第二章【河童の】


 入山する際に、蜜木は自分の存在が朧げになる術をかけた。

 本来は山に入る際に、こんなことはしない。人間が山に入ってきたことを、妖怪だけでなく他の獣たちにも知ってもらうためである。人間がいると分かれば、逃げていく妖怪や獣がそれなりに多い。

 しかし今回は山の調査を最優先として、妖怪に対してできる対策はすべて講じることにした。それは前回で得た、貴重な教訓である。

 そして今回は溜家と歩いた道ではなく、人も獣もあまり通らないような道を選んで歩いた。蜜木の思惑が功を奏したのか、無意味に襲ってくる妖怪はいなかった。

 それでも蜜木はできるだけ早足で、山の中を歩いた。

 自分にかけた術の効力は、日によって差はあれど半日程度だからである。


 病み上がりのせいか、一時間もすると蜜木の息は上がってきた。

 蜜木が渓流の大きな石の上で一息ついていると、目の前をプカプカと小さな河童が流れてきた。

 その河童は川に流されたまま、じっとこちらを見つめた。そして蜜木に、小さく手を振った。

「ん?」

 不思議に思いながらも、蜜木は小さな河童に手を振り返した。

 おそらく子河童なのだろう。蜜木が手を振り返してもなお、子河童はこちらに手を振り続けた。その様子を見て、もしかしたら子河童は溺れているのではないかと思った。

「え、大丈夫か!」

 蜜木はそういいながら、ざぶざぶと渓流へ入っていった。

 四月末とはいえ、渓流の水はひどく冷たかった。たまたま浅瀬だったこともあり、蜜木はそれほど苦労せずに子河童を助けることができた。

「さ、寒い……お前は、大丈夫か?」

 膝下が水に浸かっただけで、蜜木の震えはなかなか止まらなかった。それに反して子河童は、無表情のまま「大丈夫」と答えた。

「君は、この辺の河童か?」

 蜜木は手拭いで足を拭きながら聞いた。

「この辺じゃない」

 子河童は、山の上の方を指した。

「もっと上の方に住んでるのか。しかし河童の川流れとは、めずらしいものを見た。これも凶兆かね」

 子河童は蜜木の言葉の意味がわからなかったらしく、首をかしげた。

 妖怪にも人語が得意である個体と、そうでない個体が存在する。目の前の子河童は、おそらく中間といったところだろう。もしくはまだ幼体なので、反応が鈍いだけなのかも知れない。

「わからない。でも、こわかった」

 子河童はいった。

 河童は水中でも息ができる。しかし思うように動けなかったのなら、怖かっただろう。

「そうか。助けられてよかった。お腹は空いてないか?」

 蜜木が握り飯を差し出してみても、それを見つめるばかりで受け取ろうとはしなかった。

「キュウリの方がいいか? 漬け物だが、いけるか?」

 蜜木はキュウリを差し出した。子河童は迷うことなくそれを受け取り、しゃくしゃくと口にした。

「山の上のほうは、よくない」

 子河童はいった。

「よくない、か。なにか原因があるのか? 原因があれば教えて欲しい。俺はその原因を探ってるんだ」

 子河童は蜜木の言葉を正確に理解したらしく、力強くうなずいた。

 そして「ピェー」と、大きくひと鳴きした。

 予想外の出来事だったので、蜜木は思わず「うわ」と声を出した。

「どうした? びっくりしたな」

 蜜木がいっても、子河童はしゃくしゃくとキュウリを食べるばかりであった。しかしほどなく、蜜木たちの周りにはぷかぷかと河童たちが顔を出し始めた。先ほどの鳴き声は、仲間を呼んだ声だったのだろう。溺れていた時には声も出せなかったのだろうと思うと、助けてよかったと心から思った。

 子河童は蜜木にはわからない言語で、水辺に顔を出だしている仲間たちに何かを話した。

子河童の話が終わると、河童たちはそれぞれに口を開いた。

「永く生きた妖狐が、もうすぐ死ぬ」

「三百年生きた妖狐だ」

「尻尾が三つある」

 河童たちは、流暢な人語を操るようだった。

 蜜木は、河童たちの話を聞く体勢になった。

「三百年生きた妖狐か」

 それは大妖怪といっても過言ではない個体である。

「妖狐の名は、夜風よるかぜ

 夜風。

 聞いたことのない名前であったが、溜家や他の上官なら知っているだろうか。

「死に際にいる夜風が、ひどい毒気を放っている」

「その毒気に当てられて、一部の妖怪に異変が起きている」

 河童たちは次々にいった。

「この子が溺れていたのもそのせいか?」

 蜜木はいった。

「子どもは、影響を受けやすい」

「臆病になる妖怪もいる」

「警戒心が強くなる妖怪もいる」

「凶暴になる妖怪もいる」

 夜風の毒気に当てられた妖怪たちが通常でない状態になるならば、先日の出来事にも納得がいくように思った。

「ありがとう。すごく参考になったよ。しかし、死に際に毒気を放つ妖狐か。初めて聞いたな。そういう妖怪も、少なからず存在するのか?」

 蜜木は河童たちに聞いた。

「夜風は、呪われている」

「食ってはいけない、人間を食った。そう聞いた」

 食ってはいけない人間。そんな人間など存在するのだろうか。

「その夜風という妖狐は、どの辺を住処すみかにしているのかわかるか? 知っているなら、教えて欲しい」

 蜜木は持ってきていた山の地図を広げた。

「ここ。ここの洞窟に、いる」

 助けた子河童はそういうと、蜜木の広げた地図にびちゃりと手を置いた。

「ここか、ありがとう!」

 蜜木がお礼をいうと、子河童は「うん」と短くいった。そして子河童も「ありがとう」と蜜木に礼をいって、仲間のいる渓流の中へと入っていった。水に対する恐怖心は芽生えていないようなので、蜜木は内心ほっとした。

「この山は危険」

「なるべく早く、ここから離れた方がいい」

 子河童を迎え入れた河童たちはいった。

「そんなにひどい毒気なのか?」

 蜜木はいった。

「だんだん、ひどくなってる」

「数日のうちに、夜風は死ぬ」

「夜風が死んだら、今よりよくないことが起こる」

 それは、予言のようだった。

「わかった。色々教えてくれてありがとう」

 それから蜜木は、河童たちと手を振り合って別れた。



 死に際にいる妖狐。夜風。

 それが毒気を放っており、槐山にいる妖怪たちに異変が起きている。さらには夜風が死んだのちには、もっとよくないことが起こる。

その夜風の居場所は、子河童が教えてくれた。

 これだけでも、充分な成果といえる。

 しかし蜜木は、もう少しその洞窟の周辺を調査しておきたいと思った。

 先日のように害妖が襲ってくる気配もないので、それが蜜木を慢心させた。


 注意深く足を進めているはずだったが、気づくと周囲の空気がしんと冷たくなっていた。そろそろ引き返した方がいい。そう判断し、来た道を引き返そうと振り返った時、蜜木は理解した。周囲の空気が冷たくなったのではなく、悪寒が走ったのだと理解した。

 目の前には、こちらを睨む野干やかんの害妖たちが無数にいた。

 蜜木は両人差し指の第一関節をマッチのように擦り、瞬時に抜刀した。そして襲いかかってくる害妖らに応戦した。蜜木に襲いかかってくるそれらは、最近槐山で急激に増えたといわれている害妖であることを、蜜木は頭の隅で思い出していた。

 蜜木はできるだけ洞窟から離れるようにして、それらを斬っていった。しかし蜜木一人で相手にするには、その数は多すぎた。

 このまま戦い続ければ、自分の体力はほどなく尽きるだろう。しかし攻撃に徹すれば、この場を切り抜けることはできるかも知れない。蜜木はそう判断し、防御を一切せずに攻撃に徹する覚悟をした。


 最後の害妖を斬った後でも、蜜木はどうにか自分の力で立っていた。

 しかし深く呼吸をすれども、充分にそれが体内に巡っていく感覚はなかった。蜜木は朦朧としながら、本能的に大きな木に身を寄せた。そして、崩れるようにその場に座り込んだ。

 血を流しすぎた。止血をしなければならない。そうは思えど、体が上手く動かなかった。

 意識が薄らいでいく中で、何者かが近づいて来るのが感じられた。

 咄嗟に立ち上がろうとしたが、それはできなかった。視線を上げた瞬間、心臓が一拍跳ねるほどに、その姿に魅入られた。

 ひどく美しい少女が、そこにはいた。

「天女か、なにかの、類かね」

 蜜木のその声は、おそらく音にさえならなかった。

「大丈夫か?」

 彼女は血だらけの蜜木の姿をみても、驚いたり哀れんだりすることなく冷静な声でいった。

「大丈夫だ。それより、ここは、危険だ。逃げろ」

 どうにか声を絞り出した後、蜜木の意識はふっつりと途絶えた。











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