君の臓器
鳥が鳴いていた。甲高い声が、細く、長く、空を切り裂いていく。机の上に広げたノートを見るともなく見ながら、鳥の声を聞く。端から端まで埋まった黒板も、数行しか進んでいないノートも、机の端に転がるシャーペンも、鳥の声をきっと聴いている。
「今日は十五日だから……っと、一列目の五番目にするか」
鳥の声が徐々に聞こえなくなっていく。へその少し上あたりに手を当て、静かに撫でた。最後の最後まで音が馴染むように、ゆっくりと、柔らかに。
「五番、五番……じゃ、森咲、ここ。一度読んでから、訳してみろ」
名前が呼ばれる。ノートから黒板に視線を移す。
「『行く川の流れは絶えずして、しかも、元の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。』意味は、流れていく川の流れは絶えることがなく、それでいて、元の水ではない。よどみに浮かぶ水の泡は、一方で消え、一方であらわれて、いつまでもそのままの状態で存在していることはない、です」
「うん、いいな。じゃあ次の文章を」
先生がそこまで言ったところで、授業の終わりを示す鐘が鳴る。もう少し進めたかったと残念がる先生を無視し、日直が号令をかけた。「おおい!」と突っ込む先生に続いて、笑いまじりの「ありがとうございました」が続く。鉄板のやり取りを行って、心なしか満足そうな表情で、先生は教室を出た。
今日は古典が最後の授業だったため、その後はショートホームルームをし、すぐに自由になった。
「さーて、かえっろー!」
待ってましたとばかりに拓海が声をかけてくる。俺を含めたいつものメンバーがばらばらと返事をする。
駄弁りつつ、スマホをいじりつつ、校内を出た。
「いや、てかまじ、ハラせん、あの時間に新しい作品行くとかまじなくね?」
「それなー普通、今日は早く終わります、だろぉ」
「日直さすがすぎたわ」
「まじでな。今日のはネタじゃなく殺意こもってたけど」
「間違いない!」
二人、二人に分かれて歩道を歩きながら、たわいもない話をする。四人の笑い声は閑静な住宅街に下品に響き渡る。
「千春、最後の最後に当たるとか不運……」
笑いの波が治まったところで、大吾が俺を振り返る。だがその言葉は途中で止まった。いっそ清々しいくらいに、その瞳があるものを追う。それは大吾以外の他三人も同じだった。
わざと遅く歩きながら、反対車線を歩く美女をしっかり目で追った。タイトなシャツに、ロングスカートを履き、一つにくくった髪の毛を揺らしている。健全な男子高校生としては、髪の揺れより胸元の揺れに目が行く。その後ろ姿が少し遠くなるまで見送ったあと、誰からともなくため息の音がした。
「……いや、でっか」
「最高すぎますなぁ」
さすがに声は抑えたものの、口元の緩みは誰も抑えきれていない。
「でかぱいしか勝たん」
大吾が緩みきった口で言う。
「おま! でかい派のものか!」
拓海が怒ったような口ぶりで叫んだ。
「んだと、お前だって見てたろ」
「俺もでかい派だかんね」
「なんだぁ、それ」
また四人で笑う。不思議と四人で歩く家路では、何でも面白く感じてくる。
「あのおっぱいに埋もれて寝たいなぁ」
「よだれ垂れそうできもい」
自身の平らな胸元を押さえながら、綾人が言う。隣でそんなことをするものだから、反射的に暴言が出た。
「ひどいわ、千春ちゃんぅ。あなただって同じこと思うでしょお」
隣にいたのは人間ではなく、汚物だったろうか。公衆トイレに今すぐ流したい。
「そんな冷たい目で見ないでよ!」
「さては千春、小さい族か?」
「まあねー」
一派から族に進化したのは無視しつつ、大吾の言葉に頷く。
「こっち見て!」
綾人が寂しそうな叫びを上げた。
「やーだね」
綾人から離れ、前の二人の隣に並ぶ。綾人が「あ!」と声を上げ、後ろから飛びついてきた。思い切り体重をかけるものだからよろけて、それに誰かが怒り、誰かを押しのけ、誰かを軽く蹴り、ひと騒ぎ起きる。
また笑い声が響いていく。
「さて、諸君、朗報だ!」
騒ぎを止めたのは拓海の一言だった。朗報なんて言葉よく知っていたものだと思いつつ、傾聴の姿勢を示す。
「このあと、女の子とお食事ができます」
「それは……」
綾人が目を輝かせる。
「つまり……」
大吾が鼻の穴を膨らませる。
「そう! 合コン! つい最近振られた者も、しばらく寂しい者も、来たる冬を乗り切るために!」
拓海が勇ましく拳を掲げる。拍手が巻き起こった。拓海こそ救世主だと言わんばかりの雰囲気に、俺はおずおずと手を上げた。
「ごめん、この後行くところあんだよね」
「えー! それ絶対?」
「そ。外せない」
「まじかぁ」
拓海だけじゃなく、大吾も綾人も残念そうに俺を見る。女の子に会えるのも楽しいが、結局は四人で過ごすのも楽しいのだ。そこだけは四人共通の思いなのだろう。
「今度埋め合わせするから、今日のとこは勘弁な」
「まあ、用事ならしゃーなしだわ」
「じゃあ、そろそろこっちだから。ほんとごめん」
顔の前で両手を合わせ、輪から抜け出す。気にすんなとか、また明日とか、めいめい声をかけてくれた。それに返事をしながら、俺は今日の目的地に向かった。
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