身体(からだ)

ぐるぐる

第1話食パン男

十九時二十三分、横浜市中区伊勢佐木長者町のとあるホテルの一室に向かうある女性がいた。その女性は普段は大学へ通う生徒であり一人暮らしなために生活は厳しく夜はデリバリーヘルスをしていた。

彼氏はできず、家族にも頼れない。なぜなら母は鬱病で精神の波が激しく、落ち込んでいる時には現実と妄想のシナリオに変に辻褄が合って被害妄想が悪化し、我が娘に包丁を突き立てる始末。父は失業中で論外。

親と縁を切りたくて将来の自立のため大学にまで入ったのに、今や毎日のように携帯が鳴ってメールと電話の嵐。実家にいた時よりも親と子の会話の回数が増えたようだった。連絡先を削除するか着信拒否をすれば話は早かったのだけど、そうするわけにもいかなかった。いや、そうしないと身の危険を感じたからだ。連絡を途絶えたと知ると向こうはこっちの住所を突き止めてわざわざ訪問しにくることは目に見えていた。

一応だが毎月二万円ほど実家に送ることにしている。これは癇癪持ちの父に対するご挨拶。適切な、物理的な距離感を保つための二万円。

二万という金額はかなり痛手で自給自足する上に大学での勉強に頭を使って、親との連絡に精神力を使い、そしてバイトとなると体力を使うことになる。そんな身を削っていく生活には耐えられず一年前にデリヘルを始めた。

バイト時代よりもお金と時間をとれるようになったため心にも余裕ができた。


今日も仕事が入り、いつも通り適度な緊張感を抱いて指定されたホテルまで向かった。

馬車道から真っ直ぐ突き進んで信号を二つ三つ渡り歩いた頃に伊勢佐木通りの看板が見えてきた。ここへきたのは数年ぶり。以前は友人たちとボウリングをしに遊びにきたのだが汚い街だな、と感想を抱いていたのだが、いま再びここに来てみても感想は変わらなかった。ビルの五階にあるボウリング場へ向かう際に使用したエレベーター内に女性のパンツと使用済みのコンドームが落ちているのに気付いて大爆笑したのを思い出した。神奈川県屈指の繁華街とあってか辺りには様々な人間模様が垣間見れて、特に一人で見えない何かと会話している、時に大声をあげて感情をあらわにしている高齢者などをみた時には変に心が穏やかになった。

感情に浸りながら歩を進めていくうちに目的地に着いた。

ビルを見上げ、入っていく。言われた部屋番号を目指して、お客様がお待ちになっている時間を少しでも縮められるように足早にエレベーターへと駆け込み、「すみません、四階へお願いします」とエレベーター待ちをしている時に左隣にいた男性にお願いをして、「ありがとうございます」と降りる時に目は合わせずとも会釈と合わせて礼をしてすぐに携帯を確認し、「504号室」口に出して確認を取った後深呼吸をして仕事モードに切り替えてこれも足早に歩を進めていくと案外近くにあって部屋前に立ち、携帯を取り出して部屋番号の最終確認を行った。

「コンッコンッ」二回ノックをして「あさみです」と告げてみても応答がなかった。困惑気味に下を見るとドアがほんの少しだけ開いていることに気付いた。なぜかドアの隙間に爪楊枝が二本挟まっていた。これは入っていいってことなのか?と答えが見つからなかったためにまたノックを二回することにした。応答がないため一度ドアに耳を傾けて「あさみです、入りますよ、」断りを入れてから部屋の中を覗いてみた。ある程度ドアを開いたところで止まってしまった。

部屋の床一面に食パンが一枚一枚きれいに並べられていた。奥にある窓の下では男性がうずくまっていた。顔は下を向いていて表情が見えなかった。どうやら身体が小刻みに震えているようだ。全裸状態で食パン数枚に白い液体が飛び散っていた。

これがいま目に入ってきた情報。意味がわからなかった。訳がわからなかった。頭の整理が追いつかなかった。目の前の光景を現実として受け止める事ができなかった。

「あの、すみません、池田静馬さんでしょうか?」

「みんなに見られちゃうからドア、閉めて」

言われる通りにしないと何かされると身に危険を感じた。今いる空間はすでに支配されている気持ちになってこれからどうなるのか予想もつかないことに強いストレスを感じていることを額を走る一滴の汗が現していた。

言葉を発せないまま恐る恐る指示に従って入室した。池田静馬は黙ったまま。

恐怖しているせいか流れる時間が物凄く遅い気がした。お互い黙ったまま、こちらからは喋りかけてはいけない空気に翻弄されて何をしていいかわからず立ち尽くすしかなかった。


三分程経過したが何も進展はなかった。ほんの少しだけどこの空気に慣れてきてさっきよりは心臓の鼓動のテンポも遅くなり、状況確認するくらいの余裕は出てきたようだ。

少し歩み寄ってみようと思ったが、果たして床に敷いてある食パンを踏んでも良いのだろうか。

池田静馬はまだ下を向いておりこちらを見ようともせずいまだに身体が小刻みに震えている。

恐る恐る一歩踏み出した。床に隙間がなかったため食パンに乗っかることにした。仕事用に履いていたヒールが食パンを貫いていく感触が徐々に伝わった。


池田静馬は泣いていた。顔を上げ、こちらを見ていた。哀れむような眼差しを向けていた。


食パンを一枚一枚踏んでいく度に池田静馬が痙攣しているように見えた。錯覚などでは無く、さっきよりも小刻みに、感じているように見えた。

これから先に進むのが怖い。だからといってドアまで引き返していく度胸を持ち合わせてもいなかった。自分の無力さに絶望した。何もできない。池田静馬になにをされたわけでもないのに相手が怖かった。精神的圧力をかけられたわけでもない。ただただ怖い。頭が働かない。時間の流れがやたらと遅い。

池田静馬が立ち上がった。ニヤニヤしてこちらに近づいてきた。

私は腰が抜けた。

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