第8話 自然災害 時は過ぎるけど 残像は残るです

 2011年3月11日14時46分「東日本大震災」 その時の映像は今でも瞼の裏に鮮明に残っています。

 その時、びーる男爺さんは、長年勤めていた大手特殊土木会社をクビになってハローワーク経由で地元長崎の木工関連の建築会社に拾われてほぼ1年が経とうとしていたのでした。自分より若い職人さんのサポート現場から事務所の工場(こうば)に入ったとこで、仕事仲間がつけていた小型テレビの映像を垣間見たのです。


 そのときは、何か家が流されているような、港があふれているような、車が流されあちらこちらで騒いでいるような、みたいな感じで、これは何処の映像でいつのものやろうか?でした。

 すると、これは日本の東北で、今起こっとる地震と津波のリアルタイムの映像ばい、と事務員さんたちが教えてくれたのです。


 1995年1月17日5時46分「阪神淡路大震災」 その時リアルタイムで自分が何をしていたかは記憶に残っていません。ただ、阪神高速だと思うが橋脚が連続して横倒しになり車が落下若しくは踏みつぶされていた映像で、ヘリコプターからの空撮で至る所から火災の火の手が上がっていたのを覚えています。この時は長崎の港湾専門の会社が数社、現地に出張所を設置し港湾施設やインフラの復興支援に出向いて

いました。


 1991年6月3日16時8分「雲仙普賢岳火砕流」 これは、それまで日本では想定されてなかった自然災害で、地元でも信じられなかった自然災害で、島原大変肥後迷惑で有名な1972年の大災害以来の出来事でした。毎年、台風シーズンには大雨やがけ崩れの心配はしますが、災害後の海外含め全国からの支援や自衛隊の皆様の尽力には、地震や噴火は殆ど無いので記憶に残っています。


 そして、2024年1月1日16時10分「能登半島大地震」が発生してしまいました。2ヶ月半が過ぎようとする現在でも必要なインフラはまだまだで、現地で避難し残っておられる方々の心労は、考えるだけでも気が萎えてしまいそうです。とにかく、行政の積極的な関与と支援、そしてボランティアの皆様の継続的な応援が大事だと思います。


 びーる男爺さんも年度末書類がほぼ片付き体調も戻りつつありますので、長崎のボランティア団体に参加して二日ほどだけですが、能登半島に北上するつもりです。とにかく、地元の方の迷惑にだけはならぬよう、顔晴ってくる所存です(笑)


 

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