第三章【だから、そうして】


「起きろ」

 静かに頬を叩かれた。

「う……」

 蜜木が呻くと「意識はあるな?」と問われた。

「あ、ある」

 蜜木はうわ言のような返事をした。

 それからほどなく、唇に柔いものが触れた。そして口の中に、液体が流れ込んできた。

「ぐッ……」

 苦味のあるその液体を飲み込んでしまうと、自分がひどく乾いていたことに気付かされた。それが喉元を過ぎていくと、全身が息を吹き返していくような心地にさえなった。

 うっすらと目を開けると、先ほどの少女の顔が目の前にあった。口移しで、薬か何かを飲ませてくれたらしい。

「大丈夫か?」

 少女は蜜木が意識を失う前と、同じ問いを投げた。

 そう問う彼女はやはり美しく、蜜木はその顔に再び見惚れた。そうしている蜜木を、彼女は不思議そうに見つめ返すばかりであった。

「だ、大丈夫だ。ありがとう」

 蜜木はようやく声を出した。

「俺の名は、みつ赤坂あかさか蜜木」

「私の名は、よいだ」

「ここは、槐山さいかちやまだよな?」

 蜜木は確認するように、宵に問うた。

「そうだ。ここは槐山にある、私の家だ」

 その回答で、ようやく自分の状況が飲み込めた。

「さっきもいった気がするが、この山は危険だ。一時的にでも、ここから逃げた方がいい」

 そういった後で、今の状況では自分自身は一歩も動けそうにないと思った。

「私には、妖怪の血が流れている。心配してもらう必要はない」

 宵はいった。

 人間と妖怪との間に子どもが生まれることは、それほどめずらしいことではない。そのため蜜木は、宵の言葉に特に驚きはなかった。

「それは、君を、心配をしない理由にはならない」

 蜜木ははっきりといった。

「私のことより、今は自分の心配をした方がいい。包帯を交換しよう」

 蜜木の心配は、いまいち宵には伝わっていないようだった。

 蜜木は宵に言われるまま、上半身を起こして治療をほどこしてもらった。


「左腕の傷は深いが、後遺症も傷痕も残らないと思う。発熱は、毒のせいだな」

 宵は実に手際よく、蜜木の包帯を交換してくれた。

 蜜木を襲った害妖たちは、人間に外傷を与えるだけでなく、毒もある類だったらしい。改めて自分は危険な状態だったことを思い知る。もし宵に出会わなければ、失血死していてもおかしくなかったかも知れない。

「俺は十九だが、宵は見たところ十代半ばだろ。しっかりしてるな」

「十六だ。もうすぐ十七になる。私は一応、生薬屋だ。傷の手当ても、少しはできる」

 この家に、宵以外の者がいる気配はない。

 質問したいことも、考えるべきことも、たくさんあるはずだった。しかし何かを深く思考できるほど、蜜木は回復してはいなかった。

「先ほど飲ませたのは解毒薬だが、これも飲むといい」

 宵は丸盆に置いてあった薬包を蜜木に渡した。

 つまり口移しで飲ませてくれたものは、解毒薬だったらしい。

「それは痛み止めだ。これを飲んだら、また眠った方がいい。私も、もう眠る」

「本当に、ありがとう。助かった」

 蜜木はいわれるままに、その薬を口にした。

 蜜木が薬を飲んだことを確認すると、宵は丸盆を持って部屋を出ていった。


 宵が部屋を去ってしまうと、蜜木は再び気を失うように眠りについた。

 どれほど時間が経ったのかは分からない。蜜木が眠りの中にいると、もぞりと布団が開かれ、冷たい空気が入ってきた。

「え?」

 目を開けると、蜜木の眠っている布団に入ろうとする宵の姿があった。驚く蜜木をよそに、宵はためらいなく布団へともぐり込んできた。

「なんだ?」

 蜜木は少なからず動揺した。しかし宵はそんな蜜木を無視して、眠る体勢になった。

「布団がこれしかない。夜はまだまだ冷えるし、床で眠りたくはない」

 四月といえど、山の夜は冷える。布団がこれしかないなら、自分が出ていくべきなのだろう。しかし今は、そんな余裕もないほどに消耗している。申し訳ないとは思いつつも、蜜木はこの状況を甘んじて受け入れることにした。

「なんというか、色々ありがとう。このお礼は、後日必ず……」

「いらない」

 宵は蜜木の言葉を遮るようにして、はっきりといった。

「朝が来たら、一緒に山を下りないか。一時的に、この山を離れるだけだ。宵の寝場所なら、俺が手配する」

 蜜木はできるだけ優しい声でいった。

「お前はまだ動かない方がいいし、私は山を下りない」

 宵は先ほどと同じく、きっぱりとした口調でいった。

 宵には宵の事情がある。頭では理解しているつもりでも、宵には一刻も早くこの山から離れて欲しかった。

 自分には民間人を守る使命があるとか、命の恩人だからとか、そういう理屈ももちろんある。しかしそれは建前で、蜜木はただ目の前にいる宵には、安全な場所にいて欲しかった。そう思ってしまう自分の真意から目を逸らすように、蜜木は思考を切り替えた。

「そういえば俺の持ち物は全部、どこかに落としたな」

 害妖と対峙している時に、蜜木は自分の持ち物も、羽織りも、すべてどこかへ落としてしまっていた。しかしどこに落としたのかさえ、まるで記憶がなかった。

「お前の持ち物と思われるものなら、すべて回収済みだ」

 宵はなんでもないことのようにいった。

「それは助かる。仲間と連絡を取りたいんだ。この山の異変と、俺がここにいることを知らせたい」

 そういった後で、この失態を報告するのかと思うと情けなくなった。宿屋で待機していろといわれたが、それを守らずこのざまである。

「仲間と連絡を取ってはダメだ。だから、荷物は返さない」

 宵はうとうとし始めているようだったが、その言葉にははっきりとした意志が感じられた。

「あ、えっと。そうなのか」

 蜜木はその意味が飲み込めないまま、適当な受け答えをした。

 なにをどう考えるべきなのか、頭がまるで働かなかった。しかしそんな蜜木を気に留めた様子もなく、宵は再び口を開いた。

「お前は、私の婿むこになってもらう。そして、死んでもらう」

「え?」

「そうしてくれると助かる。だから、そうしてくれ」

「えぇ……」

 予想外の言葉に、蜜木はひどく間抜けな声を出した。












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