モノの卦慙愧

陰東 愛香音

序章

神隠し

「ひなを、ここじゃないどこかに連れてって」


 時折吹き付ける風が、バタバタと二つに結んだひなの髪を煽った。


 暗い夜の闇の中。目の前にいるのは神々しい光をまとった一匹の神獣。

 「麒麟」と呼ばれる伝説の神獣が、今、ひなの目の前に立って静かにこちらを見つめていた。互いにそれ以上何を話すわけでもなく向かい合っていた麒麟の、暗い琥珀色をした綺麗な瞳がふいに細められ、大きくぶるっと一度頭を振った。


「……わっ!?」


 その時、強い突風が吹き、ひなは思わず目を閉じて顔を庇うように腕で覆った。そして風が落ち着いたころに恐る恐る麒麟方へ顔を向けると、そこには獣の姿ではなく青年の姿をした麒麟が立っていた。


 肩までの金髪と尻尾のように長い朱色の髪。そして頭には黒い角が二本生えている深い紫色の着物を羽織った彼が先ほどの神獣であることはひなにはすぐに分かった。

 麒麟の姿のままでは読み切れなかった、人の姿に化けた彼の琥珀色の眼差しからは深い慈愛を感じられる。


「……ひな。君の願い、いつも聞こえていた。今一度問おう。君はなぜ、ここではない場所に行きたいと願うんだ?」


 真っ直ぐ見つめながら静かな声音で囁くように口を開いた麒麟に、ひなはぎゅっと服の裾を掴んだ。


 いつも聞こえていた。彼は今間違いなくそう答えた。

 ひなはその言葉に、これまで何年も足しげくこの神社に一人通い、ようやく願いが聞き届けて貰えたのだと確信に近い思いになる。

 もしこの機会を逃してしまったら、一体今度は何に縋って行けばいいのだろうかと齢9歳のひなは不安と焦燥感に心が支配されていく。


 緊張感を持ってひなは「間違えないように」と気を付けながら口を開いた。


「……ひなは、普通の人じゃないの。普通の人には見えない物が見えるの」

「そう言う人間は大勢いるだろう?」


 麒麟が冷静な判断でそう答えると、ひなはますます焦ったようにぎゅっと目を閉じて首を横に強く振った。


「違うの。ひなは幽霊とかだけじゃなくて、妖怪も見えるの。それに変な力もあるの」

「変な力?」

「よく分かんない。でも、急に電球が壊れちゃったり、窓にヒビが入っちゃったり。そのせいで皆気持ち悪いって、怖いって、ひなから離れてっちゃった……」


 感極まったのか、閉じていた瞳からボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。

 自分でもよく分からない現象に何度気味悪がられてきただろう。両親のいないひなの身柄を預かった父方の祖父母でさえ、あまりに続く不可解な現象にとうとう彼女を見放し、家を飛び出して行ってしまった。

 ひなは9歳にして天涯孤独に身を落とした。まだ大人の手が必要な時期だと言うのに誰にも頼れず、だからこそ必死になって神頼みをしてきたのだ。


 麒麟は、時折しゃくりあげながら零れる涙を両手でぐいっと拭うひなの傍に歩み寄ってしゃがみこむと、着物の袂から手拭いを取り出しひなの涙を拭う。


「……その力は、いつも出て来るのかい?」


 そう訊ねれば、ひなは「分からない」と首を横に振った。

 何度も目元を拭うその手を麒麟が取ると、すっかり赤くなった涙に潤む目と視線が重なる。その途端、バチッと強い衝撃が麒麟の指先から走り抜けた。


「……!」


 麒麟はその衝撃に驚いたように目を見張り再びひなを見つめると、真っ赤な顔で涙がぐしゃぐしゃになったまま、こちらを見つめ返してくる。

 その涙に塗れた茶色の瞳の奥に一瞬縦長に赤い光が光る。麒麟はその光を見逃さず、ハッとなって目を見張った。

 

 まだ不完全ではあるものの、彼女には底知れない危険な力が眠っている。そして麒麟もよく知る、もう一つの力の存在も……。


「お願いぃ……連れってってよぉ……。ひな、ここにいる意味ないもん。お母さんもお父さんもいないし、お爺ちゃんやお婆ちゃんはひなのこと気持ち悪いって……」


 黙り込んでしまった麒麟に不安に押し潰されそうになったひなは、激しくしゃくりあげた。ハッとなった麒麟はひなの手を握ったままの手に僅かに力を込める。


「……ひな。神隠しを知っているかい?」

「神、隠し?」

「何の痕跡もないまま、ある日突然いなくなってしまうことだよ。ひなは、その神隠しを望むんだね?」


 確かめるように訊ねれば、ひなは迷うことなく大きく首を縦に振った。

 何の迷いもない、真っすぐな眼差し。麒麟はその眼差しにきゅっと目を細めゆっくりと腕を伸ばして彼女を抱き寄せると、ひなは一瞬驚いたように目を見開いた。


「……」


 麒麟が彼女の耳元で小さく何かを囁くと、ひなはすぐに目を虚ろにさせて目を閉じ、スヤスヤと眠りにつく。


「……ひな。君に新しい世界をあげよう」


 麒麟は愛おしそうにそう呟くと、ひなを抱きしめた。

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