第134話 漫画と小説
『荒木飛呂彦の新・漫画術 悪役の作り方』を手にしながら、結局真っ先に「あとがき」から読んでいます。
そしてちょっと自分とマンガ、そして小説との付き合いを振り返ってみたのですが、そもそも私がジョジョと出会ったのは小・中学生ごろだったかなと。
多分第3部くらいなんですよね。なので一番まともに読んでいるのは1~4部くらいだと思います。
実はマンガを初めて読んだのが結構遅い方だったのではと思うのです。家が漫画禁止だったので、小説は買えましたが、漫画はダメという感じでした。
そういう意味で、小中高とマンガも読んでいましたが、どちらかというと飢えたように文字を読んでいましたね。結果論ですが、実家から持ってきた漫画はほぼ処分してしまいました。残っているのはワンピースくらいでしょうか。
一方で小説は、捨てられないのがいくつかあります。で、面白いなと自分で最近気づいたのですが、結構漫画は思い出せるのです。絵柄とかコマ割りなど。ちらっと一ページ画像を見れば前後も浮かぶ。
自分の記憶が写真や映像よりなので、その影響なんでしょうけれど、そうすると小説も実は映像で覚えているのかも? と思ったのが最近です。
キャラクターの名前や場所など覚えていますが、イラストに登場しなかった顔や姿の描かれていないキャラクターのイメージが浮かぶのです。結構はっきり具体的に。
『楽園の魔女』シリーズで言えば、ごくちゃんというふわふわのよくわからないマスコットキャラみたいなのが登場するのですが、これが紐で結ばれて「ひょうたん」になったシーンがあって、もうドツボにはまるくらい大笑いして涙を流すくらい笑いがしばらく止まりませんでした。
30年くらい前の話です(笑)
それを、映像として覚えているのです。読んだだけで、どこにもイラストはないのですが、でもばっちり覚えている。
改めて、私は文字を読んで映像が浮かんでいたんだなぁと確信しました。
で、実は書いているときも映像は浮かんでいるのです。結構立体的に。何ならフルカラー。風や太陽の光、温度、匂いまで多分感じることができる。声も当然聞こえます。
だから、文字のほうが私はマンガよりも自分が書くならいいんです。絵も描けるけれど、漫画を描こうとは思わなかった。
それくらいなら、たぶん私は映像か舞台に行っていたように思います。
中学時代アート選考で、多分そのまま進んでうまく作品を作り続けていれば、美術系の大学に進めていたというギリギリのラインでした。
その時感じたのが平面より立体、モノクロよりカラーが好きということ。そこから建築など空間芸術も好きで、そっちにも行きたかったなぁと今も考えます。
それらを、文字だけで表現する。そのストイックな行為が、実は好きなんだなと。
作家さんそれぞれが様々なシーンを言葉だけで描いています。それを読み取り頭の中で映像化して、その世界に入っていく。
漫画はどこかで想像の限界があると感じるのは、私自身の感覚によるものなんだろうなと思います。絵を描かれてしまうがゆえに、自由な想像が制限されてしまう感じといえばいいのでしょうか。
想像力を絵によって固定されてしまうゆえに、言葉による揺らぎが欲しくなると言い換えてもいいかもしれません。
言葉の力と限界があり、その限界部分が読者にゆだねる部分だと思うのですが、そこに信頼がないと多分小説は書けない。
読者を信じて書くというとアレなのですが、漫画以上にそこが小説の小説たるゆえんじゃないかなぁと、なんとなく言語化できたのでメモでのこしておこうと思います。
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