけでもない。なんの涙かわからないけれど、あふれるものを流れ出るままにした。三嶋は、伶が泣いているのを見て、なぜだかうっすらと微笑んで、髪を何度も梳いて撫ぜた。

「三嶋」

「うん」

「ありがとうね」

「こっちこそだよ」

 出会うことなく天国へ行った誰かのことを思った。しばらく顔を合わせなくなるだろう実親のことを思った。親を捨てた人間として、子供を殺した人間としてこの先の生を歩む自分を思った。そして、伶を伴侶に選んでくれた夫のことを思った。

 目を閉じる。子供の頃の伶が、心細そうな顔をしてこちらを見つめている。

 大丈夫だよ。

 あなたのことは、わたしがまもってあげる。この先も、ずっと。

 子供の伶は、不思議そうな表情でこちらを見つめている。けれど、ふっと笑みを浮かべて、手を振って背を向けた。小さな、痩せた背中が途切れるまで見送る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あたらしくない私たち @_naranuhoka_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る