天使の微笑みは、かなしいほどに剥がれやすい

日向満月

天使の微笑みは、かなしいほどに剥がれやすい

 オレの目の前に天使がいる──!


 机を挟んだ向かいの席に腰掛けた『ある人物』の神々しさに、オレは心の中で雄叫びを上げていた。


 すでに放課後となり、校舎の外では、運動部が各々の練習に励んでいた。身を切るような寒空のしたでも、溌剌とした掛け声が、オレたちのいる教室にまで届いてくる。


 帰りのホームルームも終わって、あとは職員室に向かうだけだったオレを呼び止めたのは、地上に舞い降りた一人の天使だった。


 ごく普通の公立高校に天使が現れるわけがないだろう。誰もがそう思うかもしれない。


 けれどオレにとって、いま目の前で古文のノートを片手にオレに微笑みかけてくれるその存在、そのひとこそが、地上に顕現した気高くも愛らしい天使そのものであった。


「この『かなし』という古語には、そのまま『哀しい』や『切ない』という意味もあるんだけど──」


 好きなひとと二人きりになれて天にも昇る心地だったが、そんな本心を表に出すわけにはいかない。オレはなんとか真剣な顔を作りながら、そのひと──いいや。天使と向かい合っていた。


「他にも『愛しい』や『可愛い』という意味もあってね」


 我が天使は乱れに乱れまくったオレの内心には気づかず、真面目にノートの文字を目で追っている。


「それじゃあこの『かなしからん』は、文脈的に『とっても愛しいです!』みたいな意味になるんですか?」


「あはは。そうなるね」


 オレは色素の薄い自分の髪を耳にかけた。


「教えていただいてありがとうございます!」


 天使とそんなやりとりを交わしてから、オレはノートへと視線を落とす──ふりをしてちらりと相手の顔を盗み見た。


 ぷにぷにの柔らかそうなほっぺた! 丸くてつぶらな瞳! か、可愛い。可愛過ぎる……!


 オレの視線は教科書に記された古文の問題よりも、天使の愛らしさのほうに釘付けになっていた。


 というかこんな可愛い生き物がこの世に存在していいのだろうか! ここまで希少価値の高いプリティー生物を高校なんかに持ち込んだりしたら、ワシントン条約とかに引っかかって校長怒られたりしないのだろうか!?


 オレの心の叫びなんて、もちろん聞こえてはいない天使が、自らの眼鏡の位置を指で直す。その仕草も可愛いオブ可愛い。天使の手首についたブレスレットが手の動きと一緒に小さく揺れた。


 教師と生徒の関係になるよりも前に、オレが送ったプレゼントだ。あれから何年も経つのに、冬の季節になるたびに天使はこのブレスレットをよく身につけてくれていた。


「ところで先生。こちらの問題なんですが」

「どれどれ」


 はああ。それにしても天使はいい匂いがするなー。なんというか、美味しそうというか……。ああー。いっそ古文の問題は脇に置いて、その喉にがぶっと噛みつかせてはもらえませんか? 十万払うからっ。お母さんにお小遣い前借りしてでも払うから!


 ──などという邪な本音は口にしない。絶対しない。だけど、そんなことを考えていたからか。ノートに落とされていた我が愛しい天使の視線が、突然こちらへと向けられた。


「先生、どうかしましたか?」


 オレは内心で慌てふためきながらも、咄嗟に自然な笑みを繕う。


「いや。なんでもないよ……?」


 一応天使は納得してくれたようだった。オレは心の中で一息つく。


 あ、あっぶな! オレが変態的思考に囚われていることがばれたかと思ったー。


 ちらりと天使の様子を窺うと、その愛らしい瞳が不思議そうにオレを見詰めていた。目が合うと頬が熱くなって、オレは慌てて目を逸らす。


 ほ、本当にうまく誤魔化せた、のか……? なんか不安になってきた。


「じゃ、じゃああんまり遅くなるといけないから、そろそろ教室を出ようか」


「そうですね」


 もっと天使と話したかったけれど、これ以上一緒にいるとボロが出かねない。それに教師と生徒の立場、それも付き合っているわけでもないのに、もっと一緒にいたいとかごねても、迷惑どころか嫌われてしまうかもしれない。


 そう自分に言い聞かせて、オレが席から立ち上がった──そのときだった。


「おおー、マジで可愛いじゃん!」


 聞き覚えのない声と二、三人くらいの足音が、教室の外から投げかけられた。


 教壇側にある教室の扉に視線を向けると、ヤンキー風の男子生徒たちが、なぜかこちらにニヤついた笑顔を向けていた。


 オレたちが戸惑っていると、彼らは断りもなくオレと天使、二人きりだった教室に、土足で上がり込んできた。……学校の教室なんだから、生徒が出入ではいりしても自由だろう、という冷静な突っ込みはなしでお願いします。


「うおっ! ほんとに噂で聞いた通り。天使みたいに可愛い美少女じゃん!」

「その金髪ってさ、染めてないんだって!? きれーだねー!」

「これからおれらと、一緒に遊ばない? ねぇ?」


 そんなチープな悪役が吐きそうな台詞とともに彼らは歩み寄ってくると、あっという間にオレたちの周囲を取り囲んだ。


 たった三人連れとはいえ、無視して帰ることはできそうになかった。


「えっと……」


 オレは自分よりも背の高い三人組を見上げる。どうしよう。適当にこともできるけど……。でも喧嘩はもうしないって天使と約束したし……。


 そうやって考えあぐねていたせいで、反応が一瞬遅れてしまった。


 あろうことか天使が、オレと三人の間に割ってはいってきたのだ。


「ほら。用事もないのに他所の教室でたむろしちゃだめだよ。それにナンパするにしても、そんないっぺんにきたら、女の子からしたら怖いだけだと思うし……。それにこの子は──」

「あ? なんだよセンセーには関係ないだろ?」


 三人組のうちの一人が、眉間に皺を寄せて睨んできた。さらには残りの二人も詰め寄ってきて。


「そうそう! センセーには関係なーい」

「だいたいそんなぷくぷく太った体型のおっさんにナンパの説教とかされても──」


「……あ? いまなんつった?」


 腹の底からドスの効いた声が出た。


「先生が、なんだって?」


 三人組とオレの天使が同時に振り返る。


「え。いや……なにって言われても……」

「このおっさんが太った──」


 引き攣った笑みで、三人組が一斉にオレの天使こと、先生のことを指差しやがった瞬間。


「先生はなぁ、太ってんじゃねぇッ! 骨太なんだよ──ッ!」

「ひぃ!?」


 オレは母譲りの色素の薄い髪を振り乱して、盛大にブチ切れた。


「だいたいさっきからなんなんだテメェらは!? 突然話しかけてきたと思ったら、どっか遊びにいこうだ? ざっけんな! なんでオレがテメェらみたいな軟弱エセチンピラ連中とラブホでちちくり合わなきゃなんねぇんだよこのくそったれッ!」


 オレがこんな華奢な見た目をしてるせいで、その辺の野郎どもからなめくさった態度をとられるのは構わねぇ。


 けどオレの天使の──先生のことを悪く言う奴はぜってぇ許さねええぇ!


「軟弱エセチンピラ!?」

「え。ラブホ!? ちちくり!? 誰もそこまで言ってないよ!?」


 大声に驚いたのか、三人組が怯えた表情になる。だがちょっと詰められただけでビビり散らかすその根性のなさに、オレは余計苛立ちを覚えた。


「つぅか、先生のどこが太ってるって? このぷにぷにほっぺたが特徴的な愛らしいマシュマロボディーのどの辺りが太ってるっつぅんだコラァアアアッ!」

「ひいい!?」


 もう三人組は完全に腰が引けていた。それでもオレの怒りは収まらない。いっそこの場でこいつらの無駄に高い鼻っ柱をへし折りつつ、リアルの鼻もへし折ってやろうかと、オレが一歩を踏み出しかけたところで。


「まあまあ。落ち着いて」


 先生のお耳に優しいほんわかボイスで、オレは正気に戻った。


 先生はいつもと変わらない柔らかな笑みをオレと、ついでに三人組に向けている。


「ほら。勢いよくこられるとちょっとだけ怖いだろ。まあ、そうは言っても僕は君らの言う通りナンパとかしたことないからさ、わかった風なことしか言えないんだけど。ごめんね」


 照れながら頭をかく先生。それを見て戸惑いながらも、三人組の肩から僅かに力が抜けた。


「な、ナンパがどうこうの話は、もういいっす……」


 彼らの中の一人が、ぼそりと呟いた。


「そっか。じゃあ今日はもう帰ろうか。あ、でもうちのクラスの生徒に変な絡み方するのはもうなしで。他の子にもだけど」


「あ……はい……」


 最初の威勢のよさはすっかりなくなって、なんだか毒気が抜けた様子で先生を見てから、三人の生徒たちは、おもむろに教室から出ていった。


 そしてオレと先生の二人だけが、教室に取り残される。


 ──どうしよう。


 喧嘩はもうしないって約束したのに。


 不安が胸の奥で、少しずつ迫り上がってくる。


 手はあげてない。あげてはないんだけど、それでも盛大にブチ切れてしまったことは事実で。


 もしかしたら、先生に怒られるかもしれない。ううん。怒られるだけなら構わない。でも、それだけじゃなくて、嫌われてしまう、かも……。それだけは嫌だ。それだけは……。


 どうしていいかわからずに、オレが身構えていると。


「かばってくれてありがとう」


 先生の声が俯いていたオレの頭上から降ってきた。


 オレはその温和な声音に、顔を上げた。


「さっきは僕のために怒ってくれたね。ありがとう。……それと、ごめんね。本当は僕のほうが君を守らなきゃいけなかったのに」


 先生の表情は曇っていた。それを見てオレは慌てて首を横に振る。


「そんなことない。そんなことないです!」


 オレがそう否定しても、先生は苦笑して「君の先生なのに、まだまだだなぁ」──そう呟いて、顔にかけた眼鏡の位置をまた直していた。


 先生の手首についたブレスレットが小さく揺れる。


 このひとにとってオレはきっと、この先も一人の守るべき『生徒』なのだろう。


 揺れるブレスレットを見ながら、そんな考えが頭の端を横切った。


「……それ。まだ使ってくれてたんですね」


 思わずそんな言葉が口をついて出る。


「ああ。うん……静電気が怖いからねぇ。それに大事な教え子にもらったものだから」


「……嬉しいです」


 静電気除去ブレスレット。年齢が一回り以上もうえの、父の友人に贈り物をするには、これが精一杯だった。


 おかげで先生は今日もオレを、教え子としてしか見てくれない。


 ──こういう気持ちを、昔のひとたちは、『かなし』って言ってたのかな。


 果たしてそれが合っているのか間違っているのか……。古文の成績が悪くて、先生に勉強を見てもらっていたオレには、よくわからなかった。


「それじゃあ、僕たちもそろそろ帰ろうか」

「あ。はい」


 オレは先生と一緒に教室から出ようと、教科書や先生に預けていたノートを鞄にしまった。


「そういえば、先生。さっきから美味しそうな匂いがしてますけど」


 気になっていたいい匂いの正体が知りたくて、オレは先生に尋ねる。


「ああ。多分、というか絶対、昼に食べようとしてこぼしちゃったカツ丼だ。もったいないことしたなぁ。あのとき教頭先生にいきなり声をかけられなきゃなぁ……。知らないうちに服にも付いてたんだね。気づかなかった。やー、恥ずかしいぃ」


 そう言って先生が照れ笑いをする。その頬が僅かに紅くなっていた。


 それだけでもオレにとっては、かなしなことこのうえなかったというのに、先生はすぐに照れた顔を自分の手で覆ってしまう。


 その仕草にオレの胸がぎゅっと締め付けられた。


 いわゆる胸キュンというやつである。 


 ていうか尊過ぎて無理! 好き──!


「ひっ!? いますごい悪寒が……。寒くなってきたからかな? さっきも君と話してる最中、すごい悪寒がしてね?」


 先生が周囲を警戒するみたいに首を巡らせた。まずい。このままだと最近はじめた『帰ったふりして先生が職員室にはいるまで影からこっそり見守る』という日課に支障が出かねない!


「ほんと、寒くなってきましたからねー。そういう日もありますよねー」


 オレはなに食わぬ顔でそう誤魔化した。


「そ、そっか。まあ、そういう日もあるよね?」


 若干戸惑いながらも、先生は納得して、オレに笑みを返してくれた。


 騙しておいてなんだけど、疑うことを知らなさ過ぎる! この純真な心──やっぱりこのひとは地上に舞い降りた天使なんじゃなかろうか……!?


 ああ、もう。今日も今日とてオレの天使が可愛過ぎる──!


 オレは心の中で雄叫びを上げながら、表情だけは天使のように、無垢な笑顔で微笑んだ。

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