第2話「夫の浮気、治します」


 女子トイレ? と首をかしげながら更衣室を出て、女子トイレに入ってみたら、言われた意味がわかった。

 手洗い場のところに、カードサイズのチラシが多数設置されていた。それらのカードには、「女性差別に困ったときの法律相談」「夫の暴力・DV相談」「夜間でもOK! レイプ相談センターに連絡を」などと書かれている。NPOや女性団体の連絡先が載っているそのカード型のチラシは、どれも自由に持ち帰れるようになっていた。

「さっきの人、このどこかに電話をかけたらいいよって言いたかったのかな」

 私は苦笑してしまう。このカードに書かれているのは、かなり深刻な状況ばかりではないか。

 私はそんなに不幸じゃない……。

 夫が浮気して、痩せないと生活費を減らすと言われて、離婚されたら生きていけないだけ……。ただ、それだけだから私はここにあるような人たちとは違う、私はまだ恵まれている。そう思う心のどこかで、本当にそうだろうかという気持ちもする。

 あまり深く考えたくはなくて、視線を逸らしたとき、あるカードに目が引き寄せられた。

「夫の浮気、治します」

 治す? どうやって? 思わず手にとってしまった。相談先として製薬会社の名前が書いてある。なぜ製薬会社なんだろう。なんだか胡散臭いなあと思ったのに、気づけばカードを握りしめて、トイレを出ていた。


 あたりを見回して、人に聞かれず電話ができそうなスペースを探した。いいぐあいに自販機のあるあたりは人気がない。私は足早に自販機に近づくと、隣の壁にもたれかかって電話をかけてみた。

 しばらくオルゴールのメロディーを聞かされた後、女性が出て、事情を尋ねてきた。事情というのは要するに浮気の状況だ。私が大まかに現状を説明すると、

「それはおつらいでしょう。ぜひ弊社に相談にいらしてください」と同情的な口調で言われた。ただ、彼女は「まことに申しわけないのですが、相談者が多くて1カ月待ちです」と付け加えるのも忘れなかった。

 しかし、私はかえって相談したい気持ちになった。そんなにたくさんの人が相談しているのなら、信用できるかもしれないと考えたのだ。我ながら単純だ。



 電話を切って、スマホをかばんにしまおうとしたとき、ふと視線を感じた。

 あたりを見回すと、壁の中に若い男性がいた。いや、壁じゃない。気がはやっていて見落としていたが、自販機のすぐ隣に喫煙ルームがあったのだ。壁を四角く凹ませたような喫煙ルームは、暗い色したガラス戸で通路と仕切られていたが、ドアは内側に開いていた。通話を聞かれてしまっただろうか。


 私と目が合うと、彼は気まずそうな顔をして出てきた。白に黄緑のラインが入ったジャージを着て、首からIDカードをさげている。この市民プールでスタッフとして働いている男性だ。まだ若いから学生のバイトなのだろう。手に持っているのもタバコではなくアイスココアのペットボトルだ。


 彼は、アクアビクス教室のアシスタントをしている人だと、すぐに思い出した。私は市民プールの無料教室はほとんど出ているから、スタッフの顔は大体覚えている。それに正直、彼は覚えやすい顔をしていた。「紅顔の美少年だ」とプールに通うお婆さんたちが更衣室で噂しているのを聞いたことがある。少年というには成長しすぎているとは思うが、「美」の部分は同意せざるを得ない。イケメンというより美しいという言葉のほうが似合う、きれいな男の子だった。


 彼は、小さく頭を下げた。

「聞く気はなかったんですけど、全部聞こえてしまいました」

 ああ、やっぱりか。家庭の恥をさらすことになってしまい、いたたまれない。

「済みません、相田あいださん」

「えっ。私の名前、覚えてくださっていたんですか」

 話したこともないのに。

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