「ちょっと何言ってるかわかんない」

 とにかく、半崎家を闇に落とした事件が起きた頃には夫は既に社会人一年生であり、実父母とは絶縁に近い状態だったから詳しくは知らなかったようだ。

 私は父母や地元の友人から話を聞き、涙を流した。女性としてあまりにも酷い話で、動機もあまりにもレベルが低すぎて二の句も継げなかった。

 だがさっきも言ったように私が行っても拒否されるような状態だったから何ができる訳でもなく、夫にその事を愚痴るのが精一杯だった。



「……まったく、どうしてそんな……」

 夫はひどく落ち込み、コップに入っていた水をがぶ飲みした。そしてため息を吐くと私を首を縦に振って見つめ、またため息を吐いた。

「大丈夫、譲さんはそんな事なんかしないから」

「政美……」

「私が教師になったら、籍を入れましょう。挙式はそんな盛大じゃなくてもいいから」

 皮肉な事に、この一件を機に私たちは余計に親密になった。最低な男と女を知らされて必死にそうなるまいとしている夫と、それを十年以上支えて来た私にとって結婚は全く自然な流れであり、それをやめる理由などどこにもなかっただけの話だ。雨降って地固まるとか言うけど、その雨が固めるのは何も雨が降った場所だけではなくても別にいいではないか。


「そんな事件があったなんて知ってましたけど知りませんでしたよ」

 被害者保護のために被害者の氏名などは報道されないが、それでも噂の噂とか言う形で事件のほどは広まり、浅野さん夫婦の耳にも入っていた。半崎家の事はもちろん知らないし、私たち夫婦の関係者であった事も知らなかった浅野さん夫婦からしてみれば、当然ながら嘆かわしい事件だった。

「我々に何ができるんでしょうか」

「やはりメタルミューじゃないですか」

「実際お買い上げ下さったとか関さんから聞いたんですけど」

 あかりの父親の会社は関さんの会社とも提携はあり、そこから半崎家の事情も私に入って来ていた。夫の自慢の商品であるメタルミューの力を借りてあかりさんを立ち直らせようとしているのはありがたい限りであるが、発売初日からだとしたらもう数年は経っている。それでいい話を聞かない以上、懐疑的にもなって来る。

 あかりさんの父親がコネであかりさんを会社に押し込んで「会社員」にさせて社会生活を全うさせる気でいるとか言う話も前に聞いたが、それにどれだけメタルミューが貢献できるか、面白くもあるが不安でもある。メタルミューが老人ホームにも増えているようにアニマルセラピーの役目もできない訳ではないはずだが、あかりさんの場合は訳が違う。


「でも懲役十五年でしょ、それこそもうそろそろ出てくる頃じゃないですか、マジでやですよねそれって」


 そしてある意味最大限の問題はそれだった。


 懲役と言うのは無期懲役でなければいずれは出て来ると言う意味であり、不謹慎ながら犯行当時二十一歳の二人ではそのまま刑務所で死ぬと言う話も期待できなかった。それこそあかりさんと同じく十五年も世間から隔離されていたような存在であり、それこそ何を楽しみに今後を生きて行けばいいのかわからないとなっていても驚かない。

 それこそ再犯からの刑務所戻りか、あるいは最悪のパターンだってあり得る。


 いや、世間から隔離されるのは、何も犯罪に関わった人間だけでもない。




「ちょっと何言ってるかわかんないんだが……」




 夫は社会人になって早々、いや高専生になって寮生活になってからも幾度もそう聞き返していた。別に仕事の事や勉強の事ではない。


「俺は平田さんより七つ下なんで少しジェネレーションギャップもあるかと思ったんですけどね、俺の触れて来たそれが通じないのはともかく同い年の人のそれが通じてないのには参りましたね。まあ、これでもそれなりに鍛え上げられたんでしょうね、祐介君からも」


 夫には話のネタがない。

 それこそ、そのネタになりそうな物を徹底的に排除されて来た。私がかろうじて点滴を注ぎ込んでいるような状態で中学時代を乗り切ったが、高専生になって私との連絡が細くなると夫は一気に孤立化した。藤木君の親ってヤバいよねとか言う話になり、夫に好き嫌いがない事から「文句を言うならばご飯は作らない」「農家や漁師の皆さんを憎んでいるのか」とか言って無理矢理に食事を食わせたとか言う話まで持ち上がっており、夫はともかく夫の両親の学内での評判はかなり悪かった。それは義父の会社の評判にもつながったが、不幸中の幸いにと言うべきか工業高専と食品会社に結びつきはなかった。


 そして不幸中の不幸と言うべきにか、その下衆の勘繰りは下衆の勘繰りではないと私は確信していた。

 それこそ二十歳になるまでまともに運動もできないのに自分のゲーム機すら持っていないような人間がどうやって他人様との会話に入り込んでいたかなど、推して知るべしでありかつ想像を絶する。高尚なお勉強のお話ばかり聞きたいような崇高な中高生などいったい何人いるのか。偏差値が70だろうと80だろうと誰も彼もが国会議員や官僚、大企業の幹部候補生になる訳でもないのに。東大生なんてそれこそ奇人変人の集まりだなんてのは常識のはずだ。


(にしても、本当に世間知らずでね。私がそれこそ世の中の流行り廃りを必死に教えていた状態で。まあ嫌じゃなかったけどね)


 あの二人、取り分け義母からしてみれば安心して自分の本領である仕事に張り付く事ができるようになるまでに夫を怠け者に育てたくなかっただけだろう。

 もし息子の成績がまともならばそれこそ小学校に入るぐらいには職場復帰し、子育てと言う名の空白期間を埋めるべく労働に勤しみお金をかき集め、穏やかな老後を楽しみたかったはずだ。

 夫が高等専門学校に入りたいと言った際もそこを出れば就職は安泰だろうと私が夫を秘かに口説いたからであり、そうでなければ首を縦に振った保証はない。


「世間の子どもはみんな譲をなめてるのよ。こんなもんがあっても譲に勝てるって」


 そんな事をニュースを見ながら私に向かって言った時には、目を合わせるのがやっとだった。実はそこには私が教えていた漫画の映画が放映されて大ヒットしたと言うニュースが流れており、その人気を危惧した彼女からしてみればこれも息子を怠惰へと導く大敵だったのだろう。


「あの子はね、もっともっと大きくなれる。政美ちゃん、あなたがいるから。遊びたければ遊ぶ暇ができてからでいいの。周囲の人間がのんべんだらりとうつつを抜かしている間こそあの子には前に進んでもらう。これまで相当にぐうたらして出遅れたからね、何とかして追いつかせないと」


 あまりにも奇麗な笑顔だった。


 自分がシマウマかヤギだと思い込んでいる、オオカミの笑顔。


 騙す気などない、無自覚なオオカミだった。

 

「ねえ政美ちゃん。人間少しでも怠けていると、たちまちご飯が食べられなくなるの。これが本当の飢えるカムってね」



 そしてそのオオカミの口から吐き出されたダジャレは、夫にとって唯一の砕けた会話のキーワードだった。



 それしかギャグを知らないから、あちこちで言いまくった。


 反応など、言うまでもない。


 親父ギャグとか以前に、何とも重苦しい。


 つまらないと言ってバカにするような人間はいない。真剣すぎるからだ。


 私がオオカミの爪牙にかかりかかった譲を救い出す決意を固めたのも、そのギャグと言う名の救いの声を聞いたからである。

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