第二話 契約を結びましょう

 私の求める幸せは、そんな大層なものではない。

 まともな食事にありつけ、奴隷のような存在ではなくきちんと人間として認めてほしい。それだけで良かったのだ。


 しかし世界は私に優しくあってはくれないようだった。

 地獄からやっと抜け出せたら次はまた別の地獄が待っているだなんて誰が想像できただろうか?


 公爵家に馬車が着くなり私を出迎えた執事。

 彼と話した時から違和感は感じていた。


「すみません、花嫁だというのに、何も持って来られず……」


 花嫁道具を持っていないことを謝った私に、執事は「気にしないでいいですよ」と言った。

 どうして気にしなくていいのか。そちらですでに用意してあるということ? そんな風に考えた私だったが、その答えはまもなくわかってしまった。


 公爵との結婚式はなかった。

 書類にサインを求められ、そこに署名した、たったそれだけ。それで私と公爵閣下との結婚が済んでしまったのである。


 まさか、結婚式を行わないだなんて考えてもおらず、唖然とする私に追い打ちをかけたのが、『愛することはない』という信じられない言葉だった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 愛さない、というのは正直言って構わない。

 悪女と名高い私を娶ったくらいなのだから政略結婚なのはわかっていたし、初めて会ったばかりの相手に対して恋愛感情があるはずもない。

 では何が問題なのかと言えば、それを公言してしまうということ。


 その場には公爵家で仕える使用人たちがたくさんいて、若き公爵閣下の宣言を聞いていた。


 これでは、『お飾りの妻』として使用人から軽んじられてしまう。主の意向に常に沿うのが使用人の役目だからそれは当然の話で、最悪の場合嫌がらせさえされる可能性すらあった。

 事実、公爵が愛さないと言った瞬間、ただでさえ私に好意的ではなかった使用人一同の視線はさらに冷たくなっている。何しろ私は悪女だ。嫌われ者なのだ。誰も好いてはくれない。この屋敷でも孤立無援になり、蔑ろにされる未来が透けて見えるようだった。


(――ああ)


 目の前が真っ暗になり、めまいを覚えて近くの壁にもたれかかった。

 そんな私に公爵はさらに追い打ちをかけるように続ける。


「大体、俺はジル嬢だからこそ娶ろうと思ったんだ。病弱でおとなしいと聞く彼女なら文句も言わないだろうと……。なのになぜ悪女のお前なんかと結婚しなきゃならない。話が違うだろうが」


 ジルが病弱だなんて嘘だ。それはいつもジルが私の名を借りて遊びの場に出ているからで、本物の『ジル』がたまにしか姿を現さない理由づけでしかないのだから。

 つまりジルは、遊ぶ時は私のふりをし、いい子を演じる時だけジルと名乗っているわけだ。もちろんこの公爵閣下はそんなこと知る由もないことだけれど。


 アロッタ公爵はさぞガッカリしているに違いない。私の気持ちなんて一切考えもせずに……。


(これでは伯爵家にいた頃の繰り返しになるだけではないですか)


 そう考えただけで身震いせずにはいられなかった。

 だから私は、必死に抵抗した。


「そ、そんな……。私、しっかり公爵夫人としての務めを果たそうと思っておりますのに」


「却下だ。お前のような女は一度甘えさせたらどこまでもわがままを言うんだからな」


 だが、公爵は頑なで。

 もうダメかも知れない――思わずそんな風に諦めかけた私を救ったのは、意外にも私を悪様に罵り、恐怖のどん底に突き落とした公爵閣下その人の言葉で。


「もう一度言うが、俺は間違ってもお前のような悪女を愛してやったりはしない。元々からして周囲がうるさいからしただけの結婚なんだ、関係を持つつもりははなからなかった。

 だがその代わり、お前は好きにしろ。夜遊びをするなりなんなり、な」


 好きに、していい……?


 その言葉を耳にした瞬間、暗転しかけていた視界がクリアになるのを感じた。

 顔を上げると、そこにあったのはアロッタ公爵の顔。顔はいいがそれだけで、そこに宿るのはこちらを見下すような感情だ。

 けれど今はそんなことはどうでも良かった。


「本当に? 本当に、好きにしてよろしいのですか」


「ああ、そうだが」


 私は全身を震わせた。

 怖かったから? 激昂したから? ――否。今度の震えは、心からの歓びによるものだった。


「では約束していただけますか。できればそう、契約書。契約書を作ってください。私、エメリィ・フォンストはジェード・アロッタ公爵閣下の寵愛を求めない。それを守っていれば自由にしていい、と」


 私があまりに必死だったからだろうか。

 公爵はほんの少し戸惑ったような、驚いたような顔をしてから言った。


「そんなに遊びまくりたいのか? ……まあいい、わかった。そこまで言うなら契約書を書いてやろう。契約は絶対だ。後で覆すことはできないぞ」


「もちろん理解しております」


 使用人の一人が運んで来た契約書。アロッタ公爵が書き入れ、「これでいいだろう」と手渡して来たそれに、婚姻届と同じようにサインする。

 その瞬間、今まで背負って来た全てから解き離れたような解放感を得た。今なら何でもできる気がするほどだった。


「ありがとうございます、公爵閣下。これからどうぞよろしくお願いいたしますね」


 私はきっと、今までの人生の中で最高の笑顔を浮かべていたことだろう。

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