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二限の終わり、講義室の最後列に座ってスマホをいじっていると、私の見立て通り根尾が近づいてきた。
「リョウくん、今日のお昼はどうするの?」
「あー、えっと、まだ決めてない、かな」
「良かったらボクと一緒に食堂行かない?」
根尾がリョウを下の名前で呼んでいることも、根尾の一人称が「ボク」であることも私は今初めて知った。もしリョウも根尾を下の名前で呼んでいたらどうしよう。私は当然根尾の下の名前なんか知らない。
スマホをポケットにしまって、私は根尾に微笑みを返しながら立ち上がった。今日の根尾は白いニットに黒い革のスカート、その下に黒いストッキングを履いている。肩の下あたりまで伸ばした長い髪の隙間からは紫色のインナーカラーが見える。相変わらず、ただ大学に来ただけとは思えないほど気合の入った服装だった。いや、根尾の感覚で言えばこれでも特には気合を入れていないのかもしれない。
ふと自分の姿を探すと、講義室前方に座る私と目が合った。リョウが服を選んだからか、今日はいつもより芋臭さが五割増しだ。まあ私のファッションセンスが周りからどう思われようとどうでもいいけど。
私の姿をしたリョウは遠慮がちにこちらをちらちらと窺っていた。自分の友達と私が一緒に行動しているのが気にかかるのだろうか。
別に何も変なことはしないのに。
講義室の出入り口で、私はリョウに向かって目配せしながら小さく手を振った。リョウははっとして顔を上げたが、その後の行動を見る前に私は隣の根尾へと視線を戻す。
「前から気になってたんだけどさ、リョウくんとあの人ってどういう関係なの?」
「あの人って?」
「いやいや、別に今更とぼけなくてもいいじゃん。さっきリョウくんが親しげに手を振っていた女の人だよ」
バレないようにやったつもりだったのに、見られていたのか。まあ当然か。さっきから根尾はずっと私のやや後ろに張り付くようにして、目線を私に固定している。会話していても私の目をじっと見て離さない。不自然なほどずっと目を合わせ続けていて、絶対に目を逸らさない。この根尾の変な癖はリョウの身体になる前から気付いていたことだったけど、いざ当事者になってみると想像していたよりもかなり不快だった。
「ナツキは僕の恋人だよ。彼女」
「いやいや、そういうことじゃなくってさ」
根尾は含み笑いで、茶化すように続ける。
「恋人同士ってのは前にも聞いたよ。ボクが訊いているのは、リョウくんとあの人がどういう恋人関係なのかってこと。明らかに普通じゃないよね?」
「え、どういう、って……」
普通じゃないって、何だ。私たちは普通から逸脱しているのか。そもそも根尾のいう普通の恋人同士って何なんだ。
というか、リョウは既に自分に恋人がいることを根尾に話していたのか。
じゃあなぜ根尾はまだリョウに付きまとっているんだろう。
「別に、僕とナツキに変なところなんてないと思うけど」
食堂内は当然のように混みあっていた。長時間列に並ばなければならないし値段も安いわけではないし味もいまいちなので、私は入学してから一度しか学食を利用したことがない。昼食はいつもコンビニで済ませている。
そういえば、大学に入ってからはまだ一度もリョウと二人でお昼を食べていない。
リョウはいつも、この学食で根尾と二人で食べていたのだろうか。
「リョウくんは、自分がナツキさんみたいな人と付き合っていてもいい人間だと思ってる?」
「……いきなり何?」
「リョウくんって全く見た目に気を遣っていないし、常に金欠で金遣い荒いし、いつもパチンコばっかりして授業をサボりがちだし、この大学だって親の金の力で入学できただけでしょ? それに比べてナツキさんは明るくて素敵な人だし、それなりにオシャレで清潔感もあるし、毎回真面目に授業に参加してる。二人を見てるとさ、ナツキさんは本当にリョウくんの彼女に収まっていていい人間なのかなって」
「……ナツキはそれでも僕のことが好きなんだから、いいんだよ。根尾から見てどう思うかなんて関係ない」
「おや、今日は珍しく断定するんだね」
カレーライス一人前、とカウンターに向かって言うと、思いのほか大きな声が出てしまって一瞬周囲の視線がこちらに集まった。男の喉の使い勝手にまだ慣れない。
「前はもっと自信を失ってたじゃん。ナツキとはもうやっていけないかもしれないって」
いよいよ根尾との浮気が現実味を帯びてきた、なんてことは私もずいぶん前から既に把握していたのでそれほど動揺はしない。今日はそのために根尾の誘いに乗ってやったんだから。
「もういいんだ。色々と吹っ切れたんだよ。僕にはナツキしかいないんだから、これでいいんだ」
ポケットからリョウの財布を取り出して、代金を支払う。リョウのお金を勝手に使うわけだし、レシートは一応とっておいたほうが良いのかな。まだ身体がもとに戻る目処も立っていないのにそんなことを考慮するのは暢気すぎるか。
座席はほぼ満席で、奥の窓際の席しか空いていなかった。立ち歩いている学生の合間を縫って、窓際の席に根尾と横並びに座る。
陽光を照り返して白く輝くキャンパスのタイルが、正面の窓からよく見えた。
「でもさ、ナツキさんのほうは、別にリョウしかいないってわけじゃないよね。ナツキさんはあれほど素敵な人なんだから、きっと常に引く手あまただよ。リョウくんより良い男なんて掃いて捨てるほど言い寄って来るだろうね」
こいつはさっきから何を回りくどく言っているんだろう。言いたいことがあるならはっきり言ってほしい。
「ナツキさんは、本当にリョウくんを必要としているのかな。ボクにはとてもそうは見えないんだけど」
「……さっきから何の話?」
「だからさ、またいつもの話だよ。もうわかってるでしょ?」
隣の根尾は、長い髪を耳にかけて、あまり音をたてず上品にうどんを啜っていた。身体が男になっている影響なのか、その姿が妙に扇情的に映る。
私の視線に気づいた根尾が、にやりと笑んで私に向かって箸を突き立てた。食べ方は上品なのに人に箸を向けるのか。
「ボクにナツキさんを寄越せって話」
「……え?」
皮肉っぽい笑みで、根尾は言った。
根尾の狙いは、私?
根尾がリョウに言い寄ってるのではなく?
「ナツキさんはリョウくんに囚われているんだ。リョウくんが自分と釣り合わない人間であることに気付いてない。自分が本当はもっと価値のある人間だってことに——もっと幸せになってもいい人間だってことに、気付いていないの。だからボクがナツキさんの目を覚まさせてあげなきゃいけないんだ」
「…………」
言っていることが一割も理解できないんだけど。
「ボクだったら絶対にもっとナツキさんを幸せにしてあげられる。リョウくんよりもずっと良い恋人になれるんだ。ボクはリョウくんみたいに主体性に欠けるへなへな男じゃないからね、ナツキさんをどこまでも引っ張っていけるよ」
「…………」
「ボクはあくまでも平和的な合意を望んでいるんだ。リョウくんの知らないところで勝手にナツキさんを強奪したりはしない。ちゃんと納得してもらってから、ボクにナツキさんを譲り渡してほしいんだよ。だからリョウくんにはまず自分がどれだけナツキさんにとって分不相応な人間なのかってことを自覚してもらうところから……、ねぇ、さっきからすっごいぼーっとしてるけど、大丈夫?」
「…………」
根尾が怪訝そうに私を覗き込む。まずい。何か言わないと、リョウの中身がリョウではないことに気付かれてしまう。それはわかっていてもどうしても言葉が出てこない。
リョウの身体を手に入れて、初めて根尾と会話をしてみて、根尾についてわかったことは増えた。けれど謎はより深まった。
根尾は私のことが好き。根尾はリョウのことは好きじゃない。根尾はリョウを心底見下して、蔑んでいる。
根尾がいつもリョウの前で見せていた笑顔は愛想なんかじゃなく、どうしようもない人間への冷笑だった。
根尾はリョウから私を奪い取ろうとしている。
根尾は私を手に入れようとしている。根尾は私と付き合いたいと思っている。おそらく、恋愛的な意味で。
改めて整理してみてもやはり理解できなかった。
気付かぬうちに不安定になっていた息を整える。
根尾とかいう理解不能の宇宙人からは一旦目を逸らして、カレーを一口食べて、コップの水を一気に飲み干した。
「……いい加減しつこいよ、根尾」
そうしてやっと、なんとか言葉を絞り出すことができた。
すると、根尾は世界の全てを嘲笑するかのように口角を吊り上げる。
「しつこいって、そりゃあしつこくもなるよ。リョウくんはいっつもボクがとてもおかしな人間みたいな言い方をするけどさぁ、リョウくんがナツキさんみたいな人と付き合っているという事実に比べたら、ボクという人間なんて何にもおかしくないんだよ。ナツキさんもナツキさんだけど、リョウくんも自分がどれだけ恵まれた存在なのかを理解できてないよね。いったいどれだけの奇跡が重なり合えばリョウくんみたいな人がナツキさんと付き合えると思ってるの?」
「……ナツキは根尾みたいな奴とは絶対に付き合わないよ」
「どうして? リョウくんみたいな奴と付き合える人が、どうしてボクとは付き合えないの?」
「ナツキには僕のほうが相応しいんだ。第一、根尾は女だろ。ナツキはバイでもない、完全な異性愛者だよ」
「はぁ? ちょっと待ってよ。今更何言ってんの?」
そこで根尾は笑顔崩して、困惑したように眉を寄せた。それでも私は構わず続ける。
「ナツキは平気で他人の恋人の悪口を言うような人間とは絶対に付き合わないから」
「えっ? いや、悪口のつもりで言ったわけじゃないよ。気に障ったのなら謝るよ。なんだ、今日のリョウくんは少し攻撃的なんだね。いつもはそんなこと言わないのに」
今日の私が攻撃的、ということは、逆に言えば普段のリョウは根尾からこれほどの人格否定をされ続けても、反論のひとつも言わないのだろうか。
でも、リョウの性格を考えれば想像に難くない話だった。リョウは心が柔らかい。柔らかいからどんな衝撃を受けても全て吸収してしまう。悪意も恨みも邪気も、全部柔らかく受け止めて、弾き返さない。
そのリョウの柔らかさが維持されている要因が私なのだということを、根尾は知らないのだろうけど。
「とにかく、根尾にナツキは渡せないから」
私がお盆を持って立ち上がると、根尾が服の袖を引っ張って私を引き留めた。
「ちょっと待って。今日の夜って、時間ある?」
「……なんで?」
「駅前に新しい中華料理屋ができたの、知ってるでしょ? あそこのラーメンが絶品だって評判なんだよ。だからさ、一緒にどうかと思って。もちろんボクの奢りでいいから」
「…………」
こいつはリョウのことが好きなのか嫌いなのか。
本当にただ純粋に、リョウから私を奪い取るためだけに、リョウに近づいているのか。それとも、リョウに対する友愛が根尾の中に少しでも存在するのか。あるいはその両方か。
どうして自分の恋敵を、憎むべき仇敵を、平気で夕食に誘うことができるのか。
「……わかった。行くよ」
「オッケー。じゃあ、またあとで連絡するから、よろしくね」
根尾はいつもの柔和な笑みでそう言って、小さく手を振った。私はそれを無視して、食堂の奥へお盆を返しに行った。
まあいい。根尾が何を企んで私を夕食に誘ったのかはどうでもいい。さっき、私も私で考えが浮かんだ。
せっかくリョウの身体を手に入れたのだ。この絶好の機会に根尾の問題を解決しないでどうする。
今回は珍しく、根尾の言う平和的な合意とやらが実現するかもしれないのだから。
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