ぼくらの心のなかにいる。

名南奈美

ぼくらの心のなかにいる。



 山奥の村に住んでいた幼少時、親族みんなで祖父を袋叩きにして仕留めたことがあって、その死に際に祖父が僕達を見つめて言った、

「おれはお前達の心のなかで生きているからな」

 という言葉を今も覚えている。

 血だらけの祖父はすぐにガクッと逝った。みんなで山奥のさらに奥まで運んだ。猟師も立ち入らないような林のなかに置いて、さっさと逃げた。クマが祖父ではなく僕達を食べてしまわない保証なんてどこにもなかったから。

 外向きには、ボケた祖父が徘徊のち失踪した、ということにしておく。罷り通る。

 しっかり参加しておいてなんだけれど、そんな風に犯した罪を隠滅できてしまうって怖いなと思う。

 ついた嘘は必ずバレる、の法則はここでは適用されない。なんの問題もなく僕は中学生になる。誰にも咎められずに中学三年生になって、罪の意識みたいな罰の恐怖みたいな感情も薄れていく。

 高校に進学する前に関東の恋川県に引っ越すことになる。小さな頃からどんなときも一緒だった幼馴染の啓一郎と離ればなれにならないといけない。僕は寂しく悲しい。でも父親の転勤の都合だからどうしようもない。

「離れたって友達だよ、颯太」

 と啓一郎は言ってくれる。

「だよなあ、そうだよなあ。ありがとうな啓一郎」

「困ったり、いじめられたりしたら言えよ。ボコボコにするから!」

「へ、心配せんでいいよ。でもありがとうなー」

 握手をして、僕は親と一緒に列車に乗る。



 田舎から全く無関係の土地で高校生を始める。今までずっと学ランだったからブレザーが落ち着かない。ネクタイまで締めてるし、これはスーツとはどう違うんだろう。スーツを着て学校に行くなんて畏まりすぎて授業にも弁当にも集中ができない……!

 とか思っていたのは最初だけですぐに色んなことに慣れる。そもそも僕はたぶん染まりやすいし、ブレザーのなかにジャージを着てマックで組体操して出禁になった同級生を見たら全てがバカバカしい。偏差値は中の上くらいなはずなんだけど。

 そんなバカバカ組体操を遠くの机から動画を撮り、翌日の朝に笑いながら僕に見せてくれたのが芦野穂埜。

「木村くんも四ツ橋くんも美作くんもほんとバカだよー。おかげでもう制服着てマックにいけないもん」

「え、制服ごと出禁なの」

「わかんない。でもたぶんそうなるよー」

 それで実際にマックにお断りが貼られる。

 村には無かったからいつか行きたかったのに……。

 と悄気込む僕を見かねて、住宅地にひっそりとあるリーズナブルで美味しいカフェを紹介してくれたのも芦野穂埜で、

「かっふぇ……」

 と店内で発音する僕の隣でお腹を抱えながら、

「いえっす、でぃす、いず、かっふぇ」

 なんてからかってくるから、うっかり惚れてしまう。

 そもそも顔や雰囲気が昔好きだった従姉に似ているのもあるけれど。

「なんでカフェも知らないのー」

「いや知ってるよ。でも入ったことないし」

「えーそうなんだ。颯太くんこっち来るまでどこで遊んでたん」

「え……漫画読んだり虫捕ったり魚釣ったりサッカーしたり、お祖母ちゃんの畑を手伝ったり?」

 最後のは遊びってか仕事だけど。

「へぇーすごい。なんか『君の名は。』っぽくていいね!」

「あ、それ知ってる。お父さんが漫画買ってきてたから読んだよ」

「えーあれは絶対映画で観たほうがいいよー」

「そう? 借りれるところ駅前にある?」

「あるあるあるある。カフェ出たら案内したげる」

 それから白くてきらきらしたパンケーキを食べる。甘いコーヒーを飲む。美味しくて楽しい。

 芦野穂埜はたくさんの話題を持っていて、僕の知らない世界をたくさん知っていて、なんだかすごくわくわくする。ただただ僕の世界が狭かっただけなのかもしれないけれど。

 借りてきた『君の名は。』を観ながら、僕は芦野穂埜のことを考えて、ちょっとだけ劇中の恋愛に自分と彼女を重ねてみたりして、いよいよ本格的に好きになってるなと確信する。



 そして秋頃に付き合うことになる。

 クリスマスにキスをしてバレンタインに家に呼ばれる。

 芦野穂埜の部屋でふたりきりだ。

 当たり障りのない会話をしつつ、心なしかそわそわとしている彼女の隣で、僕は盛大にそわそわとしている。横顔のシルエットをはみだす睫毛がいつもより二割増しで美しく色めいて見える。そもそも前もって「そろそろ……ねえ?」みたいな話はしていたから余程のことをしない限り嫌われないと思うのだけれど……!

 でもここまで来たら腹を決めるしかない。たぶん何もしないのが一番の悪手だ。

 ゆっくりと距離を詰めて肩に触れる。少しだけ空気を確認する。芦野穂埜は小さく頷く。口付ける。人生で三度目のキス。ゆっくりと、深く、抱き締める。彼女も応えてくれる。

 目を閉じて開けると僕は芦野穂埜の首を絞めながら腰を押し付けている。服のない彼女の手首には強い力で握り締めた痕が紅く付いていて、ぐしゃぐしゃの髪の間から覗く頬は涙で濡れていて、しゃくりあげる声が漏れてくる。泣いている。

 首から手を離す。どうして絞めていたんだ? いつの間にここまで進んでいたんだ? なんで芦野穂埜がこんなにも不幸そうに啜り泣いているんだ? 性器から性器を抜く。血の気が引くほど血が纏わり付いているのに、纏うべきスキンがそこにない。きちんと買ってあったのに。

 僕は何をしているんだ?

 何をしたんだ?

「……穂、埜。僕は、」

 僕は自分が何故こんな暴力を振るったのかわからない、と言おうとした。でも言えなかった。突き出された彼女の手のひらで制されて、黙ってしまった。

 ぐしゃぐしゃに泣き濡れた真っ赤な顔で芦野穂埜は言う。

「こわい。きらい。かえって」

 僕は大人しく彼女の部屋を出る。ドアを閉めようとしたとき聞こえた、床に嘔吐する声と音、それと深い咳き込みが耳にこびりつく。

 何をやっているんだ僕は。興奮しすぎて我を忘れたとでも言うのだろうか。理性を忘れて本性が剥き出しになったとでも言うのだろうか。これが、こんな風に目の前の女の子のことを泣かせて吐かせて苛むのが本性なのだろうか。

 それじゃあ、祖父と一緒じゃないか。

 死んだほうがいい僕は、しかし死なずに帰路に着く。芦野穂埜の家から出たときはあんなに轢かれたかったのに、気付いたら無傷で自分の部屋のベッドに横たわっていた。

 食欲がないというか、自分は欲を満たすべきではない気がして、母親の夕飯を断った。

 ごめんなさい。

 照明がうざったくて消す。暗い部屋で考えるのは祖父のことだ。僕の初恋の従姉を襲ってめちゃくちゃにして死なせて、親戚中から袋叩きにあって息絶えた祖父のこと。そんな祖父の毒牙にかかった従姉のこと。

 そしてその従姉に似ていた芦野穂埜と、理性をなくして彼女の首を絞めながら乗しかかった僕のこと。

「おれはお前達の心のなかで生きているからな」

 と死に際の祖父は言った。親戚ならば祖父と同じ遺伝子を含んでいるのだから、いつか同じことをするのだと言いたかったのだろうか。

 だとしたら……なんてことだ、祖父は正しかった。僕の心のなかには祖父のような本性が生きていたのだ。

 髪を掻き毟る。ゴミ箱に吐く。いっそ穢れた遺伝子も吐き出せればいいのにと思う。

 僕に新しい世界を教えてくれて、僕を身も心も受け入れようとしてくれていた彼女を酷く傷付けてしまうような遺伝子。それゆえに同じことを繰り返すかもしれないこれからの人生。

 要らない。

 遺伝子のせいで罪に浸かった僕はしばらく登校拒否をするが、少ししてそれが思い込みでしかないことを知る。

 僕の父親が取引先の社員を密室で刺した事件によって、祖父の言葉の意味に気付く。




「颯くん! 颯くん!!」

 と僕の部屋のドアを殴るのは母親。殴る? いつもは優しくノックするだけなのに。もうずっと不登校の僕を慮る余裕がなくなったのだろうか。だったらいっそ包丁でも持ってきてくれればいいのに。

 眠っていたところを起こされて、ぼうっとした脳でドアノブを眺める。開けたほうがいいのかな。開けたほうがいいんだろう。開けようか。

 ドアを開けると母親に抱き付かれる。

「颯くん、お父さんが、お父さんが、お父さんが、お父さんが、お父さんがね、お父さんが」

「お父さんが何? 落ち着いて。お願いだから。お父さんが、何かあったの?」

「あのね、警察から電話がきて」母親は言う。「お父さんが取引先の人を、人の、命を奪ったって」

「……え!? それって……本当?」

「お父さんは違うって言ってるみたい。でも、警察の人が、そうだって」

 さめざめと悲しみに暮れる母親の背中を撫でながら、自分の父親のパーソナリティについて思い返してみる。

 うん、そんなことをする人じゃない。何かの間違いじゃないのか?

 確かめるために警察に話を聞くと、防犯カメラにしっかりと犯行の一部始終が映っていて、凶器の指紋も父親のそれと一致しているらしい。別人が成り済ましたとかでもなくて、現場に父親が居たとの証言もきっちりある。

「それでも君のお父さんは記憶にないと否認し続けているんだ」

 記憶にない。どういうことだろう。二重人格らしきエピソードが今まであったかと考えるけれど、とくにない。三十年連れ添った母親も、父親と共にいて違和感を抱いた覚えはないみたいだ。

 アルコール等の摂取もなくて、認知症のような症状も、少なくとも僕達には心当たりがない。

 精神面も記憶面も健康な状態で、『記憶にない犯行』というのは果たして成立するのか?

 面会をすると、ガラス越しの父親は憔悴しきった表情をしている。

「なあ、信じてくれ、颯、おまえ。ぼくは何もしてないんだよ。取引先の佐野さんは本当にいい人で、懇意にしてくれて、死んでしまったことにぼく自身ショックを受けているんだ。動機なんてないし覚えもないんだ」

「……お父さん、これからどうするの」

「諦めないよ。裁判をしようと思う」

 そう宣言する父親の瞳は、濁ってはいたけれど、しっかりと正義と誇りがあった。

 嘘のない目。



 そして病院で診断を受けたり弁護士に依頼をしたりと裁判に向けての準備をして、迎えた当日、父親は笑いながら罪を認める。

「やりましたやりました。おれがやっちゃいました。仕事面倒臭くてクビになりたかったからな。ははは。ごめんなさいな弁護士さん。おれ認めるわ」

 諸手を挙げて宣う父親に全員唖然とする。傍聴席から僕の隣の母親が泣く声が響く。父親は僕達を見て言う。

「博美さん、颯太、おれはそこにいるからな」

 裁判官に諫められて大人しくする父親を見ながら、泣き続ける母親にハンカチを差し出しながら、僕は今にも吐きそうになっている。

 あれは僕の父親ではない。あんなに無責任で馬鹿で軽薄な犯罪者は父親じゃない。

 それに僕の父親は僕を颯太なんて呼ばないし、母親のことを博美さんなんて呼ばない。

「おれはお前達の心のなかで生きているからな」

 そうなのだ。生きているのだ。あの祖父はきっと自分を叩くときにいた人間の心のなかに生きて、棲み付いているのだ。怨みを晴らすためにこうして身体を乗っ取り、間違ったことをさせて、苦しめているのだ。

 僕の記憶が正しければ、あの場には母もいた。

 次は母が人生を狂わされる番なのだろうか?

 裁判所から帰り、少し母親が落ち着いてから、僕はそのことを話す。今まで伝えていなかった芦野穂埜の件も告白する。最初は変なことを言わないでと言われるけれど、祖父の言葉は母親もうっすら覚えていたみたいで、

「じゃあ、これって呪い? 祟り? 悪霊? みたいなものなの?」

 と震え始める。

「そう……だと思う。僕も別にその方面に詳しい訳じゃないけど、でも、それが一番しっくりくる。僕も本当に、あのときの記憶はないんだ。僕とお父さんの心のなかに、いるんだよ」

「……私のなかにも」

「いる、……可能性が高い」

「……お祓いをしないと」

 真っ赤な目もとの母親は、すっくと立ち上がると棚から地図を引っ張り出した。家からは少し離れた場所にある神社を指で示す。

「ここ。喜井黙神社で除霊もやってるらしいから今から行こう」

「今から? でもお母さん、もう暗いよ」

「明日まで待てない!」母親は怒鳴る。「今夜にでも私が操られて犯罪をさせられるかもしれないのに、寝てなんていられないの!」

「……それもそっか」

「それに、私、あの人が自分のなかにずっといるなんて耐えられない。すごく気持ち悪い」

 それは僕も同じだった。小学生だった従姉を襲った老人の魂を宿しているなんて、心底ぞっとする。

「そうだね。今から行こう、一緒に」

「……それじゃあちょっと着替えてくるから。待ってて、颯太」

 と言って母親は階段を上がり自分の部屋に入っていく。僕も準備しないと。

 あれ?

 裁判所から帰ってきたばかりで外着だし、財布もあるのに何を準備するんだ?

 僕の母親も同じなのにどうして着替えないといけないんだ? 化粧を直すだけならまだしも。

 それになんでさっき、颯太って。

 急いで階段を駆け上がるがもう遅い。鍵のかかrたドアを壊して入ると、そこで母親が紐で首を吊っている。

 暗い部屋でぶるんぶるんと無作為に揺れる遺体の目は明後日の方向に剥いていて鼻の穴が開いていて口元は落書きみたいにぐにゃりと上がっている。

 そうか。乗っ取ることが出来るなら、そのうえで自殺することも可能と言う訳だ。

 叫んで泣いて怒って吐いて笑って悔しがって哀しがって悲観して絶望する。朝になる。



 ずっと布団に籠っている。外に出たらどうなる? どうせ除霊なんてさせないつもりだ。操られて川にでも落ちさせられるのが関の山だ。部屋のなかにいたって意味はないけれど。でも除霊をする意思さえ見せなければ生き延びられるかもしれない。こんな風に生き延びてどうする? わからない。

 どうすればいいのかわからない。誰か助けてくれよ。

 自分の部屋を出てトイレに行く。戻る途中で家の電話が鳴る。番号を見る。見覚えがある。誰だっけ。受話器の傍の電話帳で確認する。

 啓一郎だ。僕の幼馴染。

「……もしもし」

『颯太? 啓一郎だけど、元気?』

「久しぶり。急にどうしたんだ」

『いや、ちょっと金も時間もあるからさ、恋川に遊びに来てるんだよ』

 啓一郎がこっちに来ている?

『それで、折角だから颯太に会いたいと思って。暇? 家に行っていい?』

 家に。母親が部屋で首を吊ったままでいるこの家に啓一郎を入れる? 出来ない。

「……暇だけど、ごめん、ちょっと無理」

『どうして』

「どうしても、無理だ。ごめん……」

『何かあったんだな?』と啓一郎は言う。『わかるよ。電話越しでも、悪いことが起こってるってわかる』

「……どうして」

『離れていても友達だから。幼馴染だからな。困ったり、いじめられたりしたら言えって言ったろ?』

 僕はうっかり泣く。啓一郎に嗚咽を聞かせてしまう。恥ずかしい。いくら、すごく心細かったからって。独りきりだったからって。高校生にもなって。

『へ、図星か。今から行くから家で待ってろ。話はゆっくり聞くから』

「うん、うん。ありがとう」

 顔を洗って髭を剃って髪を整えて歯を磨く。久しぶりの友人を迎える最低限の態度っていうものがあるし、気持ちを少しでも切り替えていきたい。泣いたり鬱いだりはもう終わりにしたい。僕は啓一郎という幼馴染を信じている。きっと明るい方向に向かっていけるという確信がある。

 ややあってインターホンが鳴る。カメラを見ると啓一郎だ。ちょっと髪が伸びたみたいだけれどすぐにわかる。子供の頃からずっと一緒にいたのだ。どんなときもずっと一緒に。色んなことを一緒にやってきたのだ。

 錠を落としてドアを開ける。啓一郎がいる。

「久しぶり、啓一郎」

 と僕は言った。

「さよなら、颯太」

 と彼は言った。


 空きっ腹に包丁。


 刺して抜かれて血が噴き出る。落書きみたいに口角を上げる目の前の男を見ながら僕は思い出す。

 僕と啓一郎はどんなときもずっと一緒だったのだ。祖父を袋叩きにしたあのときだって、好きな人の仇討ちを手伝ってくれた。

「おい幽霊ジジイ」僕は言う。「僕だってお前の心のなかで生きてやるからな。何度だってボコボコにしてやるからな。穂埜と啓一郎とお母さんとお父さんを僕から奪っておいてただで済むと思うなよ。ぐちゃぐちゃになったお前の上で馬鹿な組体操してやるまで消えてやらねえからな。覚悟しろ」

 呪いながら死んでいくというのは全くそれこそ同じ遺伝子って感じだが、もうそれでいい。僕の呪詛も同じように叶えばいい。正しくなかった祖父の呪いすら叶ったのだから正しい僕の呪いも叶うはずだ。


「勘違いするなよ颯太。お前もただの私刑の人殺しなんだからな」


 と言われると僕も正しくなんてない気がしてくるが、いけないいけない。

 きっと真っ直ぐに呪い続けないと届かないものなのだ。真っ直ぐに祈り続けないと届かないのと同じように。

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ぼくらの心のなかにいる。 名南奈美 @myjm_myjm

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