麟の想い、ヤタの想い
「麟、ちょっといいか……」
少し前の事だった。
物々しい表情をしたままのヤタがズカズカと足音を立てながら、麟の仕事部屋に入ってきたことに、巻物を届けに来ていたあやかしが驚き慌てて部屋を後にする。そして麟の傍に立っていたマオもまた、ヤタの様子に驚いたような顔をしていた。
持っていた筆をすずりの上に置き、目の前に立っているヤタを見上げた麟には、彼が何を言いたいのかが分かった。
先ほど、帝釈天のところへ出向いていたヤタだ。何かしら情報を掴んで来たのだろう。
ひなに関することを。そしてそれらに勘づいていながら話さなかった自分に対する物言いだと言う事も。
帝釈天も相変わらず意地の悪い事をする……。
麟は内心そう思いながらも、このまま黙っている事は出来ないだろうと腹を括り小さく頷き返した。
「分かった」
そう言って席を立ちあがると、ヤタと共に部屋を後にする。
ただならぬ雰囲気をした二人の様子に、その場に書類を届けにきたあやかし達が僅かにざわついたのは言うまでもない。そして二人を見送ったマオもまた表情が僅かに険しくなっていた。
「マ、マオさん……?」
「いいから、あなた方は仕事を続けて下さい」
巻物を持ってきていたあやかしが、部屋を出て行く二人の様子に怯えたようにマオに訊ねると、彼女は冷めた目で仕事を続けるように指示をした。
麟がこの場を離れている間は、マオがこの場を取り仕切ることを許されている。
主が退席した以上マオは自分の仕事をこなすまでと切り替えた。
麟とヤタが話の場に選んだのは、渡殿を渡ってすぐの所にある物置部屋だった。
引き戸を開ければ天上に小さな明り取り窓が一つ空いているだけで、薄暗く埃が被ったこれまでの書類の一部が棚に並べられ保管されている。
引き戸を閉め、先に中に入っていた麟に対しヤタは声をかけた。
「麟……あんた、何か知ってるんだろ。ひなの事やあんたが寵愛していたあのあやかしの女性の事」
「……」
単刀直入な物言いが、ヤタにとって心にあまり余裕が無い事を感じさせた。
ゆっくりと彼を振り返りながら、麟は小さく頷き返す。
「だが、これは私の問題であってお前たちには関係がない事だ」
「!」
麟のその言葉にカッとなったヤタは目を見開き、気付けば麟の胸倉を掴み握り締めていた拳を振り下ろしていた。
ヤタよりも一回りほど小さい麟の体は殴られた勢いで背後に置かれていた書類の棚にぶつかり、積まれていた書類たちが衝撃でバラバラと床に零れ落ちる。
無抵抗な麟に対し、ヤタは再び麟の胸倉を掴み上げた。
「どうして何も話さない!? そんなに俺が信じられないのか!?」
これが自分勝手な感情の苛立ちをぶつけている事の自覚はあった。ただの八つ当たりだと言う事も分かっていた。本当なら主である麟に対して手を上げること自体間違いで大罪に近いものだというのも分かっていた。
それでも、どうしようもない苛立ちがヤタの胸中を占めていたのも、まるで裏切られたかのようなショックを受けていたのも事実だった。
ふと部屋の外に人の気配を感じそちらをチラリと窺い見ると、閉めたと思っていた引き戸が少し開いており、そこにシナとひなの姿を捉えた。だが、すぐにマオが駆け付けて二人を部屋へと連れ戻す姿を見届てから、麟は胸倉を掴んだままのヤタの手を握り締める。
「……話さない方が、お前の為でもあったんだよ」
「何……」
「喧嘩っ早く、血の気盛んなお前の事だからね。話せばきっと黙っていない事ぐらい分かっていた。そうすることでお前が返り討ちにあい、消えてしまうだろうことも懸念していたんだ」
そう言って力なく笑う麟の姿に、ヤタは眉間に皺を寄せて胸倉を掴んでいた手の力を緩めた事で、麟も掴んでいた手を離した。
麟は殴られた拍子に切れた口の端を軽く拭い、体に着いた埃を叩く。
「でも、帝釈天がお前に何かを吹聴したのだろう? ひなに関することを」
「……」
「だから話そう。私が知っている事を全部お前に。だが、私も事の全てを知っている訳じゃないことは、念頭に置いておいてくれ」
そう言い置いて、麟は口を開いた。
「ひなは、雪那の子孫であることはもう知っているか?」
「雪那……? 雪那ってあの……」
「そう。お前もよく知っている私がかつて愛したあのあやかしの女性のことだ。本当は名前を付けるつもりはなかった。それでも、彼女を呼称で呼びたくて私が名前を与えたんだ」
懐かしむように、しかしどこか寂しそうに麟は目を細める。
「ひなが雪那の子孫だと気付いたのは割と始めの方からだったよ。あの子は雪那と同じ匂いがした。言葉の選び方、はにかんだように笑う顔、それでいて時折強い意志を感じさせる力強さ、儚さ……そして何より、あの子の持つ慈愛。それが雪那の持つ慈愛と寸分違うことなく同じ波長だった。始めは目を疑ったよ。雪那が戻って来たんじゃないかとね。でもひなはひなだ。雪那じゃない。だから、他の人間によって彼女が持っているその慈愛の念を消されたくなくて、ひなをこちらへ連れて来たんだ」
まさに自分勝手な理由だろう?
麟はそう言って苦笑いを浮かべた。
「私自身がまだ彼女を忘れられなくて、ずっと引き摺っていたんだ。未練がましいと言われれば確かにそうだ。でも、彼女は突然、理由を告げる事もなく手の内から去って行ってしまった。せめて理由が分かっていれば、潔く諦めもついたんだろうけどな……」
「……分かってたんなら言えよ」
ヤタがそう呟くと、麟は「自分勝手な都合で連れてきたことだから、恥ずかしかったんだ」と苦笑いを浮かべながら呟く。
「ひなの力については?」
「……それも、最初から分かっていた。雪那の慈愛とは別に隠されたひなのあの凶悪な力。あれは、転生を繰り返している内に紛れ込んだものなのか、そうではないのかは分からないが、あの力は私に匹敵するものかもしれない。もしくは、阿修羅の……」
「阿修羅?」
聞き慣れない言葉にヤタはピクリと眉を動かし、怪訝そうに麟を見た。
麟もまた真剣な顔でヤタを見つめながらおもむろに口を開いた。
「阿修羅は地獄のどこかに潜み、人々が三途の川で捨て損なった怨念、憎悪を収集するいわば壺の役割を果たす人柱のような存在。そして、その阿修羅は私に対して敵対心を持っていると言う事」
「何だって……? あんたにって……何で」
「それが、私にも分からないんだ。でも、阿修羅は明らかに私に対して敵対心を向け、今の私の地位を揺るがそうとしている。それだけは確かだ」
そう言う麟に、ヤタはぎゅっと固く拳を握り締めた。
麟に対し、理由の分からない敵対心を持ちなお、今のこの幽世の番人である地位を脅かしているなどと聞き捨てならない。
眉間に血管が浮き上がり、怒りをあらわにするヤタに麟は目を細めて緩く微笑む。
「……だから言ったんだ。この話は血の気の多いお前には話さない方がいいと。でも、心配ない。近頃は阿修羅の動きは全く見られないからね」
「そんな事言ったって、いつまた……」
「お前が気にするな。もしまた動きがあるようなら、今度は一番にお前に報告すると約束しよう」
麟はヤタの怒りを宥めるように近づき、すれ違うような位置でトン、と軽く肩を叩く。互いに違う方をみつめながら口を開いた。
「これは公にはしないでくれ。皆を混乱に巻き込むわけにはいかないからね」
「……承知」
「じゃあ、私は仕事に戻るとしよう」
そう言うと麟はヤタの傍らをすり抜けて引き戸を開くと、渡殿を渡るのではなくひなのいる部屋の方へ向かって歩いて行った。
残されたヤタは上手く言い包められたように思いながらも、麟の話を聞いて気を引き締めなければと思うのだった。
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