監視
帝釈天はこの日、長椅子にうつ伏せになりながら蓮の浮ぶ大きな水瓶を眺めていた。
「ふぅん……。ま、今度はうまくいくと良いな」
頬杖を付いて薄く笑みを浮かべながら帝釈天はそう呟いた。
この水瓶は全ての世界を見通すことが出来る「
仲睦まじくしているひなと麟を見てニタニタと笑っていると、長年帝釈天の世話をしている少年が呆れたような顔を浮かべため息を吐いた。
「帝釈天様、悪趣味ですよ」
「まぁそんな固い事言うなよ。これも仕事なんだから」
ニヤニヤと笑いながら答える帝釈天に、少年はお茶の入った器を差し出した。暖かい花の香りが漂うお茶だ。
「仕事と称したただの覗きじゃないですか」
「まったく……。
水蓮と呼ばれたお付きの鋭いツッコミに、ムッと顔を顰める帝釈天の言葉には嘘はない。
各世界のありとあらゆる場所をつぶさに観察することは、帝釈天に与えられた唯一の仕事でもある。水蓮もそれを十分理解した上であえて突っ込んでいるのだ。
「分かったらもう下がっていいよ。私は忙しいんだ」
「……かしこまりました」
水蓮の方を振り返りもせずに視線は水瓶を覗き込んだまま、しっしっと片手で下がるように振り払う。また蔑ろにしているかのような対応だな、と思いながらも彼はしれっとした顔をしたままその場を後にした。
彼が立ち去ったのを横目で確認してから、帝釈天は再び水瓶に視線を落とす。
仲睦まじい麟たちの様子をいつまでも見ていたい気持ちはあるが、これは欠かせない大事な仕事だ。
「……さて、本業に移るかねぇ」
帝釈天に与えられた唯一の仕事。それはこの水瓶を使い、三世界だけでなく常に監視をしているものがある。
すっと弧を描くように水面を中指の腹で撫でると、それまで麟達の様子を覗いていた水瓶の水面は墨を落としたかのように徐々に黒い影を落としていく。
真っ暗な世界に赤い大地。枯れ果てたその大地には炭のように黒ずんだ枯れ木が無数に生えている。さらに地面から刃のように無数に切り立ち突き出ている岩の数々。うっかり足を踏み入れようものなら、その足が切り刻まれる事は必須だろう。
まるで何かを守るかのように切り立った岩の奥には、暗い洞窟が口を開いている。その入り口を無数の茨の蔓が絡み付き、中に入ることは出来ない。
茨の門の更に最深部にはごつごつとした岩肌と小さな空間が広がる。その空間の真ん中には体中をボロボロの白布で包まれ、無数の御札が貼り付けられた人物がいる。
真っ黒い髪はボサボサで伸び放題。体も浅黒く、骸骨のようにガリガリにやせ細っているその男性は俯いたまま微動だにしない。彼はそのまま息絶える事さえも許されず、地獄へ落ちた魂の怨恨や不浄を体内に吸収し続ける定めにある男だ。
「……そのまま、ずっと大人しくしてるんだぞ」
誰に言うでもなく、帝釈天は目を細めてぽつりと呟く。
「お前を消せれば一番だと言う事は分かっているんだがな……。お前を消したらまた別の壺になる人柱を探さなけりゃならない。お前みたいに、数多の怨念や憎悪を身に受けてもビクともしない壺はそうそういやしない。大体が自我を失い、懺悔をする間もなく自ら消滅の道を選ぶ魂がほとんどだからね。……それが、何とも歯痒いんだ」
帝釈天は目を細め、やるせないような表情を浮かべる。
被害が大々的にならないよう、彼はこの男を監視し続けなくてはならない。なぜならこの男は帝釈天と深い因縁関係にあるからだ。
「……阿修羅。お前の敵は私だけで十分じゃないか。余計な奴まで巻き込むなよ」
その呟きにまるで応えるように、水瓶の中の男性はぴくりと体を小さく震わせる。そしてゆっくりとその頭をもたげると、ギラギラとした空洞のような目が髪の隙間から覗き見えた。そしてその口元には不敵な笑みをたたえている。
「……」
帝釈天はその彼の様子に眉間に皺をよせ、目を見張った。
男はゆっくりと口を開き、何かを呟いている。
……く
……る
……し
……め
そして男はニヤリ……と不敵な笑みを浮かべた。
「阿修羅……」
水瓶を通しては双方の言葉は届かないはずだが、まるでこちらの言葉が聞こえているかのような反応に、帝釈天はゾクッと背筋が寒くなり冷汗が流れた。
阿修羅はまた動き出すかもしれない。そんな予感を感じさせるものがあった。
帝釈天は掌で水面を撫で、今まで見ていた映像を掻き消した。
「閻魔と連絡を取っておく必要があるかもしれない。もしまたあいつが動き出したら、間違いなくその矛先は麒麟に向かうはずだ……。それは何としてでも防がねば」
座っていた椅子から立ち上がり、帝釈天は急ぎ閻魔への手紙を書くためにその場を後にした。
「シナちゃん、こんな感じ?」
ひなは部屋の中でシナと共にある事をしていた。
長い髪を一つに纏め、白に淡く水色がかった着物をまとい、薄化粧を施されたひなはまだ顔に幼さが残るものの大人っぽくなっていた。
「あんまり髪とか上げた事ないから、何か落ち着かないなぁ」
うなじをさらけ出した事がなかったひなは、ソワソワとしてしまう。だが、シナはそんなひなの姿に大満足と言わんばかりに両手に握りこぶしを作り、興奮しているように大きく何度も頷き返していた。
ひなは部屋に置いてあった姿見を覗き、今までのような幼さが表立つ姿ではなく大人っぽさが前面に押し出された自分の姿に気恥ずかしさが残る。だが、そっと鏡の中の自分をなぞるように指で触れるとぽつりと呟いた。
「……雪那さんって、こんな感じだったのかな」
特に意図はない。ただ自分が彼女の子孫であると知って、顔立ちも似ていると聞いて、それっぽく真似をしてみたくなっただけだった。
「ひな?」
「!?」
別に麟に見せるつもりはなかったが、思いがけない訪問にひなはビクッと体を大きく揺らしてそちらを振り返る。するとそこには心底驚いたような顔をしている麟の姿があった。
「あ……えっと、これはその、別に特に意味はなくて……。って言うか、お仕事中じゃななかったの?」
カーっと顔が熱くなるのを感じながら、しどろもどろに視線を逸らしながらいいわけを探す。別段悪い事をしているわけではないと言うのに、何となく気まずさを感じての言い繕う言葉を探してしまう。
困っているひなを見ていた麟は、顔に手を当て「はぁ~っ」とため息を零す。その姿にひなは怒らせるような事をやってしまったのだろうと悟り、しょぼんと肩を落とした。
「シナが慌てた様子で連絡を寄こして来たら、何かと思ったら……」
「え?」
シナが麟を呼びつけたと知って驚いたように彼女を振り返ると、シナは得意げな様子を見せている。そしてもう一度麟を見れば口元に手を当てながら彼は僅かにこちらから視線を逸らし、僅かに頬を赤らめていた。
「……まったく、君はほんとにどこまで綺麗になるんだ」
「……っ?!」
思いがけない褒められ言葉に、ひなは顔から火が出そうになった。
まさかそんな言葉をかけられるとは思っていなかっただけに、ひな自身も言葉を失ってしまう。
すると、麟の背後からひょいと顔を覗かせたヤタも驚いたように目を見開いた。
「へぇ。馬子にも衣裳じゃん……って、痛ぇっ!? は? ちょ、何すんだよ!?」
ヤタがそう呟いた瞬間、誰よりも得意げにしていたシナがヤタの足をぎゅうっと踏みつけ、ぷいっとそっぽを向く。
そんな二人の様子を見ていた麟がくすくすと笑った。
「八咫烏、これ以上シナに怒られる前に口を慎め」
「ちょ、どう言う思考回路させてんだよ!? あんたの式神だろ?!」
「違うよ! シナちゃんは私の友達なの!」
「……っ」
うっかり呟いた一言で全員から責められるヤタは、面白くなさそうに憮然とした顔を浮かべた。
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