序章.プラットフォーム上のコンダクター

第1話 『枯葉』




 その汽車の中でも、めぐじゅうろうは二人並んで座っていた。


 かたん、と揺れた。


「――……。」

 ぼんやり薄目を開けると、十朗は自分の隣に巡理がいることを確認した。いる。巡理は間違いなくそこにいる。静かで規則正しい呼吸が、彼女の胸を動かしている。硬質で潔い、黒過ぎるほど黒い睫毛まつげが、白過ぎるほど白い頬に影を落としている。

 巡理は、間違いなく自分の隣にいる。

 それを確認してから、ようやく十朗は視線を通路側へとそらした。


 がたり、と車体が縦に大きく揺れる。


 揺れはしばらくさざなみのように続き、やがて微かなものとなって消えた。

 十朗は、ゆっくりと、深く息を吸い込み、そして吐いた。

 チェロケースとバスケースが一台ずつ、板張りの通路を挟んで隣の席に立てかけてある。車両には他に人影もなく、二人と二台の楽器の貸し切り状態にあった。

 再び、がたり、と揺れた。

 十朗はそっと目を閉じた。もう何時間ぐらい揺られているのだろう。出発したのがいつだったかもわからなくなるほど、時間の感覚が曖昧になっていた。二人そろってまどろみ続けて、向かう先の目的すら忘れてしまいそうだ。失われてしまいそうだ。

 巡理の気配を感じながら、十朗は閉じた目蓋越しに伝わる、かすかな光の得がたさを思い知る。

 ――この時間が永遠に続けばいい。

 目的など忘れてしまえばいい。失われてしまえばいい。

 そう思うほどに。


 がらり、と連結部分の戸の開く音が耳に届いた。


 瞬時に車両内の空気が変わる。場に人間の気配が増えることでもたらされる変化は大きい。十朗の眠気も一瞬にして覚めた。

 ゆっくりと立ち上がりながら、十朗は車両の後部へと目を向けた。そして、その目に二人の男の姿をとらえた。

 男たちは、それぞれバスケースとチェロケースを抱えていた。同じだ。自分たちと。十朗は自分たちの楽器ケースに目を向け、それから再び男たちを見た。

 ベースを持った男は、髪に細かなパーマを当て、その上で脱色を施していた。鋭い目付きは、負けん気が強いことを如実にあらわしている。身にまとうのは年季の入った黒革のジャケットと、ヴィンテージのジーンズ。ジャケットの襟とパーマの間に挟まれた丸顔が「なんだ、他にも人いんじゃん」と呟く。

 その男に比較すると、チェロを抱えた男は、幾分印象が地味だった。黒髪は、きっちりと整髪料でなでつけられ、がっしりとした体格を、ざっくりとした焦げ茶のセーターで包んでいる。そして、更にその上からトレンチコートを羽織っていた。

旅装。一言で言えば、そう見受けられる出で立ちだった。


「……失礼ですが、あなた方も楽団の?」


 そう十朗が問うたのは、確認のためではなかった。この場合において、初対面の人間にかける最初の言葉としては、これが一番無難で妥当だっただけだ。

 彼らは間違いなく楽団に向かっている。現時点でこの汽車に乗っているのは、もう終着駅を目的とする者しかありえないからだ。そして終着駅の先にあり、楽器を抱えた異邦人がおとなうと思しき施設は、十朗と巡理が目的地としている、ここにある『唯一の交響楽団』の専用ホールしかなかった。


「ああ、じゃあ、あんたもか?」

「はい」


 パーマ男の問いに、十朗が肯いて返したそのころになって、ようやっと巡理も目を覚ましたらしい。「十朗?」と弱い声音で腰を持ち上げ、振り向き、彼らの姿を見とめた。途端、そのひとみからぬるい曖昧さが消える。冷たく鋭く、深く奥にまでもぐりこむ、いつものあの目になる。


「そちらもお二人連れですか?」


 やわらかな声で問うたチェロの男に、巡理は黙ったまま少しだけ頭を垂れた。

 十朗は彼らのほうへと向き直り、軽く微笑んだ。


「そうです。僕は高海沢こうみざわ じゅのじゅうろうといいます。チェロです。こっちは仁名よしな 巡理めぐり。ベースです」

「へぇ。じゃあ俺と一緒だな」


 顔をほころばせたパーマ男は、抱えていた巨大な愛器をひょいと抱え上げ、つかつかとこちらへ歩み寄ってきた。そしてそのままの勢いで巡理の顔をのぞき込んできたため、巡理はあとずさる形で座席へ腰を落とすことになった。


「なぁ、名前長いの。この子、結構人見知りだったりするか?」


 名前長いの、というのは、間違いなく十朗のことだろう。「はあ」と曖昧に肯くと、パーマ男は、にやりと笑って退いた。そのまま、若干ふんぞりかえったような姿勢をとる。

 目は、まだ巡理のほうを見ている。


「俺は楽だ。坂井さかい らく。一応ベースで食ってる。あっちの老けたナリしたおっさんは――」

「おいコラ楽」

佐久間さくまっていうんだ。あいつはチェロな。楽器見たらわかると思うけど」


 唇を一文字にして黙り込んでしまった巡理を前に、楽はひるまなかった。楽は突然ケースのベルトを外しだし、じゃっと小気味良い音を立てて、ジッパーを引き上げた。


「お前、こんなところで弾く気か?」


 呆れた声で片眉をあげた佐久間に、楽はにやりと笑う。


「弘法筆を選ばず、坂井 楽様場所を選ばず、だぜ」


 小器用にケースから取り出されたベースは、手早いチューニングを経て、あっという間に楽の左腕に抱き寄せられた。そして、弦に当てられた弓がすうっと右に弾かれると、ベースは深い眠りの底から蘇えったような、深呼吸の音を奏でた。

 通路の隙間で突如開始された、ささやかな演奏会。

 巡理の顔が、ゆったりとほころぶ。まるで、真夜中に花弁を開く睡蓮の花が、最初の深呼吸をするような速度で。

 その全てを見逃すまいとするかのように、瞬きもせず、十朗は巡理の表情を見届ける。

 揺れる車内という、不利というか非常識な状況をものともせず、しかも鮮やかに楽が弾き出したのは、クラシックではなく、スタンダードな、とあるジャズのナンバーだった。低音で奏でられる主旋律は、穏やかでやさしい。

 それは偶然にも、巡理の好きな一曲だった。


 『枯葉』。オータム・リーブス。


「ちょいと季節はずれだけどな、まぁそのへんは勘弁してくれや」


 ぺろりと上唇をなめながらそういう楽に、巡理は珍しく心からの笑顔を浮かべて、首を傾げながら横に振って見せた。ノープロブレム。何も問題ない。そして、世辞の一切混じらない、純粋な拍手を彼の演奏に送った。

 彼女のそんな笑顔と仕草は、十朗の胸を静かに痛めた。



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