第11話 嫌がらせの影
それは本当に偶然だった。
彼がうちに来たタイミングで、宅配便が届いたのだ。
「桃井
「桃井って……?」
ブドウ農家をやっている親戚から送られたピオーネの箱を持ったまま、私は弁解した。
「あの、切り出すタイミングがわからなかったというか、何というか……。実は……離婚しました……」
幸希くんは、私の手からピオーネを取り上げて、テーブルに置いた。
「へえ~、そうだったんですか~……って、なんですぐ言ってくれなかったんですか!」
勢いよく抱きしめられて、二人してバランスを崩し、床に転がるようにして倒れてしまった。
「ご、ごめんなさい」
「だめ、許しません」
服の中に手が入ってくる。
「幸希くん、好きって言って」
「そんなの、いつも言ってる……」
「いいじゃないですか、僕は何回でも聞きたいんですから」
「こ、幸希くん、す、き……」
手がどんどん入ってくる。
「もう一回言って」
「うあ、くすぐったいよ、ダメ、ちょっと……」
「僕も……
「こう、き、くん……」
今、私を三緒さん、って呼んだ……。
「好き。三緒さんのことが大好き。三緒さん、愛してる」
そうして幸希くんがこの遊びに飽きるまで、何度も何度も好きって言わされ続けたのだった。でも、それだけじゃなくて、私が言う何倍も好きって言ってくれて、すごく安心した。そこで初めて自分が何を怖れていたのか気づいた。離婚したことを知って、彼が逃げ出すのではないかと不安に思っていたのだ。人妻だからこそ遊ぶ相手にちょうど良いと思われているのだとしたら……そんなふうに疑う気持ちがどこかにあった。幸希くんを好きだけれど、信じ切れていなかった。
抱き合ったまま、気づかれないようそっと涙をぬぐった。
好きな人を疑わなきゃいけないような人生は、もう終わりにしよう。
やりたい放題に暴れた幸希くんは、帰り際、急にあらたまった顔になって、私をまっすぐ見つめた。
「これでもう何の障害もないですよね。三緒さん、僕と付き合ってください」
離婚してすぐほかの人と付き合うだなんて、と一瞬考えて、でも、彼とはもう既に肉体関係にあるくせに、いまさら何をまともな人間ぶっているのだろうかと自分を笑った。
これまでずっと、一線を越えていないから不倫じゃないとか、正式に交際中ではないから不倫じゃないとか、あの手この手で自分に言い訳していた。人が聞いたら笑うような建前を大事に掲げて、罪から逃れようとしていた。
でも、これからは違う。
過去の罪はなかったことにはできないけれど、新しい罪を重ねることを心配する必要はないんだ。
「はい。これから、どうぞよろしくお願いします」
元夫がマンションの屋上から飛び降りたのは、それからすぐのことだった。
それほど高い建物ではなかったのが幸いして、命に別状はなかった。ただ、あちこちを骨折してしまい、ひとりでは食事もトイレも難しい状態になってしまったという話だった。
「やっぱり戻ってきてくれない?」
元義母からの電話に出たことを後悔した。もう二度と顔も見たくないと言われて別れたのにもかかわらず電話がかかってきたから、よほどのことがあったのだと思い、電話を取ったのだけれど、ただの助っ人要請だった。
「あの近藤さんって人、全然使い物にならないの。だってちっとも家事ができないのよ。それに、夜の間息子のそばに付いて、おむつが濡れていないかチェックしてあげてって頼んだだけで、「私に寝るなっていうんですか、ひどい」っていって泣くんだから呆れちゃう。やっぱりあなたみたいに自分を犠牲にして夫に尽くす人がいいわ。嫁ってのはそうじゃなきゃねえ?」
元夫が私を家政婦扱いしていたのは、母親譲りだったのかもしれないなと思った。
私は丁重に、だけれどきっぱりとお断りすると、元義母は「本当に冷たい人ね」と捨て台詞を吐いて電話を切った。
その頃、ある地域――つまり例の製薬会社周辺で、飛び降りが200件以上も連続して起こっていることがニュースとなった。元夫もその中の1人ということになる。中には亡くなってしまった人もいたそうだ。警察が捜査した結果、製薬会社が人体実験をしていたということがわかり、後に大々的に報道されることとなった。
なぜ被験者たちは、高いところから飛び降りたのか。それはカラスになりきっていたせいだという。自殺ではなくて、空を飛ぼうとしただけ……。荒唐無稽とも思われる話だが、近藤さんの部屋で見た夫は、確かにカラスのように鳴いていた。
元夫を初めとする被験者たちは、カラスから抽出したホルモンを投与されていたそうだ。脳内の受容体もカラスに近づける処置を施されたという。そうすることで性行動を人間のものからカラスのものへと変化させようとしたらしい。カラスは一生を同じパートナーと添い遂げるから。だが、変化したのは性行動だけでなかった。全ての行動に影響が出てしまったのだ。
浮気防止薬をつくって大儲けしようと安易に考えた製薬会社は、無茶な人体実験を繰り返して、たくさんの被害者を出した。
製薬会社の経営陣と、主要な研究者たちは皆逮捕されたが、それで終わりではない。実験台にされたけれど生き残った方たちには、これから治療の長い道のりが待っているのだ。
被験者の妻たちにとっても、夫がカラスのようになってしまい、十字架を背負うこととなってしまった。近藤さんも……。
私も、一歩間違えれば近藤さんの立場になっていた。たまたま運命の巡り合わせで、私の役割が、近藤さんになっただけのことなのだ。
☆☆☆
いつからだろう、うちの郵便受けに生ゴミが入れられるようになったのは。
最初は、いやにチラシが多いなと思った程度の異変だった。それが古雑誌になり、お菓子の空き箱になり、カップ麺の容器になり、ついには魚のアラなどの生ゴミになった。
犯人はきっと近藤さんだ。だって彼女以外に恨まれるような心当たりがない。
離婚後、家賃の安いアパートに転居したのに、彼女は転居先にまでわざわざゴミを入れにきているようだ。なんという執念だろうか。
「はあ」
朝、仕事に出るときは何もないのだけれど、帰宅するとゴミが入っている。仕事の後にもう一仕事させてやろうという嫌がらせなのだろうか。
「仕事前に生ゴミの片付けをするのはイヤだから、ゴミが入っているのが夜で良かったな」
なんてことをひとり呟き、いやいや、私ったら何を言っているのと苦笑した。ゴミを入れられるのにすっかり慣れてしまっていた。
ゴミの片付けが終わり、手を洗っていたらスマホが鳴った。胸が期待でどきっとする。
「
彼の誘いを断る言葉なんか持っていなかった。
休日の薔薇園は、よく晴れた秋空に鮮やかな薔薇が映えて、とてもすがすがしかった。園内は来訪者も多く、苗木販売コーナーには人だかりができていた。
二人、薔薇の小道を歩いていたら、
「なんか僕らってちょっと浮いてません?」と、幸希くんが言い出した。
不倫カップルみたいに見えるということだろうかと思って、一瞬どきりとしたが、そういうことではなかった。
「ほかのお客さんって、お年寄りばっかりのような」
たしかに園内はお年寄りばかり、特にご高齢の女性のグループが多かった。
「お年寄りって、お花好きが多いのかな」
「済みません、三緒さんに喜んでもらえるかなって思ったんですが、ちょっと場所選びを間違えてしまったみたいです」
「そんなことないよ。私は幸希くんと薔薇園に来られて嬉しいから。それに天気もいいし、お散歩日和じゃない?」
そっと手を握られた。
「じゃあ、歩きましょうか」
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