変な事

@gachure_L

あずさ君

 俺はお腹が空いたら飲食店に置いてあるものと同じ銀色のベルをトンと叩き、「チーン」という音を鳴らして彼女にご飯を催促するのだ。

俺がベルを鳴らすたびに彼女は「あずさ、ご飯だよ、美味しい?ベルかわいいよね」などと言い、ご飯をくれるのだ。ベルを使うのは俺がいつもお腹が空き次第、前触れなく昼食を要求するからだ。大きな声で要求してしまう前に意思表示する段階として取り入れたのだ。

俺も正直なところ、欲求を言葉にするのは苦手だから助かっている。

 そもそも昼食を家で一緒に取れる機会自体があまり無い。平日、彼女は俺を放って仕事に行ってしまうからだ。俺は家で一人で暇を潰してばかりでつまらない。


 ただ、夜になるといつも、彼女は「あずさ、隣においで、かわいいね」と俺の名前を呼びベッドに招き入れてくれる。彼女は左手から指輪を外してそれをサイドテーブルに置き、俺の頭を撫でてくれる。そうしているうちに彼女は眠ってしまい、それを見届けたら俺は彼女にキスをして眠る。彼女の匂いを嗅ぐと安心してよく眠れる。そして朝になると、彼女のかけたアラームにより目を覚ます。毎日その繰り返し。彼女の匂いに包まれて起きる朝は何物にも代え難い幸せである。彼女がどう思っているかは直接聞いたことがないから分からない。と言うか聞けるわけがない。


 

 だが、今朝の寝覚めは最悪だった。



 事の発端は昨晩の彼女の帰りが遅かったことだ。

何故だか彼女の頬が少しばかり赤かった気がするし、彼女から嗅いだことのない強い匂いがした。最悪だ。


普段なら帰宅するなり必ず

「ただいま、今ご飯を用意するからね」などと間延びした話し方で俺に声をかけ、ベルを鳴らさずとも夕食を用意してくれるが、昨晩は違った。


 俺と俺の夕食のことなど忘れ、足元がおぼつかない様子でフラフラとキッチンへ向かった。

その時はそんなにフラフラとするなら手も使って四つん這いで歩けば良いのに、そっちの方が楽だろ。そう思った。

そして彼女はキッチンのシンク付近に置きっぱなしだったガラスのコップに溢れないギリギリまで水を汲み、一息で飲み干しそのまま寝室に向かいベッドにばたりと倒れ込んでしまった。


 つまり夕食を食べ損ねたのである。俺は夕食を諦め、渋々先に眠る彼女の隣で眠った。

 そしてけたたましいアラームの音で起こされた。


 だから、今朝の寝覚めは最悪だったのだ。


 彼女はすでに鳴ったアラームを止めていたようだ。匂いも昨日より少しばかりマシになっている。

ただ、再び眠ってしまいそうな様子でもあった。


俺は彼女が二度寝してしまう前に空腹で死にそうだと言うことにした。

隣で仰向けでうとうとする彼女の胸ぐらあたりにガシッと手を乗せた。

驚いて目を少し開いた彼女の顔に自分の顔を近づける。


「昨晩俺のこと放置して夕食の準備もせずに寝たの忘れてるのか? 夕食を用意してくれないか?」彼女にそう言った。


 自己紹介が遅れたが、俺は彼女とこの家で暮らしている猫である。

俺の名前は「かわいい」彼女が俺を「かわいい」と、そう呼ぶのだから間違いない。


「おはよう、にゃあにゃあ言っててかわいいねー」


ダメだ、意図が伝わらない。


それに今は名前を呼んで欲しくて話しかけている訳じゃない。


次に、昨晩よりは赤みがひいたその顔をペシペシとひっぱたいてみる。


「夕食を用意してほしいんだよ」


彼女は大きく欠伸をしたかと思うと俺を見てこう言った。


「アラームで起きちゃったのかな?かわいい!」だめだこれは。


聞き慣れた間延びした話し方をする彼女の口からは、まだ少し嗅ぎ慣れない匂いがして顔を顰めた。


「お腹が空いたんだ、夕食を用意してほしい」


俺はもう一度彼女にそう言った。


「どうしたの?今日はよく喋るのね、せっかく今日は休みなんだからもう少しゴロゴロしようよ」


そう言って掛け布団をめくり俺が入れるだけのスペースがあることを示した。


 今は一緒に寝たいわけじゃない、いつもならお言葉に甘えて駆け寄ってしまうが今はお腹が空いて死にそうなんだ。それどころじゃない。


俺は彼女に言葉で伝えることを諦めた。


他に何か俺の空腹を伝える方法がないかを考えた。

人間より小さい猫の脳味噌の細胞を総動員させ考えた。


にゃ?


これは、いけるかもしれない。夕食が、いや、もはや朝食か、食べられるかもしれない。


早速俺は、サイドテーブルに置いてある彼女の指輪を口に咥え掻っ払った。彼女が何か言ってる気がするが足音は聞こえない。俺はお腹が空いたんだ。

俺が向かう先はただ一つ、キッチンである。


上手くいくだろうか、口に咥えた指輪を落とさないように集中しつつ、シンクに飛び乗った。


そこには俺の予想通り、コップがあった。

俺はそこに彼女の指輪を放り込んだ。


「チーン」


狙い通りの音が響いた。まるでベルの様な音が響いた。


上手くいってくれ。


寝室の方から何か聞こえる。よし。


「あずさちゃんご飯欲しいのー?」空気の読めない間延びした喋り方だ。

「あ!あずさちゃん!ご飯!」


助かった。

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