夢じゃない

 ひなが目を覚ましたのは、それからしばらく経ってからだった。

 体を布団の上で丸め込んだままうっすら目を開くと、視線の先には麟の大きな背中が映る。朱色に伸びた長い後れ毛と、肩までの金髪がさらさらと風に揺れている。


 安心感を感じさせる大きな背中。手を伸ばせばすぐに届く位置にあるその背中をじっと見つめているときゅっと胸が締め付けられた。


(夢じゃ、なかったんだ……)


 ぼんやりとその後姿を見つめながら、再び幽世に戻って来られたことを再確認しながら、ゆっくりと体を起こすとまだ少しふらつきがある。だが、それでも起き上がれないほどではない。胸元から麟の羽織がしわくちゃになった状態で零れ落ち、膝の上に落ちたのを見てひなは思い出した。

 どうしようもなく抑えられない安堵感からくる涙腺崩壊と、堪えられなかった思いの丈を麟に対してなりふり構わずぶちまけてしまった事を。


(みっともないくらい泣いちゃった……。麟さんに迷惑かけちゃったな)


 こんなにも取り乱して泣いたのは初めてかもしれない。小さい頃からいつも我慢をする事ばかりを覚えてしまい、自分を曝け出すことはしたことがなかった。そんな事をすればただでさえ煩わしく思われていたものに、更に拍車がかかってしまうと思ったからだ。


(……今思うと、ちょっと恥ずかしい)


 何とも言えない照れ臭さに複雑な気分になりながら、麟の羽織を取ろうとして手指が強張っていることに気が付く。

 指の関節が固まってしまうほど強く羽織を握り締めていたようだ。何度か指をほぐすように動かしてから羽織を手に取り、そろそろと四つん這いになって麟の傍に近づいて顔を覗き込んでみると、麟は柱に寄りかかった状態で目を閉じ、腕を組んだまま眠っているようだった。


(寝てる……)


 ひなはじっと眠っている麟の横顔を眺めていた。

 長い間現世での暮らしを余儀なくされて、そして久し振りに見た必死な麟とヤタの姿を見た時は、一瞬自分の目が信じられなかった。もう二度と会えないかもしれないと思い始め、彼が約束してくれたことの方が夢だったのかもしれないと諦めかけていたからだ。


 香蓮が自分の欲と執着に憑りつかれ黒蛇に姿を変え、麟とヤタが揃って討伐した姿を見た時は安心と共に嬉しさも込み上げてきたのをハッキリと覚えている。

 彼らは約束を違えることなく、ちゃんと守ってくれていたことが心の底から嬉しかった。


「麟さん……ごめんね」


 自分の意志の弱さゆえに、彼を信じられなくなりかけていた事への謝罪が零れる。


「それから、約束守ってくれてありがと……。麟さんが起きたら、またちゃんと言うね」


 手に持っていた羽織を麟の肩にかけようとして膝立ちになり手を伸ばすと、眠っているはずの麟の腕が不意に伸びてひなの体を抱き寄せた。


「!?」


 訳も分からず麟の膝の上に座る形になり、すっぽりと腕の中に収まってしまったひなは力強く抱きすくめられ、驚いたように目を丸くして瞬く。


「……雪那」

「……っ」


 一瞬、眠っているように見えて本当は起きているのではと思うほど、耳元で囁かれたやや掠れたような麟の声に思わず声が出そうになる。さらに意図せずに顔が熱くなるのを感じたがそれもつかの間。知らない人の名前で呼ばれたことに、ひなの胸はざわざわとざわついてしまう。


(今、雪那って言った……よね?)


 それ以上何も言わず眠る麟に、ひなは恐る恐る上目遣いに見上げてみた。

 自分の事を掻き抱くようにしながら囁いたと言う事は、きっと麟にとってその人はとても大切な人の事なのだろう。だが、それを知ることが怖いとさえ思う。


(雪那って、誰なんだろう……)


 端正な寝顔を見上げたまま、ひなは自分の胸がシクシクと痛むのを感じてしまう。この気持ちをひなは知っている。直接的に自分が経験したわけではないが、香蓮を通して体験した痛みだ。


(私、この気持ち知ってる。不安と、嫉妬と、それから……独占欲。今まで向けられていた確かだと思った物が揺らぎそうになった時に感じるやつ)


 じっと眠っている麟の顔を見つめていると、不安で止まっていた涙が滲みそうになる。

 聞くのは怖い。麟に向かう自分の気持ちを誤魔化さなくてはいけなくなるのかもしれないと思うと、悲しくなった。


「……麟さん、大好き」


 以前そうしていたようにぎゅっと抱きしめる。

 優しい温もりに包まれるこの感覚も、心配性で甘やかし過ぎているんじゃないかと思うほどに甘やかしてくれて、約束をきちんと守ってくれるその律義な麟の事が大好きだと、ひなは改めて実感する。彼が自分を二度も見つけて助け出してくれた、彼女にとってはかけがえのないヒーローそのものだった。


 やんわりと背中に回されているだけの麟の温もりに包まれている内に、ひなはまたウトウトと眠気が襲ってくる。そしてそのままスヤスヤと眠りに入ってしまった。


「う……ん……?」


 それからほどなくして、小さく呻き声を上げた麟はゆっくりと閉じていた瞼を開く。そして自分の腕の中でどこか不安そうな顔をしながらもスヤスヤと眠るひなの姿に驚き、思わず周りを見回した。


 寝所から起きて自分の腕の中に潜り込んで眠っているとは、実は物凄い寝相の悪い子だったのだろうかと麟は考える。だが、安心しきったように眠っているひなの顔を見つめているとそれもどうでも良くなった。

 彼女が無事に生きていて、無事に自分の傍に帰って来てくれたことが何よりの喜びだ。

 先ほどのように取り乱して泣き出した時はどうすれば良いかと瞬間迷ったが、そのままを受け入れてあげることが彼女には大事だと感じると同時に愛しく思えた。


 麟は自分の腕に嵌めていた髪ゴムをひなの細い腕に嵌め直し、頬にかかる前髪をそっと撫でるように払う。


「……お帰り、ひな」


 麟はひなの額にそっと唇を寄せた。


 そこにシナが水桶を持って現れる。

 麟に抱き抱えられているひなの姿を見たシナは、何かあったのではと勝手に勘ぐり狼狽えた様子を見せるが、麟は小さく笑みを浮かべて首を横に振り人差し指を立てて口元に寄せた。


「静かに」


 落ち着いた麟の様子にようやくシナは安心したように肩から力を抜く。


「シナ。八咫烏たちの様子はどうだ?」

「……」


 静かに訊ねるとシナはじっと麟の方を向いたまま動かないが、一部始終の情報を受け取った麟は小さく頷き返した。


「そうか。確かにあれだけ大勢の人間が亡くなったんだ。仕事が追い付くわけがないな」

「……」

「いや、私もそろそろ戻ろうと思う」

「!」

「分かっている。だが八咫烏やマオたちだけに任せておくわけにはいかないだろう」


 シナはそれでもブンブンと首を横に振り、仕事に戻ろうとする麟を押し止めようとしている。八咫烏に「ひなが安定するまでは麟を絶対に仕事に戻って来させるな」、とでも言われているのだろうか。

 あまりにも狼狽えながら首を横に振り、麟をその場に留まらせようとする姿に思わず笑ってしまった。


「……分かった。君が八咫烏に怒られるのは私としても忍びないからね。もう少しだけ、お言葉に甘えることにするよ」


 そう言うとシナの雰囲気がパッと明るくなったようだった。


「……ん」


 短く呻きひなが小さく身じろぎをしながら目を覚ました。

 目の前にある麟の表情を見つけ、一瞬混乱したように目を瞬くもすぐに今の状況を理解し顔を赤らめてはにかんだように笑いかけて来る。


「よく眠れたかい?」

「う、うん。あ……えっと、ごめんなさい。こんなところで寝ちゃって……」

「構わないよ」


 にっこり笑う麟にひなはぎこちなく、もぞもぞと彼の膝の上から降りる。

 麟は離れて行く温もりにどこか名残惜しさを覚えながら、立ち上がったひなを見上げた。


「もう起き上がって大丈夫なのか?」

「うん。もう大丈夫そう」

「そうか。大丈夫ならいいんだ」


 安堵したように呟く麟の声に、ひなもまた固まりそうな表情を無理やり崩してにっこり微笑み返した。そして麟の前にちょこんと座ると両手を揃えペコリと頭を下げる。

 突然の事に驚く麟とシナに、顔を上げたひなは困ったように笑いながら口を開いた。


「麟さん、また私を見つけてくれてありがとう」

「ひな……」

「あと、ごめんなさい。私、現世に戻されて長く暮らしていく中で、麟さんやヤタさんのこと疑っちゃった。向こうで長い時間を過ごす内に、二人はもう来てくれないんじゃないかって、もう私の事なんか忘れちゃったんじゃないかって、思っちゃって……」


 そうではないと分かっているのに胸が詰まったのか、微笑むひなの鼻頭が少しだけ赤らみ瞳が潤む。

 麟はそんなひなの頬に手を伸ばすと、目尻に滲む涙を親指で拭い去る。


「もう泣くな。それに、謝る必要はない。確かに現世では長い時間が経っていたが、こちらでは半時ほどしか経ってないからね。その間に君を忘れるなんて難しいことだと思わないか?」

「……うん。うん、そうだよね」


 ひなはその言葉に目を細めてニッコリ笑い頷き返すと、麟はそんなひなの頭をそっと撫でた。

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