第96話 幼き将軍少女


クリシュタンドの大天幕であった。

中にいるのは執務用の簡素な机に頬杖をつき、椅子に座ったセレネと腕を組むガーレン。

そして困惑したようにその隣に立つアーネ。

その前にはクリシェがあり、ミアがあり、カルアがあり、エルヴェナがあった。


また、たまたま所用――という建前でクリシェに会いに来ていたエルーガが椅子に座り、何やら愉快げに邪悪な笑みを浮かべている。

隣には上官の邪貌に身を引くクイネズの姿もあった。


セレネは手元の契約書に目を落とし、目頭を揉む。


「えーと、その商人を痛めつけたりだとか、そういうことはしてないのね?」

「むぅ……クリシェはそんなことしてませんよ。ちゃんとお話して、その結果向こうから言い出してきたことですから。その商人さんはクレシェンタのためにすごく頑張りたいそうで……」


寝耳に水のロランド処刑。

エルヴェナの債券購入、後方支援の取り付け。


到着して聞いた話にセレネはなんとも、頭痛が痛い心地である。

詳細に書かれた契約書にはエルヴェナの債権に対する購入代金が含まれている旨が記されてはいるが、形だけであることは明らかである。

契約の金額は相場の三分の二――商人側に利益が出るのか怪しい数字。

明らかに脅されたとしか思えない契約であるが、こうもクリシェが言い切るのだから少なくとも意識的にそのような行為はしていないのだろう。

無意識に脅しただけで。


「はは、良いではありませんか。結果としては良いことです。ロランドに関しては私が伝え忘れていたところも悪かったですな」


エルーガが告げ、セレネは睨む。

この老人も密かにクリシェに協力していたらしく、キールザランの顛末に関しては随分な事情通であった。


「確かに、それはそうだけれど。性格が悪いわねファレン軍団長、将軍のわたしを蚊帳の外かしら」

「いえ、そのようなつもりは。だからこそ、こうして報告に参っております。南北分断された状況では連絡を取ることもできませんでしたから……クリシェ様をお叱りにならぬよう。処刑に関しては南にあった我らの総意でございましたから」


まったく、とセレネは嘆息し、机越しにクリシェの頬をつまむ。


「うぅ……」

「商人相手のあれこれは結構ややこしいの。横の繋がりが大きいからね。今回は仕方ないとして、これからはちゃんとわたしにも話すこと」

「……ふぁい」


セレネは微笑み、頬をつまんでいた手を頭に乗せた。


「とはいえそれは家長として、将軍として。……姉としてはあなたがそうやって、誰かのために頑張ったことに関しては嬉しく思うわ」

「……セレネ」

「本音を言えばわたしが来るまで待って、それから相談してほしかったけれど。……気持ちは分かるわ、でも、もっと信用してちょうだい」

「……はい。ごめんなさい」


カルアとエルヴェナ。

目の前の二人をどうしても助けたかったのだろう。

けれどセレネがもしもダメだと言えば、クリシェにそれは出来なくなってしまう。

その場合クリシェはきっと、セレネの結論を優先するからだ。


だからクリシェは先んじて事後承諾という形を取った。

悪く見れば小賢しいやり方と言えるが、けれどそういうずるいやり方を使っても、クリシェは二人を助けてあげたかったのだ。

クリシェが他人に対してそういう風に考えることはとても嬉しいことではあったが、それは大人の立場からの目線である。

セレネとしてはやはりそういう時こそ自分を頼ってほしいという気持ちがあって、だからこそちょっと悩ましい。


真面目で素直で、普段甘える以外のわがままを言わないクリシェだからこそ、自分に対してはもっと、そういうわがままを言って欲しいのだ。


「……ありがとうございます、将軍」


カルアが頭を下げ、エルヴェナとミアがそれに続く。

セレネは手を振り嘆息した。


「礼はクリシェにしなさい。……それと、債権なんてあってないようなものなんだから気にしなくていいわ」

「はい。とはいえ、返しきれない借りが出来ましたから、働きで返します」


カルアは微笑み、セレネは頷く。


「そうしてくれると嬉しいわ。クリシェをよろしくね」

「はい」


敬礼するカルアにクリシェが振り返る。


「ん……なんだかクリシェとしても今一納得がいかない終わり方でしたから、本当に気にしなくていいですよ?」

「ふふ、そんなこと言わないの。これからはうさちゃんのために精一杯働くことにするよ」


カルアはクリシェの頭をわしわしと撫でた。

クリシェは少し迷惑そうに、けれど嬉しそうに微笑み身を寄せ。

エルーガとガーレンはクリシェが部下から本心からの好意を向けられていることを喜び頷き、それを見たセレネは先日と同じくまたも硬直する。


「あ、それと、エルヴェナが今行く当てがないみたいなので、アーネと同じく身の回りのお世話をしてもらおうかと思うのですが……」

「え、エルヴェナ……」


ちら、とセレネはクリシェの隣を見る。

見られたことで緊張した様子のエルヴェナ――その顔は眼前でクリシェの頭を撫でるカルアとそっくりである。


「はい、とっても気が利きますし、優秀なので安心です。お茶を淹れるのも上手ですし、お料理の手伝いもちゃんと出来ますし。身の回りのお世話は完璧で……」


クリシェはアーネをちらりと見た。

意味深な目線である。今度はアーネが硬直した。


「ともかく、今回の戦いが終わるまではそういう扱いにしようかと思うのですが」

「そ、そう……構わないけれど」

「えへへ、良かったです。じゃ、しばらくお願いしますね、エルヴェナ」

「は、はい……」


クリシェはエルヴェナにも身を寄せ微笑む。

エルヴェナは困ったように苦笑して、ありがとうございますなどとクリシェに微笑んだ。


セレネの心中では何ともいえない感情が踊っていた。








――明日明後日を再編成と兵士達の休息に当て、三日後には出発。

そして、それで此度の内乱の終わりとする。


クリシェにとっては最後の休息。

これが終わればセレネとはまたしばらくの別れ――いつも通りセレネにたっぷりと甘えようと考えるのは当然の思考である。


しかし。


「あ、あのセレネ……?」

「なに?」

「んむ……」


二人きり――セレネの天幕に移ったクリシェはセレネの膝の上に座らされ、街でアーネが買ってきたクッキーをこれでもかと与えられていた。

頭は撫でられすぎて微熱を覚えるほど。

先ほどから丸一刻、クリシェは背後から抱きしめられることによって両手を押さえられ、ぴくりとも動けずクッキー割り人形と化していた。


何やら今日のセレネはクリシェが不安になるほど優しい。

頭が疑問符で満たされるような状況にクリシェは激しい困惑を覚えていた。


どちらかと言えば、クリシェが勝手に色々とやったことでセレネには叱られてもおかしくない状況なのだ。

ちょっとは怒られて小言をしばらく言われることになるだろう、とクリシェは覚悟していたのであるが、蓋を開けてみればこの状況。

実に甘々――クリシェの方がその真白い肌を紅潮させてしまうくらいの甘やかしにクリシェの中で未曾有の大混乱が巻き起こっていた。


セレネのことは大好きであるが、ベリーと比べればクリシェ基準で厳しい人物。

基本的にクリシェが甘えることはあってもセレネからはあまりそういうことをしてくれないのであるが、今日に限っては妙だった。


セレネは姉妹で積もる話もあるでしょう、とまずはエルヴェナに休息を命じ。

新たな強敵が現れたことに戦々恐々としていたアーネも今日は疲れている様子のガーレンのところへ行くように、などと追い出している。

いつもならばクリシェが紅茶を淹れるところであるが、セレネは今日はわたしが淹れるわ、などとそそくさと動き――そこからはずっとこの状態。


クリシェはこれが何かの前触れなのではないかと喜びつつも恐怖していた。


「おいしい?」

「は、はい。セリシュの実を使ったクッキーですね、セレネの好きな。時々食べるとおいしいです」


酸味の強いセリシュの実は指でつまめる小粒な果実で、レモンに似ているが香りはむしろ甘い。

セレネはこのセリシュを使ったクッキーが特に好物であった。


「よかった。しばらくクリシェは頑張ってたもの、たまにはわたしがお世話をしてあげようかと思って」

「そ、そうですか……」

「なに、嫌?」

「嫌じゃなくて……うぅ、その……」


クリシェはよじよじと体の向きを変え、尋ねる。


「セレネ、本当に怒ってないですか?」

「……どうして怒ると思うの?」

「えと、クリシェ、勝手に……」

「言ったでしょう。クリシェが誰かのために良いことをしようって頑張ったことに、わたしは怒るなんてことしないわ」


セレネはクリシェの頬を挟んで尋ねる。


「そんなにわたしが怖く見える?」

「そうでは、ないのですが……きょ、今日はなんだかベリーみたいに甘々で……」


セレネはベリーという言葉にやや不機嫌そうに、形の良い眉をぴくりとさせる。

そして顔を寄せ、視線をしっかりと合わせる。


「ふぅん、ベリーとは違っていつもは怖いの?」

「いえ、そ、そういうことでは……うぅ」


そういうところがセレネはちょっと怖いのである。

しかしその言葉をクリシェは心の奥にしまう。

それくらいの処世術はクリシェであっても弁えていた。


「そうね、ベリーはとっても優しくて、なんでも器用にできて、クリシェの大好きなお料理も上手で、不器用でこわーいわたしとは全然違うものね。他の人だってわたしよりずーっと優しいでしょうし、わたしは怖いばっかりの姉だものね」

「ち、違……」

「嘘つきなさい。こうやってちょっと可愛がるくらいでびくびくしちゃうくらい怖いって思ってるんでしょう。わたしがこういうことするの変だって思ってるんでしょう」


半ば事実であるのだが、やはり口をつぐむ。

怒っていないかと思えば、しかしやはり、何やら怒っているような気もする。

怒っていないと言いつつやはり怒っているのではないか――しかしそう尋ねるのはやはり憚られた。


――どうするべきか。

思い浮かぶのは母がいつぞやいった言葉。


『クリシェ、素直なことは美徳よ。自分の気持ちに正直に、が一番大事。もちろん、わがままになってはいけないけれど――』


そして戦場に出るボーガンを心配しているセレネに、どう言葉を掛けるべきか迷っていたクリシェに掛けてくれたベリーの言葉。


『クリシェ様、素直なことは一番の宝物です。言葉に迷って辿々しくても本心から、ちゃんと相手を思っての言葉なら嫌がる相手などそうはおりません。その気持ちはちゃんとお嬢さまに――』


クリシェはそれらの言葉を思い出し、セレネに告げる。


「う、嘘じゃなくて、本当ですよ? 確かにちょっと、ほ、ほんのちょっとだけ怖いですけれど……クリシェは、その、セレネのこと大好きですから、こういうのはとっても、嬉しいですし、それで、ちょっとびっくりしてるだけで……」


ほんのちょっと、ではなく結構怖いのであるが、クリシェはややオブラートに包むという術を身につけていた。

やや、であって実際の所は全く包めていないのだが、その言葉を聞いたセレネは目を細める。


「……どういうところが好きなの?」

「ど、どう……?」


クリシェは目を泳がせ、セレネは更に目を細める。


「えっと、その……クリシェにちゃんと、優しいですし、クリシェのために一生懸命頑張ってくれて、色んな事をしてくれようとしてくれるところだとか、クリシェ、すごく嬉しくて、だ、だから大好きです……」


辿々しく言って、ちら、とセレネの顔をうかがう。

セレネの頬はやや赤く、けれど無表情にクリシェを見ていた。

そして告げる。


「もう一回。どう思ってるの?」

「だ、大好きです……?」

「……もう一回」

「だ……大好きです」

「…………もう一回」

「大好き、です……」


クリシェが告げると、ようやくセレネは微笑み口付けた。


「ふふ、わたしも大好き」


銀色に金色が混じり合い、セレネはクリシェのその手に指を絡める。

嬉しそうに笑みを浮かべて額に額を押しつけた。


「厳しいところはちゃんと厳しくするけれど、でも、わたしだってクリシェが大好きだわ。だからこうやってクリシェを沢山喜ばせてあげたいって思うの。変かしら?」

「……変じゃないです」

「そう。じゃあわたしがクリシェのことを大好きだってことは、ちゃんと理解していてちょうだい」


わかった? と尋ねられ、クリシェは頷き微笑む。

とりあえず怒っている様子ではないことに安心しつつ、唇を押しつけえへへと笑う。


「はい、わかりました……」

「よろしい。わたしだって出来れば、クリシェに甘えさせてあげたいのよ? そんなに怒ってばっかりに見えるかしら」


それからぎゅうと抱きついて、セレネは尋ねる。

クリシェは目を泳がせた。


「そ、そんなことは、ないのですが……うぅ」

「……あなたって本当嘘が下手ね。上手になっても困るけれど」


くすりと笑って、続ける。


「明日は午後から少し時間が出来たから、軽く市場でも見て買い物でもしましょうか。露天が沢山出ているみたいだもの、好きなもの買ってあげる」

「えへへ、はい……」

「嬉しい?」

「はい、嬉しいですっ」

「そう。明日は好きなだけわがまま言ってもいいわよ。いつも頑張ってるクリシェにご褒美をあげる」


セレネ、と飛びつくクリシェを見て、セレネは確かな手応えに安堵の息をつく。

何と戦っているのかと自分に呆れつつも、笑顔のクリシェを見てまぁいいか、と納得した。




――そうして翌日。


「はい、セレネ、あーん」

「ぁ、あーん……」


キールザランでは顔を真っ赤にしながら、クリシェに果実を食べさせられ続ける将軍の姿が話題となった。

護衛の兵士にも、周囲の市民の目線も気にせず上機嫌なクリシェ。

自分の言ったことにやや後悔しながらも、けれどセレネは何やら嬉しそうに。

そんなクリシェの手を掴み、ゆっくりと市場を歩きまわった。

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