第63話 忠犬

「あ、あの……おねえさま、もうやめませんか、その……」

「クレシェンタ、人間言葉になってますよ。わん、です。わん」

「うぅ……わ、わん……」

「えへへ……」


クリシェは満足げに膝に乗せたクレシェンタを撫でつつ、クッキーを与えてやる。

数日前からクリシェは実に犬ごっこと飼い主ごっこがお気に入りであった。


付き合わされるクレシェンタは暴君と化した飼い主クリシェが満足するまでそれに付き合わされており、クリシェに比べれば真っ当な彼女に苦悩が続く。

とはいえやはりクレシェンタ。

クリシェに犬扱いをされながらも、愛でられ構ってもらえること自体は悪いことではなく、むしろそれなりに喜んでいた。

嬉しさ半分、照れ半分、犬クレシェンタは恥ずかしそうにしながらも犬のように身を擦り寄らせ、わんわんなどとクリシェに抱きつく。


驚愕の目でそれを見るのはアーネであった。

――王女を犬扱い。

女同士だけならばともかく、アブノーマルな道に進み出した現状を見れば彼女の妄想は止まらない。日に日にエスカレートしていく彼女の周囲は、そのうちどうしようもないほど爛れたものになるのではないかと戦々恐々であった。


「クレシェンタはかわいいですね。いい子です」

「……わん」


クレシェンタの頬は朱色に染まりながらも緩み、何度もクリシェに頬摺りする。

ベリーはそれを楽しげに見守り、セレネは眉をぴくぴくとさせていた。


「あなたが変なこと教えるから……」

「いいじゃないですか。お可愛くて」

「一応犬になってるのは王女なんだけれど」


セレネは嘆息しつつ書類に目をやった。

クリシェが帰ってきてから一週間、動きはない。

諜報によればクリシェの百人隊による行動遅延が大きな成果をあげていたことも理由にあるが、向こうの軍全体に待機命令が出されているらしい。


王宮掌握まで時間を稼ぐつもりか――どうあれ、竜の顎を取られた以上こちらから動き出せる手もない。

現状兵力では竜の顎を真正面から取り返すのは不可能であった。


まずミツクロニアとベルナイク、二つの山という高所を敵が有している。

これを攻略しなければ中央は矢の雨を一方的に喰らうハメになり、戦闘どころではない。

山を一から攻略するのもまた難しい。

山を駆け上がっての進軍ほど兵士の体力を奪うものもない。

疲労こそは兵士の最大の敵だった。

防衛線に徹する相手は疲労少なく、そして傾斜を存分に利用して逆襲を行える。


完全占領下にある竜の顎を攻略するには敵に倍する戦力が必要だった。

少なくとも現状打通は不可能――どうしようか、とセレネはため息をついた。


気持ちは落ち着いている。

現状クリシュタンド軍の最高位は自分であり、それ自体も受け入れた。

ガーレンや軍団長達が仕事を分担し、セレネが休息を取れるよう気遣ってくれていることもあって疲労も大分抜け、精神的にもすっきりしている。

クリシェの『お馬鹿』に付き合って、良い感じに力も抜けていた。


完璧、とは言えなくとも、コンディションは良好であった。

しかし兵員増強――それ以外に突破の選択肢が見えてこない。

時間はこちらに利するところがないというのに。


クリシェの楽しげな様子を見ていると、全てを忘れて投げ出してしまいたくなる。

このままどこかに逃げだして、別の国に行きひっそりと暮らす。

それでもきっと幸せな日々だろう。

二人は聞くまでもない。ベリーもセレネが言えばきっと頷く。

それは誰より、ベリーが望む幸せであると思うから。

実際、同じことを考えているに違いなかった。

セレネよりずっと強く――名を捧げた少女の幸福だけをただ、彼女は願っているから。


ただの少女なら、セレネもそう望んでいた。

けれどセレネは貴族で、そして英雄の娘――敬愛するボーガンの娘だった。

多くの人間を裏切って、クリシュタンドに命を捧げてきたもの達に砂を掛けて、そんな未来を望めるはずもない。


「アーグランド軍団長に呼ばれていたから、少し行ってくるわ」

「はい、お嬢さま」

「お見舞いに何人か来るだろうから、その時はなんとかしておきなさいよ、それ」

「ふふ、はい。行ってらっしゃいませ」

「あ、ではわたしがお供します」


アーネが慌てたようにドアへ寄る。

セレネはありがとう、と優しげな微笑を浮かべて頷く。

麗しき金髪令嬢の自然な笑みに、見惚れたアーネは頬を染める。

この甘い空間はアーネの目をひたすらに肥やしていた。


「セレネ、行ってらっしゃい」

「……わん」

「あ、あはは……い、行ってくるわ」


セレネはどこかぎこちない表情で犬と飼い主を見つつ、そのまま部屋を後にする。





セレネとアーネが出て行ってからもクレシェンタは犬である。

ひたすらに愛でられ可愛がられるクレシェンタ。

自身を見る目の数が減ったこともあり、彼女の優秀な頭脳は犬相当に落ち込んでいた。

お手や取ってこいをさせられても、もはや羞恥心よりそのあとのご褒美への期待に夢中であり、存在しない尻尾が左右に揺れる様を幻視させる。


普段から口の悪い妹への躾。

そのような名目でベリーに対しても同じことをさせられるというのは屈辱的ではあったが、とはいえベリーに愛でられ、可愛がられるというのもそれはそれで悪くない。

クレシェンタ(犬)は次第に二人へ尻尾を振り始める。

一国の王女を犬扱い――そのことに関して疑問を覚えるものは既に、部屋の中には存在しなかった。


「くぅん……」

「えへへ、クレシェンタは偉い子ですね」


ベリーから与えられたクッキーを口で受け取り、ご主人さまクリシェの下へ。

クッキーを口で受け取って食べ終えると、何度もキスをしながらクレシェンタの頭をなでなでする。

一撫でするたびクレシェンタは脳が蕩けていくような心地であった。

理性は完全に幸福感で麻痺している。

いつもはベリーにべったりなクリシェが自分にべったりと構ってくれるというのは、『犬と飼い主ごっこ』という尊厳を無視された遊びにも関わらず、彼女の欲求を満たした。


権謀術数、謀略の世界にあったクレシェンタ。

その知性は政治や経済を容易に理解し読み解き、その知識は学者の比ではない。

言葉だけで人を惑わし、陥れ、死に至らしめる。

紛れもなくクレシェンタはこの時代に生まれた天才の一人――


「よしよし」

「わふぅ……」


けれど今は犬。

くりくりと頭をクリシェに擦りつけ、犬という立場を利用してキスを繰り返すクレシェンタに知性は欠片も存在しない。

頭を空っぽにして甘えることがこれほど素敵なものであると知らなかったクレシェンタは、なんだかんだと言いながらも姉の犬になることに夢中であった。


――しかし響くはノックの音。

クレシェンタに耳があればぴくんと立ち上がっていたに違いない。

名残惜しそうに頬摺りをして離れると、すぐさま乱れたワンピースドレスを整えて、上品に椅子へと腰掛ける。

ベリーは苦笑しつつ、その様子を眺めて扉を開けに行く。


「あら、ガーレン様」

「やぁ、ベリー。今日はクリシェの見舞いにと……これは」


クレシェンタを見たガーレンは深く頭を下げた。


「失礼致します、王女殿下。本日はご機嫌麗しく――」

「構いません、ガーレン様。わたくしのことは気になさらず、普段通りにしてくださってよろしいですわ。いないものと扱ってくださいませ、わたくしもその方が気楽ですもの」


薄く笑みを浮かべたクレシェンタは正しく王女の風格。

優美なストロベリーブロンドを撫で、柔らかな――しかし気品ある笑みを浮かべた。

誰も先ほどまで彼女が犬であったなどとは思わない。

ただガーレンの背後でベリーが笑いを堪えるように下を向いたのを見て、クレシェンタは僅かに頬を膨らませた。


ガーレンは感情の機微に疎い。

そうした些細な表情の変化にも気付かず、ありがたく、とまた頭を下げた。

そして優しげな笑みを浮かべると、クリシェに目を向ける。


「……元気そうで良かった。眠っているときに一度、様子を見に来てはいたのだが……」

「はい。体の方はすっかり……」

「養生なさい。昔からお前は頑張りすぎるのが悪い癖だ」


ガーレンはクリシェの頭を軽く撫でると、椅子に腰掛けた。

ベリーが新たに紅茶を注いでテーブルに置くと、どうぞ、と微笑む。


「黒豆茶の方がよろしければ、そちらをご用意致しますが……」

「いや、気遣いは無用だ。紅茶も嫌いではなくてね。たまには良い」

「はい。クリシェ様はまたミルクをでよろしいですか?」

「えと……はい」


クリシェにも新たに紅茶を注ぎ、ミルクと蜂蜜をたっぷりと。

しっかりとかき混ぜたところで、あら、とクリシェの口元に手をやる。


「クッキーの欠片がついてますよ」

「ぁ……」


それをハンカチで綺麗にしながらもベリーは幸せそうだった。

クリシェは少し恥ずかしそうに上目遣いにベリーを見つめる。

どことなく甘えるような、嬉しそうな顔。


それを見たガーレンもまた、険しい顔を優しげに緩める。

目尻は柔和に、深く皺が刻まれた。


「しばらくは向こうも動けないだろう。お前もこの機会に休んでおきなさい。随分と無理をさせてしまった」

「いえ、クリシェは全然……」

「クリシェ、それがお前の悪い癖だ。やるべきことのため熱を出すほど頑張るのは美点でもあるが……それを心配する者の気持ちになりなさい。セレネもベリーも王女殿下も、お前のことを随分心配していた。わしもそうだ」


ごつごつとした手がクリシェの頬に触れる。

どこかひんやりとして、ほのかな温もりがあった。


「お前が誰かを心配するように、お前も誰かに心配されている。例えばセレネが無理をして寝込んだならば、お前は心配するだろう?」

「……はい」

「そういう気持ちを皆、感じていたのだ。……戦場という甘えの許されぬ場。お前は色々なことを考え、それほど無理をしたのだということはわかる。お前に甘えたわしの責任でもある。だが……心のどこかに、そうしてお前の身を案ずる者がいることを覚えていて欲しい」


わかるね、とガーレンは優しい声音で尋ね、クリシェは頷く。


「いい子だ。今はしっかりと甘えさせてもらいなさい」

「……はい、クリシェ、いっぱい甘えてます」


照れたように自分の頬を両手で包み、ベリーはまぁ可愛い、とクリシェの細い肩を横から抱きしめた。


「お任せ下さいガーレン様、クリシェ様はしっかりとわたしが面倒を見ますから」

「君にも苦労を掛けるね。色々……君自身辛いところはあるだろうに」

「いえ、……いえ。わたしが望んでしていることです。この可愛くて素敵なクリシェ様が喜んでくださる姿を見るのは、わたしの生きがいにございますから」


ガーレンはその言葉に頭を下げた。

ベリーは慌てたように顔を上げてください、とガーレンに告げる。


「……本当に感謝している。君のような人間がクリシェの側にいてくれたことに」


甘える相手を失い、村から追い出され。

軍にあるクリシェの噂も――当然彼女が恐れられているという噂も知っている。

村でいた頃からそうであった。

クリシェは普通とはかけ離れている。当然嫌悪するものもいるだろう。

それでも彼女の側に信頼し甘えられる相手がいるという事実は、何よりありがたかった。


「わたしこそ……クリシェ様のお側にいられることを何より嬉しく思っておりますから、感謝など。むしろわたしが感謝したいくらいですよ」

「……それでも、そう思うのだ。屋敷に連れて来たときには上手くやれるかと内心で不安だったが……今の様子を見れば、何より良かったとそう思える」

「クリシェも……お屋敷に来ることができて良かったです」


甘い紅茶に口付けてクリシェは微笑み、そうか、とガーレンは頷いた。


「あちらに動きはない。すぐに動かないということは追撃は諦めたと考えて良いだろう。今から動くには機を逃している。こちらのことは気にせず休みなさい」

「……はい。おじいさまも無理をしないで下さいね」


ガーレンは嬉しそうに笑った。


「ああ、もちろんだとも。クリシェの元気そうな様子を見られたおかげで、力がみなぎっておる。わしはお前の結婚相手を殴るまで死なんと決めておるからな」

「じゃあクリシェが結婚しなければおじいさまはずっと一緒ですね」


それは困ると笑うガーレンに、ベリーもまた困ったような顔で目を泳がす。

クレシェンタはベリーを睨みつつクッキーをつまんだ。


「じゃあ、クリシェ。わしは戻るとしよう」

「はい。行ってらっしゃい」


ミルクも混ぜていない熱々の紅茶を一息で飲みきる姿を見た猫舌の二人は僅かな驚愕を浮かべつつ、ガーレンの後ろ姿を見送る。

そしてガーレンが出たと見るやすぐさまクレシェンタが擦り寄り、クリシェに抱きつき、ベリーを睨むようにわん、と吠えた。


「駄目ですよ、もう。クレシェンタはすぐ拗ねるのがいけませんね」

「……くぅん」


クリシェが頭を一撫ですると嬉しそうに額を擦りつけ――ドアが開く音。

クレシェンタの動きは機敏であった。

咄嗟に立ち上がると犬から淑女の顔になる。


「ああ、そうそう。セレネはどこにいるか――」

「せ、セレネ様ならアーグランド様と話があるとうかがっておりますわ」

「これは……ありがたく。失礼を」


再びガーレンが出て行く。

扉が閉まるとベリーが堪えきれず噴き出して肩を震わせ、クレシェンタが目を吊り上げる。


「な、何を笑っていますのっ!」

「い、いえ、だって……おかしくて……っ」

「ほらクレシェンタ、人間言葉になってますよ。よしよーし」

「うぅ……わん」


頭を撫でられつつベリーを睨むクレシェンタ。

笑いを堪えきれないベリー。

とりあえず愛でるクリシェ。


そうして彼女らは和やかな時間を過ごした。








アーネに紅茶の用意をしてもらい、コルキスに割り当てられた小さな部屋に二人。

コルキスは床に額を押しつけるように、頭を下げていた。


「此度、ボーガン様が命を落とされた責は私にあります。倅――グランの犯した許されざる大罪、なんなりと処罰を」


ボーガンを死地に追い込んだ裏切り者――その中でもサルヴァとグランの両名は真っ先に名が上がる。

グランの父親としてコルキスは謝罪の機会を求めていた。


「……頭を上げてちょうだい、アーグランド軍団長。あなたにその責任を取らせるつもりはないわ」


コルキスは頭を上げない。

罰を求めていた。

その人格から兵達にも強く慕われる、忠実なる戦士。

そうであるが故に、お咎めなし、というのは彼にとっても受け入れがたいのだろう。

誰より尊敬していたであろうボーガン殺害に、自分の息子が加担していたのだ。

仮に斬られたとて受け入れる。コルキスはそういう男だった。


色々なことを考え、鑑みて、セレネは嘆息する。

そうね、と続けた。


「……どうしてもというのなら、管理領地、財産の一部没収。クリシュタンドの貯蓄と税収があるとはいえ、お金はこれからいくらあっても足りないもの。使わせてもらうわ」

「……は」

「降格はなし。これ以上は求めないでちょうだい。あなたには今後も働いてもらわなくてはならないわ。もちろん、あなたがわたしについてきてくれるなら、だけれど」

「この名に誓い、地の果てまでも」


重い言葉であった。

その言葉だけでも嬉しいわ、と笑って椅子に腰掛ける。


「……紅茶が冷めちゃうから座ってちょうだい。わたしはひとまず受け入れた。あなたにもそうであって欲しいと思う。お父様の昔話でも聞かせてもらえるかしら」


コルキスは顔を上げ、セレネをしばらく眺めた。

そして優しげに目を細めた。


「……お強くなられました。俺が情けなく思えるほどです」

「一人ならまだ泣いてるわ。でも支えてくれる人が側にいたから。……お父様はそれを望んでいないし、悲しみに泣いて暮らすより、ちゃんとわたしを支えてくれる、大切なもののために時間は使ってあげたいと思ったの」


なるほど、と苦笑すると、コルキスは頷く。


「ご立派です。既にボーガン様に似た雰囲気を感じます」

「お世辞でも嬉しい言葉ね」


くすくすと笑って紅茶に口付け、セレネは対面のソファを示す。

コルキスは頷き、その大きな体をクッションへと沈める。


両手を組んで紅茶の水面に目をやるように、懐かしむように。


「俺は昔――戦から逃げだしたことがあるんです」

「……あなたが?」

「ええ。悲惨な負け戦で……隊の仲間も皆死んで生き残りたい一心でした。自分が強いとは思ってましたが多勢に無勢。戦う意味なんてない、ってね。助けを求める奴を尻目にとにかく走って……」


今思えば臆病者です、と笑う。


「けれど運悪く囲まれて、殺されかけ――そんな折り、助けてもらったんです。当時は隊長であったガーレン殿と、将軍に」


百人隊、という規模ではなかった。

ガーレンとボーガンは敗残兵を掻き集め、その数は凡そ五百人。

ノーザンもそこにいた。


「それはもう、格好良かった。憧れました。ガーレン殿の剣もさることながら、当時の将軍の剣技は荒々しく、前にいるものをなぎ倒すような豪快なものでしてね。負け戦、敗残兵の集まりであるのに、あの隊はどこまでも輝いていた」

「……豪快?」

「ええ。セレネ様は見たことがないかも知れませんね。……俺の戦い方は当時の将軍を真似たものなのですよ」


楽しげに笑って、拳を握る。


「ガーレン殿が的確に指揮を執り、撤退戦の最中友軍を救う。将軍は誰より前で剣を何本も折りながら敵をなぎ倒す。ヴェルライヒもその時から器用な奴で、そんな将軍の周囲を固め、くたびれた敗残兵に指示を出しつつ剣を振るってた」


けれど所詮は負け戦です、とコルキスは苦笑し、頭を掻く。


「俺はすげぇと思いつつも馬鹿にしてました。ボロボロの友軍を助けて何になるのか、俺はこれだけ人数がいるなら無視して逃げりゃいいのに、って」


――これ以上は危険でしょう。追撃されりゃ一発です。十分助けました。

コルキスは無駄死にをしたくはなかった。だからそう言った。


「将軍は言いました。私達は狼に追われるだけの羊の群れではなく、狼の群れになるのだ、ってね。……そもそもガーレン殿や将軍はただ逃げるなんて考えちゃいなかったんです。敗残兵を集めて追撃部隊の指揮官を殺す気でいたんだ」


獰猛な笑みは血に飢えた獣のようで、しかし奮い立たせる何かがあった。


『一人ではできん。二人でもできん。しかしお前のようなものを束ねこれだけの数になれば敵の喉笛を食い破るのは可能だ。追う狼から逃げるのは難しくとも、殺すとなればやりようはある。……お前達は隣の者を、そして私を支えろ。私は隊長を支える。そして隊長はお前達全てを導いてくださる。黙ってついてくるといい』


そらんじるほど記憶に残る。

誰よりも強く勇敢な男であった。


「――負け戦で我らが手にするのは敗北ではなく、狼の首と堂々たる栄誉だ、とね」


そんな男に声を掛けられたからこそ、その男を支えようと思った。


「格好いい人です。一人では何もできはしない。だから常々、隣の者を守るために剣を振るえと仰ってました。一人でなら震える状況でも、支えてくれる者があれば立ち上がれる。一人一人が支えられ、誰かを支える。そうすれば……セレネ様と同じですよ」


紅茶を持ち上げ、水面を揺らした。


「どんなに酷い状況でも心を折らず、自分のためではなく他人のために立つ。あなたはその歳で将軍に俺が教えられた一番大切なものを身につけておられる」

「……そうかしら?」

「そうですよ。間違いなく」


紅茶を一息で飲み干して続けた。


「俺の倅にも見習わせたかった……いや、それが上手くやれず、こうなったことを考えるなら、やはり俺の責任でしょう。サルヴァと合わせ、必ず俺が罪を償わせます」

「……ありがとう。と言っても、無理はしないでね」


コルキス、第二軍団の士気は高い。

その点に関してはありがたいことではあった。

だが暴発が怖くもある。


「あなたにはこれからもやってもらいたいことが沢山だもの。わたしはまだまだ未熟で、支えてくれる相手が必要なの」

「……もちろんです」

「それと、昔のお父様の話、もっと聞かせてくれるかしら。お父様はすぐはぐらかそうとして、全然教えてくれなかったもの」


コルキスは苦笑し、あの人は親馬鹿でしたからね、と立ち上がり、棚へ向かう。

ロックグラスを三つ取り、一本の瓶を持ってくる。


「覚えてらっしゃるかどうかもわかりませんが、セレネ様が小さな頃そういう武勇伝を将軍がして、怖がられて泣かれたそうです。ラズラ様にも大層叱られたらしく、それがどうにも随分ショックだったようで」

「そ、それは子供だったからでしょうに……」

「はは、そんなもんですよ。俺とヴェルライヒは将軍に、真面目な顔で娘に嫌われたんじゃないだろうか、と相談されましたからね」


セレネは頬を赤らめ、コルキスはグラスへと酒を注ぐ。

酒精が強く香る酒であった。


「将軍が好きな北の酒です。将軍と飲もうと思ってたんですが、昔話にはいいでしょう」

「……一杯だけ頂くわ。少し前に飲んで痛い目を見たから」

「はは、まぁゆっくり、舐めるように飲むのがいい。俺も最初は面食らいました。正直今でも好んで飲む酒じゃないんですがね」


懐かしむようにコルキスは笑い、グラスの一つをセレネの隣に並べる。

そこにいないボーガンに捧げるように。


将軍に、とコルキスはグラスを持ち上げ、口に含む。

セレネもそれに倣うように口付けて、喉の焼けるような熱さに咳き込んだ。

コルキスが笑い、セレネも笑う。


いつぞや同じように咳き込んで、ボーガンに笑われたことを思い出していた。


「何をしてても、お父様にいつもまだまだだな、って言われてたわ。お酒だけじゃなくて、剣術だとか、戦術だとか、指揮訓練だとか」

「……本当のところ、セレネ様を戦場に出すことはずっと反対しておられましたから。そういうところは不器用な人です。まぁ、俺が言えたもんじゃないですが」

「ふふ。……でもそんなことを言っていたのに、最期の時は、任せた、って、一言」


コルキスは目を閉じて、頷く。


「……まだまだのわたしは、一体何を任されたのかしらね」

「さて。俺にはわかりかねます。……それが何かを考えることも任されたのかも」


コルキスは苦笑して、褐色の水面を眺めた。


「……けれどまぁ、将軍はできないやつに何かを任せません。きっと、どんなものであれ――それはセレネ様なら出来ると、そう思える何かだったのでしょう」

「……そうかしら」

「ええ。ご安心ください。答えはわからずとも……俺は生涯、クリシュタンドの番犬です。任されたものがどんなものであれ、俺が行く先の危険を取り除いて見せます。吠えて噛みつくしか能のない駄犬ですが、何かの役には立つでしょう」


犬、という言葉にセレネは笑って、よろしくお願いするわ、と頷く。

部屋にいた愛玩犬と飼い主犬のことを思い出してしまったのだった。

あれは駄犬というべきなのかしら。

不思議そうな顔をしたコルキスの前でそんなことを考えながら、セレネはしばらく笑い続けた。

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