名無し

男が走っていた。

あてもなく、とにかく走っていた。走っていればいずれどこかに着くだろうと思った。そうしてずっと走り続けていた。

途中、街で水を分けて貰った。またさらに次の村ではパンを分けて貰った。さらに次の港町では塩を、さらに次の農村では干し肉を。男の過ぎゆく場所には男を引き留める人も多かった。けれども男は走り続けた。走り続けなければならなかった。

男はこれまで、走っていればいずれどこかに着くだろうと思っていた。しかしどこかなどという場所はなく、あるのは名のある人たちが住む名のある町なのだった。

男には名前がなかった。どこにいても、どこにもいないのと同じだった。だから走るのだった。走っていれば、時と同じ速度で生きていられる気がした。時にも、その一瞬一瞬に名前などついていないのだと思った。だから走るのだった。

男はふと我に返った。

立ち止まってみると気が遠くなるほど広い海が西の方に見えた。太陽が沈む時だった。水面は照り返しながら波打っている。男はどこにもいなくなりそうな心地になった。走らなければと思った。しかし立ち止まってしまった。掻き乱されるようだった。足の一歩が重くなる。地面に沈んでゆく気がする。男は荒く呼吸しながら体を鞭打った。馬のようになりたいと思った。ああだが、足はもつれるばかりで、とうとう膝をついた。

男は走っていたかった。

何も考えずに走れていたらそれでよかったのだ。人に与えられるばかりでは体が腐るだけだった。走りながら風になりたかった。

男が地面に膝をついて項垂れていると、背後から聞き知った声が聞こえた。その声は男を呼んでいた。

なあ。

確かに男を呼んでいた

男は涙に濡れた顔で振り返った。するとそこには最後に過ぎ去った街の酒場で飲み交わした男が立っていた。同じ年頃のたくましい男だった。

酒場の男は肩で息をしていた。

雨に打たれたかのように汗を流して、男の前にしゃがみ込んだ。そうして、なあ、とまた男を呼んだ。酒場の男は名もなき男にこう言って笑った。

俺も連れて行けよ。

名もなき男はおもむろに頷き、差し伸べられた手によってまた立ち上がった。行こう、とどちらともなく手を引いて歩き出した。

そうして男達は歩き続けた。

ずっとずっと歩いた。くたびれるほど歩いた。朝も夜も同じだった。どこにいたって同じだった。互いがいれば同じだった。

こうして二人は、馬のように走ることもなくなったのだと言う。

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