第117話 表裏中庸

王宮の応接間。

そこにあるのは大柄な体躯の老人であった。

後ろに撫で付けた髪も、長い髭も真白になり、顔には深い皺が刻まれている。

それでもその細い目はどこか鋭さを帯び、覇気と言うべき何かが老人の体から立ち上るようだった。


真正面に座るのは赤みを帯びた金の髪――淡い青のドレスを身につけた女王クレシェンタ。

その隣には外套を脱いだクリシェがワンピース姿でちょこんと座る。


楽しい旅行に出る前に一件、おねえさまに立ち会って欲しいのですけれど。

旅に出る前日、クレシェンタに誘われクリシェはこの場にあった。

クリシェを希望したのは目の前にいる老人フェルワース=キースリトン。

かつて勇名を馳せた王国の英雄――そして一度は刃を向け合った相手。


「お元気そうで何よりです、女王陛下。クリシェ様も」

「ええ、キースリトン公爵。あなたも元気そうですわね。今日はどういった用件かしら?」


――王女に刃を向けた反逆者。

しかしクレシェンタは彼がギルダンスタインに身内を人質に取られ、望まず戦場に赴いたということとし、処刑ではなく謹慎を命じていた。

軍においては今なお影響力を持ち、名声高きこの男を殺してしまうのは勿体ないと感じたのだ。

将軍としての手腕は確かで、元々軍を引退するまでは元帥位にあった人物。

多くの将を失った王国には彼の復帰が望ましい。


一度クリシェも交え話をしたいという旨の文が届いており、クレシェンタはどうするべきかを迷っていたのだが、クリシェが王都を離れるという話を聞いてそれを承諾。

旅に出る前にクリシェからの評価を上げるべく『女王として格好良いところを見せますわ大作戦』を行ないたかったのも理由であるが、悩んで時間を掛けたところで何かあるわけでもない。

この男の扱いは早めに決めておこうという考えであった。


素直に自分の手駒になるならそれで良し、ならないのであればそれで終わり。

いずれ殺す。

それだけのことだ。


「まずは、私の助命に力を注いでくださったことの感謝を」

「構いませんわ。王国に誰より長く貢献した将軍――このようなことで命が失われるのは惜しいと、そう感じましたの。あなたにも、あなたなりの信念があり立たれただけのこと……それがわたくしの側でなかったことは、残念でしたけれど」


クレシェンタは王女の顔で目を伏せた。

クリシェは早く帰って屋敷のことがしたいところであったが、長話になりそうな雰囲気にクッキーをつまむ。

フェルワースとは戦場で敵対した身であったが、それが終わった今、この男はクリシェに取ってはどうでも良い存在だった。

ノーザンとの戦いの顛末を聞けばそれなりに優秀な将軍であるとは思っているが、それだけ。

敵対するなら殺すし、味方になるなら適当にやってくれればそれでいい。

彼個人への興味は一切なかった。

フェルワースはそんなクリシェを見て微笑み、クレシェンタは口を開く。


「でも、全て終わったこと。ひとまずはそのことを水に流しましょう。気を使わず、以前と同じように話して頂いたほうがわたくしとしては嬉しいですわ」


そこからしばらくは雑談のようなものだった。

フェルワースの親族のことについてや体のこと、深くは入り込まず当たり障りない世間話のような話題をクレシェンタは彼に振る。

クレシェンタは彼の家族構成や使用人、飼っている犬の名前から馬の数に至るまで全て記憶している。

そこから話題を作る程度のことは容易で、場を和やかにするため答えやすい質問を繰り返した。

自分に刃を向けたのだということは忘れてもらっては困るが、とはいえこれより自分の臣下とするのであれば、あまりそのことに対して引け目を感じすぎてもらっては困る。


特にフェルワースのような武人というものは、自分の利益以上に建前に重きを置く生き物。

お前は裏切り者であるなどと引け目を感じさせすぎると、自罰的になりすぎて貴族としての爵位を返上などと自主的に罰を求めてくる可能性もある。

当然そこには何の利益も生まれず、ただ優秀な人材が一人減ったという結果が生まれるだけ。

それでは何の意味も無い。

ひとまずは適当な話題で彼の緊張をほぐし、罪悪感を和らげ、本題はそこから入るのが良いだろうとクレシェンタは判断する。


とはいえ、気になるのはクレシェンタの隣で退屈そうにクッキー割り人形と化しているクリシェである。

それを見るとどうにも、この会話を続けることはクリシェの評価を上げるどころか下がっているのではないかという不安に駆られ、適当なところで打ち切ると本題へ。

質問を終わらせ、場に僅かな沈黙を作り、それとなくフェルワースをうながすと、まずはどうして王弟殿下についたかですな、と老人は切り出した。


「……私は殿下の子供の頃から、その成長を見て来ました。剣を教え、戦術を教え……信念というよりは親心、というべきでしょうか」

「親心?」

「私は当初、此度の内戦を静観するつもりでした。お仕えしたアルバーザ先王陛下がお亡くなりになり、私の役目も終わりと一線を退いて長かったものですから」


アルバーザはクレシェンタの祖父に当たる。

フェルワースは勇猛で知られたアルバーザ王と共に戦った将軍で、代替わりからしばらくして一線を退いた。


「事情は他のものよりは知っております。殿下にも言い分があり、女王陛下にも言い分があり――どちらが正しいか、どちらに大義があるのか。しかしそれは些細な事……どのようなときも、結果として勝者が正しくなるものです。はじめに申し上げておくならば、真実に興味はありません。……王位簒奪者は殿下で、女王陛下はそれを打ち破った正義の新王――それでいい」


本当の簒奪者はクレシェンタであると、暗に言っているようなものだった。

しかしクレシェンタは平然とその言葉を聞き、フェルワースは静かに笑う。


「殿下もわかっていたのでしょう。大義名分で私を動かそうとしたわけじゃありません。ただ一言――自分の存在を賭けた戦いに協力しろと仰いました。ただ純粋なる力を持って、王として相応しきものを決める戦いを行ないたいと」


『俺のこのくだらぬ生に先があるかないか……一つの賭けのようなものだ。ただ勝負を打つにも手が足りぬ。お前が必要だ、フェルワース。――俺と共に来い』


「殿下に大義を見たわけでも、女王陛下に思うところがあったわけでもなく……単に義理と、これまでの全てを見て来た者としての親心。刃を向けたのは単なる情です。それ故、殿下の手助けを」


フェルワースは寂しげに笑って、クリシェに目をやる。

クリシェは眉を顰めて首を傾げ、フェルワースは尋ねた。


「殿下の最期はどのようなものでしたか?」

「……? クリシェが首を刎ねて殺しました。あれだけクリシェから逃げ回って、最後の最後では降参するのかと思ったのですがよくわからない人ですね」


死んだ後も笑ってましたし、とクリシェがどうでも良さそうに告げる。

クレシェンタはギルダンスタインへの嫌悪が滲んだ姉の言葉にフェルワースを見るが、老人はそうですか、と微笑んだまま頷いた。


「ならば良い。納得の最期だったのでしょう」


その言葉と共に、しばらく静寂が流れた。

クレシェンタはどういう方向で手駒にしようかと考え悩み、クリシェはこのよく分からない話し合いに参加させられた不幸を呪い唇を尖らせる。

クッキーをつまみつつ黙り込んだ二人を眺め、口を開いた。


「あの、お話が終わりならクリシェ、ベリーのお手伝いをしにお屋敷へ帰りたいのですが」

「お、おねえさま、ちょっと待ってくださいまし。もう少し……」


立ち上がろうとするクリシェをクレシェンタが慌てて押さえ、クレシェンタの様子に少し驚いたフェルワースは尋ねた。


「ベリーとは?」

「クリシュタンドの使用人です。……クリシェは今日ベリーとお屋敷の大掃除をする予定だったのに、クレシェンタに呼ばれてここにいるんです」


不満そうにクリシェはフェルワースを睨み、老人は笑う。


「くく、元帥に次ぐアルベリネアともあろうお方が、使用人と大掃除ですか」

「クリシェにしてみればそっちの方がおまけです。ベリーとお屋敷でお料理したりお掃除したりする時間を邪魔されないよう、軍に入ってるだけですから」


クリシェは言い切った。

フェルワースはしばらくクリシェを見て、どこか納得したような表情を浮かべた。


「なるほど、おまけと」

「そうです。……クリシェに聞きたいことは終わりですか? キースリトン公爵がクリシェを呼んだと聞いたのですが」

「……いかにも。お聞きしたいことがありました」


しかし半分聞いたようなものですな、と苦笑する。


「あなたが何のため戦っていらっしゃるのか、それをお尋ねしたかった。何のために剣を取り、戦場に立ったのか――あなたがどのようなお方なのか。それを知りたいと思い、文にはクリシェ様の名を」

「……戦場に出るのはセレネとクレシェンタのためです。別に戦場になんか行きたくないですし、二人が良いならクリシェ、みんなでそんなのと無縁などこかの山奥で静かに暮らしたいくらいです」


不機嫌そうにクリシェは腕を組んだ。

クリシェの短い人生の中、最低の人間と言えばギルダンスタインである。

思い出したくもない程度には嫌いで、もっと痛めつけて殺してやれば良かったと思う程度には不愉快な存在。

軍人として敵味方に分かれるのはどうでも良く、その点で敵であったフェルワースに対して恨みもないが、彼の事を悼むようなフェルワースの様子は不愉快であった。

ギルダンスタインはクリシェの中で死んで当然――必ず殺すと決めた相手である。

そんな話をクリシェの前で繰り返すというのはどのような理由によるものか――


「クリシェにはあなたたちの言う大義だなんだって美意識はよくわかりませんし、あなたたちの関係も、死んだ殿下のことも興味はないです。……ご当主様を殺して、みんなを悲しませて。クリシェからすれば目障りで不愉快――死んで当然の相手です」


クリシェはフェルワースに無機質な紫色を向ける。

クレシェンタが慌てたように声を掛けるが、クリシェは続けた。


「だからクリシェが殺しました。それが気に入らないならはっきりと言えばいいですし、剣を向ければ良いでしょう。そうしたら、すぐにあなたも同じように殺してあげますから」


フェルワースはその凍てついた瞳を見つめ、苦笑する。

そして紅茶を啜ると首を振る。


「……ご不快に思われたなら申し訳ありません。確かに、クリシェ様からすれば仇となる相手――あまりに私の配慮が足りませんでしたな」


しかし、とフェルワースは微笑を浮かべて続ける。


「私のような老いぼれに執着するほどの命などありません。脅しというものはそれを恐れぬものに対しては無意味なもの――覚えておくとよろしいでしょう」

「無意味かどうかはクリシェが決めることです。……二度と口が利けないようにするだけで、少なくともクリシェはすっきりしますから。要は許容出来るかどうかです」


不愉快そうに告げると、フェルワースは愉快そうに笑う。


「はは、なるほど。そういう考えもありますか。シンプルで良いものです。私が単純なものを複雑に捉えすぎているだけか……」


この会話のどこに楽しいものがあるのか、クリシェには不可解である。

クレシェンタは何やら口を挟めなくなってしまった状況に、クリシェとフェルワースを見やり、何かを言いたげに挙動不審な姿を見せる。

落ち着きのないそんなクレシェンタにクリシェはため息をつくと、クッキーをつまんでその口に押しつけた。クレシェンタは条件反射で咀嚼する。


「お許しを。クリシェ様に対し恨みを持っているわけでも、殿下を殺したことを責めているわけでもありません。むしろ、感謝してるほどです」

「……感謝?」

「ええ、知略を尽くした果て、一騎打ちでの決着――それはどのような死よりも尊き、武人としての本懐でしょう。王家に生まれたことを呪っていた殿下には、何よりその死が救いであった。無論、クリシェ様にとっては憎悪すべき相手……その救いは不本意なことであったことと思いますが、それでも生まれた頃から殿下を見て来た私にはそれが何より、良かったと思えるのです」


フェルワースは続けた。


「それでも配慮に欠けたことは事実。私が許せぬと仰るならば、この命で償うことに躊躇もありません」

「……面倒な人ですね。とりあえずクリシェは殺せるなら三回……いや、四……んん、五回くらい殿下を殺してやりたいと思うくらいに嫌いですから、そういう話はクリシェのいないところでしてください」

「はは、肝に銘じましょう」


クリシェは不満をありありと浮かべながら言った。


「面倒なのでクリシェが聞きますけれど、クレシェンタはあなたの将軍復帰を希望です。今回殿下についた将兵に理由をつけて裁かずにいるのもそれが理由で、王国の戦力低下を極力防ぐためのもの。あなたが殿下に与した理由は今となってはどうでもよく、あなたが戦力になるのかならないのか、聞きたいのはそれだけです」


フェルワースは笑い、長い顎髭を撫でた。

あまりに直球――クッキーを食べていたクレシェンタはそれはよくないだろうと言いたげに姉を見るが、口の中にはクッキー。

物理的に口を挟むことも出来ない。


「どうでも良い……敵対した私を恨む気持ちはないと?」

「旗が違っただけの話でしょう。もう戦は終わり、あなたがそれを持ち出すのでなければクリシェはどうだっていいです。幸いセレネやヴェルライヒ将軍、ガイ――ファレン副元帥もあなたに対して思うところはないように見えますから、特に問題はありません。……あなたが感謝してるというなら、その分精一杯働いてその感謝を返すべきだとは思いますけれど」


フェルワースはクリシェを観察するように。

クリシェは不機嫌そうにクッキーをつまみつつ、クレシェンタに与え。

真面目な話し合いであるのかそうでないのか、よく分からない混沌とした状況であったが、フェルワースはゆっくりと頷く。


「すっきりとしたお方、というべきなのでしょうな。危うさはあれど、しかし懸念したようなものはなく……戦はお嫌いですか?」

「嫌いです。……喜んで戦う人達もいますけれど、クリシェはそんなことで無駄な時間を取られるなら、ベリーとお料理してたいですから」

「はは、そうですか。私などは戦場に慣れすぎて先日は少し懐かしく感じたほどでした。ある面を見れば魅力的な場所ではあるのですが、とはいえ……しかし決して良い場所とも言えないのは事実でしょう。……クリシェ様がそれに魅入られるようなお方ならば、私も考えるつもりでしたが」


フェルワースは微笑んだ。


「ファレン辺境伯の言うとおりでございましたな。重ね重ね、無礼な質問お許しを」

「……ガイコツ? ああ、副元帥と会ったのですか?」

「ええ、先日。……本当にガイコツと呼んでいるのですか」

「はい、愛称です」


フェルワースは楽しそうに頷くと立ち上がり、敬礼した。


「こうして改めてお会いして、納得が出来ました。そのお話、お受け致しましょう。老い先短い身――この先何十年と、とはいきますまいが、それでもお役に立てるならば」

「ん……はい、まぁ、そう言ってくれるならそれで良いのですが……クレシェンタ、まだ話がありますか?」

「うぅ……ありませんわ……」


延々とクッキーを無限に投入されていたクレシェンタはようやく全てを飲み込み、フェルワースを見る。

既に女王としての威厳は完膚なきまでにクッキーと共にかみ砕いてしまっている。

どのような顔を作れば良いのか迷いつつ、一応女王として告げる。


「お……追って元帥より指示が出るでしょう。それまでは」

「ええ、かしこまりました。……しかし、随分と仲がよろしいようだ。良い関係のようですな、以前に比べお顔も柔らかい」

「……怖い顔をしていたつもりはないのですけれど」

「感情は滲み出るもの――全てを覆い隠すというのは難しいものです。わかるものにはわかるでしょう……とはいえ、今のご様子ならば心配もない」


――きっと、これからの王国は良い国となるでしょう。

フェルワースは遠い目でどこかを見るように、そう言った。







「どう、とは。また直接的ですな」


そこは元々、中央将軍クラレ=マルケルスの屋敷であったもの。

当主の死亡、それも内戦で敗れてのことだ。マルケルス公爵家は資産の多くを王国へ『寄付』し、家の取りつぶしは免れたものの、その補填のため保有していた屋敷をいくつか売りに出した。

一級市街にあるその屋敷もその一つで、そこは現在ファレン家の屋敷としてエルーガが使っている。


それは先日、エルーガがそこに訪れたフェルワースを歓待していたときのこと。

フェルワースが彼に尋ねたのはクリシェのことだった。


「王家の忌み子については、それなりに知っている。アルバーザ先王陛下が涙を呑み、泣かぬ赤子として実子をお手に掛けたのも見て来た」


――三百年ほど前のことだ。

地方を治める領主が権力を持ち、王権に陰りが見え始めた頃、生まれたのは一人の泣かぬ赤子であったという。

レイネ――強き光と名付けられた美しき王女は十五で女王となると、当時有力な貴族であったガスレ公爵を婿に取り、その力を持って瞬く間に王宮を掌握する。

数年後に公爵は不審な死を遂げ、それによりガスレ公爵家を吸収したのを足がかりに、各領主から平和的、あるいは武力を持って権力を取り上げ牛耳り、たったの十年で彼女は王国を今の形に作り直した。

そして彼女は周辺諸国への侵攻を開始、版図を大幅に拡大し――その功績だけを見るならば偉大なる名君と呼ばれても良いだろう。

だが彼女はその輝かしき功績とは真逆、不名誉な噂を多く持っていた。


淫奔な人物で、その容姿を用いて多くの不義不貞を結んでいたこと。

権力を用いて刃向かう臣下全てを容赦なく殺害しており、ガスレ公爵を婿としたのも実権を握るため――彼を殺したのは彼女であると当時から密かに噂されており、自身の利益のためならばどのようなことでも躊躇なく行なう異常者であると言われていた。


「大小あれど、泣かぬ赤子は優れた才覚と常人と異なる感性を有するという。ある時は多大なる功績を残し、ある時は安定と調和を乱し――歴史には?」

「書を簡単に眺めた程度ですな」

「そうか。神聖帝国との分裂は知っていよう?」

「ええ。書いてある程度のことしか知りませんが。王国の書物にあの時代のことが書かれているものは少ない」


何人もの子を成したレイネに生まれたのが、もう一人の泣かぬ赤子。

同じくレイネと女王より名付けられた彼女が生まれたことで、女王は偉大なるレイネ――グラバレイネと。

生まれた彼女は小さなレイネ、エルスレイネと呼ばれるようになった。


グラバレイネは自分の子の中で誰よりも優れたエルスレイネを強く可愛がったが、エルスレイネは快活な彼女とは違い、物静かで絵を描くことを好む優しき王女。

政治的なものか、あるいはその性格からの個人的なものか。

ある時から二人の間柄は険悪なものとなり、エルスレイネは彼女の恐怖政治へ不満を持っていた多くの臣下と共に反乱を起こした。

広大な版図を手にしていた王国は真っ二つに分かれ、エルスレイネはエルスレン共和国――『小さな楽園』を作り上げることになる。


王国は当然共和国に軍を向け、この戦はすぐに終わるものと思われた。

エルスレイネの敷いた共和制は議会が首脳部となる。

意見が割れればその分対応も遅れるのは当然のことであり、グラバレイネは果断さに富んだ女王。

その脆弱点を突かぬ訳もなく、また軍事力の差もあって共和国は劣勢を強いられる。


しかし追い詰められるにつれ共和国議会はその本来の形を失い、反乱を指揮したエルスレイネに再びその実権が委ねられると、徐々に共和国も王国の侵攻に抵抗し始める。

エルスレンは彼女の絵画が描く理想郷を元にした教えを広く伝え、民衆を味方につけると彼女を頂点に置いた神聖帝国を名乗るようになり――そこから戦いは拮抗、その後数十年に及んだ。

王国はそれまで手にした多くの領土を失い、女王グラバレイネの暗殺を切っ掛けに両国の間へ講和が結ばれたものの、残されたのは荒れ果てた領土と民。


そこから王国では泣かぬ赤子は忌み子とされ、禁忌であるとされている。


「……王国と帝国――それぞれの指導者二人は泣かぬ赤子であったとされ、それより王家はそうして生まれた子を忌み子として殺すことに決めたという。アルバーザ先王陛下の時代、忌み子についてを調べてな。幸い皇国との伝手もあり、それを見ることはできたが――良し悪しはどうあれ、王国の安定のために行なった苦渋の決断と言うべきか」

「くだらぬ話ですな」


エルーガは言って、酒で唇を湿らせる。

クリシェを愛する彼は本心からそう考えていた。


「泣くか泣かぬか――それで仮に見分けがついたとして、その赤子の善悪を見極められる人間がどこにいるというのです。人は皆善悪両面を併せ持つもの、己こそ真の善だと言い切れるものがあるならば私は見てみたいものですが」


誰しも良い面、悪い面がある。

善であろうとするものはいても、真なる善などどこにもいない。

悪も同様――コインの裏表を合わせて一個なのだとエルーガは考える。


「クリシェ様は確かに人とは異なった方ではある。異常者と呼ぶものもいるでしょう。けれどあの方は少なくとも善悪を知ろうとし、善なるを尊ぼうとする方です。なまじくだらない知恵を巡らせる輩よりは、ずっと純粋な心をお持ちだ」

「……ふむ。不安はないと?」

「不安がないものがこの世にあるとするならば、死を迎えたものだけでしょう。少なくとも私は残りの生を、クリシェ様の助けとするために使おうと思っております。安心とは言えないまでも、側で見守るものがいればそれで良い」


エルーガの言葉に少し驚いたようにフェルワースは長い顎髭を撫でた。

そして、意外だな、と告げた。


「人嫌いな君がそこまで言うほどとは」

「人嫌いなどと心外ですな。私は元より、純粋な方は好きですよ。この顔ゆえ、子供にはよく怖がられるのですが……」


エルーガは苦笑し、続ける。


「はは、しかし今ではクリシェ様にガイコツなどと呼ばれておりましてな。昔は気にしていたものなのですが、あの方にそう呼ばれているといつの間にかこの顔も悪くないもののように思えてくる。……困った方で、不思議な方です」


なんというべきか困ったフェルワースであったが、エルーガは笑った。


「なんにせよ、一度会ってみるのがよろしいでしょう。好きか嫌いか、個人的な好悪は分かれましょうが、愉快な方ですよ。……少なくとも、悪い方ではない」


邪悪な顔で告げられた言葉に嘘は感じず。

それを聞いたフェルワースはなるほど、と深く頷いた。

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