カワウソの空
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カワウソの空
午後の昼下がり。
住宅地は穏やかな雰囲気に包まれている。
小綺麗な洋風住宅が並ぶ光景は、まるで絵画のようで風が吹けばどこからか甘い花の香りがした。
自宅の庭先で一人の少年がサッカーボールを一人器用に跳ね上げる。
胸でボールをトラップ。
爪先で軽く蹴り上げ、今度はそのままかかとを使ってリフティングをし始めた。
一見簡単そうに見えるが、プロのサッカープレイヤーはボールが足から離れるまで全力で走り続けることがあるという。
少年は背が平均より少し高いくらいの、ごく普通の体型をした平凡な容姿をしていた。黒髪を優しく流した髪型に、凛々しい目は活動的な印象があり、元気いっぱいの雰囲気は人懐っこい犬を連想させる。
服装はカジュアルで動きやすそうなTシャツにハーフパンツと軽装だ。
名前を
11歳の小学5年生だ。
ボールは勇輝の思い描いた通りの軌跡を描く。
そこで後ろから声がした。
まだ幼い女の子の声だ。
勇輝は声の方へと振り返った。
そこにいたのは清楚で可愛らしいワンピース姿の少女。
華奢な体つきをしている。瞳は大きくクリッとしており、どこか小動物のような可愛らしさがある。
背中まで伸びた髪にはゆるくウェーブがかけられており、柔らかな雰囲気を醸し出していた。
名前は
兄の勇輝とは一歳違いの妹だ。
澪は、両手を後ろ手に組んで勇輝を見つめる。
「どうしたんだ澪?」
勇輝はリフティングを止めて、妹の澪に向き直る。
澪は何かを言いたげに上目遣いで勇輝を見つめる。
「ねえ、お兄ちゃん。お父さんの持ってる溶接機とかの工具って、どこにあったっけ?」
澪は、父親が持っている自動車整備や日曜大工などでの工具のことを勇輝に聞いてみた。
「工具? それなら確か車庫の工具箱の中か物置にあったと思うけど、それがどうかしたのか?」
勇輝は少し考える仕草を見せてから答えた。
澪は、視線を反らして、もじもじと申し訳無さそうにする。
「えっとね……」
澪は口ごもる。照れているのか、少し頬が赤く見えた。
上目遣いのまま尋ねる。
大人の女性にはない可愛さだ。
丸い瞳とシュッとした顔立ちが清楚な印象を与えてくれる。まだ幼いが将来は美人になるのではないだろうかという片鱗を見せている気がした。
妹の放つ可憐な姿に思わず笑みが出てしまう勇輝は、目尻を下げて微笑む。
「何だい。いってごらん」
澪は言いにくそうにし、上目使いで口を開いた。
「実はね。工具を貸して欲しいって人がいるの」
勇輝は驚いた顔をする。
工具を貸して欲しいということは、何かトラブルが起こったのだろうか? 勇輝は深刻そうな顔をすると、澪に再度尋ねた。
「もしかして事故とかあったのか? その人はどこに居るんだい?」
真面目な表情で尋ねる勇輝に対して、澪は少しバツが悪そうに視線をそらして、返事した。
先程までの可憐なイメージはどこかに消え失せる。
照れがあるようで、落ち着かない様子だった。
やっぱり、何かあったのかなと勇輝が考えていると澪が話す。
「人。っていうかさ……。つまり、この子なの」
すると澪は、後ろ手にしていた両手を前へと持って来た。
それを見た瞬間、勇輝の表情は驚きで強ばる。
澪の両手には、体長65cmの細長い胴体をした動物が持ち上げられていた。
光沢のある茶色の毛に、小さな手足、目はクリっとした形をしており、顔は潰れたアンパンのような印象を与える。
その動物は、カワウソだった。
カワウソではあるものの、身体にはサバイバルベストを装着し、額には飛行眼鏡を付けている。
所々の縫い目や、プラスチック製の頑丈な作りなど、よく見れば手作り感が溢れていた。
その生き物を見て、勇輝は思わず言葉が漏れる。
「カワウソ?」
そのカワウソは、どこか得意気にコクンと頷く。
「そう。俺はカワウソだ」
するとカワウソは、あろうことか言葉を発した。
突然、カワウソが。
いや動物がしゃべったことで、勇輝は思わず目を丸くする。
だが、澪はすでに驚き終わっていたので、空笑いをするだけだった。
「通学路の外れにある廃工場前を近道してたら、このカワウソさんに会ったの。で、話を聞いてみたら工具が無くて困ってるって。お兄ちゃん、この子を助けて欲しいの」
「すまん少年。迷惑をかけるが、人助けだと思って助けてくれないか?」
勇輝が固まっていると、カワウソが頼んできた。間違いなく、カワウソの口から漏れた言葉と声だ。
「お兄ちゃん。カワウソさん、困ってるみたいだし、助けてあげようよ」
「……まあ、人助けならさ」
澪の懇願するような眼差しに負けた勇輝は、渋々という感じで同意の言葉をもらした。彼の中ではカワウソなのに人というのが混乱を産んだままだったが。
しかし、その言葉にカワウソの表情がパァと明るくなる。
「ありがとう少年」
「よかったね。カワウソさん」
澪が嬉しそうに微笑むと、カワウソの顔に喜びが満ちた。
よく分からない状況だが、妹の頼みだ。勇輝は考えるよりも行動だと即座に考え至ると、車庫へと急いでいた。
◆
勇輝達は廃工場に着いた。
かつては鉄工所として稼働していたが、今は使われておらず廃墟だ。
こんな場所に何の用があるのか。
いや、そもそも何のためにカワウソがいるのかと、勇輝は考えつつも工具類を自転車に積んで辿り着いた。
正面の鉄扉は錆び付き、閉じたままで風雨に曝されている。
この廃工場は、錆や苔に覆われた様子から長年誰も立ち入っていないことがうかがい知れた。
勇輝は自転車を降りて正面の鉄扉を見る。
「ここなのか?」
勇輝は澪に訊く。
「うん。ここでカワウソさんと会ったんだよ。ね」
澪は答えながら、抱いたカワウソにも同意を求める。
「ああ。食料も尽きて途方にくれていたところを、お菓子を分けて貰ったという訳だ」
カワウソは軽い口調で説明し、続けた。
「工場には。横にある通用口から中に入れる」
カワウソの言葉に勇輝は頷くと工具類を抱えて、澪と一緒に工場の敷地内に入った。
大きな建屋があり、開け放たれた正面入口からは、埃が積った機材などが放置されているのが見える。
「あそこから中に入ってくれ」
カワウソは開いたままの正面口を指差した。
勇輝と澪は、それに従って中に入る。
差し込む光によって照らされた光景は、油や錆で汚れた壁があり、大型の装置があった。
カワウソに案内されながら2人は工場の中に入る。
勇輝と澪の歩く足音だけが廃工場内にこだました。
すると勇輝は足を止めて驚く。
それは澪も同じだ。
「え!?」
「なにコレ!?」
二人の反応を他所に、カワウソは澪の腕から地に降りると得意げにしていた。
そこに一機の航空機が存在していた。
「ふふん。言っておくが、レプリカじゃないぞ。これが、大日本帝国海軍の
カワウソは尻尾をフリフリさせながら、その航空機を眺める。
機首には巨大なプロペラが付いており、空気抵抗の少ないフォルムと軽量化を追求した。
高出力の巨大エンジンで重装甲の機体を主とした米軍機に対し、零戦は徹底した軽量化と俊敏な運動性能を追求し、格闘戦を重視した優れた運動性能は1000馬力級の「栄」エンジンの性能を極限まで引き出すに至り、一躍世界の戦闘機の頂点に立った。
大威力の20mm機関砲を各1問に加え、最前方にあるエンジンのすぐ後ろ、胴体上部に7.7mm機銃が2門設置。
初期の米国戦闘機に「ゼロとドッグファイトを行なうな」「零戦と積乱雲を見つけたら逃げろ」という指示があった程だ。
全幅12.0m、全長9.05m、全高3.53m。
最高速度500km/h、最初高度4000mを超えると墜落する可能性があると言われていた。
しかし、高度10900mを超えても飛行できたことから零戦の性能の高さが伺えた。
機体には錆など見受けられず、翼には日の丸が描かれていた。
それを見た勇輝は目をキラキラさせて、カワウソに詰め寄る。まるで、欲しかったオモチャを母親に買ってもらった子供のような姿だ。
「……す、凄い。どうして零戦が」
勇輝は、あまりの感動で言葉がしどろもどろになっていた。
無理もないだろう。自分の家に喋るカワウソが来た上に、更に零戦だ。
しかも、目の前の零戦は本物なのだから。
あまりの食い付きぶりに、カワウソは思わず得意げになる。カワウソは長い尻尾をブンブン振って、勇輝の質問に答えた。
答えようとすると自然と耳も動くので可愛い姿だ。胸を張るように身体を反らす仕草まで追加される。澪は、そんな感情表現豊かなカワウソを見てると、益々可愛らしく見えてしまった。
そんなカワウソに対して澪が訊く。
「カワウソさん。零戦って、ここに保管されていたの?」
澪の質問と、勇輝の真っ直ぐな視線に戸惑いながらもカワウソは答えた。
「保管じゃない。これは俺の愛機であり、俺はこいつのパイロットさ。飛んでいるところをエンジントラブルが発生したので着陸。ここに零戦を隠していたのさ」
カワウソは自慢気に尻尾をピンと立てる。
勇輝は零戦に近づくと創作物でしか見たことない存在を懐かしむように、零戦の機体に手を伸ばす。
触り心地に本物を実感する。
勇輝は改めて零戦を見る。
濃い緑の機体色は光に当たると光沢が加わり美しい色合いを見せていた。
機体に関しては見た目が綺麗なだけで、汚れや細かな傷はあるようだ。
しかし、機体全体に錆や破損は見えない。まるで新品のような零戦に勇輝は釘付けとなった。それからカワウソに視線を戻すと、恐る恐るといった口調で話す。
カワウソが人語を話すだけでなく、零戦の操縦までできると言うのだ。自動車の運転ができない勇輝からすれば神様にも思えた。
「飛べるの?」
カワウソは勇輝が触れている零戦を見ると、腕組みをした。
勇輝と澪は息を呑んで返事を待ち構える。
カワウソはキリッとした声で答えた。
「その為の修理だ。そこにある脚立をエンジンのある機首のところに立ててくれ、修理は俺がするから、二人は手伝ってくれ」
カワウソに促され、勇輝は脚立を立てる。
するとカワウソは脚立をスルスルと登ると、エンジンカバーを取り外して中にあるエンジンを覗き込む。
「モンキースパナを取ってくれ」
脚立の上からカワウソの呼びかけに、勇輝はモンキースパナを工具箱から取り出して、カワウソに手渡す。
受け取ったカワウソは、器用にモンキースパナでボルトやナットを外して分解する。
勇輝には分からないが、カワウソはあれこれ考えながら部品を外し、勇輝は手渡された部品を受け取り、澪がその部品を散らからないように、床に並べて整理を行う。
「このモンキースパナは便利だな。ラチェット構造になってて、スパナを外さなくてもそのままボルト・ナットを回せるんだな」
カワウソは手にしたモンキースパナに感心したように呟いた。
「お父さんが車の整備とかで最近買ったラチェット式モンキースパナだよ。抜き差しをする必要がないから連続作業が楽に出来るんだって」
澪は、カワウソの質問に答えた。
「便利だな。今度、俺も買おう」
カワウソは、うんうんと頷いた。
そのやり取りに勇輝は、どうやって買うんだ。と思いつつも、山ほどある疑問を解決するのは膨大な時間がかかりそうなので、スルーすることにした。
今は、この零戦を修理することを手伝うことだ。
勇輝はLED懐中電灯で、エンジンルームを照らして補助をする。カワウソはエンジンルームに顔を突っ込み、何やらいじりながら呟いている。
「ここから冷却水が洩れていたのか」
その言葉に勇輝は反応する。
なぜなら零戦を含めて、当時の日本の戦闘機は殆ど「空冷エンジン」を搭載していたからだ。
唯一、日本陸軍 三式戦闘機・飛燕。この飛燕こそが、実戦投入された唯一の液冷エンジンの戦闘機だ。
勇輝は、父親から零戦のプラモデルを買ってもらった時に、色々と聞いただけにカワウソの言葉に反応してしまった。
「零戦なのに液冷なの?」
勇輝の質問にカワウソは、感心して頷いて答える。
尻尾がピンと立つ。どうやら、この仕草はカワウソの癖のようだ。
「詳しいな少年。こいつは見てくれは零戦だが、中身がちょいと違うのよ。まあ、そんなことより修理が先だ。100V溶接を用意してくれ!」
カワウソは勇輝に指示を出した。
勇輝は、手早く溶接機を用意し、電源は零戦にあるサブバッテリーから取り、スイッチを入れて起動させた。
エンジンルームから溶接時に生じるスパークが出ている。
溶接作業を始めてしばらくすると、カワウソは顔を出す。
「よし。冷却水の漏れを止めたぞ。水を入れて、組み直せば修理完了だ」
カワウソはそう答えると再びエンジンルームに顔を突っ込み、何やら作業を始める。
澪が外した部品を順番に並べてくれていたお陰で、あとは外された部品を逆にして組み立てるだけだった。
勇輝は澪の手際の良さに感心しつつカワウソとテキパキと作業を進めて、あっという間に組立が完了する。
出来上がった零戦にカワウソはよじ登ると翼や胴体など、あちこちを見て呟いた。
その表情はとても誇らしげだ。
「ありがとう。少年、少女。まだ名前を言っていなかったな、俺は太郎だ」
カワウソは勇輝と澪に向き直ると、名を名乗った。
「僕は勇輝」
「私、澪」
勇輝の挨拶に、澪も答える。
カワウソ・太朗は感慨深そうに頷いて答えた。
「勇輝に澪か、いい名前だな。お陰で零戦の修理も完了したし、さっそく観光フライトと行くか」
太郎の言葉に、澪がいち早く反応する。
澪は身を乗り出すように、前のめりになって太郎に言う。一瞬、カワウソが喋ったことに驚いた表情を浮かべたものの、すぐにその顔は笑顔に変わった。
「一緒に乗せて! 飛んでみたい」
澪の表情は、まるでおもちゃを前にした子供のように期待に満ち溢れている。
そして太郎は澪の笑顔を見て嬉しそうに言った。
「ああ。もちろんだ」
その言葉に、勇輝も空を飛びたいという衝動に駆られてしまうのは自然なことだった。
澪は、まるでウサギが跳ねるように喜んでいた。
「僕も乗りたいです」
勇輝は、勇気を振り絞り太郎に頼み込んだ。
そんな勇輝のお願いに太郎は承諾する。
「いいぜ。二人まとめて、俺の後ろに乗せてやるよ」
太郎からの許可が出ると、勇輝と澪は主翼の上に登り、コックピットを覗き込んだ。
計器の類は分からなかったが、カワウソの太郎に合わせて作られた座席に革張りの操縦席は、とても綺麗に感じた。
「零戦は偵察機に改造されたものは複座になっているって聞いたけど、これは複座なんだ」
勇輝が座席を眺めていると、澪がせかす。
「お兄ちゃん、早く乗ろうよ」
勇輝は頷く。
太郎も主翼に登ると、風防ロック孔のラッチ(止め金)を引いて風防をスライドさせて座席に身体を滑り込ませた。
「そっちは、座席兼。荷物置き場だ。座席は一人しか座れないから、澪を乗せてやれ。勇輝は手狭だが隙間に座って予備の安全ベルトを俺がしてやろう。まあ、二人共子供だからそんなに狭くは 感じんだろう」
太朗は二人を座らせ安全ベルトを装着する。それから彼は飛行眼鏡を装着し、飛び立つ準備を始める。
電源スイッチを入れ、操縦桿を動かし尾翼にある
エンジンを始動させると金属プロペラが回り出し、エンジンルームに音が響く。
高度計や油圧系統も問題がないのを確認するとスロットルを開いてエンジン出力を上げていく。
左右主脚の油圧式ブレーキを解除すると、零戦はゆっくりと前進し始めた。
工場建屋から零戦は進み出ると日差しが操縦席に差し込み、太郎は思わず前脚で光を遮る。
「良い空だぜ」
太郎は呟くと、勇輝が質問する。
「滑走路もないのに、どうやって飛ぶつもりなの?」
勇輝の質問に太郎は当然とばかりに答える。
カワウソの表情や尻尾から、それが自身に満ち溢れたものだということが何となく分かるのが不思議だ。
「滑走路? そんなものはこいつには必要ない」
太郎の言葉を理解する前に、勇輝と澪はまるでエレベーターを乗った時に感じる浮遊感を覚える。
「お兄ちゃん。浮いているよ」
澪の言葉に勇輝は、風防から周囲の景色を見ると鉄工所の屋根が真横に並び、それが下へと下がっていった。
「垂直離着陸機!? これって零戦だよね?」
勇輝は太郎に問いかける。
すると太郎は、さも当たり前のように答える。
「ああ。見た目はな」
太郎は前輪を翼内に収納し、零戦は上昇をすると共に上昇角度を上げる。
勇輝は風防から外を見ると、工場建屋が小さくなっていくのが分かった。
「凄い。飛んでるよ」
「まだ。高度500mくらいだけどな」
太郎は、高度計を見ながら答える。今、まさに零戦が大空を舞おうとしているのだ。
眼下の景色に澪が歓喜の声を上げる。
建物などの地上物がまるでジオラマのようだったがミニチュアではなくリアルに存在していたからだ。
勇輝と澪は下を見ると住み慣れた町が小さく映る。
それを見た澪は風防に張り付いて嬉しそうにはしゃぐ。零戦の機首は、空へ向かって突き進み始めると、澪は慣性の法則で身体が座席に押し付けられる。
零戦は10度の角度で上昇をしつつ、徐々に速度を上げていく。
「今更だけど。零戦が飛んでいたらみんなビックリするんじゃ?」
勇輝が心配する。
「問題ない。フィラデルフィア計画で開発された異次元位相変換装置で機体を異次元に変換して不可視状態になるだけでなく、光学センサーやレーダーで機体を補足することすらできないさ」
太郎は自慢気に説明するが、勇輝は理解できないでいた。
しかし、眼下に広がる町の人々を見る限り、太郎の話を聞くとそれが事実であることは理解出来た。
太郎と零戦の修理をしている時に気づいたが、そう言えばこの零戦には排気口すら無かった。見た目こそ零戦だが、現代で言えば垂直離着陸も可能のステルス戦闘機なのだ。
「太郎は、どうして日本語が喋れるの? どうしてこれだけのハイテク零戦を持っているの?」
勇輝の問に太郎は鼻で笑って訊く。
「勇輝は、どうして日本語が使える? あの家に住んでるんだ?」
太郎からの返事に、勇輝は当たり前過ぎて口ごもってしまう。
「それと同じだ。俺は物心ついた時から、日本語が喋れるし、この零戦がそこにあって乗り方も知っていた。神や悪魔が、天界・魔界という異次元に住み、奇跡を起こし魔力を使うことが不思議か? なら俺は飛行機を飛ばすカワウソってことだ」
太郎はそう言って、高度を更に上げる。
勇輝は眼下に広がる町並みを見て、思わず息を呑んだ。
今まで見たことのない景色に感動を覚えたのだ。
自分が生活してきた町が、こんなに綺麗だと思えたことがなかったからだ。それと共に、それを体感させてくれる太郎の操縦技術に感動する。
初めて乗った戦闘機で、あっという間にこれだけの高さまで上昇して、安定飛行している。
風防から下を覗くと町が小さく見え、景色を楽しむ余裕すらある。
「じゃあ、どうしてカワウソが空を飛ぶの?」
澪は太郎に問いかけた。
「飛ばねぇカワウソは、ただのカワウソだ」
太郎は、澪の問に答えた。
勇輝と澪は、質問に答えて貰ったのに、ますます分からないと思った。
「……お兄ちゃん、金曜のアニメ映画で、似たようなセリフを聞いたことがあるんだけど。どういう意味なんだろう?」
澪は勇輝に訊く。
確かにアニメ映画の中で、主人公がそんなことを言っていた気がする。
だが、太郎の言いたいことが分かってくるような気がしてくる。
何の因果か太郎は零戦に乗る技術と、彼の為に作られた零戦がある。
できるのにやらない。
したいのにしないのは矛盾であり、無情である。
飛ぶための力があるなら、迷わず飛ぶしか無い。
そういうことなのだろう。
「……自分ができることを最大限活かして行う。そして、やりたいことはやる。僕も澪も、《力》があるなら。それでできることがあるのなら、
勇輝は、自分の胸の中にある想いを口にする。
その言葉に澪も力強く頷く。
太郎はそんな勇輝と澪に問いかける。
「それで、二人共。空を飛んだ感想はどうだ?」
太郎は前を向きながら問いかける。
勇輝と澪は顔を見合わせて頷いた。
そして、お互いに手を差し出して強く握る。心のどこかに感じていたモヤモヤが晴れるような気がしたのだ。
二人は太郎の問いに答える為に大きな声で返事をした。
「最高!」
と勇輝。
「太郎。私、雲の上まで行きたい!」
澪の言葉に太郎は驚いて思わず叫んだ。
その声は機体のエンジン音でかき消されるが、機体の上昇角度がそれに応えていた。
雲ができる空の高さは高い方から、上層(5000~1万3000m)、中層(2000〜7000m)、下層(地表~2000m)と3つに分類できる。
太郎は今の空には下層にある「層雲」しかないことを確認していた。
高度4000mを飛行できる零戦には、造作もない高度だ。
勇輝と澪が興奮する中、しばらくすると手を伸ばせば届きそうな距離に雲が近づいてくる。
「雲に入るぞ」
太郎が、二人に呼びかけ覚悟を決めさせる。
零戦は雲に突入すると周囲が白いのに光が遮られて暗くなるが、視界がどんどん明るくなっていく。
零戦は雲を突き抜けた。
突然に夜明けを迎えたかのように、鮮やかな青い世界が天空に広がる。
勇輝と澪は、風防から広がる景色を見た。
上空には光り輝く太陽。
眼下に広がる雲海はどこまでも白く、雲の切れ間からは勇輝がいた町並みが見える。
雲の海の風景は、まるで柔らかな綿のようであり、太陽の光が雲の上を照らし、その反射で雲が銀色に輝いて見えた。
二人は感動の余り言葉が出なかった。
勇輝は、自身の中に新たな想いが芽生えるのを感じた。それは澪も同じだと分かった。
兄妹だからだと二人は思った。
二人に共通して生まれた感情は、この零戦でどこまでも飛んで行きたいという気持ちだ。
太郎は、なぜ空を飛ぶのだろう。
その意味は言葉じゃなく、想いが生み出すものだと理解したからだ。
フライトを終えた零戦は、廃工場へと着陸した。
勇輝と澪は、零戦から降りた。
「ありがとう太郎」
勇輝は、太郎にお礼を言った。
「それは、こっちのセリフだ。お陰で、こいつと共にまた空を飛ぶことができるようになったからな。俺は行くよ」
太郎は勇輝と澪と握手をすると、零戦に再び乗り込む。
「ねえ。どこに行くの?」
澪は訊いた。
すると太郎はヒゲを立てて微笑した。
「俺はニホンカワウソだ。きっと、どこかに俺の仲間が居るハズだ」
太郎はそう言うと零戦を始動させて、離陸していく。
勇輝と澪は、太郎の零戦が飛び立つのを見送る。
零戦は夕焼けの空に向かって上昇していった。
その姿は、勇輝にはまるで飛び去る鳥に見えた。自由に飛び立ち、そして未来に向かって突き進む零戦が眩しく見えた。
「凄い体験ができた一日だったね」
澪が言う。
「うん。零戦に乗るカワウソか。言っても信じて貰えないけど、太郎って何者だったんだろう」
勇輝は改めて太郎にまつわる謎を口にした。
すると澪が口にする。
「お兄ちゃん達が、零戦を直してる時にスマホで調べたんだけど、太郎って、SCP-1129-JPかも」
と。
【SCP-1129-JP 空飛ぶアヒージョ】
アヒージョと名乗る、カタルーニャ語(スペインの言葉の一つ)を使うカワウソで、小型飛行機を操縦することができる。
全長40cm、体重4kg、生後3年ほどの個体であると推定されるが、その知能は人間の10代後半程度まで発達しており、キーボードのタイピングなどを用いて人間と意思の疎通が可能。
SCP-1129-JP-1はSCP-1129-JPが機体を操縦するための異常な改造が施された航空機となる。
特筆すべき点として、20もの未知の機関が増設されているほか、動力にガソリンを必要とするにもかかわらず、排気機構が存在せず、また給油機構に隣接して真水(H2O)の注入口が存在している。
また、コックピット内にはスプリンクラーが設置されており、操縦者であるSCP-1129-JPが操作することにより内部に水を散布し、水浴びが可能な構造になっており、このためコックピット内は徹底した防水加工が施されている。
アヒージョによるとスペインの牧場でトンガラシ翁という老人に言葉や飛行機の操縦を教わったという。
澪の説明に勇輝は思わず訊いた。
「つまりスペインならぬ日本版のSCP-1129-JPが太郎なのか?」
澪は頷く。
数日後、勇輝が自宅のタブレットでオカルト系動画を見ていると、《零戦にカワウソが乗っていた!》という見出しのショート動画を視聴した。
例の装置を起動し忘れたところだったのだろう。
コメント欄には、フェイクだのラジコンだのという書き込みが目立ったが、勇輝はそれが本当のことであることを知っていた。
ふと、自宅から見える空を見上げる。
太郎は元気に今も、あの空を零戦と共に旅をしているのだろうと勇輝は思った。
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