第4話 その後①(涼太郎の場合)

 やってしまった。まさか人が居たなんて。


 公園から全速力で走って、やっとの思いで僕は家に帰り着いた。


 小さな団地の二階の一番奥。『花咲はなさき』と書かれた表札の玄関のドアを開けサッと中に入ると、ドアを閉めた瞬間そのまま玄関の床にしゃがみ込んだ。


 息が切れて、全身の血管がどくどくと波打って、動けない。


「涼太郎? 帰ったんか」


 廊下の奥の方から、祖父の声がする。


「う、うん。た、ただいま……」


 はぁはぁと肩で息をしながら、何とか返事をする。

 まだ胸がドキドキしている。

 額から汗がどんどん流れ落ちていく。


(どうしよう。僕のバカ……)


 美しい夕暮れ、夏の気配に浮かれてしまったのか。

 ネットで最近知った曲をつい口ずさんでしまった。人がいると分かっていたら、絶対に歌わなかった。


 でもあの時、どこからともなく綺麗なギターの音色が聴こえてきて、人がいると分かったのに、やめられなかった。



――いや、ちがう。

――僕がやめたくなかった。



 走ってきたから息苦しいのもあるけれど、それよりもあの時感じた不思議な高揚感が、はっきりと今僕の胸を締め付けている。


 歌っている間、世界が切り取られたような感じがしたのだ。


 僕の歌に寄り添うようなギターの音色が、心地よくてずっと聴いていたかった。

 曲が終わった時は寂しくて仕方なかった。

 今もまだ耳の中に余韻として残っていて、思い出すと切なくなる。



――ああ、楽しかったな。



(って、いやいやいや、ダメでしょ)


 知らない人の前でフルコーラスで歌を歌った上に、泣き顔を見られるなんて。キャベツ丸ごと一個を持って、泣きながら逃げる自分の絵面を想像して、顔から火が出そうだった。


(何やっちゃってんだ、僕……恥ずかしすぎる……!)


 しかもあの人は僕と同じ制服を着ていた。ということは絶対同じN高校の人だ。


 とても綺麗な真っ直ぐな目をした人だった。


 他の人の目をこんなに見つめてしまったのは初めてだ。


 目が逸らせなかった。


 なんだか引き込まれそうで、急に怖くなって逃げて来てしまったのだ。



(ああああ、学校で会ったらどうしよう……!)



「何しとるんじゃ。大丈夫か?」


 玄関先で汗だくで頭を抱えて悶絶していると、いつの間にか目の前に胡乱な目をした祖父が立っていた。


「うわっ、じ、じいちゃん」


 僕は慌てて立ち上がる。


「な、何でもない。あ、そうだこれキャベツ買ってきたよ。あはは、エコバッグ忘れちゃってさ……」


 僕は笑って早口で誤魔化しながら、祖父にキャベツを手渡した。


「今日は夕飯、お好み焼き作るんでしょ。手伝うよ」


 鞄置いて着替えてくる、と言って僕は祖父の横をすり抜けて、そそくさと自分の部屋に向かった。


「……涼太郎のやつ、今日はなんか嬉しいことでもあったんかな」


 僕の背中に祖父が呟いた言葉は、僕には聞こえなかった。

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