後輩の頼みごと

融木昌

後輩の頼みごと

「それで山本の件はどうなった?」

 井山は生ビールのジョッキを合わせるや身を乗り出してきた。同期入社の彼とは部署は違うが十年来の付き合いで、過日、行きつけのこの居酒屋で一緒に飲んだ――その折、深夜に携帯電話を借りにきた俺の友人の山本の不可解な行動について二人で推理した――二日後から井山が一ヶ月間の海外出張に出たため、推理した結果のその後を知らなかったのだ。

「その話はあとでするから。それより大学のときの後輩から、助けてくれと頼まれたんだ」

「金の無心ならお門違いだぞ」

 興味がないという顔をして、井山は枝豆に手を伸ばす。

「殺人事件の犯人に疑われていると言うんだ」

「本当か? 詳しく教えろよ」

 今度はせっついてきた。焦らすわけではないがジョッキを傾け、喉を鳴らしてから説明を始める。

「殺されたのは深田菜々緒という二十八歳の女性で、この前の日曜日にマンションの自室で胸を刺されて死んでいたそうだ。その際――」

「深田菜々緒とはすごい名前だな。モデルでもしているのか?」

 話しの途中で、井山が女の名前に引っかかってきた。魅力的な二人の女優の名前を合わせたものだったからだ。犯人を示していると思われるダイイングメッセージのことを話そうとしたのだが、仕方なく俺は後輩から聞いた内容をもとに彼の質問に答えてやった。

「普通のOLだが、名前負けしない美人でスタイルも抜群だったそうだ。実家は郊外で植木業をやっている。土地持ちでアパートなども経営していて裕福な家だと言えるだろう。彼女はイケメンで地位が高く金持ちの男を狙っていたようで、これまでも御曹司と呼ばれるような男と付き合っていたらしい」

「自分の外見だけを売りにしているような女は願い下げだな」

 井山の嫌いなタイプなのだろう。

「必ずしもそうではないらしい。お茶やお華(はな)は一通り出来て、箏(こと)、と言っても上に王を二つ書く、琴ではなく」

「そんなこと知ってるさ。今、一般的なのは中国から伝来した弦が十三本ある、たけかんむりの箏だろう。俺の知識は幅広いんだ。まあ、深くはないが」

 自慢気な顔をして井山はジョッキを口に運ぶ。

「それに彼女は競技かるたもやっていたそうだ」

「小倉百人一首のか。上(かみ)の句が詠まれて下(しも)の句が書かれた札を取り合うゲームだな。しかし、何でだ?」

「後輩の話では、相手の男たちの母親が箏や競技かるたをやっていたそうだ。うまく取り入ろうとしたのかもしれないが、健気な面もあるんじゃないか」

 義理はないが俺は少し彼女を庇ってやる。二人のジョッキが空いたので呼び鈴を押して、冷酒と生ビール、焼き鳥盛り合わせを頼んだ。いつものパターンで井山は最後までビールだが、俺は二杯目から冷酒に替えるのだ。

「ところで、お前の後輩も御曹司なのか?」

「そうではないが、彼は三十歳でIT関連の会社の社長をやっている。以前、新進気鋭の起業家として雑誌に紹介されたことがあって、女優なんかも参加するという合コンのようなパーティで知り合ったというか、彼女の方から声を掛けてきたそうだ。付き合い出したが、少し前に彼の会社の業績がかなり落ち込んだ時期があって、彼女は今の彼氏に乗り換えたらしい」

 そんなことより、と俺はダイイングメッセージに話題を変える。

「失血死だったが、流れ出た血で『ほ』という文字を書き残していた。これが誰を指しているのかが問題なんだ」

「『ほ』のつく奴を探せばいいだけじゃないか」

「それが見つかっていないから弱っているんだ。金目の物は盗られておらず、また乱暴されたような痕もなく、勤務先や近隣などでの揉めごともないことから交際していた男とのトラブルではないかと考えられている。結果としてここ最近、付き合っていた後輩を含めた三人に嫌疑が掛かっている。勿論、三人とも名前に『ほ』は付いていない」

「後輩の名前は何て言うんだ?」

「倉田(くらた)恭(きょう)介(すけ)」

「残りの二人は?」

「俺たちと同じぐらいの三十二、三歳で、一人は五条(ごじょう)忠存(ただあり)。倉田の前の彼氏だ。名家の出でメガバンクに勤めている。五条はプライドが高い上に嫉妬心も強かったようで、深田の方から別れることにしたらしい。もう一人が和泉(いずみ)創(はじめ)。倉田の次で現在の彼氏だ。大手商社勤務だが、いずれ祖父が創業した会社の三代目の社長になることが決まっている」

「本当に誰も『ほ』は関係ないのか?」

「倉田は勿論、他の二人も知っている限りでは思いつくところはないとのことだ」

「誰も該当しないとすれば他にあやしいのはいないのか?」

「いないようだ。警察も『ほ』の意味が分からず苦労しているらしい」

「メッセージの件はあとで検討するとして、そいつらのアリバイは?」

 質問を続けてくる井山は七味を振り掛け、軟骨の串を取った。

「日曜日の午後九時から十一時頃の間に殺されたらしい。倉田は午後十時まで都心近くのビルにある自分のオフィスで仕事をしていて、それは証明されている。そのあと散歩がてら、健康のために歩いて自宅に十一時過ぎに帰ったと言うんだが、彼のオフィスから二十分もあれば彼女のマンションに行けるので、アリバイは成立していない。他の二人も一人暮らしでアリバイはないらしい。ただ、倉田は自分が一番疑われていると言うんだ」

「どうして?」

「彼女に振られた倉田には未練があったようだ。事件以前に別れる、別れないで言い争いをしていて彼女のマンションの住人がその声を聴いていたらしい。それと業績が悪化して金策に駆けずり回っていたときに彼女から借金をしてその返済で揉めたのではとも考えられているようだ」

「借金していたのか?」

「彼女に頼むことも考えたが、結局は借りなかったと言っている。別れる際に喧嘩したことは認めているが、彼は殺人を犯すような奴じゃない。犯人は別にいるのでなんとかメッセージの意味を見出(みいだ)して欲しいと頼まれたんだ。お前も一緒に考えてやってくれないか」

「おごってくれるのならいいぞ」

 にやりとした井山は、

「メッセージなんかどうでもいい。簡単さ。彼女のマンションの防犯カメラを確認すればいいだけだ。彼が犯人でないなら別の奴が写っているはずだ」と続けた。

 言われるまでもないよ、と俺は倉田から聞いた内容を説明する。

「マンションの防犯カメラに犯人が写っているはずだと主張したが、警察は調査中として何も教えてくれなかったそうだ。彼が写っているのならそう言うだろうし、別の奴が写っているのなら彼の無実が証明されるはずだから、警察での遣り取りの印象と併せ考えるとカメラの調子が悪かったのか、映像がうまく撮れていなかった可能性が高いようだと言っていた」

「そんなことがあるのかよ。しかし、心配するな。まだ次の手がある。携帯電話の位置情報サービスを利用しているなら、それでどこにいたか、散歩の経路なども分かる可能性がある」

「それも駄目だ。彼はプライバシーの観点から利用していない」

 残念でしたと告げる。しかし、井山は良いことだと言い返してきた。

「防犯カメラなど、今は誰がいつ、どこにいたのかが簡単に分かるようになってしまい、推理する面白さが無くなってきただろう。いろんな記録を確認すればそれで終わりになるなら、名探偵はいらないし、推理小説も成り立たなくなるかもしれない。警察は付近に設置されているカメラも当たっているのだろうが、とりあえずダイイングメッセージだけで勝負なら面白いじゃないか」

 井山の顔が真剣味を帯びてくる。

「メッセージは名前そのものに限らず、ニックネームや勤務先、趣味とかに関連するものも考えられる。倉田が犯人でないとすれば残りの二人の情報が要るな。とりあえず分かっていることを教えてくれ」

「彼の前の五条のことなら彼女との会話に出てきたことがあって、ニックネームは分からないが『ただあり』と呼んでいたそうだ。趣味はスカッシュ。彼女にもやらせたようで初心者の彼女に勝って喜んでいたというから呆れるよ。詳しくは知らないけど『ほ』とは関係なさそうだろう。仮にだが『ほ』が付くもので例えば、ほうれん草が大好物で五条といえばほうれん草だったら?」

「そういった可能性も否定できないが、まずはここで分かる範囲で考えて行こう。勤務先は?」

「両方聞いている」

 それぞれの会社名を教え、『ほ』はどちらにも付いていないことを再確認する。和泉の勤務先を知った井山は、その商社に知人がいるので彼のことを電話で聞いてみるとすぐさま席を立った。

 俺は好みの吟醸酒を味わいながらダイイングメッセージについて考えてみた。死の間際で多くの文字を書く余裕はないだろうから一字になるのもやむを得ないと思うが、やはりそれでは何のことだか難しい。メッセージを残すのなら、せめて犯人の姓なり名なりをちゃんと書いてくれればよいのだが、一方で、犯人が立ち去ってから書くにしてもひょっとして戻ってきたりすれば姓や名では消されてしまうことにもなる。短くて簡単には分からないが、少し考えれば判明するというのがいいのかもしれない。待てよ――消すのではなく付け足したら――『は』の上に一本線を足せば『ほ』になる。そして和泉の下の名前は『は』で始まる。彼が犯人で、自分ではないように変えた可能性は考えられないだろうか……。

 ようやく井山が戻ってきた。

「趣味はゴルフで、皆からは名前通りの『はじめ』と呼ばれていて、それがニックネームみたいなものだと言っていた。最近、ホールインワンでもしていれば別だが、どうも繋がるものはなさそうだ。一方で、和泉に動機らしきものが見えてきた。財閥の令嬢との縁談が進んでいるというのだ。深田と別れ話で揉めた可能性があるぞ」

 それを聞いて、俺はこれで決まりだと思った。深田も和泉のことを日頃から『はじめ』と呼んでいたと推測されることに加え、『は』を『ほ』に変えたのではという考えを説明し、

「立派な動機もあるし、犯人は和泉じゃないか」としたり顔で冷酒の杯を空ける。

「可能性がないとは言えないが、書き足したような形跡はあったのか?」

「特に聞いてはいない」

「足したとしたら、『ほ』でも『は』でも元々の文字はそれぞれの字の左側の『し』や右側の『よ』もあり得るぞ」

 しれっと俺の名推理にいちゃもんを付けてくる。

「簡単に違う文字に変えたりできるからメッセージの一字で決まりとは行きにくいが、和泉の可能性は高いだろう」

「一字で決まり? ん? ひょっとしたら一字決まりかもしれない」

 突然、井山は意味不明な言葉を口走った。

「一字決まりって何だ?」

「深田は競技かるたをやっていたんだろう。そうだとしたら、その歌から犯人が分かるかもしれない。確かめる楽しみは後にして、とりあえず知っていることを教えてやるよ」

 競技かるたでは百人一首の上の句が詠まれ、競技者はその歌の下の句が書かれた札、字札を取り合うが、上の句の何文字目かまで詠まれれば下の句が特定できるという何文字かがあって、それを『決まり字』と呼ぶ。決まり字を覚えれば字札をより早く見つけられるようになり、上の句の一文字目で下の句が分かる場合を『一字決まり』、二文字目までの場合を『二字決まり』などという。競技かるたを始める人が最初に覚えるのが一字決まりで、『ほ』か『は』がそれに該当するかどうかだな、と井山は話す。

「一字決まりの文字は覚えていないのか?」

「そこまで詳しくはないさ。ちょっと調べてみる」と言いながら井山はスマートフォンを取り出し、しばらくして、

「『ほ』があった!」と叫んだ。

 一字決まりに『は』はなかったようだ。しかし『は』の可能性が全くなくなったわけではない。『ほ』があったからってどうなるんだ、と負け惜しみ半分で問い質す。

「さっきも言ったように『ほ』で始まる歌にヒントが隠されているかもしれないということだ」

 そう言って井山は再びスマートフォンをいじり始めた。

「当たりだ!」

 声を上げ、後徳大寺左大臣の歌だと言ってスマートフォンを目の前に突き出しきた。検索結果の画面を覗き込む。

『ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる』と表示されていた。

「どこにあるんだ?」

「下の句を詠んでみろよ」

「ただ有明の――ただあり、五条忠存か」

「これでお前のおごりだ」

 井山はうまそうにジョッキを傾けた。

 名前の頭文字でなく『ほ』であったのは、とっさにその歌を思いついたからかもしれなかった。結果として犯人に感づかれる恐れはなく、いいメッセージになっていたとも言える。俺はすぐに倉田に連絡を取り、警察にその旨話すよう伝えた。

          *

「五条が自白したそうじゃないか。動機は何だったんだ?」

 いつもの居酒屋で注文を終えるや井山がせっついてきた。

「何だと思う?」

「金銭問題ではないのだろうからやはり怨恨か? しかし、振られた恨みといっても二代前の彼氏だろう」

「そうだけど、彼も彼女に未練があったようだ」

「よりを戻そうとしたのか?」

「倉田と別れたことを知ってその気になったらしい」

「そこでまた振られたんだな」

「既に和泉と付き合っていた深田に冷たくあしらわれ、その恨みから犯行に及んだとのことだ」

 ところで、と俺は続ける。

「ダイイングメッセージを解く鍵は付き合っていた男性側にあるとお前も思っていたはずだが、俺の一言で彼女の趣味の競技かるたにあることが判明したんだから、前回のおごりの半分ぐらいは返してもらうぞ」

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後輩の頼みごと 融木昌 @superhide

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