第123話 弧を描く月
今日の夜は随分と空が澄んでいた。
星々が煌めいて、冷たい風は静かに流れ。
天に昇るは欠けて弧を描く、美しい三日月。
中天で儚げに、白銀に輝き辺りを照らす。
ゆっくりと吐息で手を温めて、ぼんやりベリーは空を見上げる。
大きく欠けた弧は歪で、けれどどこまでも美しい。
満ちて欠けてを繰り返し、真円の完璧さからはほど遠く、ふと空から消えてしまいそうな危うさがあって。
――ベリーはそんな月の姿が好きだった。
雪を踏む小気味良い音が背後から響いた。
ほんの少し歩みは遅く、不規則で不安定。
近づいてくるその足音にベリーは振り向く。
「お帰りなさいませ、クリシェ様」
「……はい」
側に寄ったその小さな体を抱きしめて、その月の光に似た銀の髪を梳くように。
そうして優しく撫でてやる。
「……言えませんでした」
「そうですか」
ベリーは言って自分の外套の内側に招き、言った。
「ほら、今日は綺麗な月が見えますよ」
――クリシェ様のお名前のように、とても綺麗な三日月です、と。
『――罪を償うため、それを告げることは一般的に正しいこととは言えるでしょう。けれど良いことだとも言えません。それまでの幸せ全てを壊してしまうことだってありえます。自己満足とも言えるでしょう』
ベリーはクリシェにそう告げた。
『……それを踏まえた上でクリシェ様がどうしたいか、どうするべきだと考えるか。重要なのはそれだけで、クリシェ様の心の内の問題。ただ……』
どうしろとも言わず、
『クリシェ様がそうして考えることは正しいことで、その結論に間違いはないとわたしは思うのです。きっとそれがどのようなものでも、少なくともわたしはそう思いますよ』
ただ選択をクリシェに委ねた。
夜の間までどうするのが良いのかとずっと考え、けれど中々答えも出ない。
体を触ってきた、ガロと同じ。
死んで当然だと思ったし、殺した時にはすっきりした。
今でもそれが完全な間違いだとは思ってなくて、けれどガーラを悲しませたことは、今では悪いと思っている。
それについて謝ることは、きっと正しいことではあるだろう。
でもガーラは知らない。気付いてもない。
そして息子の死を既に受け入れているように見え、クリシェとはずっと良い付き合いをしてきて、クリシェのことを愛してくれてもいる。
クリシェが子供を殺したことを知れば、きっとガーラは悲しみ怒るだろう。
今までの全部が紛い物だったことに気付いて、不幸になるのかも知れない。
自分が異常者のクリシェを愛していたことを、どうしようもない悲劇であったと思うのかも知れない。
伝えることは正しく、けれど良いことではない。
ベリーが言いたいのはきっとそういうことで、謝るべきではないのかもと思えた。
殺した相手に悪いだなんて。
そんなことを思ったことは、そもそも一度もないのだから。
「どうしたんだい、クリシェちゃん。改まって話なんて」
ガーラの家で食事を終えて、ベリーには先に出てもらった。
悪いことをしたのはクリシェであるのに、ベリーが一緒に罵声を浴びせられるなんて嫌だった。
ベリーはきっと、どのような罵声を浴びせられても黙ってそれを受け止めるだろう。理不尽だと怒ったりせず、まるで自分が罪を犯したかのようにその言葉を聞くのかも知れない。もし暴力を振るわれたって、抵抗もしないのかも知れない。
ベリーはいつも、クリシェのために努力する。
クリシェのためにと、どんな労苦も厭わない。
だから、ここにはいて欲しくなかった。
悪いのは頭のおかしいクリシェであって、決してベリーではないのだから。
ベリーに心から愛してもらえるクリシェになりたいと、そう思う。
ベリーと同じものを見て喜び、ベリーと同じことを感じて過ごし、ベリーが良いと思えるものが良いと、悪いと思えるものが悪いと、そう素直に思えるクリシェになりたいと思う。
「……クリシェちゃん?」
切っ掛けは全部、ベリーだった。
楽しげにガーラと話しているベリーを見たからだろう。
墓の前で涙を拭っていたガーラを見て、ベリーは悲しそうにしていたからだろう。
だからふと、もう思い出しもしなかった昔のことを思い出した。
ベリーにだって秘密にしておけばそれで済んだ話で、でも、胸の中がもやもやして、ベリーにだけはちゃんと言っておかなきゃいけないような気がした。
どうしてか、と思い当たることは一つ。
ベリーとの関係に、嘘を作りたくなかったのだ。
クリシェは他人が良く理解出来ない。
誰もがあやふやで、建前があって、言葉には嘘ばかり。
クリシェの普通はただでさえ彼等の普通ではなかったから、余計に彼等を理解も出来ず。
だから、クリシェは彼等に馴染めるよう建前を大事に、良い子に見えるよう努力して、評価を気にして過ごしてきた。
『――そうやってクリシェ様の色んな部分を教えてくださいませ。他の方はともかく、少なくともわたしはクリシェ様と理解し合いたいです。通ずるところが生まれれば、もっともっと色んなものが楽しくなります、幸せになれます。……わたしも、クリシェ様も』
だから、そう言われたことがすごく嬉しかったのだ。
クリシェのおかしな部分も全部、受け入れてくれて理解しようとしてくれて――そんなベリーにだけは、クリシェは嘘を吐きたくなかった。
そういう隠し事をして、ベリーとの関係に偽りを持ち込みたくなかった。
「その、おばさんに話しておきたいことがあって……」
クリシェはゆっくりと、そう切り出した。
『クリシェ様がこの先どんな罪を犯そうと、わたしはクリシェ様を愛し続けます。でもやはり、愛する方が知らずにでも罪を犯すのはとても辛いことで、そうならないようにとわたしはクリシェ様に様々なことをお教えしました。……罪を犯さぬまま、ただ幸せにお過ごしになってほしいからです』
罪は償うべきもの。
少なくともそれが罪であると知っているならば。
クリシェが罪であると感じるならば、そうするべきだろう。
ベリーはクリシェの幸せのために色々なことを教えてくれた。
共感だとか、愛情だとか、料理のことから何もかも――他人と過ごして得る何かについてを、いつだってベリーは教えてくれたのだ。
少なくともそれは、クリシェが作ってきたような偽りの関係のためではなく。
クリシェにいつも提示してくれたのは、偽りでない関係を作るための何かだった。
自己満足なのだろうとも思って、良いことであるとも思わない。
ガーラはクリシェのことが好きで、クリシェもガーラのことが好き。
良い関係であると思って、けれどそれは、偽りのものだ。
崩すことに不利益しかなくて、でもそうするべきなのだとクリシェは感じる。
クリシェはベリーのようになりたいと思う。
同じものを見て喜び、同じもので見て悲しんで、同じものを感じていたいのだ。
クリシェには正しいことも、良いことも分からない。
けれどもしもここにいるのがベリーならきっとそうするような気がして、だからクリシェは言葉を紡ぐ。
「おばさんの……子供のこと、です」
「……ケイル、の?」
ガーラは目を見開いて、顔を伏せたクリシェを見つめる。
「……はい。本当は……気にしてないっていいながら、クリシェ、ケイルとカティアスに悪口を言われたこと、すごく気にしてました」
ガーラは考え込むように眉間に皺を寄せ。
「色んな人に、クリシェの悪口を言いふらして、すごく迷惑に思って……いなくなればいいのにって思ってました」
クリシェの言葉を聞きながら、目を閉じた。
「だから、クリシェは――」
クリシェはそのまま言葉を続けようとし、
「クリシェちゃん、そこまでにしよう」
「……え?」
けれどガーラはそれを止めた。
驚いた様子のクリシェを見て、ガーラはため息をつく。
「料理の時も食事の時も、変だって思ってたんだ。あれだけ料理好きで食いしん坊なクリシェちゃんが暗い顔してるんだから」
「……おばさん」
そして、微笑を浮かべて続ける。
「今聞いたことで、あたしは納得した。でもそれ以上聞きたいとは思わない。だからクリシェちゃんがそれ以上話したくてもやめておくれ」
「でも――」
「いいんだ」
ガーラは天井を見上げると、しばらくそうして黙り込む。
目を閉じ、静かに呼吸を整え。
そしてクリシェを見た。
「……もうずっと前に受け入れたことで、そして今日はようやく、ケイルも旅立った。実際に何があったにせよ、どうであったにせよ……もう終わったことだ。その話を、おばさんは聞きたくない」
ガーラはクリシェの頭に手を伸ばす。
クリシェは一瞬怯えたが、堪えて動かず。
ガーラはその頭をただ、優しく撫でた。
「おばさんはクリシェちゃんが大好きで、今となっちゃ、クリシェちゃんはおばさんの生きがいみたいなもんなんだ。当時の真実がどうであれ……そう思える時間は過ごしてきたし、おばさんの中で色々と考え心に決めたこともある」
そうやって撫でながら、
「……今更何を言われたって、おばさんはもう、クリシェちゃんを恨めはしないんだよ」
ガーラは少し寂しげな、優しい目でそう告げた。
当時、クリシェが何か関係しているのではないか――そう疑ったことはある。
息子はそんなクリシェに対し酷いことをしていたし、グレイスが引き取ったクリシェが普通とは少し異なる少女であると知っていたからだ。
もしかすると息子に何かをしたんじゃないかと、思ったことがないとは言えない。
けれど彼女はそんな素振りを欠片も見せず、オーブンを借りに来て、一緒に料理をして。
そんな日々が日常に変わる内に、そうした疑念はいつの間にか消えてた。
以前よりずっと彼女の良い面ばかりが見えるようになって、それからは。
「……だから、その話はここで終わりなんだ」
村を守るため、賊を斬り殺したクリシェ。
グレイスや自分に甘えるクリシェ。
頑張り屋で礼儀正しく、でも食いしん坊で意地っ張りなクリシェ。
今でも村で過ごしたクリシェの色んな姿が、いつでも瞼の裏に浮かんでくる。
彼女が口にしようとした真実がどのようなものであれ、ガーラは彼女を愛することで再び幸せを手にしたのだ。
それ以上のことは必要なかった。
「でも、おばさん……」
「クリシェちゃんが納得いかないというなら、そうして黙っておくというのがクリシェちゃんに与えるあたしの罰だ。いいかい?」
「でも……」
クリシェはまだ納得がいかないように。
けれどガーラの顔を見て、諦めたように頷く。
「……はい」
「……いい子だ。ほら、おいで」
ガーラは目を伏せるクリシェを抱いて、その頭に頬を押しつけた。
愛おしむようにさらさらとした銀の髪を撫で、ガーラは笑う。
「……グレイスの分まで、おばさんはクリシェちゃんを愛するって決めてんだ。折角帰ってきたっていうのに、そんな顔はしないでおくれ」
クリシェは何も言えず、頷き。
ガーラは続けた。
「明日またお別れだって言うのに、寂しいじゃないか。おばさんはクリシェちゃんには笑っていてほしいんだ。グレイスだって、そう望んでる」
「……かあさまが?」
「そう、グレイスも」
クリシェの背中を軽く叩いて立ち上がり、そして閉じられた木窓を開く。
「……ずっと曇り空だったのに、今日は珍しく綺麗な三日月が見える日だ」
月を眺めて微笑み、またクリシェの所に戻ってくる。
「たまたまクリシェちゃんが帰ってきたそんな日に、夜空にクリシェが浮かんでる。……クリシェちゃんにはずっと笑って、幸せになって欲しいって、そんなグレイスの願いが聞こえるようだっておばさんには思うんだ」
戸惑うクリシェに、信じられないかい、とガーラは笑った。
笑ったまま、クリシェの額にキスをする。
「偶然にしたって運命染みた見事なもんだ。どうあれ少なくともおばさんはそう信じてるし、おばさん自身そう思ってる。……そう信じるおばさんのために、クリシェちゃんには笑って欲しい」
――ここに帰ってきて良かったって、明日はちゃんと、笑顔で帰ってほしいんだ。
ガーラはもう一度彼女の額にキスをした。
クリシェは目を伏せたまま、けれどしっかりと頷く。
「……わかりました」
「よし、それでいい。……今日はもう遅いし、ベリーさんも待ってるだろう。さ、行ってあげな」
最後まで優しい声と、顔のまま。
そんなガーラの姿が、クリシェの目に焼き付いた。
――クリシェは空を見上げることなく、ただベリーに顔を押しつけた。
ガーラが言った言葉をぽつりぽつりと彼女に話し、ベリーは黙ってそれを聞く。
ベリーはどこか安堵したように微笑み、クリシェの頭を撫でていた。
「クリシェ様がお決めになったことで、ガーラ様が望んだこと。……であればそれで良いではありませんか」
話を聞き終えたベリーはそう告げて微笑む。
クリシェには納得がいっていなかったが、けれど本人から口にするなと言われた以上クリシェに出来ることはもうない。
「本当は真実なんて、些細なものです」
クリシェが顔を上げると、ベリーは彼女の頬を撫でた。
「真実だなんて確かめる手段もなく、そんなものは言葉だけのまやかしのようなものですよ。人は皆、自分に都合の良い現実の中で生きてますから、そのまやかしの中で確からしい、都合の良いものを選んでいるだけです」
――それが本人の幸せに繋がるのなら、それで良いのです。
ベリーは言って自分の手を見た。
「望まぬものを真実であるからと押しつけて、それがその人の幸せを壊すならば、やはりわたしはそれを良いこととは思えませんし、クリシェ様の選択は間違っていないと思います」
「そう……でしょうか」
「正しいかはともかく、少なくともわたしはそのように思っています。人は自分にとっての真実を、選んで決める生き物ですから」
悪戯っぽく笑い、クリシェに視線を向ける。
「クリシェ様は、どうしてわたしがクリシェ様を愛していると信じてくださるのでしょう?」
「え?」
「クリシェ様にわたしの心の中が見えるわけでもなく。けれどそう思うのは、それが確からしくて都合の良い、幸せな真実だと思ってくださるからなのでは?」
「それ、は……」
途端にクリシェが不安になると、ベリーは苦笑する。
「わたしも同様、クリシェ様の心の中が見えるわけでもありませんから、本当の真実だなんてわかりません。でもクリシェ様が愛してくださるという現実がとても幸せなものに思えますから、信じるだけ」
クリシェを抱く手に力を込めて、体を密着させると額にキスした。
「……ほら、真実なんて些細なことでしょう? 大事なのはその真実という言葉を、どう受け止めるかという当人同士の問題です」
ベリーはそこまで言うと再び空へと目を向ける。
空には儚げな銀の三日月――それが辺りを優しく照らしていた。
「正しさも善悪も同じく、全て誰かにとっての都合の良い解釈でしかありません。社会的には多数派が正しく、少数派は間違いであると言われるのでしょう。……そういう意味においてクリシェ様は間違いであり、悪であるのかもしれません」
クリシェはその言葉に怯え、ベリーは続けた。
「けれど、クリシェ様がそうして悩んで出した答えをわたしは良い答えであると感じます。ガーラ様も色々なことを考えた上でクリシェ様に何も言わないように告げ、そしてクリシェ様もそんなガーラ様の言葉に心に留めるという選択を取り」
月を縁取るようにその手を伸ばして、目を細める。
「……お二人がお二人共に相手のことを思っての結果。その結論に見るべきはやはりそうした単なる一般論ではないと思いますから、それで良いと思うのですよ」
クリシェはそんな彼女を見て、ぼんやり視線を彷徨わせる。
本当にこれが正しかったかどうか、なんてことはわからない。
ベリーはそれでもクリシェを肯定する。
嬉しいような、怖いような、そういうよくわからない気持ちがあった。
「本当は、そうやってクリシェ様が悩んでいらっしゃるように、わたしもよくわからないのです。……本当は何が正しくて何が良いことなのか、わたしにだってはっきりとわかるわけじゃありませんから」
「ベリー、も?」
「はい。……人によっては、どういう理由であれ殺人は罪であり、許されるべきではないと仰る方もいるでしょう。わたしはそれを否定出来ませんし、その言い分に納得も出来ます。ある種の正しさがあるとも」
ベリーはふっと笑って、そのまま後ろへ倒れ込む。
膝まである雪に、その体を沈めて見せた。
「っ、ベリー!?」
クリシェは突如の奇行に驚くが、ベリーは雪の上に大の字になり、楽しげに笑っていた。
くすくすと少女のように、心配そうにしゃがみ込むクリシェの頬に手を当てる。
「でも、本当はそんな善悪や正しさなんて、わたしにはどうだっていいのです。……わたしは誰より、クリシェ様を信じておりますから」
冷えた体に雪の感触。
ずっと考え込んでいた頭が、落ち着くのを感じた。
何年前のことであろうとクリシェは罪を償うべきで、法に則った罰を受けるべき。
その考えは間違いではないと思う。ベリーがそうするべきだと告げるなら、彼女はきっとそうするに違いない。
けれどクリシェには力と、貴族としての権力がある。
実際問題彼女が村を出た時点で、王国貴族となった彼女をこの村が裁くことは難しい。今はなおさら――その権力の前には、この小さな村での罪などあってないようなものだ。
「……クリシェ様がどう言ったところで、どう望んだところで、クリシェ様を罪人として裁ける人間など王国のどこにもいないでしょう」
そんな真実を真実であるからと触れ回ったところで、誰にとっても不幸でしかなく。
では一体誰が、この少女の罪を裁くというのだろう。
「単に王国の利益という観点で見るならば、村人とクリシェ様など天秤に掛けるまでもなく。法でクリシェ様は裁けませんし、裁かれることもありません。……例えばクリシェ様がわたしを不愉快に思いこの場で殺したとしても、ついでにこの村を焼き滅ぼしたとしても、クリシェ様は誰にも裁かれることなく、きっと自由でしょう」
「っ、クリシェは……そんなこと」
「もちろん、わたしもクリシェ様がそのようなことをなさるとは思っていませんよ。けれど、そうすることがクリシェ様には可能だ、と言うだけの話です」
戦で殺すことは問題ないのか。賊ならば殺しても問題ないのか。
そこに、不愉快だからと人を殺すこととの差なんてない。
結局は利益のための大義名分、違いは聞き心地の良い理由があるかないか。
――殺人はどのような理由であれ正当ではなく、いつだって不当なものだ。
「クリシェ様はどんな規則も法も秩序も破ってしまえる力をお持ちです。クリシェ様が望み、力を振るうならば、どんなことをしても許されるでしょう。クリシェ様ほどの力の持ち主であればそれもきっと、間違いではありません」
「……え?」
困惑を見せたクリシェに、単純なことです、とベリーは続けた。
「所詮、法とは単なる形式でしかないのですよ。その法の及ぶ範囲で聞こえの良い、そういう正しさを示す文言でしかありません。……正義や悪、罪や罰という概念そのものがそこに宿るわけではないのです」
少なくとも、大切なのはそんな形式ではないだろうと思う。
戸惑う少女の紫色を見つめ、目を細めた。
「クリシェ様はわたしを殺しても構いません。お嬢さまだって、クレシェンタ様だって、王国中の人間を殺したって許されます。誰にも気を使わなければ、それだけの力がご自身にあるということはきっとご存じでしょう。そうすることはクリシェ様にとって間違いでもありません。……けれどそうしないのはどうしてでしょう?」
「……クリシェが、そんなことしたくないから、です」
クリシェは視線を揺らし、ベリーの意図を探るように。
不安を顔に浮かべてクリシェは答え、それを和らげるようにベリーは頬を撫でた。
「したくない。……いつか、人を殺してはいけないのは法があるからだとクリシェ様は仰いました。覚えておられますか?」
「……言いました。でも……そうじゃ、それだけじゃ、なくて――」
今は違うとクリシェは言いかけ、けれど自分の考えはそれから何も変わっていないようにも思えた。
ベリーは好きだから殺さない。セレネだって、クレシェンタだってそう。
ベリー達が悲しむから、クレシェンタに示しがつかないから、悪いことはしたくない。
それだけでしかなく、曖昧な思考は言葉にならず、いつか言った言葉は嘘で、間違いであったなどとクリシェはいうことも出来なかった。
良いことをして、良い子になりたいだけなのだ。
そして、そうであると認められたいだけでしかない。
だから何も言えずに口ごもり、ベリーはそんな彼女に微笑む。
「重要なのはそれだけですよ。……クリシェ様が今感じるそのお気持ちこそが、わたしは何より大切にすべきものだと思うのです」
「……でもクリシェは全然、良い子じゃ――」
「少なくとも、今のクリシェ様は正しさや善悪をその身で感じようとし、それを大切にしようとしておられます。誰かのために良くなろうと努力し、そのように真剣に悩むことが、何より良い子である証拠です」
心の底から、ベリーはそう思っている。
だから、美しいと思うのだ。
彼女はあまりにも強く、誰より優れた存在だった。
彼女を裁くことの出来るものなど、この世のどこにもいない。
彼女の正しさを力によって否定出来るものなど、どこにもいない。
「……クリシェ様の選択が正しいかどうか、わたしにだってわかりません」
人と異なりながら、普通の世界に生きようとする彼女にとって、その間違いを正す者がいないことは何よりの悲劇だろう。
彼女はあるべきものが欠けていて、それでも彼女が普通の世界で当たり前の幸せを手にしたいと願うなら、その方法は一つしかないと、そう思う。
「けれどわたしはクリシェ様が誰より優しくて、純粋なお方だと信じておりますから。……少なくとも、そんなクリシェ様が真剣に悩み、そうして選びだす答えに間違いはないと思うのです」
そしてベリーは、そんな彼女を信じることに決めていた。
ベリーがそう微笑むと、クリシェは怯えるように視線を揺らす。
そして、ぽつりと呟いた。
「……クリシェには、自信がないです」
「言ったでしょう? わたしにだって、自信なんてありません」
愛おしげにクリシェの頬をなぞり、続ける。
「……結果が正しいのではなく。そうして答えのない問題を真剣にクリシェ様が考えるということが、正しいことだと信じるだけです。物事で大事なのは、いつだってその過程だとわたしは思っていますから」
手で招かれ、クリシェは雪の上に沈む彼女へ倒れ込む。
「罪だと思うなら、クリシェ様なりに罪を背負い、罰を受けるべきだと思うならば、クリシェ様なりに罰を受け。再び罪を犯さぬよう反省し、誰かにとっての良いことができるようにと心がけ……考えることをやめず、逃げずに」
ぽふ、とどこか間の抜けた音が響いて、感じるものは温かさ。
「そうして努力を重ねることは良いことで、それはきっと、いつか正しさに繋がることだとわたしは思うのです。もちろん、とても大変なことでしょう。クリシェ様にとっては特に、難しいことなのかも知れません。……けれど、わたしはずっと、そうするクリシェ様の味方――」
凍り付くような雪の冷たさが、優しい声と、その体の感触を引き立たせた。
「世界中の誰もがクリシェ様を間違ってると仰っても、わたしだけは……そうするクリシェ様は間違っていないと胸を張って断言します。……そう、自信を持って誓います」
これでは不足でしょうか、とベリーは微笑み言って。
クリシェは溜息のように何かを吐き出す。
――世界中の誰もが、どう思っても。
ベリーはよくそんな言い回しを使って、クリシェに語る。
この言葉も、昼に言ったことと同じような言葉で。
けれど全く違う言葉に聞こえて響く。
それは脅しのような信頼であり――溢れるくらいの愛情に満ちていた。
「ベリーは……」
クリシェがどれだけおかしくても、異常者であっても、そのせいでどんな間違いを犯しても、目の前にある彼女はそれを正しいと言いきる気でいるのだ。
そうやって、クリシェとずっと一緒にいる気でいるのだ。
クリシェがどんなことをして、どういう風に言われたって、間違ったって、ずっと。
「……すごく、怖いです」
きっと、クリシェがそう感じることを承知して。
だからベリーは、自分の全てをクリシェに委ねる。
そこには無謀なまでの愛情と信頼しかなく――だからこそ、何より怖い。
「だから言ったじゃありませんか。わたしはこう見えてしつこいですよ、って」
悪戯っぽく笑う彼女は、空を見上げる。
クリシェは彼女に身を預けたまま、ふと、それに導かれるよう空を見上げる。
星の散らばる黒藍の空、中天には弧を描く月が浮かんでいた。
月と星空。風は冷たく、けれど触れ合う肌がそれ以上に温かく。
胸の内がざわつくような、燃え上がるような、きゅうと締め付けられるような――そういう不思議な感覚が満ちていた。
けれど不快ではなく、むしろ真逆で。
このまま転がり走り回ってしまいたくなるような高揚があって、楽しいような嬉しいようなよくわからない熱が心臓を跳ねさせて。
「……でも、クリシェ様がわたしを愛してくださるように、わたしの語るあやふやな幸せを信じてくださるように。わたしもクリシェ様を愛し、その全てを信じると決めております。……だから、嫌がらずにずっと、お側に置いてくださいませ」
――ああ。
その言葉にふと、思い浮かんだものがあった。
クリシェという名は、この三日月を意味する言葉。
それは母が父にプロポーズを受けた夜、空に浮かんでいたもので。
その日の自分が感じた幸福が、自分の娘にも訪れるように。
あの美しい月を誰かと共に見られるように。
そう願われて、母につけられた名前だった。
ずっと意味が分からなかった。
景色を見ることにクリシェは何も感じなくて、美しいとも思わない。
母の願いが叶うことはきっとないだろう――ぼんやりとそう感じていて、けれど。
隣を見る。
散らばり雪に絡んだ赤い髪。
長い睫毛は月明かりに煌めいて、包まれるのは優しく大きな茶の瞳。
すらりと形の良い鼻梁と、薄紅の柔らかい唇。
視線が交わると、心臓がきゅう、と縮んだように、苦しくなる。
「かあさまは……多分」
「……?」
やはりそれは不快ではなく、どうしようもないほどの幸福感に満ちていた。
「……こんな気持ちだったのかも知れません」
クリシェは顔を寄せて、その唇に唇を重ねた。
銀の髪が赤い髪に混じり合い、月の光が雪の大地に反射して、きらきらと。
綺麗だと、理由もなくそう感じる。
何故か、どうしてかもわからず、ただただそれが綺麗なものに見えた。
優しげに、嬉しそうに細められる瞳も、熱も、感触も何もかも。
今まで感じたどんなものより幸せなもので、言葉もなく、その感触を味わうように。
飽きることなく、言葉に出来ない何かをそれで示すように。
ただそうして繰り返した。
それは故郷の雪の上。
――弧を描く月が夜空に浮かぶ、そんな日のことだった。
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