この毒に身を焦がせば
ゴオルド
第1話 DARVO――モラハラ浮気夫
市民プールの女子更衣室で、目をつぶって体重計に乗った。
そっと目を開けて、がっくりと肩を落とす。
もしかしたら水着が濡れているせいかもしれないと思い、着替えて再度測ってみたが、表示される数字はさっきと変わらなかった。
「……4キロしか痩せてない」
残り1カ月。
あと6キロ痩せなければ離婚されてしまう。
夫の浮気を問い詰めた日から、今日でちょうど1カ月になる。
私の名前は
浮気の証拠――たとえばホテルやアクセサリーの領収書、不審な無言電話、もしやと思いこっそりのぞき見たスマホに残っていた不倫メッセージ……そういったものを突きつけて非難すると、夫は謝るどころか開きなおった。
「おまえがデブだから」「女を怠けているから」そんなことを言って、「俺の浮気はおまえのせいだ」と私を責めたのだ。
その上、浮気相手の写真まで見せてきた。
背の低い、細身の若い女性だった。それもかなりの美人だ。
夫もやせ形で、背も低いほうだ。だから、どこかのテーマパークで撮ったと思われる二人の写真は「ぴったりお似合いのカップル」という感じがした。
夫の胸あたりまでしかない女性と、肩に手を回した夫が、四角い枠の中で幸せそうに笑っている。私が相手だったら絶対にできないポーズだ。私が膝を曲げればなんとかいけるかもしれないけれど。
怒りより悲しみがわいた。
今、私がプールに通ってダイエットをしているのは、華奢な彼女に対抗しようと思ったからではない。
夫の命令なのだ。
2カ月で10キロ落とせと言われていた。
私は身長が170センチあるから、56キロは決して太っているほうではないと反論したけれど、背が高いなら余計に痩せて華奢にならないと可愛げがないと言われただけだった。夫は私より背が低いのを気にしているところがあり、背が高い女はせめて痩せていないとダメだと言い放った。
浮気をした夫がいけないのに、なぜ私が体型についてダメ出しをされないといけないんだろう。なぜ夫のほうが被害者であるかのような顔をしているんだろう。いつのまにか被害者と加害者が逆転している。うちの夫婦はいつもこうだった。
夫は私の体型をなじるだけでは満足しなかった。
「おまえのせいで俺は不倫なんかしなきゃいけなくなったんだから、その謝罪として痩せて綺麗になってみせるのは当然だよな? だから、2カ月ダイエットしても10キロ痩せられなかったら、罰としておまえに渡す生活費は月2万円にする」
どうして私が謝罪のために痩せるという話になるのだろうという疑問は、生活費が2万円になるという脅しがもたらすパニックによって、かき消されてしまった。
混乱した頭で必死に考える。生活費が毎月2万円になったら、食費だけで使い切ってしまうだろう。日用品を買う余裕もないはずだ。あとスマホは解約するとして、髪も自分で切るしかない。いや、だめだ、外見で手抜きをしたら、夫から「女を捨ててるハズレ妻」と責められてしまう。「おまえが綺麗にしていないから、俺はよその女に目が行くんだ」という夫の声が聞こえてきそう。美容代を確保しつつ、2万円で生活なんてできるのだろうか。無理にきまっている。だから10キロ痩せなければいけない。でも、ダイエットに失敗してしまったら? それで2万円で生活できなかったら?
私は捨てられてしまうのだろうか。
離婚の二文字が頭をよぎる。
それだけは回避したい。
本当のことを言うと、もう愛情なんかなかった。夫は結婚前はよくしゃべり、よく笑う楽しい人だったのに、結婚したとたんに変わってしまったのだ。いや、本性をあらわしたといったほうが正確かもしれない。夫は私に対して一切の優しさも愛情も示さなくなった。私は家事をする家電製品みたいなものだと思われているんじゃないかという気すらする。人間としても女としても見てもらえず、それでいて綺麗にしていないと責められて、ずっとレスで、ついには浮気まで……。でも情けないことに別れられない。
私はずっと専業主婦で、もう働ける自信がないのだ。
結婚前は働いていた。でも、もともと生理痛が酷く、仕事を毎月必ず休んでしまうことがきっかけでパワハラを受けることになった。それで心身の調子を崩して退職した私には、もうフルタイムで仕事をする自信はなかった。夫からも「おまえなんかに仕事なんて無理」とたびたび言われていた。そう、私なんかには……。
ひとりでは生きていけない。
お金を稼げない。頼れる実家もない。
それなら我慢するしかない。
だから2カ月で10キロ痩せるしかない。
夫の本心はわかっている。私に渡す生活費を減らし、浮いたお金を彼女との交際費にまわしたいのだ。だから痩せろと言いながらも、私がダイエットに失敗するのをむしろ期待しているはず。
それがわかっていても、私はダイエットを頑張るしかないのだ。
「大丈夫ですか」
よほど暗い顔をしていたのだろう。タオルで頭を拭いている女性が声を掛けてきた。
「もし悩んでいるのなら、女子トイレに行ってみたら?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます