3の倍数で好きになる。

永原はる

プロローグ

001 とびっきりの罪悪感を抱いています(前編) 

 僕は恋の魔法にかけられて、花ヶ崎はながさきりりを好きになった。

 ここでいう「魔法」とは、なにも比喩表現ではない。本物の魔法のことである。





 九月のある日、放課後。

 いつも通りの下校路、交差点。信号は赤。

 ふと、横断歩道の対岸に見慣れたセーラー服の女子中学生が立っているのが見えた。


 僕と少女の間を、車が通り過ぎる。それから少しして、風が彼女の前髪を揺らした。


 その時、露わになった少女の顔に、僕の意識は吸い込まれてしまった。

 大きな瞳に、丸みを帯びた鼻と、薄い唇。黒髪ショートとベージュのカーディガンの組み合わせが、純朴な田舎の中学生という印象を与えた。


 正直に言えば、可愛い子だな、と思った。とはいえ、知らない女子中学生。見惚れていたことに気づかれたら気持ち悪がられるだろう。僕は急いで視線を逸らした。


 信号が青に変わった。僕は横断歩道を渡り始めた。同様に、向こう岸の彼女も歩き出して、僕のことなど気に留めることなく、ただ二人はすれ違っていく。


 ごくごく自然に。どこにでもある日常のワンシーンとして。


──そのはず、だった。


峰岸晴喜みねぎしはるきさん」


 不意に名前を呼ばれて、その方向へと振り向く。

 声の主はその女子中学生だった。

 

 直後。

 ごくごく自然な、どこにでもある日常のワンシーンは一変する。


「また会えてよかった」と女子中学生が発した瞬間。眩い光が目に飛び込んできて、それからすぐに、光源が彼女の右手にあることに気づいた。「好きです」


 はたしてこの時、すき、という二文字が僕の耳に届いたのが実際の出来事だったのかどうかは、正直なところ、ハッキリしない。


 なぜなら、間もなくして僕は意識を失ってしまったからだ。


   ◇


 けれどどうにも、あの出来事すべてを否定することは出来ないらしい。


 あれからしばらく経った、十二月半ばの今日。

 まさにいま、この瞬間も、真横にあの女子中学生──花ヶ崎りりがいるからだ。


 僕たちは、花ヶ崎の自宅付近にある市営公園にいた。目の前には、一面が芝生で覆われている広場があって、その外周には点々と設置されたベンチがある。そのうちの一つに僕たちは隣あって座っていた。


 それぞれの手には、コンビニエンスストアで購入したおそろいのエクレアが一つずつ。


 花ヶ崎が、はむ、とエクレアを咥えた。その様子に軽く見惚れてしまって、いけない、と視線を手元のエクレアに落とす。それを小さく囓り、また、目の前の花ヶ崎へと視線を戻した。

 

 と、そこで花ヶ崎がこちらを向いた。視線がぶつかってすぐ、彼女が笑った。


「峰岸さん」彼女は人差し指で自分の頬を、とん、とたたいて、「ほっぺに生クリームついてますよ」

「え?」


 慌てて、右頬を指で拭う。指に生クリームが付着した。

 そんな僕の様子を見て、花ヶ崎はさらに笑った。


「なに? まだついてる?」

「はい。しかも、いま指で取ろうとして、もっと広がりましたよ」


 言って、彼女は首を傾げた。


「とってあげましょうか?」


 そのまま花ヶ崎は、右手を僕に向かって伸ばした。


 その手が危うく頬に触れそうになって、急いで身を反らした。


「なんで避けるんですか?」花ヶ崎は悪戯っぽく、そんなことを言う。

「このやろ。分かってるくせに」僕は苦笑いで、返す。「頬に触るのは禁止だろ」

「え〜、触りたいのに〜」


 トボケる花ヶ崎に、僕は言う。


「魔法をかけたのは、君だ」

「そーですね」

「僕をこの身体にしたのは、君だ」

「いかにも」

「責任、感じてないのか?」

「いいえ。とびっきりの罪悪感を抱いています」


 だったら──と僕が吐き出しかけた言葉を食うようにして、


「でも頬に触れば、峰岸さんは私のことを好きになっていくんです」彼女は言った。「もっともっと、好きにさせたいじゃないですか」


 ……この魔性め、と胸中で呟いてから、自分の手で自分の頬を撫でた。


   ◇


 花ヶ崎が僕にかけた魔法。それは、「恋に落ちる」魔法だった。


 しかしその仕組みはちょっとややこしい。僕だって完全には理解していない。

どういうことかといえば、魔法をかけられたその時点では、恋に落ちなかったのだ。言い換えれば、魔法は発動しなかった。


 ただし、確実に変化はあった。目に見えない部分に。僕の心の奥深くに。


 花ヶ崎がかけた恋の魔法は、僕の心に「種」を植え付けたのだ。


 「種」というのはもちろん、比喩表現だ。「魔法」という実存するものとは違い、僕が理解しやすくなるための喩え。その「種」は、「刺激」を与えることでゆっくりと成長していき、「条件」を満たすと「恋の魔法」という花を咲かせる。


 その「刺激」とは、頬に触れられること、だ。


 そして「条件」とは、三回触れられること、だ。


 すなわち僕は、「花ヶ崎に頬を三回触れられると、彼女に恋をする」体質になってしまった、というわけだ。


 これが僕の身に起きた、「確実な変化」であり、花ヶ崎がかけた魔法の「結果」だった。


 別の喩えを用いるならば、「アクションゲームの必殺技ゲージ」みたいなもの、といったところだろうか。頬に触れられるたびにゲージが溜まっていき、満タンになると完全に恋に落ちてしまう、的な。


 しかも、だ。面倒なことに、どうやらそのゲージには天井がないらしいのだ。つまり、三度の接触で僕は花ヶ崎を100%好きになり、六度の接触で200%好きになる。九度で300%、十二度で……とまあ、そういうこと。


 とはいえ、だ。「なんじゃそりゃ、訳わかんないぜ」とも思う。だって、100%の恋心だとか言われても、『恋愛感情』とは基準量のないもの、測量できないものなのだから、前提から破綻している気がするのだ。考えれば考えるほど、脳が沸騰しそうになる。


 だから僕はちゃんと考えるのをやめた。たとえば風邪に罹った時に、ウイルスそのものに詳しくなる必要はないだろう。大事なのは、症状とのつきあい方、のほうだ。


 花ヶ崎に頬を触れさせないこと。彼女も、能動的に僕の頬に触れようとしないこと。

 それが、この魔法との付き合い方。

 状況を悪化させないための、僕と花ヶ崎の間に敷かれたルール。


 ……の、はずなんだけど。


「やあっ!」

 花ヶ崎が伸ばした手を躱す。

「ほいっ!」

 再度、躱す。

「とうっ!」

 躱して、その手を掴む。

「なにするんですか〜! 離してくださいよ〜!」

「花ヶ崎」

「はい。なんでしょう」

「もう一度、繰り返します。頬に触らないでください」

「え、いいんですか? 生クリーム、ついたままになっちゃいますよ? それで街中を歩くつもりです?」


 目の前の少女は、ルールを守るつもりがないらしい。


 困ったことに、『頬を触ろうとする/避ける』という、じゃれつきにも似たやりとりは、もはや恒例行事になってしまっている。


「自分で拭くからいいよ。ちょっとトイレ」

「待って待って!」


 トイレへ向かおうと一歩踏み出した僕の、その腕を掴んで引っ張る花ヶ崎。おかげで前に進めやしない。


「じゃあこうしましょう!」と花ヶ崎が明るい声を出した。「等価交換です! 私が頬に触った分、峰岸さんも私に触っていいですよ!」

「……なんだそれ。のめるわけないだろ」

「でもほら。私も触りたい、峰岸さんも私に触りたい。ウィンウィンじゃないですか」

「いつ、僕が触りたいって言ったよ?」

「いつもそういう目をしています。やらしいかんじの」


 僕のことを何だと思っているんだよ。


「……とにかく、ダメだ」


 ちゃんと拒絶の意思を表明したからか、花ヶ崎は軽くいじけたように「もうっ」と声を漏らしたのちに、「まあ、いいですよ」と、納得した素振りを見せた。


「今回は見逃してあげましょう」


 言いながら、ポケットティッシュを取り出す。そしてその一枚を、僕に見せるようにひらひらと揺らした。


「その代わり。生クリームは、私に拭かせてくださいね」

「……」

「ティッシュ越しなら、触っていいですよね?」

「……それなら、まあ」


 僕は頷く。


「やった。じゃ、じっとしていてください」


 僕の反応に、花ヶ崎はにんまりと笑顔を浮かべて、ティッシュを持った手をまっすぐ頬へと伸ばす。そのまま、その手は僕の頬に接触して、ティッシュ越しに、指の熱が伝った。くすぐったくて、むずがゆい感覚だけが、全身を疾走する。


 がしかし、恋心が強まっていく感覚は無い。


 どうやら、素手で触れられなければ問題はない、らしい。

 それが、これまでに判明している魔法の特性の一つだった。


「とれましたよ、生クリーム」

「ありがとう」

「はあ。とれちゃいましたね、生クリーム」

「なんでちょっと残念そうなんだ」

「もう一回触りたいので、つけてくださいよ。ワンモア、生クリーム」

「ノーモアだ」


 花ヶ崎は、ちぇっ、なんて言って、ティッシュを手のひらの上でクルクルと丸めた。

 それを見ながら、まったく、と口にする。


「花ヶ崎は、僕をからかいすぎだ」

「だって、前に読んだコラムに、『恋愛は攻めあるのみ!』って書いてあったんですもん」


 その発言に、つい、笑ってしまう。


「そういうの読んでる時点で恋愛慣れしてないんだから、無理すんなよ」

「あぁッ!」と花ヶ崎は声をあげてから、人差し指を僕めがけて突き立てた。「い、言いましたね!」


 紅潮した頬に、彼女の動揺がわかりやすく見てとれた。図星だったみたいだ。なんというか、不器用で素直なのだ、花ヶ崎りりという少女は。


 僕のことを、魔法を使ってまで振り向かせようとするぐらいには。


「……き、傷つきました。さすがに、傷つきました」


 ぐぬぬぬ……と右手拳を握りしめながら、彼女は言う。そんな様子が面白くって仕方なくて、ここぞとばかりに追撃の言葉をこしらえる。


「まあ、これに懲りたら、からかうのをやめて──」


 しかし、だ。言いかけた時だった。


「なので、謝罪とお詫びを要求します」


 花ヶ崎の視線が、僕の目をじっと捉えた。やけに真剣な目つき。それから、その瞳の奥に見える──反撃の意思。というか、悪戯心。


「……え、お詫びってなに?」


 と疑問を口にするも、間に合わなかった。気づけば、花ヶ崎の左手が僕の右手をぎゅっと包み込んでいる。


 そして、


「おうちに帰るまで、手、離さないでくださいね」彼女は言う。「今回はそれで許してあげましょう」

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