第211話 見送るもの

囲炉裏を囲んで四人。

クリシェは隣から、ガーレンの顔色を窺うようにじっと見つめていた。


『美味しいですか?』

『ああ、とても。いつもとは少し風味が違うな』

『えへへ、隣のおばさんにお料理を教えてもらったんです。おばさんの料理とっても上手で……』

『ガーラか。明日にでもお礼を言いに行かなくてはな』


言いながら家の中を眺める。

普通、子供が来れば家の中は汚くなるものであるが真逆。

数日ぶりに共に食事をとゴルカの家にやってくれば、壁際に乱雑に置かれていた道具は整理され、衣服は几帳面に畳まれ、囲炉裏の炭も整えられ。

ゴルカの家は随分と雰囲気が変わっていた。


『グレイスがいかに大雑把であったかがよく分かるな。お前は本当、似ないで良いところまでリーナに似た』

『うぅ……』

『ぁ、いえ、かあさまはお仕事で忙しいので、お時間が足りないだけで……』

『い、いいのクリシェ。余計に辛くなるからやめて……』


グレイスは何とも情けない顔で俯き、ゴルカが笑う。


『ははは、確かに。帰ってきたら屋根裏の柱にまで登っていてびっくりしたよ。……クリシェ、屋根裏の掃除は今度禁猟日に俺も手伝うから、しばらくは待ちなさい。危ないからね』

『……はい』


明るく見えるのは掃除や整頓、それだけではないだろう。

クリシェが来てから数年、グレイスとゴルカは随分と明るくなった。

子が出来ずに悲しむ二人の顔を思い出して、そして今の二人を見比べると本当にそう思う。

グレイスはクリシェを神様からの贈り物だと言ったが、今はガーレンも同じく。


心がけ良く過ごしてきた二人へ与えられた幸福なのだと心から思う。


『ぁ……』


頭を撫でると嬉しそうに頬を緩めた。

喜ぶことも恥ずかしいのか、少し困った表情で目を泳がせる。


『く、クリシェはもう甘えん坊な小さな子供ではないので……』

『全く、誰にそんなことを』

『わたしにべったりで甘えん坊なクリシェちゃん、なんて言われるのが恥ずかしいんだって。ふふ』


グレイスが楽しげに答える。

少し前までは外に出る度、いつもグレイスの後ろに付きまとっていた。

今ではあちこちに一人で出かけるようになっていたが、それでもグレイスを見掛けると抱きつく癖があり、恐らくそれをからかわれたのだろう。

クリシェは人の視線を気にしすぎるところがあった。

行儀良く、礼儀正しく、不作法を嫌い。

からかう言葉も真に受けてしまうのだろう。


『小さかろうが大きかろうが、お前はわしの孫娘だ。グレイスが今もわしの娘であるように、お前がいくつになろうとそれは変わらん。祖父が孫娘をこうして撫でることのどこに問題がある?』

『えと……』

『グレイスも同様。母が子を愛でるのも自然なことで、子が母に甘えることも普通のこと――関係というのは変わるものではないからな』

『わ……』


華奢な腰を軽く掴んで持ち上げて、膝の上に乗せる。

子供の体はいつも、熱を帯びたように温かい。


『折角甘える相手がいるのだ、恥ずかしがらず今は素直に甘えるといい。大人になることを急かずとも、いつか自然に、お前も甘やかす側に回るだろう』

『……はい。えへへ』


この小さな体に帯びた熱は、この先の色々な可能性を示しているのだろう。

残り火となった自分とは違い、この少女の人生はまだ始まったばかり。


自分にこのような孫が出来たことが何より嬉しかった。

いつか自分の火が消える時を迎えても、グレイスやゴルカ、そしてこのクリシェが火を継ぐならば、それはきっと、何より幸せな最期だろう。


普通とは少し異なる少女。

多少の不安こそあれど、善良で、優しい孫娘。

この先何十年と見守ることは出来ないだろうが、自分の代わりに彼女を見守る者は現れてくれる。


それまでは出来る限りのことを。

ガーレンの最期の仕事はそれだけであった。







簡素なベッドが並んだ部屋だった。

その中の一番奥、月明かり差し込む窓際のベッド。


「ガーレン様!」


ふと目を開けると、胸元に寄りかかるような銀の髪。

眠るクリシェの美しい顔と、そして涙を滲ませた黒髪の使用人――アーネの顔。


「ここは……」

「軍学校の医務室です。急に倒れてしまわれたそうで、屋敷までお運びするのもどうか、と――あ、申し訳ありません、すぐにお医者様を……!」


慌てたようにアーネは部屋を飛び出し、そしてその音に目覚めたらしいクリシェが寝ぼけ眼をこすり、顔を上げ、ガーレンを見てほっとしたように微笑んだ。


「おじいさま……」

「クリシェ……」


クリシェは抱きつこうとして、困ったように手を止め。

ガーレンは苦笑しながら、孫娘の頭を抱いた。

体が酷く、重く感じる。

頭痛があり、思考はぼんやりと――体には力が入らなかった。


「……夜か」


両開きの窓から、月明かりの作る影――今は真夜中だろう。


「おじいさま、二日ほど眠っていて……あの、頭の中で、血が、その……クリシェ、魔力で押さえたのですが、でも、ちゃんと出来てるかわからなくて……」

「大丈夫だ。……こうして目覚めたのはクリシェのおかげかも知れんな」


昨日まで元気に働いていた老人が、突然倒れ、そのまま目覚めることなく。

よく聞く話、ガーレン自身、何人か見た。

恐らく、自分のこれもそうしたものなのだろう。


「……これは寿命と言うべきものだ。そう深く気にするものではない」

「おじいさまは、まだまだ元気です……まだ、寿命なんかじゃ……」

「もう60を超えておるからな。どちらにせよ、長くはないとわかっていた」


抱いたまま、腕を上げることも億劫だった。

ただ、それで良かった。

愛しい孫娘から、手を離す必要も感じない。


「いつ死んでもおかしくない歳だったが、生きていたのは理由があったから。……けれどわしは、きっと自分の生に満足したのだろう」

「……おじいさま、でも――」

「クリシェ、良いのだ。……人はいつか死ぬ」


力を込めて手を動かす。

子供の頃から、そのさらさらとした髪の感触は変わらない。


「寿命ならざる死は悲しむべきものだが、天寿を全う出来たなら、それは幸福に思うべきものだ。……泣かないでくれ」

「でも……」


胸元のシャツに、じわりと滲むものがあった。

それは熱を帯びて、ガーレンの体に染みこむようで。


「グレイスやゴルカを賊に、そしてボーガンも……お前だけはどうにか、幸せにしたいと心から思った。……けれどきっと、わしはもう役目を終えたのだろう」

「終えて、っ、ません、クリシェ、おじいさまが……」

「……お前は良い人達に囲まれている。少なくともわしは、これからもお前を安心して任せられると満足したのだ」


震える頭を撫でながら、微笑む。

――そう、満足だった。

満足して死を迎えることが出来る者など、そうはいない。

その上、愛する孫娘に看取られるのだ。

自分ほどの幸せ者はきっと、どこにもいないだろう。


「……少し面倒な頼み事を聞いてくれるか?」


しばらく返事は返ってこなかった。

頭を撫でていると、クリシェが言葉なく頷いたのを感触で理解した。


「お前と村を出てから、些細な願掛けのつもりで髪を伸ばした。役目も終わり……既に旅立っているかも知れないが……暇が出来たら、二人の木に埋めてくれ。それからガーラに礼を」


胸元で頭が静かに頷いた。


「些細な葬儀で良いと思うが、立場上難しいだろう。わしの家にある机の引き出しに、遺言状を書いてある。財産はお前に、金はそこから出してくれ」


ガーレンはそこまで言って苦笑した。


「とはいえ、口で頼むこともそうないな。……大抵、そこに書いてある」


ある程度見越して書き記した。

金を預けている商会にも伝えてあったし、特に問題なく後始末は終えられるだろう。


「……振り返れば、後悔の多い人生だった」


薄暗い天井を眺め、告げる。

妻は自分が戦場に出ている間に、病で息を引き取った。

自分が大人しく、狩人として過ごしていたならばきっと看取ることができただろう。

軍を辞めたのは命令で村を焼いたことだけを悔やんだ訳ではない。

単に責任を取ったという訳でもなかった。


耐えられなかったのだ、色々なことに。

いつか良い暮らしをさせてやる――そう約束した妻を戦場に出る度心配させ、その挙げ句に一人で苦しませて旅立たせ。

少なくともガーレンは、良い夫ではなかった。


「心を入れ替えた気になる度、失敗を犯した」


剣を置き、狩人に戻り。

一狩人として争うことから身を引き、良い父であろうとした。

しかし年月を掛けて培ったはずの力を錆びさせ、娘夫婦を失った。

父としても、守るべきものを守れずに。

そして、戦友であるボーガンも。


「何かを全うすることなく、半端者であったが故に大切なものを掌から零し……良い夫でも、良い父でもなく」


視線を震える孫娘に。

出来る限りの力を込めて、その頭を撫でた。


「……そんな人生で、お前の祖父としての自分は嫌いではなかった」

「おじい、さま……」


ガーレンは目を細めた。

落ちてくる瞼に委ねるように。


「お前の笑顔を見る度、お前が誰かに囲まれている姿を見る度……心の底から、ただ、良かったと思う。お前はきっと、これからも幸せに過ごせるのだと……」


そうして静かに目を閉じる。


「……お前の祖父で良かったと、心から思う」

「クリシェ、も……おじいさまが、大好きです」


鼻を啜って辿々しく。

ガーレンは満足そうに微笑んだ。


「……これからも、周りの者を大切にしなさい。そうすれば、きっと……」


言葉は掠れるように消えて、呼吸は静かに。

少しして、それも止まり、クリシェに伝わっていた鼓動も消える。


少女は体を跳ねさせて、それからただ、そこに残る熱を感じて体を静かに震わせる。

しばらくして医者を連れて来た黒髪の使用人は、それを見てその場に崩れ落ちるように両手で顔を覆った。








アルベリネア直轄軍副官でありながら爵位を受け取らず、貴族としては下級。

しかしガーレン=リネア=カルカの葬儀には非常に多くの軍人達が参列を希望し、その貴族としての地位からすれば随分と大きな規模のものとなった。

王都外周にある墓地の側。

棺こそ簡素であるが、王国の葬儀においては参列者が木組と薪を手ずから組み上げる。

結果として組まれた木組みの台座は将軍を見送るかのように大きなものとなっており、平民出身者に与えられるものとしては最大級であろう。


「――兵卒から百人隊長までを僅かな期間で駆け上がったガーレン様は、英雄ボーガン=クリシュタンドの上官として戦場を巡り退役。そして内戦では再び剣を取り、その副官となって武勇を示し、先日の大戦においてもアルベリネア直轄軍副官としてそのお力を振るいました」


その前で語るのは真紅のドレスを身に纏った女王、クレシェンタであった。

赤は王国において、その血を示す高貴な色。

葬儀参列において女王が真紅のドレスを身につけることは、その故人を死後、王国の血として迎え入れるという意味合いを持つ。


「地位や爵位を望まず、ただ人々のため軍務を全うし……今日の平和を築けたのはこのガーレン様のような、清廉潔白なる軍人の努力あってのものです。……ここにいらっしゃる多くの方はそれを知り、それ故この場に参列されているのは承知の上」


クレシェンタは参列者を眺め、続ける。


「ですが改めてそれを心に刻み込み、そしてガーレン様の安らかな眠りを祈るためにも……これよりひとときの間、黙祷を」


そして目を閉じ、参列者は皆がそれに倣った。

静寂が場を満たし、鳥の声だけがただ響く。


しばらく後にクレシェンタは手を叩き、彼等に目を開かせ。

そしてそれを合図に篝火の側から二人、軍服姿のクリシェとセレネがそれぞれ松明を手に台座に近づく。

セレネは隣のクリシェを気遣うように。

クリシェはぼんやりと、その足取りは重かった。


誰も声を発することなく、二人も声を発することなく。

二人は静かに台座の下、油を染みこませた藁へと火を付け、その場に松明を。

それに続くように、涙を堪えるようなコルキスを先頭に。

参列者も列を作り希望者が火を捧げていく。


「……大丈夫?」


ベリーたちの所へ戻りながらセレネが尋ねると、クリシェは静かに頷いた。


「……なんだか、ぼーっとして」


クリシェが顔を上げると、アーネが体を震わせながらベリーに抱かれていた。

ベリーはアーネの背中を撫でながら心配そうにクリシェを見る。

今朝からクリシェは何も口にしていなかった。


「クリシェ様……」


クリシェはふるふると首を横に振って、ベリーの隣に。

セレネはクリシェの腕を取って、指を絡めてぎゅっと握る。


「……かあさま達の時は、考えないようにして、一晩寝たら落ち着いて、すっきりして……でも、なんだか今日は……変、です」

「変じゃなくて、普通なの」


セレネは言って、手を離すとクリシェの前に。

頬を撫で、伏せられた紫の瞳を覗き込む。


「……大事な人が亡くなって、平気な人間なんていない。いつかは立ち直らなきゃいけないけれど、無理に急いで立ち直らなきゃいけないものでもないわ」

「セレネ……」


それからゆっくりと抱きしめ、頭を撫でた。


「ガーレン様、微笑んでたわ。……少なくともガーレン様はあなたに看取られて、とても幸せな気持ちでその最期を迎えることが出来たんでしょう。色々なことに満足して、ね」

「……そうでしょうか」

「ええ。でないと人生の終わりをあんな風に、笑って迎えることなんて出来ないわ」


お父様と一緒、とセレネは言った。


「そんな誇らしい人のお墓の前で、いつまでもみっともなく泣かないで済むように。今は素直に悲しんで、我慢せずに泣きなさい」


それから華奢な背中をゆっくりと撫で。


「……悲しい気持ちが涙と一緒に出尽くすまで。……葬儀は亡くなった人のためじゃなくて、見送る人間のためにあるんだから」


しばらく少女は黙ったまま、胸に顔を押し当て。

それから啜り泣くような小さな音が漏れ出した。


セレネはそんな彼女を愛おしげに抱きしめながら、弔いの炎を眺め。

その側で心配そうにクリシェを見つめていたクレシェンタに微笑み、頷いた。








――二ヶ月後、秋を前にカルカを訪れたのは銀の髪の少女と、赤毛の使用人。

二人は恰幅の良い女丈夫と共に、一本の木の前に立ち、穴を掘った。


真白い遺髪を取り出すと、ささやかな風。

木に掛けられていた一対の木札が揺れて落ち、顔を見合わせながらもそれに結んで穴の中へ。


丁寧に土を被せ、三人は揃ったように頭を下げる。

風が呼応するように、三人の頬をなぞるように木々の隙間を抜けていった。

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