4.来客

 ばちりと視線が合う。息を止めたネレスはその場から動けなくなった。


 ――怖い。怖い、怖い、怖い! 逃げないと、また、早く、動かないと、逃げて、動けない、どこに……?


 炎が揺れている。形にならない罵声が耳の奥で響いている。また、燃やされる前に、逃げなければ。

 じり、とようやく足を数ミリ動かせたとき、突然視界が黒一色に染まった。客人の視線を遮るようにアルヴァロがネレスを背後に隠したのだ。

 繋いでいた手を後ろに回して握ったまま、彼は聞いたことのない冷ややかな声を上げた。


「……メルカダン伯爵。我が邸のメイドに乱暴な真似はやめていただきたい」

「いやいや、少し退いてもらっただけですよバラエナ卿。それよりこのメイドのほうが乱暴です! 信じられないほど暴言を吐いて毎回私を追い出そうとするのですよ!? どうしてこのように粗野な者を置いているのですか!」


 メルカダン伯爵と呼ばれた男の声がキンキンと響く。しかし視界が塞がり、繋いでいる手のおかげでネレスの跳ねていた心臓は少し落ち着いていた。


(手、あったか……)


 縋るように、もう片方の震える手を伸ばしてアルヴァロの大きな手をぎゅっと挟む。すると柔らかく握り返された。

 突然手の周りで小さな泡が生まれる。ぱちんと音を立て、水で出来た魚がそこから飛び出してきた。魚は何度かゆったりと空中を泳いだあとネレスの鼻先にちょんと口付ける。


「ふへ……」

(かわい~! パパ上の魔法、どれも可愛すぎないか? ひとり水族館できるやん!)

「訪問者は追い払うように頼んでいる。それ以前に私は貴方の訪問を拒否する旨の手紙を送っているはずだが、届いていなかったのだろうか。……コンラリア、戻っていい」

「申し訳ありません、アルヴァロ様」


 メイドはさっとお辞儀をして踵を返し、その場を離れた。メルカダン伯爵が眉尻を下げながら諭すようにアルヴァロへ語りかける。


「いえ、いえ、届いておりましたとも。ですがねえ、もう3年……3年ですぞ。貴方が呪われ、屋敷に籠られてから月日があまりにも経っております。魔獣の増殖は未だ止まらず、王や大司教はもう神子を召喚するしかないという結論を今にも出しそうなのですよ」

(エッ魔獣? 神子? やばい話聞いてなかった! なんかすごい異世界みたいな話しとる!)


 完全にひらひらと泳ぎ回る魚に気を取られていたネレスは慌てて耳を傾けた。


「召喚したいならすればいいだろう。私は無関係だとあの場で宣言したはずだ」

「ああ、なんとおいたわしい! やはり貴方はまだ呪いに蝕まれているようだ」

「……」

「ですがご安心ください。今日連れてきた癒術師は素晴らしい才能を持っております! 彼ならば貴方の呪いを祓い清め、その髪と瞳の色も元に戻せるでしょう!」

「必要ない。即刻お引き取り願おう」


 アルヴァロが呪われている? いったいどういう意味なのだろう。いや、相手は無実の人間を火刑にしているような奴らだ。適当なことを言っている可能性のほうが高い。


「そんなことを言わずに、一度でいいのでこちらへ来ていただけませんか? もう時間がないのです、芽の月が半分を越えてしまう! 神子が召喚されてしまえば貴方は――」

「ネルヴィーノ家から神子を出せなくなってしまう、だろう? 私の知ったことではない」


 ぞっとするほど冷たい声音だった。なのに声の主が作り上げた魚はネレスの頬にちょんちょんとキスを繰り返しているものだから、どういう感情になればいいのか分からない。


(これが温冷交代浴かあ……)


 どうでもいいことを考えていたとき「何としてでも、貴方を救わねば」と聞き慣れない声が響いた。低く抑えるような声は、癒術師のものだろうか――。


 瞬間。足元から突然光が溢れ出した。息を呑むと同時に床から光り輝く鎖が勢いよく飛び出してくる。

 大量の鎖が耳障りな音を立てながら上へ伸び、ネレスやアルヴァロさえ追い越していく。思わずアルヴァロの腕に抱きついて目をつむったとき、バキンッと大きな音が響いた。

 瞼の裏すら焼くような光が消え、鎖の音も聞こえなくなる。怖々と薄く目を開いたネレスは「わ……」と小さく声を漏らした。


 水晶のように透明な石がアルヴァロとネレスを囲んで生えている。先端の尖ったそれらは光の鎖を突き刺し、粉々に砕いていた。役目を終えた石たちは小さな粒となってさらさらと消えていく。


「くっ……そんな、破られるはずが……!」

「どういうつもりだ」


 唸るようにアルヴァロが言葉を発する。


「今のは浄化でなく拘束が目的だろう」

「貴方を連れて帰らねば……そうしなければ、ならないのです。貴方に傷を付けるつもりはありません……!」


 メルカダン伯爵の必死な訴えに、しかしアルヴァロは「そんなことはどうでもいい」と一蹴して伯爵たちを睥睨した。


「私は貴様らが娘を巻き込みかけたことが何より不快だ。出ていけ、今すぐに」

「娘、ですと……? まさかそこの……どこの女に産ませたのですか!? 兄上が知ればただでは済みませんぞ!」

「私より弱い人間になにが出来る。さあ、出ていけ。死にたくなければ」


 アルヴァロの言葉と同時に、背後から客人たちの首へひたりと鋭いナイフが押し当てられる。握っているのはキアーラと白髪のメイド――コンラリアだ。ヒィッと小さく悲鳴をあげ、メルカダン伯爵と癒術師は為す術なく玄関へと追いやられていった。


「こ、このことは評議会に報告しますからな! ただで済むと……ヒーッ!」


 情けない声とともに扉が閉まる音がした。そしてホールに静寂が戻る。

 振り返ったアルヴァロは、柔らかい微笑みを浮かべてネレスを抱き上げた。


「わ」

「すまない、怖い思いをさせてしまった」

「わ……や、だいじょぶ……」


 魚が可愛かったという話をしようとしたが、それはネレスの小さな頬に突然キスを落としたアルヴァロのせいで叶わなかった。


「ヴァッッッッ!?」

(ななな何!? いま何された!? エ!?)


 頬を押さえながら口をぱくぱくとさせる。愉快そうに目を細め、ネレスを抱えたまま彼は階段を登り始めた。


「今日は疲れただろう。お茶とお菓子を食べて休むといい」

「アワ……」

(キス……キスされた……ほっぺだけど……親父にもされたことないのに……いや今の親父はパパ上や……つまりどういうこと……?)


 言いたいことは沢山あったのに、顔が近づいたときめちゃくちゃいい匂いした、なんてことしか考えられない。

 いや、正気に戻れ、戻らなければ。断片的にしか分からないけれど、先程の来客はかなり重要な相手だったはずだ。勝手に紅潮する頬は置いておいて、ネレスはおずおずと尋ねた。


「あの……あの人たち、お、追い返して大丈夫やっ……だったの?」

「構わない。彼らが何を言おうと私の意思は変わらないからな」

「呪われてる……とか、言ってたけど……いやワイ、私は違うと、思ってるけど! ほんとにだいじょぶ……?」


 アルヴァロは少し目を丸くして「心配してくれているのか」と嬉しそうに口角を上げる。


「大丈夫だ。そうだな、経緯を簡単に説明するなら……私はミフェリルの神子として選ばれたのだが、神子になるための儀式で祭具を叩き割り、聖樹を攻撃して、ついでに嫌いだった髪と目の色を変えたら大騒ぎになっただけだ」

(そらそうやろな!? なにやってんだこの人!?)


 微笑みながら告げられた事情に、ネレスは内心ツッコミながら言葉を失った。

 ……いや本当に何やってんだこの人!?

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