「まあ、あなたが新島さんのところのお嬢さん?」

 玄関まで出てきた母は、明らかに好奇の目で永遠子を見ていた。

 人の出入りがほぼない町だ。東京から引っ越してきた永遠子の家族のことは、すっかり噂になっていたのだろう。

 はい、と、永遠子は微笑んだ。奥から姉と弟がこちらを窺う気配がした。

 私は咄嗟に、永遠子の手をつかんで、玄関を入って左側の戸を開き、中に入った。

 「久子? なんでおばあちゃんのお部屋に入るの? 二階のお部屋に行きなさいよ。」

 戸の外から母が言うのが微かに聞こえたが、無視した。部屋の中は真っ暗なので、永遠子が驚いているのが気配で分かった。私は永遠子の手を慌てて離し、部屋の真ん中まで行って、天井から垂れ下がっている電気の紐を引いた。

 かちん、と手ごたえとともに、部屋が明るくなる。

 部屋の奥には介護ベッドがあって、白い布団の中に祖母が眠っていた。

 「……ここが、静かだから。」

 言い訳みたいに、私は言った。永遠子が戸惑っているのは表情からも明らかだったけれど、しばらくの無言の間の後、そう、とだけ彼女は言った。

 座って、と、私は祖母のベッドの下から座布団を引っ張り出して、畳に敷いた。

 ありがとう、と、永遠子は大人しくその上に座った。

 「……本当に、静かね。」

 ぽつん、と、永遠子が呟く。

 静かさだけをテーマにしつらえられた部屋だ。きっちりと雨戸が下され、部屋の壁も戸も厚くしっかりしている。この部屋は、本当に静かなのだ。

 私は、永遠子から少し離れたところで、床に直に腰を下した。永遠子とどれくらいまで距離を詰めていいのか、分からなかったのだ。

 「いいわね、静かで。」

 永遠子が目を細めてそう言うから、私は小さく頷いた。

 その頃の私は永遠子の家庭の事情なんて知らなかったから、彼女が非常に騒がしい場所に住んでいることも全く了解していなかった。

 アルコール依存症の父親が怒鳴り、ヒステリー気味の母親が喚く。永遠子は東京のアパートに住めなくなって、逃げるようにこの町に越して来たばかりだった。

 永遠子と私はその日、一緒にその部屋で宿題をした。永遠子は英語が得意で、私は国語が得意だったので、永遠子が英語の和訳を、私が国語の記述問題を、片づけてお互いノートに写した。

 「そろそろ帰るね。」

 永遠子は宿題が終わるとそう言って腰を上げた。祖母の部屋には時計がなかったので時間が分からなかったけれど、多分下校してから一時間くらいがたっていた。

 「うん。」

 私は永遠子を玄関まで送った。そして、明日もおいでよ、と言った。声に過剰な期待が浮かんでしまわないように、慎重に。

 すると永遠子はきれいな唇で微笑んで、うん、と頷いてくれた。

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