第1話〈2〉

「おっと、あっぶね!!」


 突如現れた何者かに後ろからグッと手を掴まれて引っ張られ、落ちかけた身体を助けられた。

 どさりと、そのまま二人して後ろに倒れてしまった。

 優里ゆりが小柄とはいえ、上に乗っかってしまって重かろう。

 急いで起き上がった。


「ご、ごめんなさ、すみ、ずみません、命拾いじまじだ……」


 手足が震えている。あのまま下に落ちていたらと思うとゾッとした。

 それにこのご時世、下に集まった大勢の野次馬たちに落っこちた私の写真撮られて面白半分でSNSなんかに上げられちゃったりして、悲しい事になるところだったわ……。


 振り返ると、それほど大柄でもない、しゅっとした見知らぬ青年だった。

 真夏だというのに、黒づくめの膝位まである薄手のコートを羽織った奇妙な格好。

 月明かりの逆光で鮮明には解らないけれど、被ったフードから色白で整った顔立ちが見え、銀髪長めの前髪が溢れ落ちている。


「いってて、大丈夫か? お嬢ちゃんちょっと待ちなよ、死ぬのはまだ早いって、タンマタンマ! あん? ってあんた……」


 優里を見て、驚いたような顔をする。

 青年は分厚い帳面を取り出して、何かを確認しつつこちらを見る。


「あれ? 君じゃないよな、う〜ん俺とした事が……確かここに今日契約対象者が来ているはずなんだけど……」


 バツの悪そうな顔をして、こちらに顔を寄せてくる。

 近くで見るとやっぱり綺麗な顔をしているので、こんな状況なのにドキドキしてしまった。

 けれど、人間なのか、霊の類なのかわからない気配がする。

 掴まれた手が氷を握っているようで異様に冷たい。

 この人は一体……。


「あ、あの…助けてくださってありがとうございます……その……」


 なんとか言葉を絞り出す。

 優里の足はまだガクガクしている。

 鳥のような霊は、もうどこかに行ってしまった。

 助かった安堵と、正体不明の謎の青年と、脳がパニックパニック。


「あれは小さいぬえの類だね、危なかった」

「ぬ? ぬえ??」

「知らない? 気持ち悪い鳴き声して飛んでたけど鳥ではないよ、昔に居た物怪の怨念の名残りみたいな存在さ。顔は猿、胴体が狸、四肢は虎で尻尾が蛇。ありゃ鵺だね。たまに漂って悪戯してくるやつな。俺たちはそういう存在を残留思念体〈残念体〉って呼んでるけど」



 そんなやりとりをしていると、がしゃん、と付近の柵をよじ登る音がした。


「ちょっと何なのあんたたち! 決心してビルの屋上に来たのに、何でこんなに人がいるのよ……!」


 声の方を振り返ると、少し離れた柵に足をかけた見知らぬ会社員風の女の人が、飛び降りる寸前の状態でこちらを睨みつけている。


「ちょっと! おねえさん危ないって! って私が言うのもあれだけど! あれでそれするとSNSとかに晒されて悲しい事になりますっ!」


 周囲にもやもやとした黒い霧が渦巻いている、あれはよく見る悪霊の気配だ。この女の人は何かに取り憑かれているようだ。


「SNSって何の事よ、マジ煩いわね! 放っておいて! 警察にでも通報するといいわ、遅いけど!!」


 女性は更に柵から身を乗り出した。

 こういう時は刺激してはいけないって警察ドラマでみたんだけど。えぇと、田舎のお母さんが悲しむぞ、まずはカツ丼でも食えみたいな! あれ、何か違うな?!

 はわわどうすれば……。

 落ちちゃう!

 怖くなって目を瞑る。

 女性が柵の手すりから手を離した瞬間だった。


「おっと、こっちだったか。今夜の契約対象者は君だね?!」


 黒ずくめの青年は飛ぶように、優里の前からひらりと離れる。

 女性に話しかけたと同時に、長いコートをバッと脱いで空に投げた。




「――さぁ、結界を張るよ」


 上に投げたコートはみるみる大きくなって、広がって出来た暗がりが天幕のような黒い空間になる。

 優里もすっぽり空間内に入ってしまった。

 目がチカチカする。

 耳の奥で不思議な音が聞こえる。

 刹那、時が止まったように感じる。

 これは夢か現か。

 周りをゆっくり落ちていく雨粒。

 うっすら見える空間の外の世界は、何もかもがスローモーションに動いている。

 そして青年は、女性に話しかけた。


「初めまして、俺は死神のようなものだ。

 今刹那、少し話を聞いてもらうために時間の流れを極限まで遅くする結界を張っている。

 手身近に話そう。

 君は何らかの怨念に取り憑かれて、死のうとしているよね。

 自死という君が今からやろうとしている行為はね、何かやんごとなき理由があったとしても、冥界から言うと大罪に値するわけよ。確実に地獄行きコース。

 そこではい、君の魂を救う契約を持ちかけよう。

 俺が引導を渡してあげるね。代わりに、その健全な臓器を貰えないかな。そうしたら、通常の輪廻転生コースとして処理しようじゃないか」

 本に挟んであったA4ぐらいの紙切れを取り出し、目の前に現れた女性に手身近に問うて見せた。


「さて、貴方は契約する? しない?」

「よ、よくわからないけど……それで地獄とやらに行かずに済むなら」

「OK、契約締結」


 自分を死神だとのたまう黒ずくめの青年は、女性の腕を掴んで静かに降ろした。

 紙は同意書らしいのか、渡されたペンで女性がサインをした瞬間、しゅわわっと光が女性を包んでいく。

 気が付くともう、青年は表情も変えず、小さいナイフのようなもので手慣れたようにスッと女性の首の頸動脈を切っていた。

 と同時に、黒い霧のようなものや憑き物は、ザザァと方々に去っていった。


「では、良き来世を――」




 青年は、手を上に伸ばした。

 光が消え、同時にサッと視界が明ける。

 いつの間にか大きい天幕のようになっていたものが、コートに戻る。

 青年は宙に舞ったそれを掴んで、また羽織り直した。


 気が付くともう、雨はあがっていた。

 ただ、嘘のように綺麗な夜空が広がる。

 無音でスローに動いていた時が、一斉に動き出した。

 数分前のように騒めく街と、コンチキチンの祇園囃子が聞こえる。


「羽柴さん、終わったよー。取り憑いていたのは弱めの霊だからそっちは大した事ないっす」


 青年は今時ガラケーで何やら誰かと連絡を取っているようだ。

 ともなく、救急車の音も鳴らさず救急隊員が現れ、ご苦労様ですと青年に声をかけ、目の前に倒れている女性を素早く担架に乗せて運び出していった。

 ユウはあまりにも理解し難い状況に、濡れたままの地べたにぽかあんとして座りこんでしまった。

 わけのわからない存在には昔から慣れているとはいえ、一体目の前で何が起こったの?!

 殺人事件?!

 この人、女の人を刺し殺したよね?!

 やだ怖い、恐ろしい、死神って何なん?!

 目撃しちゃった私もついでに殺されちゃうんだわ…

 きっと反社会的なんとかの殺し屋なんだ、この人はコードネーム死神とかなんだ、そうに違いない……。

 そんな事を考えている間に、自称死神さんはこちらに近づいてきた。

 あぁ、しかも地べたに座っちゃったせいでパンツが濡れて冷たくて切ない……。

 違う意味でも泣きそう……。

 さようなら世界……。


 「あ、俺がみえちゃってるんだよねぇ、結界にも入っちゃったの。マズイとこ見られたな~。お嬢ちゃん、なに? 飛び降りようとしてたの? あれ、顔面蒼白じゃね……」


 あ、ダメだ、何か言ってる。

 血の気が引いて、目の前がチカチカする。お腹も痛い。


 脳がついていかな


 い……。


「えっ、え?! お嬢ちゃん?!? 気ぃ確かに!!!」

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